Ⅰ-3 父とカンティガ島

「そろそろ渡しておくよ」


 夕食後、リカルドが食卓に置いたのは懐中時計だった。フアンは怪訝な顔で父を見た。


「どうしたんだよ急に。これ、親父が大切にしてるものだろ」

「おまえに託そうと思って」

「託す? まさか、俺はもう死ぬからなんて言うんじゃないだろうな。やめてくれよ、まだそんな歳じゃないよ」


 フアンは笑い飛ばした。

 四十歳を過ぎている父は去年体調を崩して倒れた。海に出るのはまだ危険だろうが、それでも快方に向かっているし、体つきも船乗りらしい力強さを取り戻している。

 心配するほどではないのだが、まっすぐ見つめてくる目がどことなく寂しげだったため、フアンは戸惑った。


「この時計は俺のじゃないんだ。スサナの時計なんだよ」

「母さんの?」


 ばかな、とフアンは笑った。


「親父が母さんに会ったのって、つまり二十年前だろ。しかもどこだっけ、カリブ海のどっかの島って前に言ってなかった? そんな昔のよくわからない島にこんなに小さな時計があるわけないじゃん。からかうにも程があるって」


 幼い頃からフアンは父の持つ時計が不思議だった。父以外の誰も持っていない小さい時計。あれがあれば自分も父みたいな船乗りになれるだろうかと思ったものだ。


 時計がなくても船乗りにはなれると後で知ったが、父の持つ時計の不思議さは消えず、フアンは自分なりに調べたことがある。


 船乗りが欲しい物のひとつに「正確な時計」がある。船の位置を知るために必要なのだ。


 時刻と太陽の角度で出港地との時差を知り、時差から経度を測れば、緯度との組み合わせで船の位置を知ることができる。


 今のところ船で使える時計は砂時計だけだ。けれど砂時計は何度もひっくり返す必要がある。それをうっかり忘れてしまうこともたまにあった。


 砂時計をあてにできなくなったら、月の動きから計算で経度を割り出すしかない。けれどこれは複雑な計算なので間違いを起こしやすいし、そもそも計算できる人間が少ない。


 もし計算する場合は、間違いがないよう複数人で何度も答え合わせをするといいのだが、それができるのは商船では稀で、計算できる人間がひとりも乗っていなかった、という事態もあるという。


 船の位置を誤れば時に大事故につながる。

 百年以上前にスペインの無敵艦隊を破ってからというもの、今じゃすっかり精強となったイギリス海軍ですら、七年前にそうした事故で多数の犠牲者を出したぐらいだ。


 なんでもイギリスではつい最近、妙な法律を作ったらしい。

 カリブ海までの六週間に及ぶ航海でも、ほぼ正確に経度を測定する方法を編み出した者に、二万ポンドもの賞金を贈る、という法律だ。

 二万ポンドといえば国王の首に匹敵するほどの大金だし、法律だから期限もない。


 法律とまではいかないが、イギリスに限らずどこの国でも、もちろんこのスペインでも、正確に経度を測定する実用的な方法を編み出せば国から賞金がもらえる。

 それぐらい経度の測定は船乗りのみならず、国家にとっても熱望されているのだ。そしてそれは、船上で正確に動く時計さえあれば叶う。


「時計に分針がついたのは俺が一歳ぐらいのときだったって聞いたことあるよ。この時計には分針がある。母さんの時計だっていうなら、俺が生まれる前からあったってことだよね?」


 ありえないよ、とフアンは首を振った。


 振り子が発明されて室内にも時計を置けるようになったのは、およそ六十年前だという。

 分針を取り付ける技術がなかったわけではなく、分単位で時計を見るにはあてにならないほど誤差が大きかったから、分針なんて取り付けても意味がなかったのだ。


「いくら試作品だって、小さな島なんでしょ? イギリスでもイタリアでもオランダでもなく。そんなところにあったなんておかしいよ」


 フアンの指摘にリカルドは感心したような顔をした。


「詳しいな。分針がいつ使われるようになったかなんて、俺おぼえてないぞ」

「航海士なのに」

「何がいつ起きたかなんて、だいたいでいい。正確にしなきゃいけないのは航海中の計算だけだよ。まあ、懐中時計が海でも使えるようになったら、その年ぐらいはおぼえておくかな」

「とか言って絶対あとでいつだったっけ、まあいつでもいいか、って言い出すんだぜ」

「信用ねえなあ。これを手に入れたのがいつかははっきりおぼえてるのに。二十年前だ」

「その手に入れた場所がカリブ海じゃなければ少しは信用できるんだけど」

「そこは譲れない。事実だからな」


 フアンは溜め息をついた。船乗りになって一年しか経っていない自分でさえわかるのだ。この懐中時計がスペイン本国から遠く離れたカリブ海の島にあったという不自然さを、航海士の父が理解できないわけがない。


 時計をこれほど小さくするためには、振り子のかわりに円形のテンプという部品を使う。

 揺れ続ける船の上で正確に時を刻む時計も振り子では不可能だと言われている。航海用の時計を実現できるとしたら円テンプの改良版であって、この円テンプの発明は父が生まれた頃だった。


 それによって懐中時計が誕生し、改良され続けてはいるものの、これほど小さいものはフアンが知る限り、父が持つこの時計ひとつきりだ。


 裏蓋を開けて構造を覗くと、歯車がいくつもある。少し形の違う歯車も見えるから、それが円テンプ、もしくは円テンプを改良した何かかもしれない。


 だとしたら謎はさらに深まる。時計の開発に力を入れているどこの国にもないのに、どうしてカリブ海にあったのか。どうして噂にすらならないのか。


 リカルドがフアンをじっと見つめている。その眼差しには、重大な秘密を打ち明けようとするときの真摯な光があった。


「二十年前、俺が乗ってた輸送船が難破したって話をしたよな」

「おぼえてるよ」

「途中で羅針盤が狂ってさ、位置がわからなくなって」

「嵐に遭ったんだろ。で、漂流して、また嵐に遭った。今度は船が転覆、親父は小さな島に打ち上げられたんだっけ」

「そうそう、その通り。その島はカンティガといってな、中央に山があった。昔は黄金がとれたらしい。山裾には森がひろがっていて、ほとんど島を分断していた。島には村がふたつあった。スペイン人入植者の村と、先住民インディオの村。砦もあった。スペイン人の司令官がふたつの村を統率していた。スサナはその司令官の娘だった」


 フアンははじめて聞く話に驚いた。

 父と母が島で出会ったことは聞いていたが、母が司令官の娘だったとか、村がふたつあったとかいう話は初耳だったのだ。


「へえ? 前に言ってたのは、その小さな島で母さんと会って、俺が産まれたけど母さんは一緒にスペインまで帰ってこられなかったって。つまりその司令官が反対したってこと?」

「わからない。そういう話をする前にスサナは俺から遠ざかった」

「ふうん……。入植者ってのはべつに驚かないけど。インディオの村ってのは珍しいのかな?」


 カリブ海の島々はおもにスペインの植民地であり、インディアスとも呼ぶ。


 1492年にクリストバル・コロンが大西洋を渡りインディアスの島々を見つけてから、多くのスペイン人が島に入植した。

 インディアスからもたらされる金や銀は当時のスペインを潤し、豊かにした。採掘にあたったのは土着のインディオだ。


 しかし彼らは体が弱く、慣れない労働や疫病で激減してしまったらしい。そこで今は移住させられた黒人奴隷が労働力になっているのだ。


 だからカリブの島にインディオの村が残っているという話を、フアンはほかに聞いたことがなかった。


「そう、珍しかった。ほかにもいろいろとな。その島で最大の驚きが、これだ」


 リカルドが懐中時計を示す。


「島のほとんどの人が持ってた」

「はあ?」

「まあ、聞け」


 胡散臭そうな顔をしたフアンにリカルドは笑いかけた。


 時計はたとえひとつでも高価で貴重な代物だ。なぜ入植者たちが暮らす小さな島に時計があふれているのか。まったくもって謎だったとリカルドは言う。


「まだ世界のどこにもない小さな時計だ。ひとつ持ち帰るだけでも大騒ぎになると思った。ところがこれが不思議でさ。俺が持つと時計はちゃんと動くのに、持ち主に返すと動かないんだよ。でもべつに故障ではないからそれでいいんだって言われた」

「いや、故障だろそれ……というか、これも故障してるし」


 フアンはさっきから懐中時計のゼンマイを巻いていた。振り子時計と同じように懐中時計もゼンマイを巻けば動くはずなのだ。けれどゼンマイを巻ききっても歯車は動かず、当然ながら針もまったく進まなかった。


「やっぱり試作品なんだな。それか、よくできた玩具おもちゃだ。ちゃんと動けばそりゃすごい発明だけど、動かないんじゃなあ」

「これはスサナが持ってた時計だ。島で俺が持ったときはちゃんと動いたんだよ?」

「でも今は動かないじゃん」

「そうだな」


 リカルドは苦笑した。


「産まれたばかりのおまえを連れて俺は島を出たけど、スサナにはちゃんとお別れを言ってないんだ。どういうわけか、俺に会ってくれなくて。こっちに戻ったら船大工にでもなろうかと思ってたけど、もう一度スサナに会いたかったから結局海に出た。でもあの島がどこにあるかもわからなくて、気がつけば二十年。そして俺は今こんなザマだ」

「そんな言い方。もう起き上がれるし、日常生活は問題ないじゃん」

「そうだけど、船には乗れないからな」


 フアンは複雑な気持ちになった。


 父と母がどうして別れたのか、具体的なことは何も知らずに育った。ただ、母の名前がスサナ・ガルシアであること、スサナは気さくで明るい女性だったこと、産まれた自分を手放したこと、それぐらいしか聞いていない。


 思うところはある。つまり父と母のつかの間の情熱で自分は産まれ、けれど母は自分を父に押しつけたのだろう。

 父は母を「すばらしい女性だった」と褒めるが、仮にそれが正しかったとしても母は父をそこまで好きではなかったのかもしれないし、ましてや子供なんて迷惑だったのかもしれない。


 だからフアンは母に対する思慕などは抱いていない。母代わりになってくれた伯母の方が身近だし、そういう自分の境遇に不満もない。


 ところが父の方はそうでもないらしい。いまだに未練を引きずっているのかと知って、フアンは「もういいよ」と言いたかった。過去を引きずってても仕方ない、もう母さんの話なんてしなくていいよ。未練がましい親父なんてかっこよくないよ。


「おまえがもしその島を見つけて、スサナに会ったら、この時計を返してあげてほしい」


 父の頼みにフアンは顔をしかめた。


「カンティガなんて島、聞いたことないんだけど」

「でも、絶対に見つからないとは言い切れないだろ」

「親父が二十年かけて見つからなかったのに? それに母さんがその島にまだいるとは限らないだろ」

「いなかったらいなかったで、仕方ないね。でももし会えたら、時計を返して、俺たちがどう暮らしてるのかを伝えてやってくれ。もし俺に会いたいと思ってくれていたら、会いに行くとも伝えてくれ」


 フアンは無言でうなずいた。


 父は倒れてから気が弱くなったのだろうか。こんな夢見がちなことを急に言い出すなんて。


 それでもフアンは父が嫌いじゃなかったし、むしろ船乗りとしては尊敬しているし、体調が万全ではない父と言い争いたくもなかったし、だから時計を受け取った。


 父は微笑み、島を出た後の話を始めた。積んでいた食料が腐っていて困ったとか、謎の体調不良で吐き気が止まらなかったとか、とうに過ぎ去った苦労話を面白おかしく話してくれた。


 それはいつもの陽気な父だったから、父の気弱を心配していたフアンは少しだけホッとしたのだった。






「二十年前」


 フアンは興奮してアナカオナに詰め寄った。


「二十年前に、ここに、俺と同じようにスペインの船乗りがひとり、来なかった?」


 アナカオナは視線を宙に投げた。思い出そうとしているようだが、やがて首を横に振った。


「知りません」

「そ、そうか……。いや、二十年前じゃ君は生まれてなかったよな。うん、ありがとう」


 フアンは砦を見つめた。


 司令官……親父は母さんを司令官の娘だって言っていた。二十年前じゃ司令官も別の人かもしれないけど、母さんについて何かわかるかもしれない。

 司令官に会うにはどうすればいいのかな。二十年前のこと、母さんのこと、知っている人がいるなら誰でもいいから話を聞きたい。

 けどその前にここから無事にスペインまで帰る段取りもつけなきゃ……。


「あの」という声にフアンは我に返る。アナカオナの黒い目がじっとフアンを見上げていた。


「ん? ああ、ごめん。行こう」


 フアンは時計をアナカオナに返して歩き出した。

 アナカオナは自分の時計を怪訝な顔で見つめ、フアンの持つスサナの時計を名残惜しそうに一瞥した。

 考え事をしながら歩くフアンはその視線に気づかなかった。

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