第7話 あたしの日常・7

 抱えられたまま愁の家に戻った理央は、今日1日に起こった出来事を、今度こそ真剣に聞こう、どんな話も信じようと姿勢を改めた。今の自分にできること、できないことを理解しないと永遠に愁の足かせになる気がしたのだ。床に敷いた布団に横たわり、肩で大きく息をしている愁に何をしてやればいいのかさえわからない。異常なほど熱い愁の身体の熱を下げるため、近くのドラッグストアに駆け込んで買ってきた氷のうを額にあて、悪いと思いながらも家中探して見つけたタオルを氷水で冷やして汗を拭く。きっと、こういうときに“回復系能力者”の力が必要なのだろう。風邪をひいているわけではない愁の身体は、どんなに冷やしても、汗を拭き続けても、熱が引くことはなかった。理央はひたすら愁の回復を待つことしかできない。


「ごめんね……あたしのせいだ……」


 ぽつりと呟いた声は、愁の荒い呼吸音でかき消される。理央は必死で脳の引き出しを探した。誰か、信ぴょう性の高い霊の話をしていたことはなかっただろうか。普段そのような話題に乗っていなくても、理央が視えたモノに反応した人はいなかっただろうか。思い出せ、思い出せ、と自分を追い込んだところで、人と関わりを持ってこなかった理央が気づけることなどたかが知れている。愁が小さく呻いて手を伸ばした。理央はハッとしてその手を包む。理央には何もできない。けれど、幼いころ、まだ存命だった母が理央にこうしてくれていたことを思い出す。そっと手を握られただけで安心した記憶が脳裏に浮かぶ。


「シュウ、大丈夫。あたしがいるよ」


 母を真似てそう小さく呟くと、荒かった呼吸が少しずつ落ち着いてきた。理央はまだ能力者としては生まれたての赤ちゃんのようなものだろう。それでもこうして手を握って安心させることはできる。ただそれだけで、生きることを赦されたような気がしていた。


 藍色の空が少しずつ色を変えてきたころ。ようやく愁は目を開けた。起き上がろうとした身体の上に小さな重みを感じ、視線を移す。床に敷いた布団の上で、しっかりと手を握ったまま愁の横で丸くなっている理央を見て頬が緩んだ。夜通し看病をしてくれていたのだろうと察した愁は、握られている手をそっと外し、理央を起こさないよう慎重に抱き上げてベッドに下ろした。ほんの少しだけ身じろいだだけで、すーっと寝息をたてる。眉を寄せ、苦悩しているのだろうと想像できる寝顔は見ていて幸せなものではない。指先でそっと眉間に触れると、理央の表情が微かに和らいだ。


「あかんなー……。さっそくじじいとの約束、破ってまいそうやわ」


 しばらく理央の寝顔を眺めていた愁は、つるりとした理央の頬を撫でた。形のよい唇に視線が釘付けになる。と、パチリと目を開けた理央としばし見つめ合う。そして理央はガバッと起き上がった。


「ぅわぁぁぁぁぁ!!! すんませんすんませんすんませんっ! ちょっとした出来心やねんっ! イタズラしよう思うたんとちゃうでっ!?」


 一瞬でベッドから一番遠いキッチンまで後退し、何度もなんども土下座する。理央は何も言わない。しまいには床に頭を打ちつけて土下座を繰り返す愁の目に、理央の膝が映った。


「もう、平気なの?」

「ハイ……朝方にはもうバッチシ……ありがとうございます……」

「……よかった……」


 理央の細い腕が愁の頭をぎゅうっと抱きしめたかと思うと、声をあげて泣きだした。子どものように泣きじゃくる理央の身体を抱き寄せ、愁は小さく笑って背中を撫でる。あまり話したくない様子だったため、あえて突っ込んで聞かなかったが、きっと友人を巻き込んでしまったときのことを思い出し、重ねてしまったのだろう。もちろん愁も、意図せず一般人を巻き込むことになったことには同情するが、それはあくまでも運が悪かったのだとしか言えない。冷たいようだが、しかたがなかったのだ。たぶん、巻き込まれた理央の友人は、わずかにでも霊力があったのだろう。そうでなければ怪異は狙ってこない。これは、幼いころから戦闘に携わっていたからこそわかることで、今の理央にそれを告げたところで慰めとしか受け取らないだろう。


「……ほっぺ、触っただけ?」


 しゃくり上げた理央が訊ねる。質問の意図がわからず、愁は首を傾げた。


「……あたしに、変なことしてないよね?」


 気のせいだろうか。理央の背を撫でていた愁の手のひらに、バチッと静電気のようなものが走る。


「え……?」

「だから、あたしに、変なこと、してないでしょうね、って聞いてんのよ!」

「してませんっ!!! 神に誓って!!!!」


 両腕を離し、降参を示す。疑うように見上げる理央の視線が痛い。いや、正確には何もしていないのだから、やましくはない、はずだ。愁はゆっくりとその視線から逃げ、取り繕うように立ち上がった。


「せや! ガッコ行かんとなっ! リオ、朝ごはんは米がええか? パンなら俺、買ってくるしっ!」

「……お米でいい。準備するから待ってて」


 理央はぐいっと涙を拭って立ち上がり、茫然としている愁をおしのけてキッチンに立つ。昨夜、タオルを探すためにあちこち開けたおかげで、この家のだいたいのことは把握済みだ。冷蔵庫の中にはミネラルウォーターと卵しかないことも。ただ、お米を密封容器に入れて冷蔵庫に保管していたことだけはひそかに感心していた。


「お風呂、入ってきて。昨日いっぱい汗かいてたから」


 何か言いたそうにしていたが、黙って理央の指示に従ってお風呂に向かっていくのを確認し、理央はその場に崩れ落ちた。


「よかった……」


 怪我こそしていなかったが、あのまま熱が下がらずに死んでしまうかと思った。何度も危険な目に遭ってきた理央でさえ、あそこまで発熱したことはない。強い霊力にあてられて全身筋肉痛のような痛みは味わったことがあるが、昨夜の愁のような状態になった覚えがない。もしかすると、理央がいたことによって全力で怪異消滅に挑めなかったせいなのかもしれない。

 シャワーの音が聞こえ、理央は慌てて食事の準備にとりかかった。食材が米と卵しかないのはしかたがない。棚を覗くとインスタントの味噌汁のパッケージを発見した。今日のところはこれでなんとかしようと、冷蔵庫から取り出した米をとぎ、朝食を作り始めた。祖母の百合が亡くなったあと、食事の用意はすべて理央がやってきた。炊事だけはちょっと自信がある。



「うまいっ!」


 黒髪から滴り落ちる水滴を気にすることもなく、愁はもりもりと食べている。卵はただの目玉焼きだし、米はといで炊飯器任せ。味噌汁にいたってはお湯をそそいだだけだ。うまいといわれても喜べるものではない。だが、人と一緒に食べるのはひとりで食べるよりずっとおいしいことは理央にもわかっている。いただきます、と手を合わせ、味噌汁をひと口啜った理央は、愁に聞こうと思っていたことを思い出した。


「ね、能力者の役割って、あのバケモノを倒すことだけなの?」

「んー。怪異は見つけ次第問答無用で消滅させんとあかんけど、ほかにもやることはあるで? 昨日もガッコに出たやろ。アレ、この世に未練も因果もないのに、俺らが気づかへんかったら延々と居続けるんよ。そうゆー魂魄は、浄化させてやらんとな」

「昨日シュウがやったみたいなことが、あたしにもできるってこと?」

「せやね。むしろ、あーゆーのはリオは専門かもしれんな」


 もぐもぐと咀嚼し終えた愁が、味噌汁を啜る。


「それこそ、祝詞で十分やと思う」

「そっか……あたし、関わるのが嫌で、何もしてこなかったな……」

「そんなん、誰かが教えんとわかるわけないやん。今からでも遅くないんとちゃう?」


 なんてことのないように言われると、そうか、とも思う。結局のところ、理央には力について教えてくれる者がいなかったため、何もかもが新鮮で勉強になる。


「俺は周りが能力者だらけやったんよ。生まれた瞬間に解放されたし、よちよち歩きのころにはアカダマ撃ってたしな。小学生のころはもうひとりで先頭に出されとったわ。鬼のような家族やね」

「今からだと遅い?」

「そうでもない。俺はリオの後継人やないから、強制的に魂に触れて潜在能力を引っ張り出しただけなんよ。俺らの中では“因果を結ぶ”ゆうんやけど。だから正式な後継人が解放させるのと比べると、どうしても霊力にムラができるし、逆に吸収力が早うてグイグイ伸びるヤツもおる。リオは2回、自力で結界を張った。あれは才能やで? 正直、あそこまでうまくやれるとは思ってなかったんよ。シオンの庇護があんのかもしれんな」


 ごちそーさん、と手を合わせた愁は、理央の頬にくっきりとついた傷を指先でそっと撫でて表情を曇らせる。爆風で飛び散った小石が当たっただけなのだが、責任を感じているらしい。けれどこの傷は理央の張った結界が甘かった結果だ。


「バケモノに……怪異に襲われて意識不明になったことは何度もあるの。これくらい平気」

「リオは女の子なんやで!? 顔に傷とかもう俺どうしたらええの……」


 愁はガックリと肩を落としている。が、理央にとってはこんな傷は傷のうちにも入らない。愁に見せるわけにはいかないが、理央の腹部にはバケモノにえぐられた傷跡が残っているし、背中にも火傷のような跡が残っている。どちらも完全に致命傷であったはずなのに、なぜか理央は生き残っている。愁の言うとおり、もしかすると自分の前世である“シオン”が護ってくれていたのかもしれない。だとしたら、いよいよここで日和るわけにはいかない。


「あたし、強くなるから。絶対に力をつけてみせるから。だから――」


 理央にはそのあとの言葉が紡げなかった。そばにいたいなんて、思うわけがないのだ。今までなんのために人から遠ざかって生きてきたのか。誰も傷つけたくなかったからではないのか。矛盾する自分の気持ちに混乱していると、愁は小さく笑った。


「死するときは共に」

「え?」

「前世でも約束したんよ。現世も同じや。俺はもう、リオのいない世界に生きたくない」


 目を細めた愁は、今、何を視ているのだろうか。理央の中に眠るシオンを感じ取っていたのだろうか。ほんの少しだけ、胸がちくりと傷んだことに、理央は戸惑っていた。

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