一般的な日本の夫婦関係

オジョンボンX

一般的な日本の夫婦関係

 ファーーーーーー。ファーーーーーァ。

 妻が叫ぶ声が聞こえる。居間からか、洗面所からか。寝室からか、わからない。この家はどこにいても、まるでどこでもないかのように声が反射する。この家は私の稼いだ金で、妻の名義で、妻が一切を取り仕切って建てられた。そうなるように仕組まれているのかもしれない。

 ファーーーー……

 声が少し弱くなったようだった。終了の兆候だった。私は2階の柱の陰に身を潜ませたまま神様にお祈りした。そして10分が経ったのか30分が経ったのかわからない。人は時計のない状況で何もせずにじっとしていると時間感覚を失う。叫びはしばらく聞こえていない。大丈夫だと安堵しながら、しかし音を立てぬように柱から顔を覗かせた瞬間、

 壁ドン――……

 妻の手と柱に挟まれて私は逃げ場を失った。

「あなたーぁ?」

 妻はにこにこしている。このほがらかなにこにこが近所の老人たちに大人気なのだ。いい奥さまですね、ほんと、やさしそうで、幸せそうで。40歳を迎えながらますます透明感をのせてゆく肌の頬を寄せて、

「フゥワアアァアァアーーーーッ!!!」

 私の耳に妻の絶叫が注ぎ込まれる。私の左耳の鼓膜はすでに治療対象になっていると思われるが、勝手に治療したと知られれば責める材料を与えることになるからそのままだ。

「困るじゃない?」

 妻が私の頬を張る。頭が妻の手のひらと柱に挟まれて脳が揺れる。一瞬視界が白くなる。「やだっ!」妻が素早く手のひらを私のシャツになすりつける。最前よりの緊張が私の頬をぬっとり汗で濡らしていたからだ。頬の内側が歯で切れたらしく血の味が広がる。妻がその場を離れるが私はこの場に釘付けだ。勝手に離れて機嫌を悪くするわけにはいかない。台所用の手袋をつけて、うきうきした様子で妻が戻ってきて、その勢いのまま2発目を私の頬に食らわせた。

「困るじゃない? ねえ困るじゃないの?」

 何度殴られたかわからない。そのたびに頭が柱にぶつかる。脳が揺れて意識が遠のく。顔が腫れあがる。職場の人たちも近所の人たちもすっかり、そんな私の顔をまるで何も起きていないし見てもいないものとして扱うようになった。趣味で本格的なボクシングジムに通っているのだと言っている。

「どうして約束を破るの?」

「すいませんでした!」

「謝ってほしいんじゃなくて理由を聞いてるんだけど。どうして約束を破るの?」

「すいませんでした!」

 バァンと爆発音がする。耳のそばを張られるとそんな音がするのだ。理由を言おうにも、私が一体何の「約束」を破って妻に責められているのかが分からない以上言い様がない。しかし黙っていれば「黙っていたらわからないじゃない」と言って殴られる。結局謝罪の意思をとにかく示し続けることしかない。妻は「私はきちんと話し合いをしたいのよ」と言いながら私を殴り続ける。

「もうやだ。なんで私ばっかり我慢しなきゃいけないの。疲れちゃったよ」

 そう言って妻は寝室へ引き上げていった。

「ちゃんと直しといて」と妻は言い残した。私は疲弊しきった体をなんとか持ち上げ、居間に下り、台所で口をゆすいで水を飲んだ。頬の内側もずいぶん切れて出血しているが、頬の外側の腫れもひどく一体どちらの痛みなのか判別がつかない。ダイニングテーブルの上にはハンディタイプのレーザー測量機が置いてある。私は至る所を測定していった。そうして1時間余りも経った。

「これか――……」

 思わず声が出た。ようやく原因を見つけた。洗面所の歯磨き用のコップだった。規定位置から0.5mmもズレていた。油断していた。最近はすっかりどれも位置合わせが上手くなったと自惚れていた。爪の先でとんとんと位置を調整し、改めて測定して正しい位置に収まっていることを確認したら、安心感からか疲れが血流に乗って一気に全身を浸した。午前2時だった。


 子供の頃に置き忘れてきたような、睡眠から覚醒まで全くシームレスにつながる幸福感に包まれた目覚めだった。眠気の欠片もなくすっきりした頭と身体にまかせてまぶたを自然に開いたら、目の前に妻の顔があった。妻は私の顔を覗き込んでいた。私は自分が居間のソファに寝ていること、すでに部屋が明るく朝になっていることを一つずつ順に自覚していった。会社に遅刻するかもしれないと焦っていた。しかし目前に妻の顔があるから動けない。一体どれくらいの間こうして私の顔を覗いているのだろうか、一体どういうつもりで私の顔を覗いているのだろうかと思っても、何一つ訊けない。「自分でわからないの!?」と詰められたら終わりだ。

「おはよ」

「おはよう」

「7時半だよ」

 妻は時計に目をやることもなく、じっと私の目を見据えたまま言った。ぎりぎりだった。食事をせずに着替えて出ればかろうじて始業に間に合う。しかし妻の顔は変わらず目の前で静止しているからそのまま起き上がることはできなかった。私は肩甲骨や腕をぐねぐね動かしてソファと妻の顔のあいだを抜け、スライムのように床へすべり落ちていった。

「会社、遅刻しちゃう……」

 言い訳のようにつぶやくと、妻は破顔一笑した。けらけら笑い声まで上げた。ノーメイクでも肌のきめが細かく若々しかった。笑うと一気に華やいだ。

「今日は土曜日だよ?」

 私が唖然としていると妻はまだ笑い続けていた。だんだん笑い声が激しくなっていった。ンオオオォォォーーーッッ!! ンオォォーーッ!!! と吼えるような声を上げ始めた。私は恐怖した。妻が距離を詰めてきた。そして右手を上げ、私は咄嗟に身をすくめて左腕で顔を覆った。直後にしまったと思った。つい殴られると思って防御したが、そうすると妻は「反省が足りない」と言ってさらに激しく殴るのだ。しかしこのわずか0.8秒間の私の反応と後悔をあっさり無視して、妻は私の背中をぽんぽんと2度軽く叩いただけだった。

「もうやだ。寝ぼけちゃって」

 妻はその華やいだ笑顔のまま台所へ消えた。私は極度の緊張からわずかに解放されて、その場にへたり込んだ。土曜日、週末――……妻との逃げ場のない時間を思うと、どうして神様は休息日など取られたのか、7日間ずっと働き続けてくれれば私も、会社に行けたのにと恨むような気持だった。

 妻の用意した軽い朝食をとりながら、今日はどっちだろうかと思った。この上機嫌は何を意味しているのだろうか。私は私自身に何も考えないように言い聞かせている。何かを考えるということは、何かを期待するということだ。期待は裏切られたとき一層つらい。だから何も考えるな。しかし頭が勝手に考えてしまう。

「あなたーぁ?」

 来た、と思った。私は全身の皮膚の、筋肉の、細胞の隙間が全て詰まって息苦しいくらいに体が縮むのを感じる。

「今日は久しぶりにどっか行かない?」

 私は尿を漏らしたかと思った。今日は出掛ける日だった。一日家にいて、責められたり正座させられたり、殴られたりしなくて済むのかと思うと安堵した。しかし油断は絶対に許されない。もし不正解の行動を取ればこの先数十年に渡って責められることになる。正確に行動しろ、鋭く反応しろ、そう自分に言い聞かせるうちにすでに口は「いいね!」と自動的に言っていた。


 妻はアクションものの邦画が好きだから「アイアムアヒーロー」を見に行った。映画館に行くのは年に1,2回ほどで、どうしても外れを引きたくないという気持ちが強くなってしまう。絶対に面白い映画でありますようにと神様にお祈りした私のおかげで「アイアムアヒーロー」はとても面白くて妻を上機嫌にさせた。みんながゾンビになってしまうという話だった。運命に対して受動的だった男が、のっぴきならない状況に追い込まれた末に使命を受け入れる、その覚悟を持つに至る、そんな話だった。主演の大泉洋はとてもナチュラルに振る舞っていてその実在感が説得的だった。帰りに入ったドトールで妻は、私が大泉洋に少し似ていると言った。

「英雄と書いてヒデオ、それであなたも最後はヒーローになったりして」

 妻はケラケラ笑って、いろいろな場面を思い出しては、あそこが良かった、あれはびっくりしたと楽しそうに語って私も、楽しかった。でも、あんな風に家族が変わってしまうのは怖いね、と妻は言った。私はノータイムで「そうだね」と相槌を打っていた。


 ンギェー。

 帰宅早々、妻の叫び声が家の中を反射した。私はそっと脱衣場に隠れた。やはり今日どこかで粗相をしていたのだろうか。叫び声は珍しくそれ一度きりで続かなかった。このまま出ていくと長い時間どこにいたのか確認される恐れがあるため、念のためトイレに寄って水を流す音を立ててから居間に入った。食べきれずに持って帰ってきたキャラメル味のポップコーンが床に散らばっているのを見た。それから家の中なのにスニーカーを履いた足を見た。それから、妻が見知らぬ青年に羽交い絞めにされ、喉元に包丁を突きつけられていた。空き巣だと思った。私は安心した。私のミスではなかったということと、来る前にトイレの水音を念のため立てておいたことに安心したのだった。

「ごめん。帰ってきたら急にお腹が痛くなって、それで今までトイレにずっといたから、まさかこんなことになっているなんて知らなくて……もし最初から君がこんなピンチな状況になってたとわかってたら、もちろんすぐ来たんだけど……お腹が痛くて……」

 青年は何かぎょっとするような表情で私を見た。頬がめちゃくちゃに腫れた私の顔に驚いているのだと咄嗟に推断した。いつだって私とすれ違う人はそういう顔をするからだ。

「これは違うんですよ。私、ボクシングジムに通っていましてね。本格的なボクシングジムで、本気の打ち合いをしているものですから。どうしても顔が」

 説明がなめらか過ぎるだろうか。言い訳じみて聞こえるだろうかと少し疑っている。もっと技術を上げなくてはいけない。青年は体に力を入れ直して緊張しているようだった。

「ボクシングがなんだよ! おかしな動きしたら奥さんを刺す!!」

 私は青年が勘違いしていることに気付いた。私の先の一言を「お前程度を叩きのめすなど訳のないことだ」という宣言だと解釈したらしかった。

「違うんだ。私はボクシングがすごく弱いんだ。そうでなきゃ、顔がアレなことにはなってないでしょうが」

「……あんたがボクシングが本当に弱いかなんてわからないだろう。証明して見せろ」

 ボクシングが弱いことをどうやって証明するのだろうか。私は一度たりともやったことがないシャドウボクシングを披露した。口で「シュッシュッ」と言いながら、軽いフットワークでパンチを中空に繰り出してみた。

「……結構……上手い気がするけど……」

「ええ……どうも…………ありがとうございます…………」

 青年は困惑しているようだった。私も困惑していた。私がここで最大限注力すべきことは、この件で後々妻に責められる材料を絶対に与えてはいけないということだ。妻が満足する行動を完璧に取らなければならない。それは一体なんだ。私は必死で考え続けた。シャドウボクシングを激しく続けながら考え続けた。息が上がる。酸素が足りない。うまく思考がまとまらない。このまま何となく、事態が過ぎ去ってくれればいいのだけれど……

「お金なら、」

 妻がか細い声で言った。私はただちにボクシングを停止させ、妻を注視した。助かったと思った。とにかくこの状況、私が初めてのシャドウボクシングを披露して、それを青年が見ているだけの時間が続く事態は破られたようだ。青年も同じように安堵しているように見えた。

「お金なら、なんとかご用意しますから、警察にも言いませんから、命だけはどうか、」

 妻はそよそよと涙を流して言った。やっぱりこれが正解だったかと思った。ようやく本来のレールに戻って、青年もいくぶん生き生きしてきた様子だった。

「よし。じゃあ有り金を全部用意し」

「そんなのおかしいじゃない!!」

 突然妻が大声を出したから青年は怯えた。私も怯えた。青年も私も妻の言葉の続きを待ったが、妻は黙ったままだった。

「おっ、ん、おい、有り金を、全部渡さないと、殺すぞ」

「おかしいじゃないの!!!」

 青年は耳が壊れるほどの大声を浴びせられて生理的に怯えていた。私は気配を消した。できる限り他人のふりをしようと思った。青年は妻の次の言葉をまた待っているが、妻は黙ったままだ。

「何が、おかしいんだ」

「は? なんでわかんないの?」

 そしてまた妻は黙った。

「他人から金を、こうやって奪おうってことが、おかしいっていうこと?」

「そんなこと一言も私言ってないじゃない。私そんなこと言った?」

「じゃあ、」

「あなたいくつ? 大学生?」

「えっと、いえ、もう卒業してます」

 ファーーーーーー。

 家中に妻の絶叫が響き渡った。音源近くにいた青年は完全に精神を骨折させられたようだった。私はこの空間を満たす気体に溶けて消え去るイメージで努めて存在感を薄めた。妻は音高も音量も一段上げてまくし立てた。

「おかしいじゃない!? ねえ、おかしいじゃないの。大卒でしょ? なんで大卒なのにわかんないの? そんなわけないでしょ。ねえ? おかしいじゃない。これっておかしいでしょ?」

「はい……」

「じゃあ何がおかしいの? はいじゃわからないじゃない。あなたがちゃんとわかってるのか私にわからないじゃない。当たり前でしょ。何がおかしいのか言わなきゃわからないじゃない。早く言いなさいよ。何がおかしいわけ??」

「わかりません……」

 ファーーーーーー。

 恐らく青年はもう、まともに思考できる状態ではないはずだ。本当にあるのかわからない答えを探せと言う。それでその場しのぎをほとんど無意識に口に出す。そこを突かれて責められる。終わりの見えない責め苦に苛まれてただただ時間が過ぎることだけを祈る気持ち。私にはよく分かると思った。気の毒に思った。絶対に巻き込まれたくないから一層気配を絶つことに腐心した。

「わからないのに、はいって言ったってこと!? それって嘘ついたってことじゃないの!? なんで嘘をつく? ねえなんで!?」

「すいません……」

「私謝ってほしいなんて言った? なんで嘘ついたのって聞いてるんだけど。もしかしてとりあえず謝ればいいみたいに思ってるの!?」

「あの、大声やめてください……」

「だぁーったら?? あんたが先にこの包丁どかすのが礼儀ってもんじゃない?? 違うっ!?」

「あっ……」

 青年が包丁を下ろし、妻から離れた。そして妻は私の顔を見据えた。妻は私を忘れていなかった。私は頭が真っ白になった。

「あなた。何やってるのよ」

 私は妻の一言で、放たれたパチンコ玉のように飛び出して、青年にタックルした。刃物が恐ろしいといった感覚は全くなかった。それよりもこの場面でもし、私が妻を愛していないといった外形的な事実を与えて今後一生厳しく責められることだけは絶対に避けなければならなかった。

 私は覆い被さるように青年を床に押し倒した。慌てた青年が私の太ももを刺したようだった。人を刺してしまったことに青年は激しく動揺しているようだった。

「ああーっ」

「ああーっ」

 二人して一緒に叫んでいた。それは叫びと言うより嘆きの声に似ていた。青年は抵抗も見せず私に強く抱かれるままだった。温かいと思った。腕の中で強く抱き締めた青年の身体があった。こうして人の温もりを感じるのはいったいいつぶりだろうと思った。精神を格納するだけの容器としての人間ではなく、たしかに動物としての肉体を有した人間というものの実在をはっきり感じていた。皮があって、肉があって、骨がある、そういう感覚、小学生のときにうさぎを抱き上げて、そのやわらかさとあたたかさと確かな重さに少しびっくりしたあの、記憶がふいによみがえってきた。

「なんなのよ」

 妻の声を聞いて一気に私の意識が床に張り付けられたように戻った。

「有り金全部ってとこ」と私は青年の耳に寄せて小さく囁いた。

「有り金全部ってとこ」と青年は機械的に繰り返して言った。

「そうでしょーーー??」と妻は地響きのような声を出した。

「わかってるなら最初から言えばいいのに」


 金というものは必要があって遣うもので、とにかく欲しい、ありったけ欲しいなどというのは本末転倒だというのが妻の言い分だった。それで妻は青年に顛末を話させた。青年は自動音声のような喋り方で話した。奨学金を借りながら三流大学を出たもののうまく就職できずに返済が滞って結局、本人は自己破産をし、連帯保証人の親も連鎖的に自己破産に追い込まれて、実家まで手放す羽目になって兄夫婦からひどく責められているのだという。クローズアップ現代か何かに顔と声を隠してインタビューに応じる人みたいで、どこか現実感が薄かった。妻が床を踏み鳴らしながら憤っていた。

「ひどい社会! こんなに本当はまじめでいい子がさ、別に悪いことしたってわけでもないのに、どうしてこんなに苦しまなきゃいけないの!?」

 妻が社会に怒りながら熱く涙を流していた。青年も感涙にむせんでいた。私は太ももが燃えるように痛むが。

 妻は私をATMに走らせ(私は太ももが燃えるように痛むが)、下ろした50万円を青年に渡した。返すのはいつでもいいからと言った。

「ね、あなた、この子、私たちで面倒見てあげましょうよ」

 私の太ももは誰も面倒を見てくれないのに? と一瞬思うのと同時に口がもう、「もちろん賛成。すごくいいと思う」と言っていた。ほんの一瞬でもためらいを見せればこの先永久にそこを責められるのが目に見えている。

 私は床に散らばったポップコーンを一つずつ拾って食べた。妻は汚いじゃないと言ったが、私は大丈夫だと食べ続けた。青年は床に這いつくばって食べる私を見てぎょっとしていたようだったが、これが正解なのだ。もしこれで捨てたら、「わざわざ映画館から持って帰ってきたのに」、「あなたはそうやって私の苦労を無駄にするタイプなのだ」と言われるはずだ。どこにもベターな解が存在しない以上、ワーストを避けなければならない。青年にはまだそれがわからない。


 それからみんなで夕食を取った。妻は終始、青年の置かれた状況に同情し、あるいは青年の取った行動を「度胸がある」と言って褒め、あるいは青年を助けなかった人々を罵った。家賃を滞納していたアパートを引き払い、住民票も移し、青年は妻の家に住むようになった。青年はすぐに私が妻に殴られているのを見て驚いていた。

「何もそこまでしなくても……」と割って入った。いけないと私は思ったし、余計なことをするなと腹も立った。案の定、妻はファーーーーーー。

「あなたどういう立場でそういうこと言うの? お金だって貸してあげて、うちにも住まわせてあげてるのにだいたい、あなた自分が何したかわかってるの? 犯罪行為だよ、恐喝だよ、殺人未遂だよ。人を刺しておいて、でも警察に黙っていてあげてるのに自分の立場が分かってないんじゃないの。こんなにあなたのこと考えていろいろしてあげてるのに、どういうつもり!?」

 青年は私と並んで冷たいフローリングの上で正座していた。本当に申し訳なさそうな顔をして、途中からは泣きだしていた。

「きちんと心入れ替えて、人生やり直すってつもりでやらなきゃだめだよ」

と妻は優しく慰めていた。それから「疲れちゃった」と言って寝室に引き上げていった。私の隣で青年はまだしくしく泣いていた。人前で泣いてしまうとそれまで保っていた大人の男としての自尊心が崩れ、急に精神が弱って子供のようになってしまうものだ。私は急に青年を愛おしく思った。腕を伸ばして背中に手を置いた。青年のほてった身体の熱が手のひらに伝わってきた。私より少し背が高く、細いが筋肉はしっかりしている若い男が、子供のように泣きじゃくっているのが愛しくてたまらなかった。

「君さっき、僕のこと庇ってくれて、ありがとう」

 そのまま抱き寄せると、青年は私の胸に顔をうずめて嗚咽した。私は青年の背中や腕をさすりながら、家族だなあ。家族なんだなあ。うちら。と思った。


 その後、妻は青年に親兄弟や知人との縁を立て続けに切らせていった。平日の昼に相手の自宅へ乗り込み、翌朝まで一睡もさせずに非難し続けるのが常だった。私はそうした日は休暇を取って、青年と妻と三人で相手方へ向かった。この子があんなに困っていたのに助けもせずに結果的に強盗(本当は空き巣なのだが)までさせたのはお前たちの責任だ、どうするつもりだという。私は当然のことながら、青年も妻の目の前なので同じように、親兄弟や知人を大声で罵った。彼らが近所迷惑になるから大声をやめてくれと言うと、そうやって世間のことばかり気にしているからこの子のことだって平気で見放したりするんだと罵った。そうして彼らが散々謝ったあと「どうしたらいいのか大人なんだし自分で考えてよ」と言って、私と青年を残して妻は家を出た。24時間営業のファミレスやマクドナルドで時間を潰しているようだった。ご迷惑をおかけしまして本当にすみません、ご迷惑料をお納めしようと……と彼らが家に戻ってきた妻にそう話し合いの結果を伝えると妻はファーーーーーー。

「そんなのおかしくない? それじゃ私たちまるでお金目当てでこういうことしてるみたいじゃないですかぁ?? そういうことじゃ、ないと思うんだけど。えぇ!? 私たちがお金目当てだって思ってるってことですか?」

 そう責め立てて、もう一度きちんと考えるように言ってまた妻は出て行く。結局、彼らが青年と縁を切る、今後二度と連絡を取ったりしないと自分から言うまで終わらないのだ。一応、手切れ金は受け取っていたようだった。

 こんな家族の増やし方もあるんだなあと思った。そういえば私も、あの人と婚姻関係はないんだった。

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