第4章 アラルスタン共和国

 何を期待したわけではなかったが、意識を取り戻した男の目に映ったのは、絶望と呼んでも、まったく差し支えのない光景であった。すなわち剥き出しの地面に、自らの手足を繋ぐ太い鎖、それから鉄格子の向こうを、自動小銃を手に横切る、褐色の肌をしたテロリストの姿である。


 ここは地下牢なのだろう、光の射す窓は見当たらず、暗いはずの空間をほのかに明るく照らしているのは、人工的な光源だ。いつのまにか、彼の軍服は脱がされていて、代わりに着せられているのは、妙に鮮やかなオレンジ色をした、筒状の衣服だった。


 それを確かめたところでどうにかなるわけではないが、人間の倣いとでもいうものか、あたりの様子を確認し終わると、男は体を起こそうとした。


 口から小さくうめきが漏れた。


 肋骨にひびでも入っているのだろうか、少しの動きにも痛みが走り、右足は痺れたように感覚がない。


 堪えるように息を止めたそのとき、一匹のハエが音を立て、腕の銃創にピタリと止まった。汚らしい仕草で、手を摺り合わせる。


 彼は、咄嗟とっさに自由の利かぬ体を動かし、それを追い払おうとした。頭には、戦場の死体に湧いた無数のウジが浮かんでいた。見慣れた光景とはいえ、それが己の腕に再現されるのを黙って見ているわけにはいかない。


 しかし、奔放に宙を飛び回る虫と、傷つき、繋がれた男とでは、初めから勝負は決まっていた。男はすぐにハエを追うのをやめると、彼が傷口を舐めるのに任せた。


 そうしながら何とか体を起こし、冷たい壁に背を預けると、男の肌が鉄格子の向こうの光に照らされ、薄闇にぼんやりと浮かんだ。白い――幽霊のような青白い肌だ。ここは彼のような白い肌の男がいるべき場所ではなかった。


「世界中が――戦争をしている――」


 そんなつもりはなかったというのに、男の口から小さく旋律が飛び出した。掠れた声が穴蔵のような牢に不気味に響く。戦場で仲間たちと歌った、これは気に入りの歌だった。


「世界中が――戦争をしている――テロリストが殺しに来る――褐色の肌のテロリストが俺たちを殺しにやって来る――」


 歌い出しは合っているはずだが、そのあとの歌詞は覚えていなかった。だから、彼らはいつもその先をでたらめに歌った。


 俺たちはテロリストを殺しに行く、殺しに行く、ぶっ殺しに行く――そんな替え歌を口ずさみ、戦地の尖った神経を慰めたのだった。



 彼の名はケネス・カドバリー。


 ここアラルスタン共和国から何千キロと離れた彼方――広い大陸とそれよりも広大な海を隔てた向こうの国、アメリカ合衆国より派遣された兵士の一人だった。


「褐色の肌のテロリストが――殺しに来る――」


 長らく替え歌ばかり歌っていたため、元の歌詞など思い出せそうもなかったが、それは自分たちが当てた歌詞とは真逆の意味のものだったような気がした。


 そういえば、この歌を歌っているMという歌手は「白い黒人」だったか――ケネスは動かない口元を歪めた。



 「白い黒人」とは、黒人の母親と白人の父親から生まれた、白い肌の子供――Mという歌手を指してつくられた言葉である。


 誰でも知っているとおり、黒人と白人の夫婦の間に生まれる子供の肌は、大抵の場合、その黒と白を合わせたような色――ミルクコーヒーのような色合いであることが多い。その濃さに違いはあっても、とどのつまり、コーヒーが多いか、ミルクが多いか、それだけのことなのである。


 けれど、Mの肌は白人のような白をしていた。だからこそ、その滅多に見られない色に人々は驚いた。それほど、「白い黒人」と呼ばれたMの肌は珍しいものであったのだ。

 

『だから、彼がデビューした当時は、アメリカ国民全員が彼を白人として疑わなかったのよ』――彼のファンである、年老いたケネスの母親は、当時をそう振り返ったものだ。



 自由の国、アメリカに人種差別などあってはならない――それは様々な人種から成り立つ大国にとって、である。


 それは善良な信念に似て、「所詮、建前だ」と嘲ることはできない。だからこそ、現代においてはある一定の差別をなくすことには成功しているが、それ以上の働きは期待できない。


 しかも、それがMのデビューした云十年前となれば話は別だ。


 いまは建前を誇るアメリカも、その十数年前までは、白人と黒人の水飲み場が、公に分かたれていた国だった。


 厳然とした境を前に、己の母親が黒人であるという事実を、Mがどう受け止めていたのか、そんなことを知る術はないが、推測するに、それが隠せるものならば隠しておきたかったのではないだろうか。


 しかし、彼が有名になるや否や、その母親のことはアメリカ中に知れ渡った。アメリカは驚いた。そして、その驚きと、ほんの少しの差別的意味合いをもって、Mを「白い黒人」と呼んだ。


 けれど、それもつかの間だった。世界中の音楽チャートを総なめにする彼のめざましい活躍に、呼び名はいつしか薄れていったのだ。


 彼のデビュー時を知らない幼いケネスに、「白い黒人」という言葉を教えたのは母親だった。彼女は人種差別というものはどれほど愚かなものであるかということを、息子に伝えようとしたのだ。しかし、不幸ながらケネスの心に残ったのは「白い黒人」という、その奇妙なキーワードだけだった。



 地下牢の薄闇で、ケネスは口ずさむのをやめると、まぶたを閉じた。そうすると、じわり、頭の芯から、今度こそ死ぬかもしれない、そんな思いがわき上がった。


 彼の故郷はアメリカ合衆国の北、コロラド州の小さな田舎町で、そこでは妻と、二人の可愛い子供たちがいまも彼の帰りを待っているはずだった。


 彼の子供たちはまだ幼く、父親がどうして長く家を空けなければならないのか、あまり理解できていなかった。だって、来月はぼくの5歳の誕生日なのに――ふくれっ面をした幼い息子を、ケネスは愛しさのあまり、高く抱き上げた。


 そして、その父親譲りの青い目を覗き込んで、こう言った。お父さんはお前たちを守るための遠くまでお仕事へ行くんだよ、と。



 ケネスが海外で「仕事」をするのは、これが初めてのことではなかった。彼はアフガニスタン、イラクで戦績を残し、勲章を授与されるほどの男であった。今回の作戦――「黄色い砂作戦」が彼の率いる班に任されたのも、ケネスの功績が評価されてのことだ。


 その「黄色い砂作戦」とは、どういうものか。それは簡単に言えば、過激派テロ組織ヤウームの手足をもごうという作戦であった。


 ヤウームはアラルスタン最大のテロ組織であり、国境の平和維持を目的とするアメリカ軍、最大の敵である。アメリカとしては、そのヤウームの指導者、ハッサン・モーシェを捕らえたかったのだが、彼は長く地下に潜伏し、居所を掴むのが容易ではない。


 そこで、アメリカは「黄色い砂作戦」によって、狙いを指導者ではなく、組織のナンバー2へと移した。


 その男の名は、ウマル・バウーブ。


 アメリカで育ち、教育を受けたにも関わらず、いまはゲリラ戦や爆弾テロに関わり、アメリカ兵を何人も殺している、残忍で恩知らずな男である。


 けれど、ハッサンと違い、アメリカはウマルの情報を多く持っていた。というのも、彼が裏の顔とも言うべきテロリストの顔を見せたのは、四十を過ぎてからで、それまで彼は、何と貿易会社の役員という堂々とした立場にあったのだ。


 それまで、彼の裏の顔に気づけなかったのは痛手だった。しかし、それゆえに個人情報は多く、だからこそ彼はハッサンよりも捕らえやすいと判断されたのだ。



 ウマルを捕らえるため、ケネスの班がまず行ったのは、彼の親族が潜むという村の調査であった。血も涙もないテロリストでありながら、彼らは親族の結びつきが強い。そこを辿れば、必ず彼らのアジトまで行き着くというわけだ。


 彼らはリストに上がった村をしらみつぶしに調査した。


 しかし、結果はすべて空振りだった。作戦の進展はなく、ケネスたちの心には焦燥感と、戦場の異常な緊張感だけが募っていった。


 それでなくとも、彼らの神経は疲弊していた。何せ、手段を選ばないテロリストが相手だ。向かってくる者は、たとえ子供であっても油断がならない。彼らもまた自らの小さな体に爆弾を巻かれた、自爆テロの「爆弾」と化している場合があるからである。


 このままではいけない――班の緊張をほぐすために、彼らは時にサッカーに興じた。平常時ならあまり楽しいとは思えないだろうスポーツを、この期に及んで純粋に楽しめる自分たちが不思議だった。


 しかし、そんな気晴らしも十分ではなかったらしい。彼らは、決定的なミスをした。


 ウマルらしきテロリストが潜伏しているという情報を得、ある家の地下壕へ入る際、飛び出た猫に驚き発砲し、侵入に気づいた武装テロリストの反撃に遭ったのだ。


 ケネスの目の前で、小さな血飛沫ちしぶきを上げ、3人の班員が次々に倒れた。吠えるような声を上げ、四方へ銃を連射しながら、彼もまたそこで死ぬ覚悟を決めた。そのはずだった。けれど、彼はここで未だ生きている――。



 一度記憶が蘇ると、体中の痛みまでもが怒りに変わった。


 もし、怒りのエネルギーというものが実体化できたのならば、彼の怒りはアラルスタン全土を滅ぼしただろう。


 我を忘れて、彼は野獣のような叫びを上げた。叫ばずにはいられなかった。その声に反応したのだろうか、牢の鉄格子がガチャリと開いた。ケネスは反射的に叫ぶのをやめ、こぶしを握り、そちらを睨んだ。


 コツコツ、という足音が響き、それはケネスの隣でピタリと止まった――と思いきや、何を考えているのかわからない、不気味な黒い瞳が彼を見下ろした。


 黒い髪に褐色の肌、体を覆う白い布のような服――ケネスとは何もかもが違う、その姿。過去に戦ったアフガニスタン人やイラク人と同じく、彼の意識下に敵としてすり込まれた、その人種だ。


 殺せ殺せ殺せそいつを殺すんだ! あらがいがたい衝動がケネスを襲う。


 殺すか殺されるかの戦場において、撃ち殺す相手を悠長に選ぶ余裕などまったくない。僅かな判断の遅れが意味するものは、そのまま「死」のみ。ケネスの脳は、それをよく理解している。


 だから、それは脳味噌から下される、絶対服従の指令だった。


 やつらを殺せ殺せ殺せ殺せ――しかし脳の命令に、鎖に繋がれた身でそれは叶わず、ケネスは男を射抜かんばかりの目つきで睨みつけることしかできない。


 仲間を撃ち殺したテロリストの仲間。アメリカの戦う敵。それは、どんなに憎んでも憎み足りるはずもなかった。



 しかし、褐色の肌をした男は、向けられた憎しみには素知らぬ顔をしながら、彼を値踏みするようにゆっくりと左右に歩いた。ゆったりとした民族衣装のすそが、ちらちらと視界にうるさく翻る。


 一体どれほどの間、この穴蔵に繋がれていたのだろう――男を睨みながら、ケネスはふと不安に駆られた。


 喉はつばが飲み込めぬほどに乾いているし、耳は砂で塞がれたように聞こえが悪い。傷口はまだ湿っているが、不衛生な環境だ、数日前のものか、数時間前のものかは定かではない。


 一旦、不安の影がよぎると、今度は、己はこの男の人質なのだという考えが唐突に浮かんだ。それは暗い恐怖となり、ケネスの胸を侵していく。


 なぜなら、テロリストに取られた人質の運命、そんなものは、彼もよく知っていた。その命は、アメリカ政府との交渉に使われ、その要求に屈しないという政府の方針によって、多くが無いものとなるのだ。


 あれはいつだったか、駐屯基地へ激励に訪れたバチェラー大統領は兵士たちに訴えたものだ。


『時には、命を犠牲にするような無情な決断を迫られることもある。けれど、それでも合衆国はテロと戦い続けるのだ』


 大統領の思いは本物だった。本物だからこそ、その熱意は皆の心に染み渡り、同時に凜然とした覚悟を呼び覚ました。


 戦場と、政治の世界。場所は違えど、大統領も戦っている。だからこそ、自分たちもこの崇高の使命のために、卑劣なテロリストたちと戦うのだ、と。そのときの熱い覚悟は、未だケネスの胸にあった。



「……この糞テロリストめ。お前らの戦いは無駄に終わる」


 黒い瞳をした、英語も話せない野蛮人にも聞き取れるように、ケネスはゆっくりと言葉を区切って言った。


「どんなことがあっても、最後に勝つのはアメリカだってことを、よく覚えておくんだな」


 すると、男はぴたりと歩みを止めた。


 そして、未だケネスの周りをぶんぶん飛び回るハエと、彼の見分けがつかぬとでもいうように、黒い瞳を細めた。それから、白いものの混じった眉を上げた。


「言いたいことはそれだけか」


 流麗な英語だった。驚き顔のケネスに、男はくちびるを歪めた。


「教育を受ければ、アラルスタン人でも英語を話す」

「教育?」


 その途端、はた、と思い当たることがあった。その目、その肌、その輪郭。血が逆流するような感覚がして、ケネスは思わずつぶやいた。


「まさか……お前がウマル・バウーブか」


 問いに、男は薄く笑った。その笑みは、血眼になって探していた大将首の顔もわからないのかと言いたげだった。


 しかし、怒りに我を忘れたケネスに、皮肉は通用しなかった。彼は叫んだ。


「お前のせいで、どれだけのアメリカ人が死んだと思ってやがる! お前が、お前が俺の仲間を皆殺しにしたんだ! この人殺しめ! 少しは恥を知れ!」

「……自分の立場がわかっているのか?」


 と、ウマルの顔から笑みが引いた。そうして現れた冷徹な瞳に、ケネスは愕然とした。彼のその黒い瞳は、殺したアメリカ兵の数など意にも介していないようだった。


 何十人、何百人という人間を殺したというのに、ましてや殺された彼らには、家族も親もあって、皆が帰りを待ち望んでいたというのに、そんな事実にもまったく悪びれる様子がなかったのだ。


「ケダモノめ!」


 ウマル目がけ、ケネスは唾を吐き捨てた。と、次の瞬間、強烈に脳みそが揺れた。


 口中に鉄の味が広がる。左のこめかみから生温かいものがこぼれる。殴られたのだ。畜生――血を吐き捨て、顔を上げると、ウマルは何事も無かったかのように彼を見つめていた。


 この目――彼は殺人者の黒い瞳を睨んだ。人を殴っておきながら、感情の欠片も表さぬ目。良心の呵責かしゃくにさえ揺れぬ黒。


 彼らにとって、ケネスは虫けら以下の存在だった。いや、彼だけでなく、アメリカ人全員の命がそうなのだろう。ハエを叩いても心が痛まぬように、彼らはアメリカ人を殺しても何も思うことはないのだ。


 しかし、彼はアメリカで育ったはずだった。中にはアメリカ人の友人も、恋人もいたかもしれず、そして、何より彼はアメリカの教育を受け、アメリカ人と同じに育ったはずだった。


 それなのに、だというのに、彼の行き着いた先はテロだった。それはなぜなのか――図らずも、ケネスはその答えを知り、奥歯を噛み締めた。


 なぜなら、この褐色の肌をした人間は生まれついて冷血なのだった。人間の心など、少しもわからないケダモノなのだった。ケダモノが人間を殺して悔いることがあるだろうか。否、だからこそ、彼らはテロなどという、卑劣な手段で人間を殺すことができるのだった。


「お前らは獣だ。少しでも人の心を持ち合わせていたら、テロなどできるはずがない!」


 噛みつくようにケネスは言った。けれど、それでもウマルは、あの冷たい眼差しで彼を見下ろした。そして、まるで見当違いの台詞を吐いた。


「いいか、アメリカの兵士よ。元々、これは我々とラザンの問題だったはずだ。勝手に首を突っ込んできた君たちには関係のないことだ。そうではないか?」

「関係がない、だと?」


 ケダモノはケダモノだった。その頭蓋には脳みそがなく、胸に愛の宿ることもないゆえに、そんなことが言えるのだ。ケネスは顔に無理やり笑みを浮かべた。


「何を言う。大いに関係あるさ。いいか、俺たちアメリカは、世界のために戦ってるんだ。お前らは罪もないラザンの人々を殺すだろう。邪魔な国には破壊活動をするだろう。アメリカが、そんなテロリストを放っておけると思うか? お前らを殺すことは、世界を、ひいては俺の家族を守ることに繋がるんだからな」


 言いながら最愛の妻、そして、二人の可愛い子供たちの顔を思い浮かべる。守るべき世界、守られるべき愛がそこにある。それは、命をかけてでも、テロリストの汚れた手に触れさせてはならないものだ。


「我々がなぜ活動をしなければならないのか、君たちにはまったく伝わっていないようだな」


 ウマルは独り言のようにつぶやいた。それから、なぜか憐れむような目でケネスを見下ろした。


「世界を守るため、か。ひどく耳に心地の良い言い分だが、君にとっての『世界』とは、君たちだけのものかね」

「どういう意味だ」


 ケネスが聞き返すと、ウマルは肩をすくめた。それは、まるで純粋なアメリカ人のような仕草だった。そして、言った。


「……私は一度、君たちと同じ国から来た人間と話し合ったことがある。少なくとも彼の言う『世界』には、我々も含まれていたものだ」

「彼?」


 ケネスは顔をしかめる、ウマルは、その問いに、問いで返した。


「Mという男を知っているか?」

「は?」


 知っているも何も、ウマルが現れる前まで、彼はMのことを考えていたのだ。


「Mがどうした――」

「彼は射殺された。ブラッドラインでな」


 厳かにも聞こえるウマルの言葉に、ケネスは驚き、顔を上げた。同時に、びりっと強い痛みが背中を駆け上がった。


「……お前たちが殺したのか?」

「違う」


 素早くウマルが答え、小さく付け加えた。


「我々が関与していないことを証明する人物も現れた」

「関与? 証明? 一体、どういうことだ?」


 Mがブラッドラインで死んだ。それも射殺されて。


 テロリストの言葉を信じるわけではないが、もし、ウマルの言う通り、それがヤウームの仕業でないとしたら、犯人は誰だ――いや、? 


 殺したのはアメリカ軍か、それともラザン軍か。しかし、それが誰でも、ブラッドラインという国境線での大人物の死は事件であり、その死は、新たな紛争の火種となるだろう――。


 ケネスは、「白い黒人」と蔑んだことも忘れ、あらゆる可能性に思いを巡らせた。何かが、着実に起こり始めたような予感がしていた。この暗い地下牢の外の世界で、何か、とても奇妙で謎めいたことが。


 黙り込んだケネスに、ウマルは背を向けた。そして何かを躊躇ためらうように、口を小さく開いたあと、神の啓示を告げるように、静かに言った。


「我々は彼を愛していた。だから、その冥福を祈り、同じ国の人間であるお前をしばらくは生かしておいてやろう。しかし――」


 ウマルが振り向く。何かを飲み下すように喉が動く。不可解な感情の宿った黒い瞳が、ケネスを見据える。


「一つ教えておこう。あの村――テ・ダク村で、君たちが使った『ボール』は、私の従弟いとこめいだった」


 ウマルの獣に似た目がぬるりと潤んだ。ケネスは反射的に彼から目を逸らした。


「お前には、必ず彼女以上の苦しみを味わってもらう」


 低い声と共に、鉄格子がガチャリと音を立てた。ややあって足音が遠ざかっていく。ケネスの周りを、飽くことなく、ハエが飛び回っている。



 ――テ・ダク村で使った『ボール』。


 ウマルが言ったそれは、戦場の緊張をほぐすため、ケネスたちが現地調達したサッカーボールのことに違いなかった。


 「ボール」はその時々で、大きさが違っていて、なかなかいい重さのものがなかったが、テ・ダク村で入手した「ボール」は、本物のサッカーボールと同じくらいの大きさで、軽すぎず重すぎず、使い勝手がとてもよかった。


 そして、それはあのテロリストが言ったとおり、彼の従弟の姪に違いなく――つまり、流れ弾に当たって死んだ、一人の少女の頭部であった。

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