第2章 アメリカ合衆国


 秋晴れの空に、星条旗がはためいている。秩序が保たれるべき、この場所において、青々とした芝生は一分の隙も無く刈り揃えられ、赤い花の咲く花壇は雑草の一本もなく手入れが行き届いている。


 二百余年もの間、政治の中枢として機能し続けてきたホワイトハウス、ここはアメリカ合衆国の威厳と誇りの象徴であり、その揺るぎのない姿は、国の姿勢そのものでもある。


 その名の通り白い建物の東――イーストウィングのオフィスから、一人の女性が現れた。大統領補佐官である彼女は、美しい顔を物憂げに曇らせながら、それでも動作はきびきびと渡り廊下を抜け、大統領執務室の置かれるウェストウィングへ向かう。


 彼女が胸に抱くのは、約30分後――正確に言えば、あと31分と12秒後に行われる会見で、大統領が読み上げるスピーチ原稿だった。専属のスピーチライターによって仕上げられたばかりのそれを、あときっかり1分以内に執務室へ届けるのが目下の彼女の仕事である。



 その彼女の手によって、静かに扉が開かれたそのとき、アメリカ合衆国大統領、トーマス・バチェラーは電話中であった。そこへ置いてくれ――彼は目顔めがおでそう示すと、彼女は指示通りに薄いファイルを机上に置く。そして、すぐさまきびすを返した。


 執務室を出て行く美人補佐官の後ろ姿を、右肩に受話器を挟んだまま、バチェラー大統領はちらと見やった。


 胸は小振りだが、あのタイトスカートの下でしっかりと張り詰めた尻は、さぞかし触り心地が良いだろう。彼女を見るたび、考えることだ。あの尻にはバチカンの教皇さえあらがえないに違いない。


 だらしなく口元を開いたとき、電話の向こうから訛りのきつい英語が繰り返された。


「聞いているのか? 例の司法解剖は済んだのだろう。結果はどうなった」

「……発表の通りだ。遺体は、間違いなくだった」


 気が逸れていたことを知られまいと、バチェラーは咳払いをし、重々しく答えた。


「遺族が確認をし、歯科医療の記録も合致した」

「それなら銃弾は? 彼を殺した銃弾は、どこのものだと――」


 通話の相手――ラザン独立国のアハマド首相が矢継ぎ早に問いかける。舌打ちを我慢して、バチェラーはそれを一蹴した。


「首相。銃弾から、使用された銃の種類はわかっても、犯人が誰かというところまではわからない――」

「いや、しかし」


 それでもアハマドは食い下がった。


「撃った銃が分かれば、あとはその銃を探し出して――」

「警察機能も働いていない紛争地帯で、それは無理があるのでは?」


 ラザンの首相が言いたいことを理解しながらも、バチェラーはあえて突き放した。


「彼を殺害したのはアラルスタンのテロリストであろう、ということで、我々の見解は一致したはずだ。それとも……何ですかな、ラザン軍のほうから彼を殺してしまったという報告でもあったのでは……」


「とんでもない!」


 慌てふためいたアハマドが、鼓膜を破りそうな大音声を上げた。


「あなたもラザンでの彼の人気を知っているはずだ。M氏はスターだ。彼の訪問時には、空港に全国民が押しかけるほどの騒ぎだったし、その歌はテレビやラジオで一年中流れている。テロで両親を失った子供たちのために立派な施設を寄付してくれたのも彼で、そのほかにも井戸の掘削くっさくや慈善コンサートや……。いいですか、このラザンに彼を愛する人はあっても、憎む人間など一人もいない。あの血も涙もないアラルスタンのテロリスト共と違って、ラザンの民は礼節をわきまえた素晴らしい国民性を持っており――」


「しかし、誰もスターが一人で国境線をうろついているとは思わないだろうよ」


 弁舌を振るう首相を無視して、バチェラーはひとりごとのようにつぶやいた。つぶやきながら、ため息を漏らした。アハマドの言葉にではない。この不可解で傍迷惑はためいわくな男の死についてだ。



 奇抜な衣装に圧倒的な歌声と楽曲、Mはデビューするが否や、瞬く間にスターダムを駆け上がった。その素性には謎が多く、年齢さえ非公表だったが、彼のパフォーマンスの前に、そんな些細なことを気に留める人間はいなかった。


 世界がMの虜になった。彼はアメリカのみならず世界のヒットチャートの常連となったのだ。


 名声は、彼の名で行われるチャリティー活動で、さらに大きくなった。彼自身も貧しい国を訪問してはライブを開いたり、曲を無償でラジオ局に提供しさえするなど、普通では考えられないような寛容な計らいをした。


 その活動のおかげだろう、ある探検家が、アメリカ人として初めて到達したチベットの奥地で、彼の歌を口ずさむ子供に出会ったという話は有名だ。Mは、文字通り、世界中の人々に知られたスーパースターであったのだ。


 そんなスーパースターの死――Mの死亡という一報がホワイトハウスに飛び込んできたのは、つい24時間前のことであった。


 それもただの死ではない。彼はラザン独立国とアラルスタン共和国の国境地帯――通称ブラッドラインにて、射殺体で発見されたのだ。



「――スターが国境線をうろついているとは思わないだろう、だと? それは我が国の……つまり、ラザンの兵士が、彼と気づかずに射殺したとでも言いたいのか?」


 運悪くつぶやきは電話の向こうに届いたらしい。アハマドが怒りを込めた口調で言った。思わず出そうになったため息を飲み込み、バチェラーは首を振った。


「可能性はある、と言っただけだ。さきほども言った通り、我々の見解は――」

「そうだ。犯人は分かりきっている。ヤウームだ。Mを殺したのは奴らに違いない!」


 唾が飛んできそうな勢いで首相が叫ぶ。彼を殺したのはヤウームだ――こちらは初めからそう言っているというのに。バチェラーは頭を抱えて目を閉じた。



 ヤウームとは、アラルスタンのテロ組織の名称だった。


 彼らの言葉で「牙」を意味するその組織は、ウサマ・ビン・ラディン率いたアルカイダを彷彿ほうふつとさせるテロリストたちの集まりだ。であると同時に、ラザンとアラルスタンの戦いに首を突っ込んだ、アメリカの目の上のたんこぶでもあった。


 事の始まりは、10年ほど前、ラザン独立国で大規模な油田が発見されたことだった。


 近代社会において欠かせぬ資源である石油。それをいかに他国よりも多く手に入れるかが、この世界で力を持つ条件の一つとなる。世界一を自負するアメリカにとって、ラザンで見つかった油田は、何が何でも手に入れなければならないものだった。


 アメリカはラザンに開発を打診した。油田の開発のみならず、それを輸送するために港へ引く、パイプラインの建設計画まで打ち出したのだ。


 果たして、ラザンは快く計画を飲んだ。しかし、そのときに一つきり、条件をつけた。それが、有史以来ラザンが争い続ける、隣国アラルスタンの政情安定である。


 その条件を、アメリカも二つ返事で承諾した。というのも、それはラザンにとってだけでなく、アメリカにとっても必要な手続きだったからだ。なぜなら、パイプラインは両国の争う国境線――通称ブラッドライン上を走る計画だったからである。



 ブラッドライン――そこは、かつて両国の争いで流された血が国境線になったという、いわれのある場所であった。双方の戦死者を並べて国境としたことで、その血が大地に黒く、染みついたというのである。


 断りを入れるまでもなく、迷信である。しかし、争う両者が信じているのだ、頭から否定するわけにもいかなかった。


 だからこそ、バチェラーはラザンのアメリカ軍駐屯基地を訪れた際、そのブラッドラインの前で「この地を再び血で汚すことのないように」などと、もっともらしいスピーチをした。けれど、そうしながらも、内心の馬鹿馬鹿しいという思いは消えなかった。


 目の前の砂地を横切る、黒い線。それは人間の血の染みこんだ跡なのだと言われて、誰が素直に信じるだろう。


 確かに、その黒は見ようによっては禍々まがまがしく、乾いた血液に見えなくもない。しかし、それが本当の血液ならばすぐに風化して、何千年も残るはずがないだろう。何らかの地層が剥き出しになった、くらいの説明が妥当と言える。


 迷信の真偽はさておき、アラルスタン平定のため、アメリカはラザン軍と共に戦った。最新の無人機を使用した戦闘はすぐに決着がつくと思われたが、しかし、アラルスタン軍の抵抗は予想よりも激しく、戦闘は泥沼の様相を呈した。


 そして、アメリカが薄々恐れていたことが起きた。彼らの攻撃手段が、正々堂々の軍隊によるものではなく、卑怯極まりないテロに傾き始めたのだ。一度、テロが行われると、その後は早かった。連日、ラザンの町では爆弾テロが実行された。兵士ではなく、罪のない民衆が犠牲となった。



 事が予想外の方向へ進んでいくと、言われずともアメリカ軍部の頭には浮かんでくるものがあった。9・11の惨状だ。


 行方不明者を含めれば、2973人ものアメリカ人が犠牲となったあの忌まわしき日。アメリカ全土が悲しみに震え、あってはならない犠牲を嘆き、為されなかった正義を声高に訴えたあの一日。


 彼らの尊い命によって刻まれた教訓を、アメリカは決して忘れてはいなかった。だからこそ、バチェラー以下、軍部の意見は完全な一致を見た。未来へ禍根かこんを残すことのない、特別な軍事作戦を用いた制裁をアラルスタンに課すことを――。



「しかし……」


 先ほどまで怒鳴り散らしていたアハマドの声が、ふと勢いを失った。彼の言いたいことを察知して、バチェラーも口を噤んだ。


 懸念はヤウームのことだった。彼らがMを殺した――アメリカとラザンの見解は一致しても、そこには微量のためらいが残る。それは、ラザンより到着したMの遺体の様子と、それからヤウームが彼の殺害声明を出さず、沈黙を続けていることだった。


 Mはおなじみの白いステージ衣装に身を包み、一発の銃弾で心臓を貫かれていた。他に一切損傷はなく、拘束されていた様子も見受けられない。もし殺害がヤウームの手によるものなら、それはおかしな事実だった。


 なぜなら、彼らがMを人質に取ることもせずに、そのまま殺すことは考えにくい。世界中で有名な彼は、アメリカ政府と交渉をする、最良の材料だと思われるからだ。


 実際、彼らはさまざまな国のジャーナリストたちを拘束し、その命と引き替えに身代金を要求している。もし、Mが拘束されたとなれば、テロリストとの交渉をしないことを信条とするアメリカ政府も、さすがにその死を黙って見ているわけにはいかなかっただろう。


 ではなぜテロリストは交渉をしなかったのかと考える。すると、彼らは交渉したくてものではないかという考えに行き着く。つまり、何らかのアクシデントで、Mが死んでしまったという場合だ。そう考えれば、説明はつくだろうか。


 否、それでも疑問は残った。交渉前にやむなく彼を殺害したとして、ヤウームがそう声明を出さないとは考えにくいのだ。彼らにとって、殺害はその残忍さを示す勲章であり、いわんやそれがMならばその勲章の価値は計り知れない。必ず声明を出すはずだ。


 それから、もう一つ。バチェラーが胸に留めている決定的な事実があった。


 それは、彼の心臓を撃ち抜いた銃弾は、テロリストが頻用ひんようする自動小銃から発射されたものではない、ということだった。そればかりではない。その銃弾は、戦場では使われることのない、9ミリ弾であったのだ。


 けれど、バチェラーはこの事実を公表する気はなかった。


 彼を殺害したのがどんな銃弾であれ、そこは紛争地帯だったのだ。少々の懸念は残れど、彼の殺害はヤウーム以外、あり得ない。


 それに、バチェラーにはそう断定しなければならない責任があった。なぜなら、その断定された事実こそが、アラルスタンへの特別な軍事作戦を後押ししてくれるからだ。



 バチェラーは、明るい口調を装った。


「しかし、アラルスタンでも彼の歌は人気があったらしいからな。殺してしまったはいいが、ヤウームも世界中にいる彼のファンを恐れて、声明を出すに出せないジレンマに陥っているのかもしれん」


 それは口から出任せだったが、彼は自分の言葉に満足した。その台詞はある意味真実だった。ヤウームがそう考えたとしても不思議ではないくらい、Mの人気は普遍的だったのだ。


 これは、たかがミュージシャン一人の死だった。されど、その死は慎重に扱う必要のあるニュースだった。


「そうだ、そうに違いない。とにかく我が国は一切この件に関与していないということを、はっきりさせておかなければ――」


 何かのスイッチが入ったかのように、アハマドが同じ話を繰り返し始める。バチェラーは生返事をしながら、ふと、補佐官が置いていったファイルに手を伸ばした。


 『M氏への弔辞』――表紙にはそうシンプルに記されている。ファイルの一枚目をめくると、美しい文章が目に滑り込んできた。


 この感情に訴えかけるような言葉を選ぶのは、アントンだろう――バチェラーは何人かいる専属スピーチライターのうちの一人を思い浮かべた。


『アジアの有名なことわざにこんなものがあります。虎は死して皮を残し、人は死して名を残す。けれど、彼の残したものは名前だけではありません。彼の歌は、旋律は、世界中の人々の心に響き渡り、永遠に止むことがないはずです』


 文句なしの出来映えだ。バチェラーは生返事も忘れてほくそ笑んだ。バチェラーは、何よりもいま、このときの合衆国大統領であることが誇らしかった。


 Mの死、そしてその死を掲げて行われるかもしれないアラルスタンへの軍事作戦は、バチェラーの名を歴史に刻み込んでくれるはずだったからだ。


 頬を緩めたまま、彼は音声をスピーカーに切り替え、受話器を置いて立ち上がった。そしていかにも聞いている風に相槌を打ちながら、鏡に向かって薄い頭髪をなでつけ、ポケットチーフの形を整える。それから薄いグリーンのネクタイに手を触れ――渋面を作って、首をかしげた。



『大統領が、そこまでされることはありませんよ』


 ネクタイは黒にした方がいいだろうか、という相談に、恰幅のいいスタイリストは首を振った。


 バチェラー自身もファンであることを公言したことのある、スーパースターの悲運の死なのだ。ネクタイの色を変えるくらいどうということもなかろうと思ったが、彼女の考えは別のところにあったようだった。


『それよりも、大統領。あなたにはその瞳と同じ色の薄いグリーンがよくお似合いになります。覚えておられますか。あの食事会で、M氏もそうおっしゃっておいででした』


 彼女がそっと涙を拭うのを見て、バチェラーは頷いた。彼女もまた、彼のファンの一人であったのだろう。


 バチェラーもファンであるとは言ったものの、それは世界中にファンを持つMの人気にあやかろうという思いがあったことは否定できない、不純な「ファン」であった。


 いや、そうして有名人の名を出す政治家が、彼ないし彼女の純粋なファンであるはずがない。皆、多かれ少なかれ下心を持ち合わせているものだ。バチェラーだけが恥じることではないだろう。


 それに、当のMも、大統領の下心などお見通しだったに違いない。世界を虜にした彼も、酸いも甘いも噛み分けたいわゆる「業界人」であったはずだ。バチェラーの不純さに怒るような幼稚さは持ち合わせていなかっただろう。


 事実、数年前にMがバチェラーの招待を快く受けたのも、繋がりを大切にする業界人らしい態度からであったとバチェラーは思っている。


 しかし、結果から言えば、それは過大な評価だったのかも知れなかった。



 そのMを招待しての食事会は、ホワイトハウスで開かれた。


 それはプライベート色の強い集まりであり、出席したのは気心の知れた仲間だけ――とはいっても、名前を言えばアメリカ中が知っているような有名人ばかりだったが――ともかく、そこで初めて、Mとバチェラーと画面越しではなく、顔を合わせたのだった。


 Mはよくわからぬ男だった――バチェラーはいまになってそう思い返す。


 食事会は、初めこそ美味い料理と少量の酒で和やかに進んだ。テレビで見るミステリアスな雰囲気をそのままに、Mは優雅に食べ、話し、そして微笑んだ。


 口数は少なかったが、それは決して空気を乱すものではなかった。話題は妻への愚痴から政策にまで及び、バチェラーも時を忘れ、完全にプライベートな時間を楽しんだものだ。


 しかし、その帰り際だった。挨拶を交す出席者たちの中、いつの間にか、バチェラーの横に立ったMが、独り言のようにつぶやいたのだ。


『……世界は平和になるでしょうか』


 そのつぶやきに、バチェラーはくつろぎの表情を引っ込め、反射的に記者用の笑みを浮かべた。意識せずとも、胸にははっきりと失望が生まれた。


 それは、いまどき子供でも口にしないような、あまりに愚鈍ぐどんな問いだった。世界は平和になるか、だって? 一体、それは誰にとって?


 事象に表と裏があるように、この世界も当たり前に光と影を孕んでいる。光の当たる方――それが平和で、当たらぬ方――それが争いというわけだ。つまり、すべての人間が光を――平和を享受することは難しい。いや、それよりも不可能に近い。


 世界に絶対悪が存在し、それを倒せば平和が訪れる世界など、スーパーマンの世界くらいなものだ。言わずもがな、現実の世界には決して起こりえないことだ。


 バチェラーも、Mのつくる歌に平和を歌ったものが多いことは知っていた。


 けれど、たかが歌手が――彼は確かにそう思った――いくら有名だろうが、歌手ごときちっぽけな存在が何曲かの歌を歌うくらいで訪れる平和なんてものがあるのなら、お手並み拝見と願いたいものだ。


 尊敬は一瞬で軽蔑に変わった。人の上に立つ者として、ある種の共感を持っていた存在が、愚鈍な大衆と同じに見えた。


 だから、あのときバチェラーは、記者用の笑みを浮かべたまま、揉み手をせんばかりに、Mにこう言った。


『ええ、もちろんなるでしょうとも。あなたの歌のように素晴らしい世界を、我々の手で作り上げようじゃありませんか!』


 アメリカ大統領のその答えを、Mはどう受け取ったのだろうか、バチェラーにその心は知るよしもない。ただ、彼はトレードマークのサングラス越しの目を寂しそうに瞬くと、踵を返し、外の光の中へゆっくりと消えていった。


 その瞬間、バチェラーは、なぜか手の中の砂がこぼれ落ちていくような、取り返しのつかないことをしでかしてしまったような感覚に陥った。その幼稚な考えを軽蔑したがいいが、歩き出した彼の後ろ姿が、あまりにも孤独に見えて、何でも構わない、言葉をかけて呼び止めたくなった。


 しかし、バチェラーはそうしなかった。


 己にも理解できないような、後味の悪い思いにも駆られたが、しかし、大統領には、いつまでもそんなことに気を取られている暇はなかった。彼は毎日の業務に忙殺され、その間にもMはヒットチャートに名を連ねて――死んだ。


 世界に平和を――生きていたころの彼はそう歌ったはずだというのに、死んだ彼は争いの種として、ブラッドラインに横たわった。誰が――がスーパースターを殺したのか、その答えを胸に秘めて。



「……聞いているのか? ヤウームの無差別テロは日増しに激しくなっている。Mも被害者の一人なのだろう。早く手を打ってもらわねば、油田の掘削もままならない――」

「いま、出入国記録からMの足取りを確かめているところだ。それに、ヤウームの件は近々手を打つ」


 バチェラーが時計を見上げると同時に、あの美人補佐官がドアを細く開けた。会見の時間が迫っている――目顔でそう言っている。


 大統領は手を上げて応えると、ヤウーム殲滅の手段を問いかけるアハマドを強引になだめると、通話を切った。深いため息をつき、鏡を振り返ると、そこに映る虚像と向き合う。



 あと一ヶ月。ひと月後に、例の特別な軍事作戦は決行される。


 第二次世界大戦以来、使われることのなかった兵器――核兵器が、地上に落とされる日が再びやってきたのだ。


 10年も続いた、ラザンへの資金援助、武器弾薬の供与も、これで終わりだ。塵芥ちりあくたまで焼き尽くす核の力で、アメリカはこの戦争を終わらせる。テロリストどもが合衆国本土に攻撃を仕掛ける前に、バチェラーは歴史にその名を刻むのだ。


 その歴史に刻まれる名前。その名は、アメリカを救ったヒーローとして刻まれるのか、それとも核使用という愚かな決断をしたヒールとして刻まれるのか、それはわからない。いずれにせよ、それは後世が決めるべき名だ。


 軍部一同、この作戦に反対する人間はいないが、反対する者がいたところで、この作戦は実行されねばならないだろう。


 伝える必要もないアハマドには黙っていたが、アメリカ兵士を人質に取ったというヤウームの声明が、ついさきほど確認されたばかりだった。


 彼らにとられた人質も、これで何人目になるだろうか。国のためにも、戦う彼らのためにも、アメリカ人の犠牲をこれ以上出してはいけない。茶番は終わりだ。強引にでも、幕は引かれねばならないのだ。


「大統領、お時間です」


 補佐官が、再びドアを開けた。


「ああ、行く」


 バチェラーは答え、それからもう一度鏡を振り返り、そこに映る己の姿を角度を変えてチェックした。そして――ネクタイに手を掛け、再度首を傾げる。


 やはり黒にしたほうがよかったのではないだろうか――そんなことを考えながら、アメリカ合衆国大統領は、堂々と胸を張って歩き出した。Mに捧げる弔辞を、まるで流行歌のように、軽快に口ずさみながら。

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