ブラッドライン

黒澤伊織

ブラッドライン

第1章 アラルスタン共和国


 舞い上がった砂埃に、空は黄色く染まっていた。


 連日、照りつける日差しに井戸は濁り、地面は乾いてひび割れている。動物の死骸を撫でる風はその水分を奪い取り、彼らをたちまち白骨へと変える。死者が大地に還っていく間、生者はその喉を焼くような熱風に喘ぎ続ける。


 ここは中央アジアに位置する、アラルスタン共和国。砂漠気候に属する、この地方の乾期は半年以上も続き、その間、雨は一滴も大地に落ちることはない。


 人が生きるには厳しい土地だった。だというのに、さらにそこに生きる者を苦しめるかのように、この国は戦争の最中にあった。


 民は貧しかった。それでも皆、つましく暮らしていた。そこに人間が存在する限り、絶えることなく、人々の営みは続いているのだ。


 それを証明するように、黄色い風の中からは、子供たちの歓声が聞こえていた。同じ色をした大地には、定規を当てたように一直線に、だだっ広い道が伸びている。彼らはそこでボール遊びに興じていた。



 しかし、その母親たちはといえば、揃いも揃って顔半分を布で覆い隠し、日干しレンガを積み上げた家の中で疲れ果てたように口を閉じていた。目が潰れそうなほどの眩しい光が入り込まない屋内は涼しく、暗い安寧あんねいに満ちている。


 このテ・ダク村の住人は、女子供ばかりの二十人ほどで、中には戦闘の激しい首都から落ち延びてきた者もいた。着の身着のままで逃れてきた彼女たちの持ち物は、ごく僅かだ。けれど、その僅かな持ち物の中に、一台の古びたラジオがあった。


 そのラジオは、土を踏み固めただけの床の上に置かれていた。いまは音は聞こえないが、壊れているわけではない、ただスイッチが押されていないだけのことだ。


 しかし、たとえスイッチが押されていたとしても、そこから流れるのは、アラルスタン政府が伝える政情や、民衆の信じる偉大なる神とその教えで、流行の音楽やラジオ・パーソナリティの楽しいおしゃべりではない。ときたま音楽が流れることはあったが、それもほとんどないといってよかった。


 だから、ラジオが沈黙を強いられているのは、その代わり映えしない放送のせいでもある。しかし、それ以外にも理由があった。



 暗い屋内でぼんやりとしているように見えても、母親たちははしゃぐ子供たちの声の向こうに、注意深く耳を澄ませていた。空を戦闘機が飛んで来やしないか、それとも、地を揺るがしながら大きな軍用車が近づいて来はしないか――。


 いま、彼女たちの耳には聞こえないというだけで、戦争状態にあるこの国のどこかでは、必ず銃声が響き、誰かの命を奪っているはずだった。


 そして、彼女たちはそれを身を以て知っていた。なぜなら、ほんの数日前、その「どこか」はこの村で、「誰か」はこの村の幼い少女だったからである。


 殺された少女は、この村に住む、ある母親と、戦争で生死のわからなくなった父親の娘であり、離れた町に住む祖父母の孫であり、遊び回る子供たちの友人であり、そして何より、アリーという少年の妹だった。



 その少年、アリーは、彼は道でボールを追いかける子供たちに加わることなく、壁に開いた小さな穴に人指し指を突っ込んでいた。


 レンガに無数に開いた、幼い彼の指がやっと入るくらいの、この小さな穴。それは一つ一つが銃弾の痕で、彼の妹を殺したアメリカ兵が撃ち込んだものだった。


 この厳しい日差しの下では白すぎる肌と、青すぎる目をした彼らは、アラルスタン人である黒い目と褐色の肌をした少女を殺した。


 それはなぜか。もちろん、国がアメリカと戦争としているからだ。



 しかし、このアリーの生まれた国、アラルスタンは、初めからアメリカと戦争をしていたわけではなかった。この20年という長きにわたり、アラルスタンが争っているのは、隣のラザンという国だった。


 その両国の争いにアメリカが首を突っ込んだのが10年前だ。そして、どういうわけか、アメリカとラザンは手を結び、戦闘はますます激しくなった。


 アメリカのせいでこの戦争はいつまでも終わらない、と母親たちが言うのをアリーは聞いたことがあったが、それはそもそも彼の生まれる前のことであったし、幼い彼にはわからないことだらけであった。


 それに、20年戦争を続けていると言っても、それは今回の争いが始まってから20年が経ったというだけで、そのずっと以前から両国は争いを続けていた。


 ラザンは、私たちが神より授かった土地を騙し取ったのよ――アリーの母は、毎夜、寝しなに物語を語って聞かせた。




 ――昔々のことだ。この黄色い砂地に緑が生い茂り、天より水は恵まれ、アラルスタンの人々が豊かに、平和に暮らしていたころ。北より、5人の人間がやってきた。彼らは自らをラザンと名乗った。ラザンは言った。


『この森は素晴らしい。私たちにも住まわせてもらえませんか?』


 その願いを、アラルスタン人は快く受け入れた。


『森は広く、食べ物は豊富だ。どうぞ、あなた方もいらっしゃい』


 しかし、それは悪いラザンの企みだった。彼らが住む北は土地が貧しく、家畜も貧する有様だった。そのため、彼らはアラルスタン人の住むこの森を奪い、自分のものにしてしまおうと画策していたのだ。


 先に森へ来た5人はスパイだった。彼らは大軍を引き入れる役目をラザンの長より預かっていたのだ。そうとは知らない人々は、彼らを手厚くもてなした。


 しかしある夜、ラザンのおさ率いる大軍が押し寄せた。冷酷無比な彼らは、そこにいたアラルスタン人は皆殺しにし、それだけでは飽き足らず、アラルスタン人の死体を大地に並べ、それを国の境とした。


『ここから先は、ラザンの土地である』


 アラルスタンの人々は怒った。そして殺された仲間のため、立ち上がった。果たして、再び戦の火蓋は切って落とさた。その結果、勝利したのはアラルスタンの人々だった。


 彼らは国境にさらされた仲間に報いるため、今度は切り落としたラザン人の首を並べ、それを国の境とした。


 すると、それを見たラザン人は激高し、その日のうちに残った兵士をかき集め、森に火を放った。


 そして翌日、燃えさかる森から生き延びたアラルスタンの人々は――


 争いは続き、どちらかの国がその境を示す度に血は流れ、大地に染み込んでいった。激しい争いに豊かな森は消え、いつしかそのどす黒い染みは、消えることのない線となって両国を隔てるようになった。


 それがアリーたちの言葉でサーカカナジュル、アメリカ語でブラッドライン――そのまま現在の国境である。それは両者が決して理解し合うことのないという、未来永劫の証であった。


 ブラッドラインの黒い染みは、アラルスタンにラザンの蛮行を、ラザンにアラルスタンのそれを思い出させ、双方の憎しみを蘇らせた。


 蘇らせるばかりではない、それを強め、未来へと深く深く刻み込んだのだ。




 国境近くの町に生まれたアリーの母親は、できることなら――自分も母にそうされたように――その恐ろしい染みを息子にも見せたいと思っていた。


 そうすれば、ラザンがどんなに残酷な行為をしたのか、頭ではなく、その魂で理解できるだろうと、そう思ったからだ。そして、ラザンがアラルスタンにどんなにひどいことをしたのか、子々孫々、忘れることなく語り継いでいって欲しいと願ったからだ。


 けれど、アリーが壁の銃弾をほじくり返しているのは、何も妹を殺されたことを忘れずにいるためではなかった。


 彼が生まれるずっと前から、この世界は争いに満ちていた。


 だからアリーにとって、この世界に絶えず銃弾や大砲や爆撃の音が満ちていることも、それが誰かの命を奪うということも、別段不思議なことではなかったし、むしろどうしたら忘れられるのか、それさえよくわからなかった。


 しかし、世界に争いが満ちているという事実と、それが妹の命を奪ったということは別だ。それがどんなに日常的なことでも、死は悲しく、理不尽なものだった。


 そうはいっても、やはりそれはアリーの世界ではよくある出来事なのだった。


 雨粒を落とさない空に、祈りはしても為す術がないように、何の理由もなく妹を撃ったアメリカ兵に、アリーは――彼だけではなく村中の人々が――為す術はなかった。


 少女はただ殺された。アメリカ兵はその死を悲しむでもなく、もてあそんだ。


 彼らが行ってしまった後、母親は泣きながら彼女を砂地に埋めた。そこには小さな土まんじゅうができた。ラザン人と同様に、アメリカ兵も残酷なのだということを、アリーはその死から学んだ。


 妹が死んだその日から、彼は大切にしていたサッカーボールを手放し、子供たちの輪に加わらなくなった。


 かといって、ほかにすることもなく、手慰てなぐさみにレンガに開いた穴をほじくり返すことに集中していたのだった。



 アリーは無心に指を動かしていたが、弾はレンガの奥深くまでめり込んでいて、なかなか指先に当たらなかった。乾いた土くれが爪に食い込み、ぱらぱらと地面に落ちていく。


 それでも諦めることなく穴をほじくっていると、真っ直ぐな道の遠方に砂が舞い上がるのが見えた。


「車だ!」


 ハンターを見つけた動物のように、子供たちが一斉に首を伸ばす。その声に、母親たちが慌てて「家へ入りなさい、はやく」と繰り返す。


 驚いたアリーも屋内へ駆け込もうとして――その瞬間、道ばたのボールに目が吸い寄せられた。錯覚に違いないのだが、それは一瞬、死んでしまった妹であるような気がした。


 取りに行かなければ――アリーは弾かれたように道を渡り、砂で汚れたボールを抱きしめた。本能のままに地面に伏せる。


 アリーの動作とほぼ同時に、砂埃を舞い上げ、彼の真横をトラックが通過していった。荷台に幌のついた、大型のトラックだった。通り過ぎざまに顔を上げると、一目でアラルスタン人とわかる男たちに紛れて、頭に麻袋を被された捕虜が乗っていた。


 アメリカ兵だ――首から下の見覚えのある軍服を見て、反射的にアリーはそう思う。


「アリー!」


 そのとき、母の声が聞こえた。見ると、戸口で母がおろおろとしている。アリーはボールを抱えたまま彼女の元へ走った。


「すぐに家に入らないとだめでしょう」


 アリーが母に抱きつくと、彼女はほっとしたように彼を抱きしめた。布越しの声はくぐもって、その目は潤んでいる。本当のところ、家に駆け込んだところで命が助かるはずもないのだが、アリーはうつむくようにして頷いた。


 すると、抱えたボールの「M」という文字が目に入った。消えかかったその文字は、不思議と彼の心を和らげた。


「……アメリカ人が捕まってた」


 ボールを見つめながら、アリーは独り言のように言った。母親が悲しむことはわかっていたため、妹を殺したやつかな、とは言わなかった。息子のつぶやきに、母は短く「そう」とだけ言った。


 皆、警戒しているのだろう、トラックの通り過ぎた道に、子供たちは一人も出てこない。


「ラジオつけてもいい?」


 冷たい床に座り込んだアリーは、そう言うなりスイッチを押し入れた。ざざあと嵐のような音の奥から、小さくニュースが流れてくる。


「だめよ、アミールが寝てる」


 母親はそう言って、隣室に視線をやった。そこでは、今年生まれたばかりの赤ん坊が眠っている。妹が死んだいま、彼にとってたった一人の弟だった。


 アリーは素直にスイッチを切ろうとした。しかし、その瞬間、母親が小さく悲鳴を上げ、彼を制止した。


『……が、ブラッドラインで見つかりました。繰り返し、伝えます――』


 母親は目を見開いて、ラジオを凝視した。アリーはどうしたことかと彼女を見上げた。ラジオから聞こえてくる声は、少し震えているようだった。


『繰り返し――伝えます。ブラッドラインで昨夜、世界的歌手であるM氏が……射殺体で発見されました。本放送でも流された……アルバム「エンドレス」の発表以来――――我がアラルスタンへは、慈善活動のため――訪れていました。アメリカ人で――ある同氏が紛争地帯へ赴いた目的は不明で――アラルスタン政府は……彼を殺害したとみられる――ラザンを非難する姿勢を――』


 ラザン。その単語が流れた途端、母の顔が歪んだ。異常な気配を察してか、赤ん坊が泣き出した。


 母は我に返るとすぐに隣室に走り、彼を抱き上げると、優しく揺らした。けれど、その動きはどこかせわしなく、それは赤ん坊のためというよりも、母である彼女が自分の動揺を静めたいがための動作にも見えた。


 M。


 アリーはまじまじと手のボールを見つめ、記されたアルファベットをなぞるように触れた。すると、思いだそうと努力などせずとも、その人の姿はすぐに脳裏に浮かび上がった。


『僕たちの国には、爆弾で家を壊される人も、兵士に撃たれて死ぬ子供もいない』


 かたわらの通訳に訳された、彼の言葉を聞きながら、アリーはじっとその人の顔を見上げていた。


 それは、このテ・ダク村に避難する前の、首都での出来事だった。生まれて初めて見る色つき眼鏡、その向こうの目はとても優しげで、アリーは、その姿を焼きつけるように見つめていた。


 男性だというのに、女性のように長い髪も、真っ白な、体にぴったりと張り付いたような服装も世にも奇妙なものに見えたが、それでも人をきつける何かを、彼は持ち合わせているようだった。


 自分を見つめる少年を、彼は真っ直ぐ見つめ返した。そして、こう言った。


『いいかい。僕たちの国では、君の年頃で銃を持たされることも、毎日お腹一杯食べられないことも、学校へ通えないことも、どれも考えられないことなんだ』


 しかし、アリーは彼のその言葉を理解することができなかった。


 彼より少し大きな少年が銃を持つのは普通だったし、いつもお腹が空いているのは当たり前で、学校なんて特別な理由でもない限り行くところではなかった。


 だから、もしかしたら通訳がでたらめを言ってるんじゃないだろうか、彼は顔をしかめたのだろう。すると、彼は悲しそうに笑った。それからアリーの頭を撫でた。そして、奇妙な問いかけをした。


『もしも、僕が死んだら、君は祈ってくれるかい?』


 どういう意味だろう、アリーは首をかしげたが、そのとき彼の片手に新品のボールがあることに気づき、大きく何度も頷いた。きっとここで頷かなければ、そのボールは自分の物にはならない、それくらいは小さな彼にも理解できることだった。


『約束だよ』


 アリーが頷くと、その人は微笑んだ。それから太いペンでボールに「M」と記すと、来たときと同じように大勢の人に囲まれながら去って行った。


 あの人はいい人だったな、新品のボールの匂いに胸を震わせながらアリーは思った。彼が一体どこの国の人で、何をしに来たのか、そのときアリーは考えてみようともしなかったのだ。


 けれど――いま、ラジオを聞き、その人の正体を知ったアリーは息を呑んだ。ラジオの言葉を信じるなら、その「いい人」であったはずの彼は、妹を殺した人間と同じ、アメリカ人だというのだ。


「お母さん――」


 アリーはつぶやいた。


 いつのまにかラジオからは彼の歌が流れていた。異国語の歌詞はまるでわからない。けれど、ラジオの中の彼は、あのときと同じ優しい声で、それは綺麗な旋律を歌い上げていた。


「祈るのよ」


 ぼんやりと歌を聴いていると、母が強い力でアリーの肩を掴んだ。


「祈る……?」


 アリーは口の中で繰り返した。


 アラルスタンには、その神の定めた、死者を送る祈りがある。死者の魂が迷わず次の世へ行けるように願う、最も神聖な祈りである。その神聖な祈りの言葉を、果たしてアメリカ人に唱えていいものなのか。


 しかし、アリーは思い直すと、素直に目を閉じ、祈りを唱えた。約束だよ――そう言って微笑んだ彼への、ボール1個分の祈りだった。

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