名探偵のヨメ
玖田蘭
ヨメとお中元
ごくごく普通の一軒家。日本でよく見られる二階建ての一軒家に、彼女とダンナは暮らしていた。専業主婦のヨメと自由業のダンナの間には子供こそいなかったが、それでも絵に描いたような、ごくごく普通の、かつ穏やかな毎日を送っている。
ただ一つ。
ダンナが世界を股に掛ける名探偵であるということ以外は。
「来週から一週間ロンドンに行かなくちゃいけなくなった」
ダンナは朝食のトーストにジャムを塗りたくりながら、一日の運勢をチェックしていた。ヨメ手作りのイチゴジャムは砂糖が控えめで、朝からしっかり食べることができる。しかし残念なことに彼の今日の運勢は最下位だったらしく、やや切ないような溜息が薄い唇からもれた。
「君も一緒に行くか? 向こうの大物政治家に頼まれて五泊六日の豪華客船の旅だ」
「わたし、英語しゃべれないもの。あなたがいたっていちいち通訳してもらうのも、なんだかつまらないし」
ヨメは新しく焼き上がったトーストをダンナの皿に乗せながら、ケトルの電源を入れた。誰が言い始めたわけでもないのだが、食後に一杯紅茶を飲むのが夫婦のちょっとした決まり事だ。
当のダンナはというと、ジャムを塗った方のトーストをすっかり平らげて「そうか」と息を吐いた。少し残念そうではあるが仕方がない。日本の家をあまり留守にするわけにはいかないのだから。
「そろそろお中元の時期でしょう。今年もどうせあちこちから届いて、城金さんと玄田さんにたんまりおすそ分けすることになるんだから」
「政治家関係と警察関係は断ったんだけどなぁ。住所とかも公表してないし、何処からバレるんだか。刑務所からとか海外からとか、そういうちょっと怪しいのは触らないようにするんだ。城金を置いてくから、何かあったら彼に頼むように」
上腕二頭筋がヨメの腕の3倍はありそうな助手を思い浮かべて、ダンナは新しいトーストにかじりついた。優男然とした見た目をちっとも裏切らないダンナの腕っぷしが悲惨なのは彼女もよくわかっているので、そうですねとだけ頷く。一番ヤキモキしているのが彼だということを、ヨメもよくわかっていた。
「そういえば朝も、不思議な小包が置いてありましたよ。あなたに言おうと思ってすっかり忘れてたんだけど……どうしましょう?」
「おい、頼むからそういうことは早く言ってくれ……あー、いいよ、君はここにいてくれ。危なげなさそうなものだったらこっちに持ってくる」
そう言って探偵はのそりと立ち上がり、Tシャツに高校の体育用ジャージという装いで玄関まで歩いていった。ややあって「あー」だの「あの人かぁ」だのと言いながら包みを持ってきたところを見ると、どうやら危険物の類ではなかったらしい。
綺麗にラッピングされたそれは、テレビで時々見る高級百貨店のものだ。ヨメもなかなか足を運ばないその場所の箔押しが、誇らしげに輝いている。
「えぇと、どちら様から? まだ送っていない方だったら準備をしないと」
「恐らく必要はない。家どころか、今もって世界のどこにいるかが分からない人間なんだ。住所不定、職業詐欺師ってところか」
「詐欺師?」
詐欺師というと、結婚を前提にお付き合いしていたつもりがお金だけふんだくられたり、お年寄りにオレオレと電話をかけてきたりする人のことだろうか。こう言っては何だが、世界一の名探偵と張り合うには少しスケールが小さすぎる気がする。
例えば昨年送られてきたクリスマス・カードなんかは禁固598年を言い渡された連続殺人犯からだったりした。ぎっしり呪詛の言葉とスローナイフが詰められたそれからすれば、何とも平和な話である。
「ほら、カード。君にも分るように、ちゃんと日本語で書いてある」
「……えぇと、ミスター・ホルスタイン? 乳牛ってこと?」
「なんでか知らないけど、界隈ではそう呼ばれてるんだ。それでも世界有数の、義賊って言ったら変だが……まあ、世界一の詐欺師だと思っていいよ。金持ちの淑女の旦那になったり孫になったりして荒稼ぎしてる。少なくとも開けた瞬間ナイフが飛んできたりはしないはずだ」
躊躇なく包みを破ったダンナは、中から何か緑色のものを取り出した。水風船のようにプルプルしていて、どこか冷たくもある。
高級百貨店の包みと、冷たいプルプル。
それをようやく頭で理解したヨメは、思わず旦那に抱き付きたくなるのを必死でこらえた。
「これ! これ、千味堂の高級ゼリーセット! 乳牛さんすごーい!」
「いや、乳牛さんっていうか……あぁ、梅味は残しておいてほしいな。こっち帰ってきたら食べるから」
「ダンナさんはその前に全部食べちゃうと思うよ。いやぁ、ダンナさんのお友達ホントすごーい……!」
庶民派を地で行く探偵とヨメは、なかなかお目に掛かれない高級セットにテンションが上がりっぱなしだった。ヨメに至ってはお返しの品は何がいいかと、早速カタログに目を通し始めている。
こういう立派な品物を送ってこられるのは嬉しいが、あんまりにもお返しが貧相だとダンナの仕事もやりにくくなってきてしまう。世界一の名探偵と言えど、こっちは自営業なのだ。毎年確定申告にヒーヒー言っているし、こういう業界だから人との付き合いは切っても切れない。
「だから、大丈夫だって。コレだって多分気まぐれか嫌味かあてつけだし、本当にアイツどこにいるのかさっぱりだから……次にあったらお礼くらいは言っとくよ」
「えぇ、でも悪いよ。うーん、実家の牛乳プリン詰め合わせとか、やっぱり共食いになるのかしら」
共食い。ミスター・ホルスタインが牛乳プリンを食べたらそれは共食いになるのか。その謎は名探偵にも解けない。「どうだろうね」とは言いつつも、相手との対決の現場に一々牛乳プリンを持っていくわけにはいかないとその考えはやんわり却下された。一応、ダンナにもプロ意識というものがある。私立探偵が何のプロであるかというのは、まあ横に置いておくとして、だ。
「桃とマンゴーはあなたにあげる。ブドウは応相談だ」
「ダンナさんと相談して勝てたためしがないもの」
ヨメは息をついて、箱から丁寧にゼリーを取り出し始めた。昨年新調したばかりの冷蔵庫にはまだ少し余裕があったはずだ。とはいえこれからの時期、そうめんやらコーヒーやらで戸棚も冷蔵庫も限界までものが詰め込まれることになる。そこから先はヨメの力の見せどころというか、スペースを上手くやりくりして中に無理矢理突っ込むしかなくなってくるのだ。こういう時だけ、外国製の業務用冷蔵庫が無性に欲しくなる。
「でも、今日は俺がいたからよかった。もし俺や城金がいない時にこういうものが来たら、本当に開けちゃダメだ。なにかあったら守れないからね」
ロンドンに出向くまではしばらく家にいるというから、その間は問題ないだろう。基本的に休暇は取れるときにまとめて取っておかないと、後が辛い。探偵だってもうすぐ三十路に片足を突っ込んでくる以上、体に無理をさせるのはあまりよくない。平均寿命世界一の国に生まれたからには、是非とも二人揃って長生きしたいものである。
「大丈夫大丈夫。ダンナさんは心配性だなぁ」
「人の恨み買ってもおかしくないような仕事してるからね。しかも相手は特級の犯罪者ときてる」
凶悪殺人犯や連続強盗犯、卑劣な強姦魔の企みを悉く看破して牢屋に片っ端から突っ込んできたダンナは、世界中の犯罪者から恨まれていると言っても過言ではない。流石に警察のOBよろしくテレビに顔出ししたり分かりやすい場所に家を建てたわけではないが、ご近所の方々はここに住んでいるのが探偵だということくらいはつるりと口に出してしまうだろう。
「用心に越したことはないんだよ。俺がこんな仕事をしてる限りはね」
諦めたように笑うダンナに、ヨメもまた笑った。まだ、食後の紅茶は茶葉のままリビングのテーブルに乗っかっている。
名探偵のヨメ 玖田蘭 @kuda_lan
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