第12話 殿の御名は…



「おまえさまよ、少し待ってたもれ」

 山の涼やかな空気を切り裂いて馬は進む。後ろからついてくるもう一頭には、小さき妻が乗っていた。


「馬術は得意じゃなかったか?」

「ばか者! 昨夜は初夜じゃぞ、あのように激しくされて股がその…ええい、わらわに何を言わせる気じゃっ!!」

 攻め落とした隣国。そして二つの国を一つにまとめ、その中間に位置するこの険しい山の中に、新たなる居城を建て終えたのがつい先日のこと。


 そして国主になるにあたり、正当性を得るために姫と夫婦となったのが昨夜であった。



「自分で勝手に言い出したんだろう。ともかくもう少し行くぞ」

 林の中は最低限の土道のみで、馬1頭がやっと通れる幅しかない。知る人しか知らぬ道の先、小さなやしろ石碑せきひが建っていた。


「むむ? おまえさまよ、ここはなんなのじゃ?」


「我が里のため、俺が犠牲を強いた者が眠っている―――だ」

「おまえさまの墓? いや、おまえさまが名を借りておったという武士の墓がかようなところに…」

 馬からおりると、彼はどこからともなく苦無くないを取り出して、何も刻まれてない石碑に文字を刻んでゆく。


 ―――山原 条之介 信正―――


「これで山原という武士は、本当にこの世より亡き者となった。長らく借りてすまなかったな」

 彼は最初、なんと書くべきか迷った。なぜなら彼が殺害した時点では、山原という武士には亡き大殿より賜った、こんな立派な名はなかった。


 出世の結果として授かった名であり、正確に彼を示す名としてはどうなのか、と。




「じゃが、本当によかったのかの? みずは泣いておったではないか?」

 そう……家人として働いてくれていた町娘のおみずは、自分が殺した山原に惚れていたのだ。

 それがすでに亡き者となっている事の真相を知って悲嘆にくれるであろう事は十分わかっていた。


「それでもあの娘は変わらず尽くすと申し出た。ならばそれ以上とやかく言うことはない」

 正室となった姫のはからいでお瑞は側室になる予定だ。山原 条之介 信正は合戦にて討ち死にしたことになっている。


 表向きにも彼の死は民衆に広く知れ渡った。




「……長老どのが、頭領をもまかせると言うておったしの。忙しくなりそうじゃな、おまえさまは。なーに夜にはわらわがしっかり慰めてやるゆえ、安心せい♪」

「…そりゃどうも」

 一族の命運を背負い、適当な国に里ごと召抱えられるよう深く入り込む。


 そのための根を張るのが自分にかせられた使命であったはずだ。ここまで事が大きくなり、まさか新たな国を打ち立ててその国主になるなど、彼自身思いもしていなかった結末。



 吹きすさぶ風が肌に打ち付けて教えてくれる。これからもなお大変である、と。

 心の中で勘弁してくれとうんざりしていると、新妻が彼の着物の裾を引いた。


「そういえば、おまえさまよ。ノブがおまえさまの本当の名でないと申すなら、これからはなんと呼べばよいのじゃ??」






「ああ、言ってなかったな。俺の本当の名は――――――」

 





  <侍に忍ぶ・終>



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侍に忍ぶ ろーくん @hinotori0

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