第36話 人間の絆
「え、殺さへんの?」
「……」
そう言われて石戸は、ベッドに腰掛ける栞の前にひざまづいていることに気づいた。拳銃は床に投げ出されている。
千春を撃ったのは1発。
いまはベッドの向こうに倒れているはずの馬亭には……何発かわからないが、とにかく夢中で撃った。
銃にまだ弾が残っているのかどうかはわからない。
とにかく今夜、石戸は二人を殺した。
いたいけな少女と、さっき会ったばかりの、鼻持ちならない男を。
二人……は人間なのか? もしくはアンドロイドなのか?
今となってはもうどうでもいいことだ。
「なんで殺さへんの?」と栞。「銃、カラッポなん? 銃がのうても、刃物で刺すなり手で首締めるなり、なんなりと殺りかたがあるやろ?」
「なあ……」しわがれた声が出た。「……これで、元どおりや」
見上げると、きょとん、とした顔で栞が自分を見下ろしている。
「元どおり? なんのこと?」
「これで、俺らはもう二人っきりや。二人の死体をどこかに片付けて、部屋をきれいに掃除して、前みたいにふたりでやりなおそう」
沈黙。
千春の表情に変化はない。
「ここは、おれと君、二人の部屋や。千春もいない。あの馬亭とかいう男も、もうおらん。なにもかも忘れて、一からやりなおそう。千春のことも忘れる。君が、あの馬亭とかいうやつと、このベッドでやってたことも、すっかり忘れる……君も言うとったやろ? 人間は、未来を選べる。それと同じように、過去も自由に選べるんやって……そうやろ?」
栞が笑った。
くすり。
「あんた、そんなにまでしてうちと暮らしていきたいわけ? ……このままずっとここで?」
「そうや。それがおれの望みや。それだけや」
とにかく、言いたいことはすべて言った。
生まれてからこのかた、これほどまでに自分の思いを言葉にしたことはない。
これほど自分のなかに、言葉が潜んでいたとは。
いつも言葉は、石戸の胸のなかで渦巻いているだけだった。
それが口から放たれることはなかった。
自分は、何からも自由な人間のはずなのに。
石戸は栞の返事を待った。
意地悪そうでもない、小馬鹿にした調子もない、その笑顔を眺めながら。
ようやく、栞の唇が動いた。
「あほちゃう?」
と、突然、栞がしなやかな脚を伸ばして、石戸の首を挟み込んだ。
「ぐえっ!」
両脚の踵で後頭部を蹴られ、さらに太ももの奥に引き寄せられる。
太腿がものすごい力で、首を締め付けてくる。
ぐっしょりと濡れた栞の入り口が、石戸の鼻を押しつぶした。
「ははははは! あほか! あほやろ? ほんまもんのあほやろ、あんた?」
「ぐえっ! うぐっ! ぐううっ!」
「それはあんたの夢やろうが! うちの夢とちゃうわ! ははははは!」
鼻といい唇といい額といい、濡れた栞の秘所にいやというほど押し付けられ、石戸は溺れそうになる。そして、首を絞め付ける太腿の力。
意識が遠のいていく。
あっという間に、視界が白くなっていく。
しかし栞の声は聞こえた。
「あんたあほやろ? 腹たつやろ? さんざんコケにされて、バカにされて、それでもぜんぶ忘れてうちと暮らしていきたい? アホか! 人間なんやろ? あんた人間やろが! それでもあんた、人間のつもりか? なんでうちを殺さへんの? さっき殺したい、ちゅうたとこやろ? あんたそれでも人間なんか? 」
遠のく意識のなかで、石戸は悟った。
“もうこの現実には、自分を繋ぎとめておくものはなにもない”
そう。自分は孤独な男なのだ。
この世界で、たった一人で暮らしている、どこにでもいるような男。
1ヶ月前、栞と出会うまでの自分がそうだったように。
もううめき声さえあげられなかった。
視界は白く飛んでいる。
それでも石戸は、床を探った。
そして、その重い塊をなんとか拾い上げ……その先端を斜め上に向けて、引き金を引いた。
バン。
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