第32話 ハンドル・ウィズ・ケア

 外では雨がはげしく降り出したようだ。

 石戸は床の上に突っ立ったまま……小さな硬い尻を振りながら、床の精液を舐め取る千晴の這い蹲る様を見ていた。


「くうーん………」


 ひたすら銃について考えていた石戸は、はっと我に返った。

 千晴がその姿勢のまま、肩越しに石戸を見上げたのである。


「くんくん」


 千晴のまるでさくら貝のような唇には、糊のように粘性の高い精液がこってりとこびりついていた。そこから覗く小さな舌先から床に向けて、彼女の唾液と石戸の精液の混合物が細い糸を引いてひとしずく滴る。


「……や、や、やらしー……」

 ベッドの上で栞が呟いた。

「あれは……けしからんな。なんぼなんでも……あれはあかんやつやろ」

 馬亭も声を潜める。


 石戸は黙っていた。

 千晴はゆっくり身体の向きを変える……床の上を這って。

 そして四つんばいのまま、石戸に近づいてくる。

 まるで金縛りにあったように、石戸の脚は動かない。


 アンドロイドたちは人が見ていないところでは、立ったまま眠ることさえあるという。その両目を見開いたままで……。


 石戸はそんな様子のアンドロイドを見たことがなかったが、今の自分はまさにそういう状態だった。しかし意識はある……アンドロイドたちのように、自由に自らの意識をスリープさせる機能があれば……どんなにすばらしいだろう?



「石戸さん……?」千晴が石戸を見上げて人間の言葉で呟く「……ねえ、いけないワンワンでしょ……あたし………いけないワンワンには、何かおしおきが必要だと思いませんか?」

「………」


 千晴がその短い髪を石戸の脛にこしこしと擦りつける。

 そして、うわごとのように呟く。


「千晴は犬。はしたない犬。しつけのできない犬。カレーもつくるけど、お口でいけないことをする。カレーを食べた後に石戸さんの竹輪を。竹輪のあとはお尻の穴。そうすると床に白いシロップが……千晴は白いシロップが大好き。食いしん坊ではしたない犬。しつけのできないいやらしい犬。尻尾をふりふり。床にはいつくばって白いシロップをぺろぺろ。ほんとうにいやらしい犬。しつけもできないはしたない犬。いつでも発情期で見境いのない犬。ご主人様は石戸様。石戸様はあたしにしつけをする。おしおきをする。でもいやらしい千晴は、ご主人様のしつけが大好き。ご主人様のいやらしいおしおきが大好き。いや、違うの。ご主人様はあたしをちゃんとした犬にするために愛をもってあたしにおしおきするの。でもあたしはあんまりいやらしいから、おしおきされているといやらしい気分になっちゃう。あたしは犬。はしたない犬。しつけのできないいやらしい犬。カレーも作るけど竹輪も食べる。お尻の穴も舐めれば床にこぼれたシロップも食べる。食い意地が這っていつも発情期の犬。おしおきをされたくてわざといやらしいことをする、だめな犬」


「千晴ちゃん……すごーい」

 栞がベッドの上で拍手する。

「天才やね。すばらしい……さすがは元歌姫やね……感受性が詩的やわ」と馬亭。

「それ……言わないでください」突然千晴の声の調子が変わった。


 千晴は床に這ったまま、首だけをベッドの上の馬亭を睨んでいる。

 ベッドの上で栞を膝に抱えた大男が……一瞬ですくみ上がる。

 あの冷笑と人を食った目の光も馬亭から消えうせる。

 その時はじめて……石戸には馬亭が人間らしく見えた。


「……もう歌は歌えないんです……知ってるでしょ」千晴が視線を下に落として呟いた。「あたしはただの犬なんです。はしたなくていやらしくてしつけのできない、石戸さんの犬なんです……」


 俯いているので千晴の表情を読み取ることはできない。

 泣いているのかな……? 

 石戸は思った。いや、まさかな。

 犬のマネをしながら床に零れた精液を舐めて……その後“はしたない犬”がどーたらこーたら……散々わけのわからない詩だかなんだかを詠んだ挙句……歌えないことを指摘されたから……泣く?


 もう気が狂いそうだ。

 ああ……それにしても……石戸の頭にまた銃のことが浮かぶ。

 いまこの瞬間、銃がこの手にあればどんなに素晴らしいだろう?……アンドロイドみたいに意識を遮断して、棒立ちのまま眠るよりもきっと素晴らしい筈だ。

 

「……悪かった……」馬亭が言った。「ごめんな。無神経やったな」

「そうやで。無神経やわ」


 人んちのベッドの上で……その家主の目の前で……あれだけ様々な体位でまぐわっておいて何が“無神経”だ?

 しかし……この連中にも“神経”というものが存在するのか。

 このずうずうしく、人並みはずれて思いやりの精神を持たず、いやしく、いやらしく、厚かましい人間のクズどもに。


 人間……?


 果たして、この連中はほんとうに人間なのだろうか?

 

 彼らよりずうずうしく、厚かましく、恥知らずな人間のことを、石戸は知っている。だから、彼らの傍若無人さを論って、彼らのことを人間ではないと……そう決め付けてしまうのは早計というものだ。


 しかし……彼らの傍若無人さは、あまりにも完璧で純粋だった。


 ただの人間に、ここまで人の気持を完全に無視し、完膚なきまでに踏みにじることができるのだろうか?


 これまで、決して幸せとは言いがたい人生を歩んできた石戸だった。

 罵倒され、罵られ、完全無視され、あたかも透明人間のように扱われたことも一度や二度ではない。


 そんな石戸でも……この数十分間に受けた人格否定には新鮮ささえ感じた。


「……いいんです。もう歌えないのはわかってますから」千晴が顔を上げる。思ったとおり、泣いてはいない。「歌を歌うだけが人生じゃありません」

「確かに……自分の歌は素晴らしかったよ」と馬亭。

「うん、思い出しただけで涙が出てくるわ。千晴ちゃんの歌」と栞。

「…………もういいんですってば……あたしは一生歌えないんだから」

「でも……そんな思いでも……時が来れば消えてしまうんや」と馬亭が空を見上げながら言う「そやな……まるで、涙みたいに………雨の中の涙みたいに……」


「もういいって言ってるでしょ!!」栞が立ち上がって馬亭に叫ぶ。「そんな空疎なことばっかり言って、なんでもキレイにまとめないでください。あたし、馬亭さんのこと尊敬してますけど……そういうところは大っっっっ嫌いです」


 立ち上がった千晴の身長は実際……正面に立つ石戸の胸くらいまでしかなかったが、その瞬間だけは3メートルにも見えた。

 何より千晴が声を荒げ、怒りをむき出しにしたことは、天が裂けたくらいのショックだった。石戸にとっては当然だが……その怒りの直撃を受けた馬亭は、逆に中型犬なみに縮こまっているように見えた。


「ご……ごめん………」馬亭が俯いて呟く。


 栞も俯いていたが……このときばかりは余計なコメントを添えることはなかった。


 直立した千晴の左太股には『EAT ME』の朱色の刺青が。

 ぴったり閉じられた右太股には『DRINK ME』の藍色の刺青が。


 さっきは石戸に痛々しさしか感じさせなかった二つのその文字が、何か猛々しいもの……あるいは歴戦の古強者の体に刻まれた傷跡であるかのようにさえ思えてくる。


「ごめんなさい……石戸さん……なんだかあたし、取り乱しちゃって………あっ……でも」栞が一歩石戸に踏み出し、彼の陰茎に手を伸ばした。「……すごい………石戸さん、なんだか…………すっごくなってますよ」

「…………」

 わからん。何故なのかはさっぱりわからないが、事実そうなっていた。

「………すっごい………ちょっと……ちょっと待ってくださいね」


 そう言うと千晴はその刻印のある青白い太股を少し開き……スプーン7杯分の水をも掬えなそうな小さな掌をその間に忍ばせた。


 目線は右斜め上を見ている。何か創造的なことをしているときの人間の生理反応だ。石戸はそのことをどこかで小耳に挟んだことがあった。多分、職場で店番をしているときに……訪れた客がそんなことを話していたのだろう。

 

 右斜め上を見ながら話すとき、人間は必ずウソをついている。

 創造性を司る右脳に神経が偏るからだ。

 何か面白いことや新しいことをたくらんでいるときも然り。

 

 まさに今、目の前で千晴は……右斜め上の中空に目をやりながら、薄い茂みの奥で小さな掌を蠢かせている。


 湿った音がした。


「………ほら………石戸さん………あたし、もうこんなになっちゃてる」


 股間から抜き出した右手を、千晴が左の掌で隠しながら石戸の陰茎に向かっておずおずと差し出す。

 潮干狩りの最中に、珍しい貝でも見つけた子供のような手つきだ。

 事実……千晴の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

 その笑みはやはり、栞とそっくりだった。


「……ねえ、ほら、いけない犬でしょあたし………こんなによだれを垂らしちゃって………そのうち………石戸さんがベルを鳴らしただけでこんなにしちゃいますよ、きっと」


 掌を擦り合わせて、千晴が石戸の陰茎をまさぐった。

 その10本の細く小さな指は……千晴の言う“よだれ”によってあたたかく包まれていた。石戸の亀頭を、陰茎の血管を、精嚢の裏を……よだれで滑った指先が、なめらかに這い回ってゆく。

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