涙のように。雨のように。

第30話 我々は何者か?

「石戸さん、わたしたちもしましょう……あんなこと」


 石戸? 


 目の前の少女は確かに自分のことをそう呼んだ。

 不思議な気分だ。

 なぜか石戸は、それが自分の名前ではないように思えた。


 目の前の少女の名前は……確か、千晴。

 その背後のベッドで男が、若い娘と激しく絡み合っている。

 女のほうは……栞。そうだ。この部屋で自分と、ずっと暮らしてきた女だ。

 男は? ほとんど知らない、というかまったく知らない男だ。

 確か、馬亭と名乗ったような気がする。


 そうだ。ここは俺の部屋。

 いまさっきまで、不思議なほどリアルな夢を見ていた。

 夢の内容は思い出せないが、それがとてもリアルなものだった、ということだけは覚えている。

 それはとても複雑な夢で……そのなかで石戸は、違う名前を名乗っていた。


「どうしたんですか? 石戸さん。ぼーっとして……」


 千晴は足首からその子供っぽい下着……2045年当時にあっても、まだこどもは昔ながらの下着をつけていることが多い……を抜き取ってしまうと、ぽとり、と床に落とした。


 その後、千晴はそうして少し俯きながら……自らブラウスのボタンを……ゆっくりと持ち上げはじめた。胡桃のような膝小僧が覗いただけで、石戸は思わず床の上の腰を後方に滑らせていた。


「……“しかし、貧しいわたしは夢をみるより他に方法はなかった”……」背後のベッドで、馬亭がまだ栞の耳元で囁いている。

「……あ、は、……ぐ……う、………」串刺しになった栞が細い躰を二つに折って呻く。「………そやから………それやめてって……あかん、あかんて……あたし、それあかんねん……お願いやし……」

「……ええ詩はな、麻薬なんや……いや、麻薬よりもずっとセックスのときは効果あるかもな。君かて……なんや、ますますぎゅうぎゅう締め付けとるやないか」

「あ、あほ………」栞が熱っぽい目で馬亭を振り返り、ぷいっと顔を背ける。


 それにより栞はまた馬亭に耳を差し出す恰好となった。


「……“どうか、そっとやさしく踏んでほしい……わたしの大切な夢だから”」

「………ふううううんっ!!!」

 また栞の躰が馬亭の膝の上でのけぞる。

 

 ギギ……ギチ……。石戸の耳に、奇妙な音が飛び込んできた。

 栞が入り口で馬亭の陰茎を、ぎりぎりと締め付ける音だ。

 いや、まさか……そんなはずはない。

 そんな音がここまで聞こえてくるなんて……?


「……あ、はあ………はああ……」


 栞が細い腰でゆっくりと弧を描き始める。

 

 ギチ……ギギ……。


「聞こえるか? ……ほれ、音聞こえるやろ?」と馬亭。「……君が締め付けとる音やで。ぎゅうぎゅう締め付けてきよる……わしのチンコを絞め殺す気か?」

「い……いけず……うんっ!!!」

 いきなり突き上げられた栞が仰け反る。

「……ほれほれ……石戸くんにもしっかり聞かせたらな……目と耳で、しっかり味わってもらうんや。……あ、ひょっとして石戸くん、そちらに“匂い”も届いとるかな……?」


 不思議だ。「石戸」と呼ばれることに、妙な違和感があった。 

 しかし自分の名前は石戸。

 それは両手にある10本の指のように、顔の左右横にくっついた耳のように、切り離すことはできない。いや、指や耳なら切り離すことができる。

 「石戸」という名前、そして自分が「石戸」であるということ。

 これは自分が生きている限り、下着のように脱ぎ捨てることはできないはずだ。


「ほら、栞のいやらしい雌の匂いが、君の鼻にも届いとるやろうが?」


 言われた途端に、石戸の嗅覚はほんの少し鋭敏になったように感じられた。

 確かに……部屋を満たしていたカレーの残りがに混じって……何か生臭いような、酸っぱいような……そんな香りがここまで漂ってきているような気がする。

 

 いや、まさか。そんな訳はあるまい。

 そんなことがあってなるものか。

 このギチギチ言う音も……この匂いも、思い込みが産んだ幻に過ぎない。


 しかし、今、目の前のベッドで起こっていること……石戸の視覚情報に否応なしに訴えかけてくる、あの淫猥な光景は一体なんだ。それ以前に、ベッドの上で昨日までは自分とまぐわっていたあの栞が、あの見も知らない大男にいいように弄ばれているこの情況そのものは一体なんだだ。


 ……これも幻なのか?……

 さっきまで見ていた、あの複雑でリアルな夢と同じように。

 そうであればどんなに幸せだろう……?

 このまま目が覚めて、栞と二人きりの……いや、千晴も加えた3人きりの生活でもいい……あの幸せな生活が帰ってくるなら、どんなに素晴らしいだろうか?



 石戸はふと、台所の戸棚のことを思い出した。


 台所の戸棚?


 そこには何かがある。重要な何かが。

 それを石戸は、夢のなかで誰かに教えられた。

 でも、石戸自身の記憶では……台所の戸棚にはフライパンやボールやザルなど、すべて石戸自身が拾い集めてきた調理器具のたぐいが詰まっているだけ。

 

 なぜ、台所の棚なのだろう?

 石戸は、激しく絡み合う栞と馬亭越しに、台所の棚を見た。


『そこには、銃が入っている』


 夢のなかで誰かに、そう教えられた。石戸はそのことを思い出した。

 なぜ?

 なぜ銃なんか?



 何でこんなときに銃のことなんて思い出したのだろう?

 それはわからない。

 しかし……それがこの情況に何らかの解決をもたらすとしたら?


「……さあて、……視覚、聴覚、嗅覚は我々のほうでも満たしてあげられるけど……いちばん大切な触覚と味覚は……わしらの方では石戸くんには提供できそうもないな」馬亭がぞっとするような薄笑いを浮かべて呟く。「セックスは五感で楽しむもんやろ? ……なあ石戸くん、君もそう思わんか?」

「……あ……は……」栞がぶるっと躰を震わせ、長い髪の隙間から石戸を見る「それは……あんたの後に立ってる、千晴ちゃんがどないかしてくれるんとちゃう? ……ほら、見てみ……千晴ちゃん、もう準備万端やで……」


 言われてふたたび、背後の千晴に振り返る。


 千晴はの足ともには、気付かぬうちにするりと落ちたらしいそのワンピースが、ぬけがらのようにまとわりついていた。


 輪になったぬけがらの中央から、闇の中に伸びている千晴の白い躰は……職場で使用されているマッキントッシュマシンのアプリケーション起動画面に現れる、あの女の絵を連想させた。貝殻の上に立って、長い髪で股間を隠しているあの大柄で悩ましげな女。


 もちろん、千晴は大柄ではない……その躰はまるで職場でいやというほど見かけるミニチュア・サイズの簡易セックス用アンドロイド・フィギュアなみに頼りなくて小さい。


 セックス用ミニチュア・アンドロイドと千晴の共通点はたくさんあった。

 その体つきは必要以上に幼い。

 胸板には陰影らしいものは何一つ見受けることができず、だだ消えかけの染みのように薄い小さな乳輪だけが、そこに色を乗せている。


 あばらの最後の骨が厚みのない腹に影を落としていた。

 その下の臍は小さく、白い紙にうっかり開けてしまった小さな孔を思わせた。

 ともすればそこから空気が抜け出し、千晴はぺらぺらになって足元のブラウス同様、この床に崩れ落ちてしまうかもしれない。


 またミニチュア・フィギュアと同じく、その腰から下半身にかけてはまったく女性的なカーブは見られない。そのへんはあのアプリケーション起動画面の貝殻の上の女とはまったく違っていた。


 さらに貝殻の女と千晴のちがいを挙げるのであれば……千晴はその股間を髪で隠してはいなかった。

 髪どころか、その手でも。千晴の細い両腕は、そのか細い胴の横にだらりと垂れ下がっている。


 千晴の股間は石戸の視線からは何によっても守られていない。


 縦の溝も見えたし、その上当たりをかすかに覆っている、柔らかそうな体毛も見えた。


 思わず石戸は視線を下に落とす……と、今度は千晴の太股の間にあるはっきりした隙間が目に飛び込んでくる。

 千晴は両脚をぴったりと揃えて、直立不度の姿勢で立っていたが……それでもその青白い太股の間に出来た裂け目は……千晴の立つ向こうの世界の一部を覗かせている。


 それよりも、石戸の目を釘付けにしたのは千晴の左右の太股に刻み付けられていた文字だった。左は朱色……右は藍色。ベッドの上で見知らぬ巨漢に蹂躙されている栞の姿さえかき消されるほど、その光景は痛ましく、おぞましいものだった。


 あの文字はマジックなんかで書かれたものではなく……あの幼い千晴の柔らかい、青ざめた肌に、刺青として刻み付けられているのだ。


『EAT ME』……わたしを食べて……左の朱色の文字はそう読める。『DRINK ME』……わたしを飲んで……右の藍色の文字は、そう読めた。


「……石戸さん………」千晴が言った。まっすぐに石戸の目を見て。「……あたし、いけない子でしょう?」


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