第18話 大木こだま・ひびき

 石戸は食卓についたまま、皿を洗う千晴の後ろ姿を見ていた。

 栞はとっくの昔に軽く5人前はあったカレーの殆どを平らげると、どこから入手してきたのかやたらに瓶のでかい安そうなワインを引っぱり出し、テレビの前に陣取ってちびちびやっている。


  石戸はどちらに近づくことも出来ず、食卓に釘付けとなっていた。

 

 それにしても……二人は何と似ているのだろう。

 そして、何と似ていないのだろう。

 

 「あーはっはっは!!おっかしー……あかん、お腹痛いわ」

 

 お笑い番組を見ていた栞が、脚を天井に向けてじたばたさせている。

 ショートパンツから伸びた脚はどこまでも伸びやかではっとするくらいに白い。

 

 毎晩毎晩、栞とは思い出すのも恥ずかしいくらいの、あんなことやこんなことを繰り返している石戸だったが、それでもやはり、時折あまりにも無防備にさらけ出される太股や胸元、ブラウスから覗く臍などには、決まってはっとさせられる。


 何故だろうか……? いい加減、慣れてきてもいいはずだが……。

 慌てて目を逸らせた先に、皿を洗う千晴の白い踝があった。

 

 すると今度はこっちに釘付けになる。

 

 栞とまったく同じ形の、透き通るくらいに白く、すべすべした、白桃のような踝。


 見てはいけない、いけないと思いながらも、石戸は目を離すことができない。

 

 皿洗いに集中している千晴は、石戸に踝を凝視されていることなどまるで気が付かないらしく、ときおりその小さな右の踝で、同じように小さい踝を擦りあわせる。


 石戸はまたも、自分が良からぬことを考えていることに気づいた。

 

 ああもう、今日の俺は何かおかしいぞ。

 

 雑念を振り払うように食卓を立って、テレビの前で笑い転げている栞の隣に座る。

 

 「コレ、コレ……。もう最高。信じられへんわ……ひーひっひっひっ」


 栞が指さした画面に映っていたのは、往年の漫才コンビ、大木こだま・ひびきだった。

 

 “今日はようこそ起こし下さいました!!”

 “わざわざ来てくれんでも良かったんや。呼ばれたらこっちから行くがな”

 

 画面の中の会場は大爆笑に包まれ、栞も仰向けになって脚をばたばたさせて笑う。


 一体、大木こだま・ひびきは何年、いや何十年、同じネタをやり続けているのだろうか……石戸は思った。

 この二人は、自分がまだ物心がつくよりずっと前から、漫才コンビとしてステージに立ち続けている。


 それどころか、自分の母も、彼らは子ども頃からずっと漫才をやっている、と言っていたような気がする。


 ……一体、この二人はいくつなんだ?

 

「ああもう、あたしあかん。お腹痛うて、苦しいわ。……なあ千晴ちゃん、早よこっちおいでーさ! むっちゃおもしろいで!!」

 栞が裏返った声で叫ぶ。

「はい」

 

 笑い転げる姉の元に、千晴がスカートの裾で手を拭きながらトコトコとやってきて腰を下ろす。

 石戸は栞と千晴にぴったり両脇を挟まれるような感じでテレビを鑑賞することになった。


“この前、ボクもな、風呂入ろかと思って、パンツも何もかも全部脱いで、湯船に浸かったんや。ほんなら、なんか寒いねんな……おっかしーなあ、思て、よう見てみたら、風呂湧かすのん忘れとったんや”

“……そんな奴おるかーい”


 会場内と千晴は大爆笑する。

 千晴は笑うでもなく、じっと真剣にテレビ画面を見ている。

 

 左に栞の脇腹、右に千晴の肩。どちらも柔らかく、かすかに暖かい。

 そんな状態でいやというほど聞かされてきたネタに反応して爆笑するなど、石戸にはとても出来なかった。


 一体、なぜ笑えるのだろう?……石戸は思った。

 ここのところ彼らは何十年も、同じ事を言い続けているのである。

 同じことを言い続けているのに、それを聞かされる観客はまるで生まれて初めてそれを聞いたかのように、爆発的に反応する。


 いや、生まれてはじめて聞かされるから、爆笑するのではない。

 聞き馴染んでいるものだから、爆笑するのだ。

 彼ら以外にも、何十年もの間同じネタで食いつないでいるお笑い芸人は数多い。

 石戸はお笑いに詳しいわけではないが、これは関西独特の風土なのかも知れない。


 別に芸人が怠惰だとか、観客が甘いとかの問題ではない。

 この街に生まれ育った人々にとって、こうした漫才のネタは、社会的モラルや常識と同じようなものだ。たとえば赤信号になったら足を止め、青信号になったら歩き出す、というような……成長過程において意識の奧に織り込まれているのである。


 決まり切った古典落語の物語が噺家によって語られる度に新鮮な笑いをもたらしたり、或いはリア王の悲惨な末路を知りながらも人々がシェイクスピアに魅せられるように、人々は慣れ親しんだものから常に、情動に刺激を受け続ける。


 意識の奧に焼き付けられ、染み込んだ情動と縁を切ることは難しい。

 今後も、こだま・ひびきはこのかみ合わない会話を続けるだろうし、観客はそれを求め続ける。

 こだま・ひびきが死んでも、それは変わらない……人々の心の中に、それを求める情動が根付いている限り、その笑いは不滅なのだ。


 しかしそれにしても……石戸は思った。

 

 なぜ、この二人は何十年も漫才を続けられるのだろうか?

 年老いることも、会話のキレが悪くなることも、ましてや死ぬこともなく、何でこの二人はステージに立ち続けられるのか?

 

 ひょっとすると……この二人はアンドロイドなのだろうか?

 

 事実、そういう噂も無いではなかった。

 しかし、アンドロイドには感情がない。

 それが世間におけるアンドロイドの定説だ。

 ならば感情のない彼らに、これだけも多くの人々の心に訴えかけ、そこから笑いを引き出すような芸当ができるはずがない。


 石戸もこれまでに何度となくアンドロイドと会い、会話を交わしたことがあった。

 確かにアンドロイドは見た目には全く普通の人間と変わりはない。


 しかしアンドロイドに対する偏見を持たない石戸でも、やはりアンドロイド独特の受け答えには……違和感を感じずにはおれなかった。

 アンドロイドはそつなく、どもることもなく、取り乱すこともなく、不快を露わにすることもなく、無難な会話をこなす。

 しかし、その言葉は何とも言えず空疎で、表情はまるでプラスチックの仮面のように固い。こちらの意思を伝えれば、向こうはそれを十分過ぎるくらいに理解するが、それ以上のものは何もない。


 いや、別に理解してもらう以上のことを求めているわけではないのだが……アンドロイドはそれ以上のことを決してしようとしないのだ。

 また、アンドロイドから返ってくる言葉もどこか奇妙だった。アンドロイドの答が的外れであるようなことは、皆無といっていい。

 

 しかし、アンドロイドは常に100点満点の答えしか返さない。

 彼らは決して、言葉を濁したり、ごまかしたり、曖昧な表現を用いたりはしない。

 そして、相手を不快にさせるようなことは何一つ言わない。

 それの一体どこが不気味なのか? 

 石戸にはその不気味さの理由がわからなかった。


 彼らが「人間らしくない」と言う意見もあり、それはそうかも知れないと、石戸も思う。しかし……石戸と顔を合わせれば親の仇のように文句と嫌味しか口にしないバイト先の店長は、果たしてアンドロイドより「人間らしい」のかと言えば……そうではないような気もするし、そうではないような気もする。


 栞がやってくる前、こんな商業施設の廃墟の中で、ひとりの友達も作ることなく、廃品にまみれて暮らしていた自分自身が……アンドロイドよりも「人間らしい」のかと言えば……それもまた疑問だ。

 

 と、そこまで考えていた時だった。

 不意に栞が生脚を石戸の腹に巻き付けてきた。

 

「なーにむつかしい顔しとんねん」栞はそう言って、とろんとした目で石戸を見る。少し酔っているらしい。「おもろないの? テレビ?」

「………い、いや……あっ、ちょっと!!」


 栞の足指の先がいきなり股間に潜り込んできた。

 栞は器用に足指で石戸の陰茎をズボンの上からつまむと、ぐねぐねと動かす。

 石戸は思わず目を見開いた。

 栞の足指の器用さに驚くと同時に……その動きはあまりにもいかがわしかった。

「……あー……なんか固うなってるー……」栞が言う。「なんなん、あんた。ひょっとして、千晴ちゃんに興奮してるんとちゃうやろな。やめてや。あたしの大事な大事な妹に、毎日あたしにしてるようなやらしーい事しようと考えるなんて……」

「なっ……」石戸は狼狽した。「なに言うとるんや……」

「も~……けだものー。へんたいー……ロリコーン……あたしを思うがままにもてあそぶのに飽きたらず、その幼い妹までも………あっ、ますます固うなってきた……」


 慌てて千晴を盗み見る……ますます石戸の狼狽は加速した。

 さっきまでテレビを凝視していたはずの千晴の視線は、石戸の股間で自由奔放に動き回る栞の足先に釘付けになっていたのだ。


 心なし千晴の顔は……薄く紅潮していた。

 

“夢みたいな話やな”

 ひびきがテレビの中で言い、こだまが返す。

“夢やがな”

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