第15話 非・現実的な幸せ

 今日は一度も店長に嫌味を言われることがなかった。

 そんな日はこれまでに1日たりとも無かったのだ。

 やっぱり自分の住むこの世界は少しずつ変わりつつある……石戸は新世界フェスティバルゲート廃墟内にある自分の住処への帰途で、奇妙な浮遊感を覚えずにおれなかった。


 通天閣の天辺のネオン表示は、明日は午前中晴れ、午後からくもりであることを大阪中に伝えている。

 見上げると、そのことが何かとても重要なことのように思えてくる。

 天気がどうであろうと、その下で繰り広げられる生活は変わることがない。

 若干の違和感を感じながらも、栞との楽しい生活を満喫している石戸にとって、生活が変化せず、このままの状態を保ち続けることはもはや願いであり祈りだった。

 

 浮浪者や不法占拠者たちの中をすりぬけて、三階にある自分の部屋まで急ぐ。

 しかし、いつものように帰宅を報せる合図……一回、三回、一回のノックに応えて自宅のドアを開けたのは、栞ではなかった。


「………あ………え?」 


 石戸は一瞬、栞がいきなり5つ6つ若返ったのかと思った。

 それほどまでに、ドアを開けた少女は栞に似ていた。

 思わず後ずさる石戸を、少女は醒めた目で見つめている。


 サイズダウンした栞は、髪をおかっぱにしてブルーのしわくちゃのワンピースを着ていた。その裾から浅蜊のように小さな膝小僧と、棒きれのような細長い脚が覗いている。少女は素足にスリッパを履いていた。

「……あの………君は、誰かな???」

 石戸が声を掛けても、少女は表情ひとつ変えない。


 出会った頃の栞は、よくこんな表情をしていた。

 栞が感情を豊かに表現するようになったのは、ほんの最近のことだ。


「………おかえりい」

 部屋の奥から栞の声がした。

 やがて少女の顔の上に乗っかるように栞の顔が現れた。

 まるでトーテムポールだ。

 そうして見ると、二人はますます似ている。

 薄い色の瞳に、小作りな口と鼻、若干意志的な眉。

 しかし上の段にある栞の顔は笑っていて、その下の少女の顔は笑っていない。

「びっくりした?」

 栞が内側から大きくドアを開けて、石戸を部屋に入れる。

 戸口に立った少女は相変わらず冷たい目で石戸のことをじっと見ていて……見られている石戸は理由もなく居たたまれない気分にさせられた。

 自分の部屋に帰ってきただけなのに……

 一体なんだってこんな目で見られなきゃならない?

 ……だいたいこの少女は誰だ?

 

「千晴ちゃん、石戸さんにご挨拶は?」栞が少女の後ろに回り込んで、石戸に差し出すように少女を一歩前に押す「“こんにちわ、初めまして”は?」

「こんにちは、はじめまして」

 少女が小さな声で呟く。

 

 なんと……声まで栞にそっくりではないか。

 

「こ……こんにちは」石戸はわけもわからず、なんとか挨拶を返した。「ええと……君は……?」

「あたしの妹。千晴ちゃん」栞が彼女の右肩に自分の顎を乗せて言う。「あたしによう似て、ホンマかわいいやろ」

「……妹?」

 夕べ聞かされた3パターン身の上話のどれにも、妹などは登場しなかった。

 

 そう聞かされれば、二人がとても良く似ているのにも説明がつくが……その説明はあまりにも唐突過ぎた。

 唐突過ぎるが、栞がそう言っている以上それは真実なのだろう。

 それにしてもその説明さえ不十分に思えるほど、二人は似すぎていた。

 確かに、姉妹や兄弟は同じ遺伝子情報に基づいて創られるのであるから、その多くはどこかしかの特徴を共有している。

 その共有している部分が多ければ多いほど、姉妹ないし兄弟はよく『似てくる』。

 だが、栞とその少女……千晴は全くと言っていいほど、『同じ』だった。

 『似ている』のではなくて、『同じ』なのだ。

 栞をサイズダウンして、髪型を変えれば、それは千晴になる。

 千晴を若干サイズアップすれば、栞になる。


「なあ、今日から千晴ちゃんも一緒に住んでええやろ?」栞が千晴の肩に自分の顎をぐりぐり押しつけながら言う。「千晴ちゃんもあたしも、行くとこないねん。な?」

 

「……ああ……ええと……」

 石戸の頭は混乱するばかりだった。

 

 一体、何なんだ、この変化と起伏に富んだ生活は。

 石戸は頭が混乱すると、すぐ意識が遠くなり、それ以上の難しいことを考えられなくなる。長年の孤独と単調な生活が、石戸の脳を弛緩させ、思考を鈍らせていた。


 ……ええと、確か、1ヶ月前のあの土砂降りの日に、栞と通天閣の下で出会ったんだっけな。

 そして二人で暮らし始めた。そこから1ヶ月、夢のように日は過ぎて、今度は栞そっくりの少女が現れ、それが栞の妹だと言う。

 昨日、栞は自分の3パターンの身の上話を語って聞かせたが、そのどれにも妹……千晴の存在はない……と言うことは、昨日された話は全部ウソって事か?

 ……「未来を選択するみたいに、過去も選択できるんやで」と栞は言った。

 さっぱり訳がわからず、その言葉の意味をずっと丸一日考えてみたが……答は出なかった。

 『栞には妹が居る』その事実を自分は知らなかった。

 知らなかったということはつまり、自分の知る限り栞に妹は『居なかった』のだ。

 それがまるで手品みたいに現れて、自分の目の前に立っている。

 今の自分にとって『栞には妹が居る』ことは明白な事実である。

 思えばあの土砂降りの日、通天閣の下で雨宿りをしていなければ、栞は自分の人生と一度も接点を持たず、今も自分はこの部屋で孤独に暮らしていることだろう。

 つまりその場合、自分の人生には栞は『居ない』ということになる。

 あの日は土砂降りで、今日は晴れ、明日は晴れのちくもりだ……ああ、ええと、いかん、天気なんか何の関係もない。

 ……ちょっと待てよ、一から問題を整理すると……。

 

「千晴ちゃんがな、ご飯作ってくれたんやで」

 いきなり、栞が石戸の思考を切断した。

 そう言えば何やら食欲をそそる匂いが部屋を満たしている。

 ……これは……カレーの匂いだった。それを作ったという千晴は、栞に肩を顎でぐりぐりされながらも、少しも表情を変えず突っ立っている。

 何もかもが自分を先回って動いているようで、それに抵抗する力がなかった。

 

 いつのまにか石戸は、本日より突然自分の人生に追加された存在である少女……千晴と、一ヶ月前に追加された存在である栞とともに、食卓についていた。

 不思議なものだ……全く自分の人生には起こり得ない非・日常とともに、同じ食卓を囲んでいるというのは。

 

 カレーはこのうえなく美味しかった。

 

「おいしいねえ!」

 栞が頬がはち切れそうなほどカレーを頬張りながら、石戸に言う。

 2、3粒ご飯が石戸の顔目がけて飛んでくる。

「……ああ、おいしいわ。ほんまに」

 石戸には今感じていることを言葉にするのが精一杯だ。

「ありがとうございます」千晴が呟いた。「ほんとうに、おいしいですか?」

「……え?」

 石戸はスプーンを口に突っ込んだまま、思わず呆然とする。

 千晴がじっと自分の顔を見ている。


 千晴の表情は、さっきドアの隙間から顔を見せた時以来、まったく変わらない。

 澄ましたような、警戒したような、硬い表情。

 千晴と同じ遺伝子を持ち、姿形は瓜二つである姉の栞は、笑い、ふざけ、冗談を言い、食べ物には獰猛なまでに貪欲で……セックスに対してはそれ以上に貪欲だ。


 二人は外見上、まったく同じであるが、その感情の表出の度合いによってお互いを差別化しているかのようだった。


 『修学旅行の写真』の中のセーラー服の栞は、ますます千晴に似ている。

 ちょうどあの写真の中の栞は、千晴と現在の栞の中間地点に居るのだ。

 

 「……………」

 微動だにせず、千晴は石戸を見ている。

 

 石戸もしばらく、千晴の眼差しの中で凍り付いていた。

 栞はそんな二人の凍結にまったく気づかない様子で、ムシャムシャとカレーを頬張るのに夢中だった。

 石戸はなんとかこの気まずい沈黙をやり過ごすいい方法はないものかとあれこれ頭を働かせたが、結局、いつものように余計なことを考え過ぎて、一番簡単な解決法が目の前にあることに気づかなかった。

 数十秒、もしくは数分間の沈黙の後(栞はその間カレーに没頭していた)、石戸はようやく咳払いし、この場を打開するのに最も適切な言葉を口にした。

 

「ほんまにおいしいよ」

「良かった」

 千晴はそう言うと、視線をカレーに落とし、スプーンでそれを口に運び始めた。

 一瞬、目の錯覚ではないかと思ったが、その時確かに、千晴が微かな微笑みを浮かべるのを、石戸は見逃さなかった。

 

 どうやら好む好まざるに関わらず、これから栞と千晴、そして自分との3人の生活が始まるらしい。

 無論、それにあたっていろいろと考えねばならない現実問題は山積みだ。


 しかし今はしばし、この口内に広がるカレーがもたらす微かな快楽に対して、素直に喜んでいていいのではないか、と石戸は思った。

 それがいかに非・現実的な幸せであろうとも、だ。

 

 今、家には二人の美少女がいて、彼女らは自分と暮らしたいと言っている。

 複雑に考えさえしなければ、それはものすごく幸せなことではないのか?

 

 石戸はしばらくの間、がつがつとカレーを貪る千晴の口と、途切れ途切れにスプーンとキスをする千晴の口元を、うっとりした思いで見比べていた。

 どちらも同じ形、同じ色をした愛らしい唇だった。


 片方に自分は、性器を突っ込んだことがあり、片方には突っ込んだことはない。

 

 ……いかん、一体おれは何を考えているのだ。

 

 石戸は怪しからぬ考えを退けながら、再びカレーに向き直った。

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