第8話 おかえり at 新世界

 通天閣のてっぺんには“午後から雨”を報せるブルーのネオンが輝いていた。

 そのランプが、色のない夜空を青く照らしている。

 珍しく天気の表示どおり、夕方から降り出した雨は街を容赦なく街とそこを行き来する人々を打ち付けていた。年々濃くなる酸性雨は、建物と人々の暮らしを少しずつ、しかし確実に溶かしている。

 

 平気で傘も指さずに歩く人々を見るたび、石戸は首を傾げざるを得なかった。

 みんな、酸性雨の恐ろしさを知らないのだろうか?

 単に傘を持っていないだけか、それとも傘を買う金がないのか。

 傘なんて、その気になればどこでも拾うことができる……今日のように、雨が降っている日以外は。

 いかなる時も石戸は、カバンの中に折り畳み傘を入れて持ち歩くようにしていた。

 

 “雨に当たるとハゲになるで”

 

 雨が振るたびに、石戸の母はそう繰り返したものだ。

 その母も、石戸が12歳のとき結核をこじらせて死んだ。

 母が石戸に残したものは、折り畳み傘と、それを持ち歩くという習慣だけだった。

 

 店長にさんざん嫌みを言われながらも石戸は店を定時に上がり、予定していたとおり「肉のさかもと」でビフカツサンドを二つ買うと、軽い足取りで栞の待つわが家へ向かっていた。

 気が付くと石戸は鼻歌を歌っていた。

 いつも母が口ずさんでいた、スピッツの「スパイダー」の節だった。

 かつて、雨の日はわけもなく塞ぎ込んだものだが、栞とともに暮らしはじめてからは雨の街もまた美しく見える。

 ……むしろ、雨の夜は晴れの夜よりも美しかった。

 雨は少しずつ街を溶かしているが、それよりもずっと早い速度で街は汚れていく。

 人々の諦め、溜息、愚痴が煤のように街に溜まっているのが、石戸には見えた。

 たまに雨がそれらを溶かし、きれいに荒い流さないと……

 いつの日か人々は煤に押しつぶされてしまうだろう。

 

 人気の無い新世界フェスティバルゲートの中は湿気でムッとしている。

 真っ暗な館内に木霊する雨漏りの音はまるで川のせせらぎのようだ。


 石戸は自分の部屋のドアをノックした。

 いつもの合図……一回……三回……一回。

 この合図がない限り、部屋のドアを開けてはいけないと石戸は栞に言い聞かせている。合図の度に、何故かいつも少しだけ不安になるのだ……合図をしたはいいが、中から鍵を開けるはずの栞が居なくなっていたらどうしよう、と。


 しかし今夜も内側からドアの鍵が開き、ドアの隙間からちゃんと栞が覗いた。


「おかえり」


 栞はそう言うと、石戸が抱えているものを見て嬉しそうに笑った。

「それ、ひょっとしてビフカツサンド?」

「大当たり」石戸は大いにニヤけながら、包みを掲げて言った「ただいま」

「うれしー!!」

 栞はぴょん、と飛び上がり、石戸の首に巻き付いてくる。


 栞の躰はまるで羽のように軽い……それこそ、非・現実的なほどに。


 石戸は栞にしがみつかれながらも部屋に入ると、そのままドアを閉め、7個ある鍵を掛けた。

 

「もう、あんたは! あたしを喜ばすのにかけては天才なんやから!」そう言って栞は石戸の頬と言わず首と言わずいたるところにキスの雨を降らせた。「あんたはほんまもんの天才やわ!!」

 キスの雨を浴びながら、栞がいつもとは違う、よそ行きの青いカバーオールのワンピースを着ていることに気づいた。見たことのない服だった。

「今日は……どっか行ってたん?」

「ああ、これ?」栞は石戸の首からひらり、と飛び降りる「どう、似合っとる?」

 たまに……ごくたまに、栞には兵庫なまりが出ることがあった。

「……どうしたん、その服?」そんな服を買う金は栞にはないはずだし、部屋にもそんな金は置いていない。「……どこで、手に入れたん?」

「なによ、似合うてへん、言うわけ?」

 栞が意地悪な笑みを浮かべる。

「いや、そう言うわけやないけど……」

 石戸は口ごもった。

「……似合うてへん、っちゅうねんやろ。似合うてへんから、あたしにコレ、脱げ、って言いたいんやね。あんたって、ほんまにすけべえやな」

「え……あの、そういう訳やないけど……」上手いことはぐらかされそうになっている、と石戸は感じたが、なかなか言うべき言葉が出てこない「いやその……ただ……」

「脱いでほしい?」栞はそう言って、一歩後ずさると……ワンピースの裾を少し持ち上げた。「脱いでほしいんやろ?」

 

 栞の青白い太股が覗いた……膝小僧から上、15センチあたりまで。

 まるで分厚い雨雲が裂け、そこから光り輝く青天が覗いたようだった。

 

「ええと……」石戸の目はすでに栞の太股に釘付けになっていた。「そういう訳やないけど……」

「あんたがあたしを喜ばしてくれたから、今度はあたしがあんたを喜ばしてあげる」

「……これ……ビフカツサンド……食べへんの?」

「そんなん、後でチンしたらええやん」

 栞はそう言うと、ワンピースをするり、としなやかな身体にくぐらせた。

 

 鮮やかな脱皮だった。栞はワンピースの下に、何も付けていなかった。

 

「おっ……おおっ…tね」

 思わず石戸は、間抜けな感嘆詞を口にしていた。

 

 床に落ちたワンピースの上に乗る、栞の白く脆い裸身があった。

 脚を交叉させ、胸を張っているため……その肌には痛々しいまでに肋骨の形と腰骨の形が浮かび上がる。栞は微かな胸の膨らみの前に置いていた手をそのまま後ろに回し、尻の後ろで合わせた。そしてまた、あの何か良からぬことを企んでいるような、悪戯っぽい笑みを浮かべている。


 凝視することは……なぜか政治的に正しくない。

 思わず目を背けてしまいそうになるような危うい要素が、栞の裸身にはあった。

 その具体的な理由は、石戸にももよくわからない。


 栞の躰が初々しいというよりはむしろ、幼さを感じさせすぎるからだろうか?

 それともこの廃品だらけの部屋に、その美しい裸身が不似合い過ぎるからか?

 もしくは自分の生活圏の中に、一矢纏わぬ「痩身の少女」という非・現実的な存在があることが根本的に間違っているからか?


 直視してはいけない、目を逸らせ。

 と、叫ぶ理性とは裏腹に、石戸の視線は栞の身体を這い回っていた。

 栞は得に恥じ入る様子もなく(というか、自分から全裸になった訳なのだが)相変わらず挑発的な視線で石戸を見上げている。そんな生意気な仕草が、石戸の正気を奪い去っていく……一体そのワンピースはどこで手に入れたのだ、という至極当然な疑問など、もはやどうでもいいと棚上げできるくらいに。


 青いワンピースなど知るか。

 それより、あの合わさった太股の付け根に覗く薄い陰毛の眺めときたらどうだ。

 

「……する?」栞が一歩、石戸に近づく。「したい?」

「あ……ああ、でも……」

 

 言い終わる前に栞は石戸の前に跪くと、彼のズボンのジッパーを降ろしていた。

 

「すっごい……また、こんなにして……」栞のつめたい指が、石戸の肉棒を引きずり出した。「どんだ元気やの? あんた。今朝も抜いたったとこやのに……」

「………」返す言葉もなかった。

 今朝、フェラチオ→本番で一発抜いた。昨晩も……その前の晩も。

「……あんた。仕事中も、あたしをオカす事ばっかり考えてるんやろ? ……お店でも、あたしのことばーーっかり考えて……ちんちん固くしとんねんやろ?」

「………ええと……」その通りだった。

「ほんま、あんたは……ドすけべ。でも……そやから好きなんやで」


 栞は石戸の肉棒を、優しく濡れた粘膜で包み込んだ。

 その瞬間、全ての余計な思考は泡と消える……

 この状況がいかに非・現実的か、という疑念さえも。


 いつものように栞が派手に音を立てて石戸の亀頭を吸い上げた……石戸は二人前のビフカツサンドの包みを捧げ持ったまま、栞が舌と唇を懸命に使うのに任せた。

 

「…………こんなんイヤやない?」

 栞はそう言うと、石戸を見上げながら、石戸のズボンとパンツを下までずらした。

 石戸は栞に即されるままにズボンから片足を抜く。

 改めて栞は石戸の陰茎に舌を這わせた……裏側から陰嚢へと。

「おっ………おっ…………お」

 あれよあれよという間に、栞の舌は陰嚢に到達した。

 さらに栞は奧に分け入ろうとする。

 たまらず石戸が大きく脚を開くと、栞はその開いた脚の間にするりと忍び込み……そのまま肛門にまで舌を這わせた。

 

 なんということを。

 

 石戸は言葉も無かった。

 栞を制する間も無かった……いや、間はあったが栞の動きを制する、という選択肢が、石戸からすっかり失われていた。一体、栞はどこまでいやらしいのだろう? 

 ……時に石戸はその異様なまでの積極性に、空恐ろしくなることがある。

 それまでの石戸は、性の様々な行為に対して、全くの無知に等しかった。

 栞が行うことすべてが、石戸にとっては純粋に驚きの連続だった。

 

 一体、彼女は何者なのか?

 どこから来たのか?

 そしてどこまで行こうとするのか?

 

 様々な思いが頭を巡る。

 が、行為の最中関心があるのは、最後の問いかけだけだった。

 

 立ったまま射精しそうになったその時に、不意にお預けを食わされる。

「……つづきはここでする? ……それともベッドがええの?」

 栞が濡れた小さな唇を見せながら石戸を見上げた。

「ベ……べ……べ……ベッドで」

 なんとかそれだけ答える……後は流れに任せた。

 

 結局、二人がビフカツサンドにかぶりついたのは、それから1時間後だった。

 



 

 全裸でベッドの上に胡座をかいた栞は、まるでようやく餌にありついた小動物のように、サンドイッチに噛みついている。

 口の廻りはソースだらけだ。

 セックスに対しても、食べ物に対しても、栞は貪欲だ。

 その二つの欲求に対する一種の獰猛さは、全体的に儚げでおぼろげな栞の印象とは似つかわしくない。いつもは小さなガスの種火のような栞の生命の灯火は、その二つに面したとき、突然業火のように燃え上がる。

 

 しかしそれは石戸に、栞に向けての愛情をさらに炊きつける。


 その二つを知る自分は、誰よりも明らかに、確かに、栞の存在をつかまえているような気がした。無論、それが石戸のような男にとって愚かな自惚れであることは石戸自身も判っている。

 

しかし、それにしても……これはあまりにも、非・現実的だ……

 石戸はいつの間にか手にサンドイッチを半分残したまま、栞に魅入っていた。

「なあに?」サンドイッチから顔を上げて、栞が石戸の顔を覗き込む。

「なんでもないよ」石戸はそう言うと、栞から視線を背けた。

 

 と、視線を向けた先の壁に、一枚の写真が貼りつけてあることに石戸は気づいた。

 

 セーラー服を着た栞が、同じ制服を来た少女たちと一緒に映っている写真だ。

 電車かバスの中で撮影したらしい。

 写真の中で栞は、髪をお下げにしている。

 

「この写真、何?」

 ふと、石戸は栞に聞いた。

「それ?」栞は口をもぐもぐさせながら答える。「あたしの、中学の頃の写真、カワイイやろ」

 

 確かに……石戸は写真に魅入った。

 無邪気な笑みを浮かべる、今よりいくつか幼い、三つ編みの栞。

 しかもセーラー服だ。

 

 石戸はまたも……下半身にムズムズするものを覚え、おい、いい加減にしろよ、と心の中で自分を叱責した。

 

 おまえは、けだものか。

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