第4話 愛の新世界

「行ってらっしゃい。早よ帰ってきてな」そう言って栞は石戸の首に手を巻き付け、唇にキスをした。「ぜったい、ぜったいやで」

「うん、ぜったいはよ帰ってくる。ほな、戸締まりに気をつけてな」

 石戸は名残惜しそうに絡みつく栞の手を振りきると、部屋を飛び出した。


 完全に遅刻だ。


 動きを止めてから40年になるエスカレータを駆け下り、吹き抜けの中庭広場に出る。青天の空をバックにしたジェットコースターの鉄橋は、まるで古代に絶滅した恐竜の化石のようだ。巨大な石段を駆け下りると、すでに酔っ払いで溢れている新世界の街へ走り出た。

 

 栞が石戸の孤独な生活に闖入したのは、一ヶ月前のことだった。


 石戸は通天閣の下を通るたび、あの一月前の雨の日のことを思い出す。

 あの日はひどい土砂降りだった。新世界商店街のアーケードから、通天閣の真下まで、ほんの20メートルの距離を歩くのにも、全身をびしょぬれにしなければならなかった。朝はかんかん照りだったというのに……傘を持ってこなかったことを激しく後悔しながら、石戸は通天閣の下に飛び込んだ。


 通天閣は……今も健在である。

 はっきり言って天王寺駅周辺や阿倍野再々再開発地区には通天閣の10倍も背の高い高層ビルが軒を連ねているのだが……それでも大阪は相変わらず通天閣を何らかのシンボルとして捉えている。

 ここ20年で5度起こった労務者暴動の度に、今も労務者街として知られる西成・あいりん地区から押し寄せる暴徒たちと騒ぎを聞きつけて単にストレス発散に来る大馬鹿者ども(大阪弁では“いきり”という)の手により、JR新今宮駅を中心とするこの界隈一帯は完膚無きまでに破壊しつくされた。

 その度に“新世界は終わりだ”と囁かれるが……この街から酔っ払いとトチ狂った世界各国からの観光客の足は止まることがない。


 夜になれば通天閣はけばけばしい電光広告とともに、その頂点に明日の天気を報せるネオンの暗号を、大阪の街に送り続けている。


 上が赤、下も赤なら明日は一日晴れ。

 上がグレー、下が赤なら明日は曇りのち晴れ。

 上が青、下が青なら明日は一日雨。

 

 昨日、通天閣の暗号は上下とも赤だった……つまり予報は見事に外れた訳だ。

 

 さて、どしゃぶりの中、しばしの雨宿りの場所を得た石戸は、このまま塒であるフェスティバルゲート廃墟まで突っ走るべきか、それとも雨足が収まるのを少し待つべきか考えあぐねていた。

 石戸の他にも数名の年老いた酔っ払いが、ぼんやりと土砂降りの街を眺めていた。

 

 と、その時だった。

 

 滝のような雨の中を、ほっそりとした影法師がやって来るのが見えたのは。


 それはちょうど今さっき石戸が歩いてきたのと同じ方角から……アーケドの下からこっちにやってきた。一瞬、石戸は目を凝らした。

 人生を廃業した人間ばっかりのこの街で、そのシルエットは酷く場違いなものに感じられたからだ。それが近づくにつれて……その輪郭がはっきりとしてくる。

 ずぶ濡れになりながらも毅然とした足取りでこっちにやって来るそれは……身長150センチにも満たない少女だった。石戸は言葉を失った……まるで少女は、自分を目指すかのようにまっすぐこっちに歩いてくる。

 

 雨が作る水の壁をくぐり抜けるように、その少女は通天閣の下に入ってきた。

 

 腰までの長い髪はぺったりと細い躰に張り付き、青白い肌はこの死んだような風景の中で、まるで薄く光ってるように見えた。


 それより問題は少女の首から下だった。


 白いブラウスは濡れてぺったりと少女の肌に張り付いていた……そして、彼女はブラジャーをしていなかった。まだブラジャーをするほどの胸ではないと本人は思っているのかも知れない……しかし、透けて見える微かな膨らみとその頂点の変色した部分は、大いに石戸の情感を刺激した……ついでに一緒に雨宿りしていた酔っ払いたちの情感も。

 

 発作的に……まさに発作的に、石戸は少女の前に立ちはだかって透ける胸元を他の酔っ払いたちの視線から隠した。どうしても、それが自分以外の人間の目に触れるのが許せなかったのだ。

 ようするに……石戸は瞬間的に、それを独占したくなったのだ。

 

「…………」

 少女が、石戸の顔を見上げた。琥珀色の、薄い黒目だった。思わず心臓が止まる。

「………よう、降るね」

 石戸は、口の中でもぐもぐと言った。

「何?」

 少女が濡れた髪を掻き上げ、可愛らしい耳を出して、石戸の口元に近づける。

「えっ……その……あの……」

 人間の女と最後に口を効いたのはいつだろうか? 石戸は思わず口ごもった。

 同時に、差し出された小振りの耳に、しゃぶりつきたくなる衝動に駆られた。

「……何? ごめん。聞こえんかった」

 少女が歌うような声で言う。

「……あ……あの……よう降るね」

 今度はもう少しはっきり言えた。

「……そやね、よう降るね」

 少女はそう言って、うすく笑った。

「……傘、持ってへんの?」

 今度はさらにはっきりと言えた。

「自分こそ、傘持ってへんの?」少女は口をとがらせて言った「家、この近く?」

「……うん。そやけど………」石戸は少女と目を合わすことができなかった「……この雨やしね」

「ええな。屋根があるところに住んでるなんて………ああ、あたしどうしょうかなあ……今夜」

「……君は………き、君は」石戸は言葉に詰まった。まさかそんな。そんな都合のいい話があるか?「……い、家が、あらへんの?」

「……うん、ま、そやね」少女はそう言って、滝のように降り注ぐ雨のせいでぼやけた街の風景に目をやった「……“宿無し”やねん、あたし」

 

 沈黙。


 ちょっと待て……と、石戸は思った。こうした場合、どうすればいいのか。

 自分の無味乾燥な日常に、明らかな亀裂が入った瞬間だった。思えば、どうしても現実を非・現実的にしか捉えられない日常は、この瞬間から始まったのだ。


 どうすべきか?

 ……このまま、あと一歩踏み出さずに、また無味乾燥な日常に戻っていくべきか?

 それとも、ほんの少しの勇気を奮って……自分を灰色の日常から救うかもしれない(もしくはその代償として大グソ地獄に堕ちるか……)ハプニングに、夢見心地で身を任せるべきか……?

 思ったより、悩みは短くて済んだ。

 石戸は自分の口が、勝手にこう言うのを聞いた。

 

 「よ……良かったら………ウチに来えへんか?」

 

 少女が顔を上げた。一瞬、石戸は背筋が凍り付くのを感じた。


 少女の目から、一切の光は消えていた。


 日頃、自分をグズだのマヌケだの穀潰しだのと罵る勤め先の店長にも、これほどまでに冷たい視線を向けられたことはない……失敗だ……石とは思った。もし、言ってしまった言葉を取り消せるなら……コントロールキー+Zで取り消すことができるなら……どんなに素晴らしいだろうか。


 石戸はあっという間に絶望のどん底に叩き落とされた。


 そして心の中で呟き続ける……コントロールキー+Z……コントロールキー+Z……コントロールキー+Z……コントロールキー+Z……コントロールキー+Z……コントロールキー+Z…………。

 

 しかし、そこで奇跡が起こった。少女が石戸に微笑み掛けたのだ。

 目からあの冷凍光線は消え失せていた……あれは何かの見間違いだったと、石戸が思えるほどに。

 

「ええの?」少女は石戸に言った「……迷惑ちゃうの?」

「………と………とんでもない」石戸は答えた。

「ここから、自分のお家はすぐ?」少女が石戸顔を下から覗き込む「……あたしは栞。自分は?」

「僕は…………僕は、石戸」


 少女がにっこりと笑った。

 夢ではない……夢ではない筈だ。

 石戸と栞は、手と手を取り合って雨の中を駆けだした……雨宿りしている酔っ払いどもを置き去りに。

 

 “おらおら、おまえら、これからおめこかあああああ???”

 

 酔っ払いどもの心の叫びが聞こえてくるようだった。

 石戸は空にも駆け上がらん心地で、ついさっきまで自分の同類だった連中の世界から、この非・現実的な幸せの世界に飛び込んでいった。

 それから、石戸と栞は一緒に暮らしている。

  

 こんなことがあり得るか?……物語の中では、あり得るかも知れない。






 気が付けば石戸は駆け足をやめていたことに気づき、どう考えても遅刻のこの状況を思い直すと、慌てて仕事場への途を駆けだした。

 店長に怒鳴られるのはもう確実なのだが。

 

 石戸はねぐらとしているフィスティバルゲート廃墟から、歩いて15分の日本橋でんでんタウンの一角にある、シュミレーション体感ソフト専門店の倉庫番の仕事を得ていた。

 

 日本橋でんでんタウンは、かつて電気製品の販売店がひしめいていた家電製品店街であり、未だにそう呼ばれていたが、今や家電製品の店は一店もない。

 立ち並ぶのは様々なソフトの販売店……多くが、美少女との恋愛や性交、その他変態的性交のヴァーチャル・シミュレーションソフトである……6分の1スケールのお手ごろ価格の美少女アンドロイド、21世紀初頭のアダルト・DVDを並べるコレクターズ・ショップ、そして可愛いメイドさんがひととき心温まるサーヴィスを提供してくれる、メイド(無論、アンドロイドである)カフェといった店舗の数々。

 若い日本橋利用者にとって、この界隈がでんでんタウンと呼ばれていたことの理由を知る者は少ない。その界隈にある一角が、五階建ての建物などどこにも見あたらないのに『五階屋百貨商店街』と呼ばれている理由を誰も知らないのと一緒で。

 

 出勤時間を25分過ぎて、石戸は店のタイムカードを押した。

 石戸が顔を上げるより先に、店長の罵声が飛んできた。

 

「お前は……お前は自分を何様やと思とるんや???」喚きながら、店長が近づいてくる「……自分だけは遅刻しても、許されると思っとんのか?? ……ええ?? お前は、何様や??」

「す、すみません………」石戸は恐る恐る店長を見た。

 

 若ハゲの、小男がそこに立っている。

 油染みた顔をして、部下の中でも石戸のように叱りやすい相手にだけ怒鳴り散らし、言いにくい相手には黙っているような小さな男が。

 店長は、童貞だという噂だ。

 同性愛にも踏み出せず、セックスの歓びをチャチなミニ・スケールのアンドロイドで……旧来のダッチワイフとさして変わらぬ粗悪品で、毎夜寂しく自分の性欲を慰めていると言う。

 店長がお決まりの説教を並べ始めた。

 

 石戸は耳の電源をオフにした……そして、早くも終業後の予定をあれこれ考えはじめた。

 

 今晩は、新世界市場の肉のさかもとでビフカツサンドを買って帰ろう。

 

 栞はきっと喜ぶに違いない……うん、間違いない。

 店長は喚き続けたが、石戸の意識はそこから20000光年むこうの世界にあった。

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