第三話 隔絶(Isolated area)

「オーナー、救急車を呼んでください!」声の高い壮年の男性は叫んだ。

「いや、あれはもう死んでしまっているでしょう……。こんな高いところから落ちたのならひとたまりもない」菓子オーナーの声は重い。当然であろう。

 ここから谷底で動かない彼の姿までの高低差は、二十五メートルくらいはありそうだ。建物にして七、八階建てだろうか。硬い岩場に衝突しているのなら、無事であるわけがない。

「まっさん……」清潔感のない無精髭の男が小さく呟いた。

「オーナー!」主催者ではないイケメンが菓子オーナーに呼びかける。「あの、谷底に下りるルートはないでしょうか? もう亡くなってしまっとるでしょうが、確認をしたいのです!」

 なんて無謀なことを言う人だろうか。勇気ある行動であっても、失礼ながら知鶴はそう感じてしまった。軽々しいナンパ野郎かと思ったが、どこか使命感に溢れている。

「ここから谷底に下りるのは危険です。これだけの断崖絶壁ですし、緩やかに下る道はありません」

「ではロープを……」イケメンの男性はなおも谷底に向かう方法を模索するが、瞬時にそれを止める声があった。

「お兄さん、止めときましょう。どう見てもあれは死んでいる。こんな暗い中で谷底に下りるのは自殺行為です。それでもあなたがそこまで使命感に湧く必要性があるのですか?」茶髪のミディアムショートの美女だった。

「──俺は、こう見えて医者なんよ。信じやんかもしれんけど……。ハンドルネームは『ハックルベリー』。俺の本名、『クルベリイチ』は、病理学会に所属する専門医です」

 イケメンの男性の突然の告白に皆は目を丸くしている。

「あなたが『ハックルベリー』」スポーツ刈りの高身長の青年が言う。

「証拠をお見せしましょう」クルベリイチと名乗る青年は、スマートフォンを操作しだした。三重県市の某総合病院のホームページの医師紹介のページを開いた。『病理診断科』の医師紹介の医長として、顔写真とともに『くるいち』と紹介されている。そして顔写真は、まさしく眼前の男性であった。彼の言う通り正真正銘の医師のようだ。

「先生でしたか……」声の高い壮年の男性は少し驚いたように呟いた。

 なるほど。『ハッ』で『クルベリイチ』とは、なかなか高度なネーミングセンスだ、とどうでもいいことに知鶴は感心する。それにしても『訓覇』というのは、正直読み仮名がないと絶対読めない珍しい苗字だと思われる。

「あ、あのぅ……、とにかく警察を呼びませんか」男性陣の中でいちばん若そうな幼い顔立ちの青年が、どこか遠慮気味に言った。

「ええ。でもこの橋が壊されてしまっている以上、警察はここには来られません」と、菓子オーナーが困惑した表情を見せながら言った。

「え!? この吊り橋以外にルートはないんすか? 例えば、吊り橋じゃなくて、森の方から来るルートとかは?」訓覇が驚きの声を上げた。

「……ないですね。まず、この橋がこちらと対岸を繋ぐ唯一の橋です。そして、このペンションの裏側はすぐ山になっていて、獣道すらない傾斜の急な樹海です。ここに住んでいる私も、そこには立ち入ったことはありません」

「それじゃ、アタシたちも、ここから出られないってこと!?」ギャルの女性が信じられない顔で問う。

「残念ながらそういうことになります」

「冗談じゃない! 何でこんなへきに閉じ込められなきゃいけないの! 何でこんなところにペンションを建てたんよ!」ギャルはいきどおった。

「そ、そんなことをおっしゃられても……」明らかに菓子オーナーは動揺している。無理もない。完全なる言いがかりである。

「お姉さん。今こそ冷静にならなきゃいけません。これはきっと事故じゃなくて人為的に造り出された閉鎖空間です」そう言ったのは、茶髪のミディアムショートの美女だ。その声はひどく落ち着いていた。相手の名前もハンドルネームも分からないので『お姉さん』などと呼ばざるを得ない状況だ。

「えっ?」ギャルの女性が反応する。

「この吊り橋を見て下さい。この橋のケーブルを支えている木製の支柱が、おののようなもので鋭く切断されているように見えます。またケーブルも鋭利なもので切られているようです。これは人為的にこの橋が壊されたことを意味しています。さらに、切られた橋の本体は、私たちから見て対岸にぶら下がっている。つまり、橋を壊した犯人は、こちら側の岸にいる可能性が高いってことね」

 確かに、茶髪のミディアムショートの美女が言うように、人為的な所作によって、吊り橋は切り落とされたように見える。知鶴は、この美しい女性の発言に対して心の中で賛同した。

「ってことは……」

「こちら側の岸にいるのが私たちしかいないとすると、橋を破壊した犯人は私たちの中の誰かってことになりますよね」静かに茶髪のミディアムショートの美女は答える。

「嘘でしょ? 何のために?」今度は珍しくベリーショートのボーイッシュな女性が口を開いた。

「そこまでは私には分からないわ」

「オーナー、こちら側には私たち以外にはいないのですか?」訓覇が尋ねた。

「いないと思いますが……。ご覧のとおり、こちら側にペンション以外に民家などはありませんから。まさか樹海に不審人物がいるとは思えません……。ただ茂みに隠れている可能性はゼロとは言えませんが……」オーナーの口調はどこか自信なさげで、どっち付かずの回答だ。ただこの場合はこう答えるしかなかろう。鬱蒼うっそうとした森の中に不審者がいる可能性は排除できていないのだ。

「さっき人為的に橋が壊されたって言ってましたけど、ひょっとして、谷底に落ちた彼は、落ちたんじゃなくてこの中の誰かに突き落とされたのかもしれやんって思ってますか?」訓覇が茶髪のミディアムショートの美女に問いかける。

「いや、そう断言するのは早いけど、私はその可能性もあると思っています」そう答えたあと、今度は視線を訓覇に向けた。「『ハックルベリー』さん、あなた、自分のハンドルネームや身分を明かしたのは早計ですよ」

「どういうことや?」

「玄関先にイチゴが散らばっていたのはお気付きですか?」

「何か散らばっとったな。それが一体どういうことやろうか?」訓覇は眉をひそめる。

「オーナーさん。谷底に落ちた彼は、ペンションを予約した幹事さんですよね?」今度はオーナーに尋ねた。

「そうですが……」

「では彼の本名もご存知ですよね? 教えてもらえますか」

「ええ……。ま、枡谷ますたにいちさんとおっしゃいます」

「『イチゴ』!? 彼の本名だったのか! つまり彼がまさしく『ストロベリー』さんだったわけか!」驚いたように声を上げたのは、壮年の男性参加者だ。

「このとおり、被害者の彼はハンドルネーム『ストロベリー』。そして、玄関の床という不自然な場所に散らばっていた果実も『ストロベリー』。しかも、どういうわけだか潰されて一部はぐちゃぐちゃになっていたわね。これが偶然だと思う?」

「……」

「そして、もう一つ。玄関にはもう一つ気になるものが置かれていたのはお気付きで?」

「いや、先を急いでいて、そこまでは気付かんかった。それは何です?」訓覇は頭を掻きながら言った。

「実際に玄関に戻ってみますか」

「……ええ」

 茶髪のミディアムショートの美女と訓覇の会話に促されるようにして、一同は玄関に向かった。茶髪のミディアムショートの美女はやや急ぎ足で、他の者がそれについていく形だ。川上犬のシンが再び吠え立てる。オーナーは落胆のためか、叱る気力もないようだ。

「こ、これは……?」訓覇が驚きの声を上げる。

 そこに見えたのは床に散らばった潰れたイチゴと、その靴箱の上に置かれたもう一つの果実。

「ええ。ラズベリーね」茶髪のミディアムショートの美女はきっぱりと言った。

 知鶴は違和感を感じた。ラズベリーだったか。見間違ったか。玄関を出たときには赤い果実だと思ったが、実際は赤というよりも赤紫である。形も違うような。

「じゃあ、『ラズベリー』さんが『ストロベリー』さんを突き落としたってこと?」壮年の男性が言うや否や、被せるようにギャルの女性がいきり立って言った。

「『ラズベリー』が犯人で決まりじゃない! 突き落としたのも、橋を壊したのも! 順番にハンドルネームを明かせば良いんだ!」

「それはまずいわ」言下に茶髪のミディアムショートの美女がギャルを制した。

「何でよ!?」

「もし、あなたが仮に犯人だったとして、あなたはわざわざ、私が犯人ですよと主張するようにシェーマ化なんてする?」

「……」

 やはりこの茶髪のミディアムショートの女性は、玄関で何か工作されていて、どこに何が配置されているのかまでしっかり気付いていたのだ。そのちょっとした時間で光景の変化に敏感に反応して、そこから推論する。しかも理路整然として今のところ反論の余地はない。彼女の洞察力もなかなか侮れないな、と知鶴は舌を巻いた。

「つまり、『ラズベリー』が犯人だと決めつけるのは、あまりに早まった考えだと言わざるを得ない。そして私が自分のハンドルネームを明かさない方が良いと言ったのは……」

「明かさない方が良いと言ったのは??」訓覇はおう返しした。

「もし、ここに置かれた『ラズベリー』が犯人でなくて、次の犠牲者を示しているとしたら……」

「あっ! なるほど!」壮年の男性が頷いた。

「そう。誰がどんな目的かは知らないけど、犯人は次の命を狙っているんだわ。でなきゃ、橋を破壊して閉じ込める意味がないじゃない? 私たち初対面どうし、自分の身を守るために、少なくともハンドルネームは明かさない方が身のためです!」茶髪のミディアムショートの美女は、静かにそう答えたが、その発言にはどこか力強さを感じた。

 訓覇は自分の行動が早計に過ぎたことを実感したのか、口をつぐんで渋い表情をしていた。

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