Ⅲ
16.旅立つ者と残される者
とうとう国王軍出立の日が来た。
屋敷の前にずらりと並ぶは、期日ぎりぎりまで掻き集めた兵士たち。鎧の銀色が冬の日を受けて鈍く光り、白や青の旗印が冷たい風に煽られている。
フリックはヴァイスフリューク家の騎士長として、列の中ほどに立っていた。年若く経験も浅いフリックの代わりに、ブラウエンの部下が隊を主導しており、フリックの部隊はその一翼を担っているのだ。
彼は、アルトとシュロットとロイヤーが駆け寄ってきたのを見て、目を細めた。
「フリック、これ」
アルトは大事に抱えたお菓子の籠と、お守りがわりに拾ってきた伝書鳥の羽根を差し出した。
「無事で帰ってきてね」
青い瞳に、切実な願いが痛いほど込められている。
フリックは何故だか、主人の頭を撫でてやりたい衝動に駆られた。
無論、そんな無礼な真似はできない──そこで彼はいつものように屈み込んだ。片方の手を自分の胸に当てる。
「仰せのままに」
アルトはこそばゆそうに笑った。
「約束だよ?」
「心得ております」
ぶおーん……と角笛が低く唸った。びりびりと伝わってくる振動が、別れの時を知らせていた。
フリックは立ち上がった。
「アルト様も、どうかご無事で」
「うん」
「二人とも、アルト様を頼んだぞ」
側近たちは、無言で頷いた。
短い間とはいえ、共に新体制を支えた間柄だ。そう思うと感慨深かった。
太鼓が鳴りはじめる。
足踏み開始。
朝の冷たく張り詰めた空気を、荒々しい軍靴の音が、ガチャンガチャンと揺らしている。
前進。
隊列がゆっくりと動き出す。
フリックは三人の姿を目に焼き付けて、大切に胸の奥に仕舞った。それから唇を引き締め、前を向いて歩き始めた。
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
屋敷は歓声に包まれている。
旗があちこちで振られている。
それらは、だんだんと小さく遠ざかって──やがて、道の後ろへ消えて行った。
***
人が減って、屋敷はすっかり寂しくなってしまった。
アルトは勉強したり稽古をしたりと、静かに毎日を送った。
屋敷はそろそろ探検し尽くしてしまい、“もてなし”の回数も減った。
二度目の儀式も執り行った。アルトはセウェルさまに色々とお聞きしようと努めたが、予言はいつにも増して掴みどころがなかった。
「気をつけるがよい。近い将来、大きな変化がある」
何のことやら。ここまで中身がスカスカでは困る。
「何が起こるか、教えてください」
「……どうも最近、ワシは力が出ないのじゃ」
善神セウェルは言い訳のように呟いた。
「そんな。もう助けてはくれないんですか?」
「否、危ない時には助けよう……恐らくじゃがの」
「えええ……」
成果を聞いた神官たちはしばらく、難しい顔で文献と睨めっこすることになった。過去の記録の海を浚って、似たような予言の例を拾い上げるのだ。
「『大きな変化』の予言や、『力が出ない』等のお言葉は、新しい王が立たれて日が浅いころによく見られるようです。後には大抵、王家にとって良くないことが起きています」
「ふうん」
そんなことは前の儀式でとうに知れ渡っている。よって宮廷の雰囲気は以前と同じく、ひっそり静かでどことなく暗い。
そんな中、祖父が、息を引き取った。
ベッドで寝ていたアルトが、揺り起こされて祖父の部屋へ着いた頃には、沢山の人が集まっていた。付き添いで来た乳母が人混みを掻き分けて、アルトを祖父のところまで行かせてくれた。
蝋燭の光に浮かび上がる祖父の顔は、白くて、かさかさしていて、小さかったが、ただいつものように寝ているだけにも見えた。
伯父がいて、黙って祖父の手を握っていた。三人の従兄たちが並んで立っていて、いずれも沈痛な面持ちだった。
アルトは何も言わなかった。こんな時にもやはり、言うべきことは思いつかなかった。
ありがとうも、さようならも、アルトの気持ちを完全に表す言葉ではない。思いを口に出したらたちまち霧散してしまいそうで、どんな言葉も的確ではなかった。
例えその言葉をアルトが知っていて、言うことができたとしても──眠ってしまった人には、何も伝えることはできない。
一瞬、あの日の姉たちの寝顔が、脳裏に克明に蘇った。
これまで幾度となく感じてきた虚ろさが、胸に広がる。呑まれそうになるのを、アルトはじっと耐えた。
この世界にいるのは、起きている人だけ。
やがてアルトは欠伸を連発し始めたので、部屋に戻された。布団をかけてくれた召使いが部屋を出たら、すぐに眠ろうと思ったのに、一人になると寂しくなってしまい、寝付くまでに時を要した。
朝焼けの紅い光が満ちる頃に目が覚めて、ゴシゴシと顔を擦った。流れたものは熱いのに、枕はじめじめと冷たかった。
起き上がり、窓を開ける。
こんな美しい空を見る人が、世界から一人、減ってしまった。祖父が生前見ていた世界は、いずこへと消えてしまった。
百年間眠るのと、死ぬのとでは、ほんの少し何かが違う。アルトの家族には続きがあるけれど、お爺様には無いのだ。
そんなことを考えながらぼんやりしていた。
「なんか……やることないや……」
召使いを呼んでもいいけれど、きっとまた忙しいんだろうな。
気晴らしに、一人で顔を洗っていると、乳母が入室してきた。支度を手伝った後、アルトを優しく抱き寄せて、頰にキスをしてくれた。
あったかい。
乳母の腕の中で、アルトはもう一度頰を濡らした。
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