12.敗北の悪夢を見る
儀式の後は、神官が協議して、内容を告知するのが決まりである。
よって、その日は、宮廷の至る所でざわめきが絶えない事態となった。
「国王軍が負けるというのはまことか!?」
「しかしあの弱小のシュヴァルツが、一体どんな手を使ってくるというのだ」
「とんでもない魔物を連れてくるらしいぞ!」
「いや、もっと強力な呪いを用意しているに相違ない」
「しかもこちらは、人手も国庫も不足しているらしいではないか」
憶測が飛び交い、不安が伝染し、兵士の士気にも影響しかねない。これでは敗色濃厚説も現実味を帯びてくるというものだ。
「今更怖気付いて何となる、馬鹿者!」
ヴァシリー・ブラウエン卿は一喝した。
そして、強い精神力こそが絶望的な状況を打開するのだと、説いて回った。
それでも異を唱える者をヴァシリーは一人二人つかまえて、その場で声高に左遷を命令した。
「出て行け。何を突っ立っておるのだ。早く荷物をまとめんか!」
彼らが衛兵にせっつかれて、本当に宮廷から退場すると、みなぷっつりと口を噤んでしまった。
おかげで夕方ごろには騒ぎは落ち着いたかに見えた。
しかし、人々の心から危惧が消えることはなかった。
そもそも黒い森が本当に無力な一地方に過ぎなければ、誰も恐れはしなかったろう。
黒い森には、強い魔力と怪奇が宿る。
かつて、そこは人の住めるような地ではなかった。
何とか平定し、開拓を進め、その地を得たのがアルトの祖先だ。
だが現在も、安心して暮らせる場所は僅かしかなく、黒い森の領地の大半が未知の領域──本来の意味での“黒い森”である。
その森は、人々に恵みと力をもたらすと同時に、侵してはならぬ領域でもある。
奇怪な噂も付き物で、地元の人でさえ森の中では決まった道しか歩かず、夜は絶対に出歩かないという。
道を外れればそこは怪異と不可思議の巣窟で、命知らずのゴロツキどもまでうろついている。
アルトも城に住んでいたころ、乳母に寝物語として聞かされた。
「黒い森に迷い込んだら、無事では帰れないんですって。魔物に取り憑かれるとか、失明するとか、魂を抜かれるとか、忽然と消えていなくなるとか、人喰い女に喰われるとか」
おっとりした口調で、随分と物騒な話である。
怖がったアルトが身を竦ませたので、乳母は大丈夫ですよと落ち着かせてくれた。
──とにかく黒い森とは、そういう得体の知れない何かだった。
だがその分とても貧しく、王家に逆らい続けるほどの力など蓄えられようはずもない。
つい先日まで、誰もがそう思っていた。アルトもその一人だ。
だが今は違う。
それには、幾日か前のもう一つの事件の記憶が関係している。
***
襲撃を受けてから七日後、逃げ出したアルトたちは僅かな兵士とともに隊列を組んで、城へ向かっていた。
驚いたことに敵方の兵は少ししかおらず、それも簡単に切り捨てて中に入ることができた。太い蔓も、三人ほどでかかれば何とか切断できた。
あちこちで、兵士たちが蔦を引き剥がそうと奮闘し始める。
頼み込んで連れて来てもらったアルトは、離れたところでその作業を見ていた。
城に戻ってきた目的は、まず城の奪還。
それが叶わなくとも、最後に一目でも家族と城を拝みたかったし、伝書鳥をはじめ要り用なものを回収する必要があった。
今思えば愚の骨頂であるが、この作戦はあくまで、城の護衛任務の延長だと認識されていた。
過度な暴挙に及んだ小物を、追い払うだけだと。
作業は滞りなく行われた。切断された植物の隙間から、冠、十羽ほどの伝書鳥、判子、書類の山、高価な宝物、などが運び出されていく。
この調子だと何の抵抗も受けることなく、城を奪還できるかも知れない。
と思っていたが、甘かった。きっとあれは単純な囮作戦だったのだ。
突如物凄い地響き、次いで爆音と共に、新たな
ある者は蔓の先に貫かれ、ある者は蔦に押し潰され、ある者は締め上げられて、全員、たちどころに命を落とした。
蔓延る濃緑に、幾人もの鮮血が滴る。
──ひどい。許さない。
恐怖に打ち震え、護衛達に抱えられて敗走しながら、アルトはその赤く凄惨な光景を、真っ青な目に焼き付けた。
──いつかこの呪いごと、黒い森を滅亡させる。
此度の反乱において、国王側が初めて死者を出した日だった。
アルトたちは成す術もなく撤退した。遺体の回収はままならなかった。
いたずらに数を減らした一行は、外戚である青い泉のブラウエン家を頼ってひたすらに馬を進めた。
身軽な上に焦りも手伝い、約三日で道程を駆け抜けたアルトたちは、その足で戴冠式を行い体勢を立て直すことになる。
***
あんな人智を超えた災害、もとい呪い相手に、戦うのは無益だ。直接本拠地を叩かないと相手に損害を与えられないし、勝ち目もない。
今度の戦が“首都奪還”ではなく“黒い森の鎮圧”なのも、今回の反省を踏まえてのことである。
改めて大軍を引き連れて叩きのめせば、降伏せざるを得まいというのが、大方の予想だった。妖精の呪いに敗れる例なら過去の文献にも残っているが、どれも奇襲作戦でしかなく、整った軍備を前にしては無力だったという。
だが、神のお言葉とあっては話が違ってくる。
アルトは、またあんな風に無意味に人を死なせたくなかった。
今度はフリックも戦場に赴くというし、気が気でない。
(戦う覚悟を決めたはずなのに、僕ったらやっぱり甘えん坊なのかなあ)
などと、悩みながら歩いていたものだから、前方不注意で誰かのお腹に頭をぶつけた。
あいて、という声を聞いて見上げればヴァシリーの三男、すなわちアルトの従兄であった。
「ごめん」
「別に、構いませんが。お気をつけ下さいね」
「うん」
アルトは道を譲り、従兄が去っていくのをぼんやり眺めた。
後からじわじわと、苦い思いが湧いてきた。やっと慣れ始めた新しい生活すら、心細くてたまらない気持ちになった。
疲れ切ったアルトの心には、従兄の不親切な態度は追い討ちでしかなかったのだ。
***
この日は眠りについてからも、嫌な夢をたくさん見た。
何かに追いかけ回され逃げるうち、いつの間にか周囲は森の中に変わっていて、下草に足を取られて転んでしまう。後ろからは蔓の怪物が雁字搦めに縛ってくる。よく見たら蔓が自分の左腕に、いや全身に溶け込んで引き剝がせない。大慌てで、しゃにむに城に駆け込むと、父が、兄が、怪物になったアルトを成敗しようと兵士をけしかける。その二人の姿も怪物のようだったが、聖なる白い光を放ってもいるようで……。
「僕は悪いやつじゃないよ!」
夢の中で、アルトは叫んだ。
うっすらと目を開ける。まだ辺りは真っ暗だ。
色々なものが混ざった夢だった。
混ざるのは怖いことだと思った。
アルトは左腕をさすった。それから、セウェル神の加護を祈って両手を組み合わせ、再びうとうととまどろんだ。
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