10.側近たちの受難
戦が近い。昨日の会議で出兵が決定された。
人が集まり次第、出発する。予定ではあと一月ほど。体制を整えた上で大きな反乱の鎮圧に乗り出すのだから、支度を急がねばならない。
それなのにこの日の午後、騎士長フリックの手には剣ではなく羽ペンが握られていた。
「くそ、訓練に参加したかった」
「文句を言うな、フリック」
「戦が起こるのならば鍛えるのが優先だとは思わんのか」
シュロットはしばし間を置いてから、やや突っ慳貪に言った。
「……するべき仕事をこなせ」
フリックはムッとした。
「これが『するべき仕事』だって? おい、聞いてるのか」
「フリック、時間がありません。手を動かして下さい」
ロイヤーが口を挟み、フリックは不満げに口を閉じた。
大きな作業机で、王家に仕える官吏たちが、ひたすら手紙を書いている。その数、フリックを除いて四人。
内容は、国王就任の挨拶に鎮圧告知の命令書など。全国の領主や外国の君主に向けてしたためるそれは、合計で百枚は下らない。
空気はぴりぴりと張りつめ、みな辛そうに疲労と戦っている。黙々と作業しているのはシュロットくらいだが、彼の眉間には小さく皺が刻まれていた。
フリックは渋々、手紙の文章を写し始めた。
「青い泉の臣下に頼めないのか」
ブツブツ言うと、ロイヤーがこれまた端的に返した。
「曰く、忙しいとか」
「俺よりは暇だろうが……いや言っても詮無いことか」
ヴァイスフリューク家に仕える者たちは、この屋敷では少数派だ。その上、今やその殆どが若輩である。ゆえにみな立場が低く、肩身の狭い状況に甘んじている。
面倒な仕事を回されたり、重要な役職を外されたりと、小さな軋轢はここに来た時から始まっていた。
側近や補佐官、騎士長といった肩書きも名ばかりで、実質は青い泉の派閥が政治を回している。だがそんな理不尽も、黙って耐え忍ぶしかないのは先刻承知である。
「分かっているなら言わないで下さい」
「……ロイヤー殿は素っ気ないな……女はもう少しこう、気が優しい方がいいぞ……」
今度は返事がなかった。
密かに傷つきながら、フリックは大人しく文字を書き写すことにした。
***
この日、とうとうフリックは訓練に戻れなかった。夕飯も片手間で済ませて作業を進め、最後の宛名を書いた頃にはとっくに日は落ちていた。
「あー、くそ」
フリックはいらいらしていた。
「疲れました……」
ロイヤーは表情筋を動かす気力すら無いらしく、真顔でこぼした。
フリックは気だるげにロイヤーの方を見やった。そして、彼女が何となく注視している対象に気づいて、言った。
「おい、シュロット殿。どうかしたか」
シュロットは右手が痛むのか、軽く握り込んでいた。
「どうもしない。多少、辛かったただけだ」
「勉強家の貴様がか。相当だな」
「気遣いは無用だ」
シュロットが言うので、フリックはあまり面白くない思いで口を閉じた。
(分からん奴だな、この男も)
もう少しましな物言いはできないのだろうか。
二人を他所に、ロイヤーは書きあがった手紙の束をトントンと揃え始めた。シュロットを気にしているのかいないのか、この女もよく分からない。
フリックが黙って作業の様子を見ていると、ロイヤーは再び疲れた様子で口を開いた。
「明日にでもこの手紙への押印を、アルト様にお願いし……」
それからはたと何か思い出したように、手を止めた。
「……明日は確か、お祈りの日でしたね」
三人は顔を見合わせた。
アルトが初めて儀式を行うというのに、前日に何の伝達もせず放ったらかしていたとは。
仕事のせいとはいえ、あんまりではないか。
「……確認して来ます」
ロイヤーが急いで立ち上がった丁度その時、アルト本人が戸口から顔を出したので、彼女は心底驚いたようだった。
「みんな」
「ア、アルト様」
「みんな、ずっと書いてたの? 終わった?」
五人がそれぞれ頷いたのを見て、アルトは嬉しそうに笑った。
「良かった。僕もう寝ちゃうから、お疲れさまって言いに来たんだよ。お疲れさま」
お疲れさま。
幼い主君の、たった一言の労いが、慈愛に満ちた雫となって、荒んだ心身に染み渡る。
「あれ、どうしたの……」
「アルト様」
「うん?」
ロイヤーが、深い感謝を込めて頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼女の後ろ姿を、フリックは少し意外な思いで見つめた。こういう誠実なところもあるのだと思った。
(アルト様のお人柄もあるんだろう)
それに、頭が下がる思いなのは自分も同じだ。
気にかけて下さっているとは露ほども思っていなかった。宮廷内で味方などいないような気持ちになっていた。
フリックもロイヤーに従い、主に向かって礼をした。視界の端で、シュロットや他の二人も首を垂れるのが見えた。
この部屋の者たちはみな、同じ思いを抱いている──こう、フリックは思った。
アルトはというと、家臣たちが次々とお辞儀をしたので戸惑ったらしく、助けを求めるように後ろを向いた。そこには乳母が控えていたようで、「アルト様がお優しいもんだから、みんな感動なさったんですよ」などと言っている。
「ふーん」
アルトは分かったようなそうでもないような声で言った。
「そんなことより、僕おやつ沢山もらったんだ。もういらないからお夜食にあげるね」
えっ、そのような、とロイヤーは狼狽した。フリックは喜色を隠せず、「これはこれは」と言ってしまっていた。
アルトは小鉢に取り分けた焼き菓子をお盆ごと机に置くと、「おやすみー」と顔を引っ込めた。
「あ、あの、明日のお祈りのご準備は……」
ロイヤーが慌てて呼び止めようとすると、乳母が手際よく小鉢を机に置き、お盆を回収しながら答えた。
「済ませましたよ。暗記までバッチリ。あとで私のところまで、確かめにいらっしゃいな」
「……はい」
家臣たちは恥じ入るしかなかった。
***
蝋燭の光の下、側近三人で顔を付き合わせて確認した結果、儀式の手順に間違いは無さそうだった。
毎週の儀式は、祭りのような公のものではなく、アルト一人が執り行う。準備は衣装や祭壇など軽いもので済む一方で、アルトが段取りを踏まえているかどうかが最大の問題だった。
だがアルトは、初めから終わりまで完全に覚えたらしく、証拠として羊皮紙に書きとった文字にまで誤りが無かった。
「さすがですね」
ロイヤーは思わずといった様子で述べた。
「でしょう」
乳母は自慢げである。フリックも感心せざるを得なかった。今時珍しいほどしっかりした子供だ。自分たちが仕えているのは立派な人物なのだと、改めて実感する。
乳母もかなりのところ手伝ってくれたらしかった。
「お手数をおかけして申し訳ない」
シュロットは律儀に言った。
「いやですねぇ。困った時はお互い様ですよ」
乳母は頼もしく笑ってみせた。この発言も、三人を大いに勇気付けた。
一人一つずつ菓子の小鉢を持って、廊下を歩いて寝室へ向かう途中、フリックは二人に言った。
「アルト様は大したお方だな」
「そうですね」
「うむ」
「アルト様がいらっしゃると思うと、俺は頑張れるぞ」
「ええ」
「……そうだな」
この宮廷でいかに肩身が狭かろうと、フリックたちの主人はアルトなのである。
小さくて無力で、優しくて気丈な、あのアルトなのだ。
これ以上に勇気付けられることがあろうか。
「フリック」
おもむろにシュロットが口を開いた。
「何だ」
「戦で死んではならんぞ」
いきなり何かと、フリックは訝しげにシュロットを見た。
そこにはいつも通りの気難しそうな顔が、蝋燭の火に揺れているだけだ。その口がまた開いて言葉を紡ぐ。
「貴殿のような、よい騎士を喪うのは、惜しいからな」
どうやら大真面目である。
「……シュロット殿もそんなことを言うんだな」
フリックは感銘を受けた。
「どういう意味だ」
「いやあ。貴様は何を考えているか分からん所があったもんでな」
「なっ」
「そうですか? 私は分かりやすいと思っていました」
「なっ!?」
「ほう、どの辺がだ」
「仕草など見れば普通に。堅物ですし」
「そういうもんか?」
「や、やめんか二人とも」
「困った時の反応はこう、ご覧の通りですし」
「ほうほう、成る程な」
「やめんか……」
「ふふ」
小声の談笑は、彼らの帰路が分かれるまで、続いた。
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