8.商業都市のお転婆娘


 王家直轄地から見て南西の海沿いに位置する、小さな領邦都市にて。


 当主半永眠の憂き目に遭い、若き新当主ベアトリスは気が抜けぬ日々を送っていた。彼女の眉間には、度々皺が刻まれる。

 この日の夕方、丁度開戦決定の会議の頃にも、どうやら一騒ぎ起きていた。


「姉さん」

「何よ」

「それ、あたしのためにあるような仕事じゃないか!」


 スーザンは顔を輝かせて、ベアトリスの卓をばんばん叩いた。


「お止めなさい」

「その仕事あたしにやらせてよ!」

「お止めなさい。どうせあんたならそう言うと思ってたわよ」

「ありがとう姉さん!」

「お止めなさい」


 ベアトリスは妹の手を払い落とした。このままこの怪力で叩かれ続けては、いつか卓が割れる。それに。

「お転婆もいい加減にして。あんたのそういうところが不安なのよ。宮廷へ行ってそんなはしたない真似をしたら、許さないから」

 スーザンは払われた手を痛そうにブラブラと振りながら、口を尖らせてベアトリスを見た。

「あたしは大丈夫だって」

「もう、何がよ。今日だってそんな服を着て」

「……え、何のこと?」


 すっとぼける気だ。そうは行くかと、ベアトリスは息を吸い込んだ。



「ドレスを改造して下に乗馬着をつけるのは止めなさいと、言ったでしょう!」



 めつけると、妹は諦めたように肩を竦めた。


「ちぇっ、ばれたなら仕方ない」


 スーザンが腰の留め具を外して、ドレスのスカート部分を取ると、中から動きやすそうな型の女性用キュロットが顔を出した。

「いつまでもドレスなんか着てられっか」


 ベアトリスは額に手を当てて天井を仰ぎ、それから叫んだ。

「ああっ、もう! 人前でスカート下ろすのも止めなさいってば! あと言葉遣いもいい加減に改めて! 信じられない、あんたは、これだから不安だって言ってるのに」

「分かってるって」

「一体何が分かってるっていうの、既に十分以上にはしたないわよ!」

「分かってるったら、分かってる。こう見えて、あたしも真面目に考えてるんだから」


 どこが、と言いかけて、ベアトリスは言葉を飲み込んだ。

 スーザンが官吏になるつもりなのは知っている。


 今度即位するであろう新国王への挨拶と、城に代わって設置されるであろう新宮廷での偵察。それが今回頼もうとしている仕事だ。

 彼女にとってまたとない機会だろう。それをフイにする程、妹は馬鹿ではない。

 しかし。


 ベアトリスは少し頭を冷やして、幾分落ち着いた調子で言った。


「真面目って、官吏になるっていう選択のことでしょ」

「うん」

「それこそ分かってると思うけど」

 ベアトリスはきちんとスーザンに向き直った。


「これから体制は激変するわよ。うちなんかがあんたみたいな女性官吏を輩出したって……あら」


 人の気配がしたので、ベアトリスは話を中断した。


 ***


 失礼します、と戸を開けたのは、伝令役の家臣である。

 都がやられて交通や通信がある程度麻痺したのを踏まえ、ベアトリスは家臣と頻繁に連絡を取っていた。交易の盛んなこの都市の交通網や伝手は、こういう時に役に立った。


 入室してきた家臣は、スーザンの乗馬着姿を目にし、やれやれといった顔つきになった。

「で? 用は何ですか?」

 ベアトリスが促すと、家臣は畏まって答えた。

「重大な報告が一つございますので、先にお伝えしたく伺いました。昨夜、国王の戴冠式が行われたそうです」

「おい、待て」

 スーザンが遮った。

「昨夜だって? 随分早いな」

「た、戴冠式の日取りのことまでは……分かりかねます……」

「そんな宮廷事情までお前に聞くもんか。あたしは今、情報が届くのが早すぎるから怪しいって言ったんだ」

「あ、すみません……。今朝方カルツェ公の元に届いた速達の情報でして、夕方頃に到着した船の荷運び人がですね」

「あーなるほどな」

 スーザンはまた途中で遮って、勝手に姉の卓に腰かけた。

 カルツェ公爵領は川上の方に在るお得意先だ。帰りの船は流れに乗れるばかりか、冬場は山越えの風に押されてすいすい進める。多分今日は良い北風が吹いていたのだろう。


 スーザンが勝手に納得したのを見て取り、ベアトリスは再び促した。

「続けてどうぞ」

「は、はい。当初の予定通り、アルト様が国王におなりに。しかし、どうやら……その」

「何ですか」


ようでいらっしゃいます」


 ベアトリスとスーザンは瞬きもせずに家臣を凝視した。ややあって、スーザンは信じられないという風に問い質した。


「……皇帝になれないなんてこと、あんのか? セウェルさまはどうしたんだ」

「善神がご出席されなかったとは聞いておりませんね……」

「つまりセウェル神がわざと、国王様を皇帝になさらなかったのね?」

「はい、奥様。おそらくはそうだと噂されています」

「……あのね、当主だからって『奥様』はよして。私はまだ結婚してないの」

「す、すみません、……」

「つっても姉さんの場合、ただの行き遅れだもんな。『お嬢様』って歳でもないしな」

「黙んなさいスーザン。そしていい加減に卓から降りなさい」

 バシンと腰を叩かれて、スーザンは渋々床に足をつけた。

「いてて」

「で、『おそらくはそうだ』って何です? どんな噂?」

「はい。それというのも──」


 家臣曰く、カルツェ公爵のもとに届いた速達を要約すると、「ヴァイスフリューク家アルト・フェリクス、ソルラント王国が国王に即位せり」としか書かれていなかったという。皇帝ではないとの記述は無いものの、事態は明白だった。


 ソルラント王国の王位を正当な手段で継承した者は、善神セウェルによって追認される。そして同時にソルラント帝国の皇帝位を、セウェル自身の手によって賜るというのがしきたりである。

 つまるところこの国の君主の称号は、「ソルラント王国国王」兼「ソルラント帝国皇帝」である筈なのだが、今のアルトには、後者の肩書きが欠落しているというのだ。


「何でもこの話、うちの懇意の商人が、カルツェ公から直接聞いたとか。真偽のほどはいずれ分かると思いますが」

「まあ……」

「マジかー……」


 姉妹は同時に嘆息した。ベアトリスは指先で軽く額を抑えた。


 話が本当なら厄介な状況だ。これまでこのネイヴァルド家が、ヴァイスフリューク家に依存していただけに、これからは風当たりが強くなるやもしれない。


 皇帝位という抑止力を失った国王は、実質、「ただ一番偉いだけの一領主」だ。

 他の領主との力の差は依然あるものの、公爵ほどの身分にもなれば、立場はかなり同等に近くなったと見てよろしい。

 況んや外国の君主に於いてをや。立場が全くの同等に、いや下手を打てば低くさえなり得る。


 ただでさえあんなに幼い君主が、こんな状況に置かれるなど、……この王朝の権威もいつまで保つか。


 ネイヴァルド家は規模も領地も小さい。資金があるからといって安心などできるはずがない。先行きに神経を尖らせなければ、時代の荒波に飲み込まれる。家を継いだばかりのベアトリスは、そのことを肌で感じているのだ。



 家臣が退室してからも、衝撃は冷めやらなかった。


「いやー本当、世の中何が起こるか」

「分かりゃしないわね……」

「ああ」

「勿論」ベアトリスは話を戻した。「この先、弱小貴族の女性官吏がうまくいくか、なんてことも分かりゃしないわ」

「……うっ」

「それでもあんたは官吏をやれるの?」


 貴族の女の身の振り方は限られている。あまり勝手な行動を許すわけにもいかない。家が危機に陥りかねないし、何よりスーザンが可哀想だ。


「わざわざ官吏の道を選ぶ覚悟はできてるの?」

「……」

「まあ、答えは今じゃなくても構わないわ」

 饒舌な妹が黙り込んでしまったせいか、その分ベアトリスは多弁だった。

「宮廷に行く仕事は、元々他の人に頼む予定だったもの。あんたが宮廷に行く機会なんて、他に幾らでもあるわけだし。今回の件を引き受けようが引き受けなかろうが、大きな違いは──」

「分かんない」

 ようやく答えたスーザンの声は、珍しく小さかった。

「まだ、分かるわけない。先のことなんてさ」

 ベアトリスは咄嗟に、妹の顔を窺った。一瞬、迷っているような色が見えた。


 が、すぐにそれは消えた。

「やっぱり、あたしに行かせてくれない? 宮廷を見てから、心を決めたいから」


 まだ悪戯っ子の面影が残る笑顔を向けられて、ベアトリスはほっとした。同時に自然と、苦笑していた。


「じゃあ、任せるわ。ついでで良いから、何かしら情報仕入れて来て頂戴」

「了解!」


 妹は威勢のいい表情でビシリと答えた。ベアトリスは、心配しそうになる己の心を強いて押さえつけた。

(分かっていたはず。頼んだ以上は、信用しなきゃならないわ)

 とことん宮廷生活が肌に合わぬであろうこの娘が、才覚一つでどこまでやるか。試してみる良い機会だ。


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