5.黒いマントのおちびさん
そいつが初めてアルトの前に現れたのは、事件のあった日から、たった二日後の夜だった。
その日、家臣は一人残らず忙しそうだった。
少ない人員で、朝から
アルトは、暇だった。
いや、心の中は、気持ちの整理をつけるのに忙しかった。まだ事件の衝撃が尾を引いていたのだから。
一度乳母相手に珍しく大泣きしてしまったので、もう泣くに泣かれず、空っぽの脳裏にあのホールの光景がちらつくばかり。先行きにも不安しか感じない。
でも、実際には手持ち無沙汰だったし、みんなもあんまりアルトに注意を払わない──話し掛ければ答えるが、他のことで頭がいっぱいで、すぐに用事が出来てはばたばたと行ってしまう。人手が足りないあまり乳母でさえ駆り出されて、アルトにつきっきりというわけにはいかなかった。
アルトはその夜、家族の愛も、家臣の庇護も、喪失していた。
そこで、いっぱいいっぱいになった頭をなんとかするために、勝手にふらふらと外へ出て行ってしまった。
乳母がそれを見かけて、「お待ち下さい。上着をお召しにならないと、風邪を引きますよ」と呼び止めたが、アルトには聞こえなかった。
一人で勝手に出歩くのは、初めてだったかも知れない。真冬の夜風は身を切るように寒く、星空は凍てつくようだった。
だがそういう全てが、アルトにはどうでも良かった。
この日はまだ今の館に移り住んでおらず、近郊の領主の館を借りていた。その前庭からは、家族の眠る城が、夜空をくりぬいて黒々とよく見えた。蔦植物で雁字搦めにされた、歪な城が。
ついこの間まで権威の絶頂にいた、しかし今では目も当てられない我が家の姿を、アルトはぽーっと眺めていた。それからくしゃみをした。
直後、先ほどまで誰も居なかった空間に、変な人が立っていた。
随分、何というか、まともじゃない御登場である。手品でも見せられた気分がした。
彼の背はとても低く、アルトの腹の辺りまでしかない。だが、存在感は幼子のそれではなかった。反自然的な、独特の雰囲気。闇が
不思議に不気味な人だ。アルトはちょっぴり麻痺した頭で、その人をじーっと見つめた。そして悪神を連想した。それからもう一度くしゃみをした。
まだ、その人はそこにいた。
その上、なんと、口を利いた。
「やあ」
似つかわしくない、底抜けに能天気な声。
アルトは今度こそぎょっとして、ぶん殴られたように
フードの奥で、そいつの大きな口が笑っている。そいつはアルトの方へ、すたすたと近づいて来た。
「貴族の連中が、君をどうするか話し合うみたいだね」
その人は率直な口調で言った。失敬な奴だ。
「僕が何者だか知ってるのに、そんな口を利くの? 怒られるよ」
「誰に?」
大人に、と言おうとして、やめた。本当に、他に一体誰が、アルトの為に怒ってくれるというのだろう。
「僕に」
そいつはぶっと吹き出した。
「君が怒るのかい?」
アルトはイラッと来た。こんな風に他人に馬鹿にされた経験は、生まれてこのかた一度も無かった。
「怒るよ」
端的に繰り返す。
「君に怒られたって、屁でもないな!」
そう言われることは、とても悲しいことだった。それは客観的な事実だったから。アルトは今、とても無力だ。
アルトはちらっと、左の腰の方を見て、木剣の存在を確かめた。
「君は誰。何しに来たの」
怒りを込めて問う。まさかアルトを馬鹿にするために来たわけではあるまい。
愉しそうに体を揺らしていたそいつは、今度は幾分真面目な態度で告げた。
「俺は君に、提案をしに来たのさ」
アルトは黙って先を促した。
「何を隠そう、俺も黒い森に住む妖精なんだけどね。君だけ眠らないのは可哀想だからって、ウワアッ!?」
妖精は飛び退いた。アルトが木剣を振り回し──否。木剣に見せかけた木製の鞘から、仕込み刃物を抜いて一閃したのだ。
「ま、待て!」
妖精は狼狽したが、アルトは聞いちゃいない。もう一度突進してくる。このままだと鳩尾を一突きされてしまうので、妖精は翼も無しにフワッと舞い上がって、高みへ逃げた。
「攻撃すんのは、話を聞いてからにしてくれよ!」
あれから一週間ばかりが経過した。
今度は白昼堂々と現れた妖精を、アルトは変な気分で見つめていた。
前とは印象が違う。黒いマントは同じだが、より小さく、より悪目立ちして見える。そしてより
「君、宮廷で、戦争の話を出しただろ」
何故だかびょんびょん跳ねながら、気の知れた友人みたいに陽気に聞いてくる。アルトは木剣を持った腕を脇に垂らして、頷いた。
「うん」
「俺の国と君の国は、戦争するのかな」
「黒い森は国じゃないよ」
「提案の件、考えてくれたかい?」
「……うん」
「答えは?」
「その前に、君の名前を教えて」
「何でだい?」
「この後も手紙で連絡を取りたいから」
妖精は跳ねるのをやめた。
「手紙ってことは、本名が必要だね?」
「……その通りだけど」
「ヘエー」また跳ね出した。こいつが落ち着くことはあるのだろうか。「いいとも。シャーグだ」
アルトは一つ深呼吸をした。
「シャーグダ」
「ダはいらねーよ」
「シャーグ、僕は家族を助けたい。だから、今は断る」
これは、もう決めたことだ。
「でもね」
言い辛そうに逡巡する。
「でもね、どうしても上手くいかない時は、シャーグにお願いしたい」
ぶれてよく見えないが、シャーグは面白そうににやっとした。
「後悔しても知らないぞ」
「しないよ」
「それなら」
徐々に上下運動を遅くしながら、シャーグは言う。
「『その時』に俺が居合わせる保証はない。君の御命令を完遂するためには、今、呪いをかけてやるしかないな」
「え……」
「安心していいぞ」
思わず
「呪いは、君が強く願った時にのみ、発動する」
そして、小さな両手でアルトの左手を持ち上げ、目を閉じてジッと集中し、もにょもにょと何か呟いた。
アルトの内側から、蔦が這う様な漣が立ち、速やかに全身に広がって、消えていった。
シャーグはそっと手を離した。
「これで、君の望みは叶ったぞ」
シャーグは目を開け、
アルトは全身を強張らせていたが、戸惑いがちに微笑んだ。
「あ、ありがと」
だがシャーグはもう、笑ってなどいなかった。フードの奥で、目がチカッとつめたく光った。
「ああ。……本当は、君も素直に眠れば良かったのに」
呟くと、くるんとアルトに背を向けた。マントがはためいたと思ったら、もうそこには誰もいなかった。
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