3ー2.対諸侯戦・後半戦
諸侯の間で、微かな緊張と焦りが走った。
「お気になさらず。必要な署名が記載されているに過ぎません」
「黒い森の文字で?」
問い詰められて、黄の伯は言葉に詰まった。それを無視して、アルトは書類をよくよく見てみた。
題名はこうだ。
〈機密〉白翼城とその周辺地域の領有に関する契約
……ちょっと、意味が分からない。色々な意味で。
アルトは四人に、青々と猜疑の目を向けた。
「君たちは、勝手に、城のことで、黒い森の人と、契約を結んだんだね?」
多分そういうことだ。そしてその内容が、よくないものだということは、四人の態度が雄弁に物語っている。
こんな重大な書類の存在を、見逃しそうになった自分自身を、アルトは許せなかった。
そしてそれ以上に、この四人の態度に腹が立った。
汚い。都合の悪いことを隠して、誤魔化して。
アルトの追及を断ち切るように、緑の公が、ずいと贅肉を揺らして前に出た。
「気のせいではないですかな。何を根拠に、この字が黒い森の公のものだと?」
筆跡とインクを見たことがあるから──などと説明しても良かったのだが、わざわざそんな手間をかけることもない。
アルトは、彼らにもよく見えるように、署名のすぐ隣を指し示した。そこにはちゃんと、『黒い森代表者署名欄』との記載がある。
「あんまり、馬鹿にしないで」
アルトは静かに言った。
「……それは、失礼」
「そう言えば今、黒い森の公って言ったね」
アルトはこの署名が、黒い森の誰のものなのかは、分かっていなかったのに。
「む……」
「確かにこれ、マーク・ヘーデンアルティーモ・シュヴァルツって、読もうと思えば読める。ふうん、黒い森の、シュヴァルツ公爵に、君たち会って来たんだね」
あの、裏切り者に。
「それならそうと言ってくれれば良かったのに。……どんな約束をしてきたの」
諸侯たちは黙っている。
どこか遠くで冷たい風が、ざわざわと木々を揺らした。ほんのり淡い朝の空の下、窓の外の景色は、まだ冷気に満ちている。
アルトはもう一度だけ、言った。
「ねえ。これが何を約束した書類なのか、教えて」
やはり誰も、それには答えなかった。やがて桃の伯が、そっと書類を指差した。
「アルト様、そんな事はお気になさらず、取り敢えずこの欄に判子を」
アルトの中で、何かがめらりと燃え上がった。
「そんな事」
アルトは繰り返した。
「黒い森のことなのに、城のことなのに、そんな事気にするなって言うんだ」
何の気なしに言った言葉が、アルトの逆鱗に触れたらしいと知り、桃の伯はたじろいだ。アルトは身を震わせた。
「僕が一番に気にしていることなのに。最低だよ。君たちは姉上が眠ってしまったこと、少しも怒っていないし、少しも悲しくないんだね」
黒い森のことを軽々と扱われることは、我慢がならなかった。胃の底から怒りが湧き上がる。
しかもそれに触発されて、妙な気持ちがどんどん増大した。それは諸侯らと対面した時から抱いていた、もやもやとした何かだった。
「それに君たち、書類の説明はちゃんとするって言ったばかりだよね。それでシュロットとロイヤーを追い出したよね。じゃあ何で僕の質問に答えられないの」
自身では気づいていなかったが、その気持ちは
怒りと反発と、二つの大きな感情が、弾け飛びそうに大きくなっていく。
それなのに、顔を真っ赤にして諸侯らを睨むアルトを見て、紫の侯はなだめすかすように言ったのだ。
「お気持ちは分かりますが、今は落ち着いて、とにかく判子を押して下さい」
アルトの怒りは沸点を突き抜けた。
気持ちが分かる?
とにかく判子を?
この大人たちには、まるで言葉が通じていない!
仇敵との約束を勝手に取り付けようとする、その強引っぷりに腹を立てているのに、此の期に及んで「とにかく判子を」とは、なんたる無礼か。
そういう理不尽な言動に加え、黒い森や事件に関するアルトの感情を蔑ろにする、その冷血っぷりに怒っているのに、なおも「気持ちは分かる」の一言で片付けようとは、なんたる不遜か。
アルトの憤怒に比して、この会話の進展の無さは何なのか。何故この人らはアルトの話を無視するのか。
「いい加減にしてよ!」
気がついたらアルトは、拳で机をがんっと叩いていた。
「気持ちなんて少しも分かってないでしょ。君たちはさっきから何なの。僕を子供扱いして、機嫌を取ってばかりで」
「そんなことはありませんよ、アルト様」
名前呼びに一層腹が立った。いや、もう何もかもが気に障った。何故アルトを王と呼ばない。何故いつまでも同じ手口で誤魔化そうとする。何故そんな赤子をあやすような顔をする。
だが。
訳が分からなくなるほど気持ちが昂って、君たちは悪神の手先なんだと罵ろうとした時──突然、アルトは悟った。
アルトは今、感情を持たない人型の巨石に、虚しく叫んでいるに等しかった。
今この人たちは、アルトに黙って言うことを聞かせたい一心なのだ。自分たちの好きにしたいのだ。
それしか考えていないのだから、彼らはアルトの疑問を受け付けないし、アルトの怒りを理解しない。彼らはアルトを無視しているのではない──本当に伝わっていないのだ。
どんなに怒っても、主張が彼らの心に届くことはない。絶対に。
すっと、頭が冷えた。
いくらやっても無駄なことは、世の中にはあるのだ。
眠ってしまったみんなにいくら呼びかけても、答えがなかったように。
どうしたって届かない言葉はあるのだ。
でも、とアルトは考えた。
今回は前とは違う。ただ座り続けるしかなかったあの日とは違う。突破口を、解決のきっかけを、自分でだって探せる。
きっかけが無いなら作れば良いのだ。誰かからの救いの手が無いのなら、今この手で掴みに行く。
差し当たり今は、目の前の人を直接困らせる、たったそれだけでいい。
そうしているうちに誰かが必ず助けてくれることを、アルトは知っている。
アルトは判子を握りしめ、真っ直ぐに諸侯たちを見つめた。
「僕はこんな契約、認めないよ。納得が行く説明を聞くまで、判子なんて押してやらない」
そう宣言すると、アルトはぷいとそっぽを向き、書類を手に取って、自分の力で一生懸命解読し始めた。
話が通じぬ相手に、
政治関連の文書というのは
諸侯らはたちまち、色を失った。
折角、この短期間で相手方と交渉をして、署名まで貰ってきたのに、判子が無ければ全ておじゃんだ。
このままでは黒い森は大変怒るに違いないし、自分たちに約束された利益も無くなってしまう。
たかがつまらぬ子供の癇癪ごときで、そんな事態になっては堪らない。
この書類は、一番に大切と言っても良いものであった。だが同時に諸侯たちは元から、アルトがこれを気に入らないことを、よく心得ていた。
だから、最初に判子を押させずに、書類の山に紛れ込ませて、注意を逸らそうとしたのに、目論見が外れてしまった。
だがそれでは済まされない。判子は押して貰わねばならない。彼がその中身を理解する前に、何が何でも。
紫の侯が再び、猫なで声で言った。
「アルト様……この際他の書類は結構です。この書類だけでも、判子を押して頂けないでしょうか」
「やだ」
にべもない。
「では、その判子をこちらへお渡し願えませんか。渡すだけなので」
アルトは顔を上げ、領主たちをひとりひとり見た。そして一言、
「お馬鹿なの?」
四人は少なからずぶち切れた。吹けば飛びそうなこの餓鬼に、諸侯であり領主たる者が、そこまで言われるのは屈辱だ。
緑の公はまたしても進み出て、アルトの右手を掴んだ。
「でしたら、我々がお手伝いしますか、ら!」
そのまま強引に押印させようとしたが、アルトは手首を体ごと大きく捻って、彼から逃れた。不意を突かれた公は、よろめき後ずさった。呆然とするあまり、だらしのない顔つきになっている。その隙にアルトは体勢を立て直し、椅子に片膝をついて、右腕を精一杯上へと伸ばした。
アルトが何をしようとしたか悟った諸侯たちは、慌てた。ある者はアルトを抑え込もうとし、ある者は腕を捕まえようとした。
だが遅かった。アルトは天井からぶら下がっている紐に手を伸ばして、非常用の呼び鈴を強く鳴らした。
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