3ー1.対諸侯戦・前半戦
「これ、何?」
まだ小さかった時、アルトはたまに父の部屋へ邪魔しに行っていた。
この日も膝によじ登って机の上を覗き込むと、そこには妙な手紙が置いてある。父はそれを見て先ほどから唸っていた。
「これか。これはな、黒い森の公からの手紙だよ」
「……また?」
「そうだ。姫の呪いを解いてくれんかとお願いをした、その返事だ」
アルトは息をのんで、手紙を見つめた。
「何て書いてあるの?」
「それがなー。私にも分からんのだ」
「大人なのに?」
「大人なのにだ。あの地方の文字は、崩し方が変わっているのだよ」
確かに、木の枝で引っ掻いたような書き方だ。書くというよりむしろ、刻むという感じである。
「それに見てごらん。使っているインクも、私のとは違うだろう」
アルトはもう一度、手紙をよく見てみた。ただの黒色に見えたそれは……
「ちょっと、緑」
「だろう。妖精が沢山いる地だから、暮らし方がこことは違うんだな」
「ふーん」
暮らしが違うと、考え方も違う。だから話し合うのはとても大変なのだと、父は言った。
「だが私は読むぞ。ふむむむ」
結局その手紙では、色よい返事は貰えていなかった。
父がどんな手紙を送っても、相手方は難解な文字で断ってきたし、何度交渉を行っても解決には至らなかった。
姉の十八の誕生日が近づくにつれ、父の顔に焦りが表れた。
尤も、その日を迎える準備を、父は怠りはしなかった。呪いの発動装置である“
だが、話し合いで呪いを解かせることは、とうとうできなかった。
「この度は国王ご就任、誠におめでとうございます」
緑の公が礼をし、他の三人もそれに続いた。
四人とも正式には、緑の丘の公爵、紫の花の侯爵、黄色い岩の伯爵、桃色の野の伯爵。しかもこれは称号で、これとは別に、名前、ミドルネーム、苗字なんかがある。申し訳ないがアルトは、そこまでは覚えていない。
アルトが対面しているのは、“名前もろくに知らないが、称号からしてとりあえず格の高い人々”だ。恐いったらない。
「ありがとう」アルトは硬い声で答えた。「じゃ、持ってきた書類を、見せて下さい」
「は、……それでは」
諸侯たちは何故か、ほんの少し戸惑った。もしかして、実務を始めるのを急ぎすぎたろうか。仕事に入る前に、世間話でもすべきだったのだろうか。
アルトは早くも困ってしまったが、補佐官として立っているシュロットとロイヤーを、振り返るのはぐっと我慢した。
結局、アルトの恐れや憂慮は、次の瞬間には吹き飛んだ。
諸侯の四人は各々、驚くような量の紙を、ごっそり皮袋から取り出したのである。
書類が溜まっていると言っても、合わせて十数枚程度だろうと思っていたのだが、あれでは一人当たり二十枚は下らない。
げんなりしてしまったアルトの脇から、シュロットが書類を受け取るために進み出た。ところが。
アルトは、自分の目を疑った。
緑の公は、サッと紙の束を後ろに引いたのだ。
「どういうことです、公爵殿」
「どうもこうも」
緑の公は書類を、ぶくぶくの顔の横でひらひらさせた。
「これは我々の話ではないか。部外者は引っ込んでおれ」
そして空いた手のソーセージみたいな指で、口髭を撫でた。今、彼の腕は両方とも顔付近に──これまた申し訳ないが、この時の彼のポーズはえらく滑稽だった。
シュロットは眉をひそめた。
「部外者、と」
こんな時も、怒り出すでもなく笑い出すでもない。真面目な態度を貫く、シュロットの鉄壁ぶりは、まこと天晴れだ。
だが彼とて内心、憤慨しているのには違いなく、実に真っ当に抗議した。
「恐れながらそちらの書類は、補佐官の私が、代わりに御受け取りすることになっております」
緑の公の顔が少し横に伸びた。どうやら笑ったようだ。
「恐れながら補佐官殿。貴殿のような位の低い者に、王の代わりを務めさせるわけにはいきませんな」
皮肉たっぷりに言われて、シュロットの口元がぴくっと動いた。哀れ、鉄壁は早くも崩れそうである。若き堅物はいかんせん短気だ。彼は理性を総動員して、踏みとどまるのに努めている。
緑の公は余裕綽々、ビシリと威圧するような声音で命じた。
「下がれ。ここはおまえのような、弱小貴族の若造のいる場ではない」
シュロットは、ぷるぷる体を震わせて屈辱に耐えるより他はなかった。
「おまえもだ。下がれ」
ここで目を向けられたロイヤーは、動じることなく淡々と応じた。
「私もシュロットも、ここにいるようにと、王に勅命を賜りました」
だから、諸侯に何を言われようと出て行く筋合いはない。暗にそう言われて、緑の公の赤ら顔に更に血の気が登り、熟したみたいになった。
「女が生意気な口を利くな」
「……王の仰せを、生意気と仰いますか」
二人の間で火花が散った。
緑の公が再び息を吸い込んだ時、アルトは困り果てて口を開いた。
「あのー」
途端、全員がアルトを注視したので、アルトは少しばかり竦み上がったが、恐る恐る言葉を続けた。
「二人に、ここにいてもらってもいいですか。僕はそういう書類、説明して貰わないと分かんないし」
若い補佐官二人が肩の力を抜くのが伝わってきた。
が、諸侯たちも、その程度で引き下がるタマではなかった。
「説明なら我々がしますとも。それより、高度な政治の話にこのような者らが加わっては、国の行く末に関わりますぞ。そちらの方が重大です」と、緑の公は主張した。
「アルト様はお小さくていらっしゃいますから、その辺りがお分かりにならないのは、当然かと思われます。しかしそこのお二人が王の補佐官を務めるのは、荷が重いのですよ。ここは、場に慣れている私どもにお任せを」こう、紫の侯は勧めた。
「その者らは人手不足の折に登用なされたのですな。しかしいつまでも不適切な人選を継続する必要はありません」黄の伯は言った。
「全くその通り」桃の伯は頷いた。
アルトは頭がこんがらがってきた。
「待ってよ。二人ともきっと役に立つってば。お願い、いさせて」
ひとりで君たちと対峙するのは恐いから──とはとても言えない。
しかしこのおじさんたちは、いやいやと笑うだけだった。そして、アルトはよく分かっていないのだと口々に言った。
あくまでアルトを“政治に暗い初心者”と見做すつもりらしい。事実その通りなのでアルトには反論できない。
四人はアルトの話をうやむやに
「あぁー……」
バタンと扉が閉まると、大の大人四人に囲まれているのが、急にはっきりと意識させられて、アルトは不安な気持ちになった。
「最初ですが、これは封建を引き継ぐという証書ですな」
「うん……?」
「つまり、我々はこちらに記載されている土地を頂く代わりに、アルト様に税や兵士をお送りします。さて、ここに印を」
アルトは迷ったが、稽古仲間のサムエルも、その様にして城へ来ていた事を思い出した。やがてアルトは、ぽん、と判を押した。
白い石で出来た直方体が、鮮やかな朱色の印を、焼き付けるように紙上に残す。それが乾くのを待たずして、緑の公は紙をずらし、次の書類を提示した。
「こちらは税に関する簡単な取り決めです」
「うん」
「これまでとほぼ同じで、一年の収穫量に対し概ね一割ですな」
「ふうん」
……ぽん。
「こちらは……」
話が案外まともに聞こえたので、早くもアルトは相手を信用し、内容を吟味しなくなった。それにつれ諸侯らの説明も粗雑になっていった。そうして、ぽんぽんと捺印し始めて、何枚目だろうか。
アルトは手を止めた。
「──ゆえに、新たな分配を提案したものです……アルト様?いかがなさいました?」
怪訝そうな声が降ってきた。
アルトはただ、その書類の末尾を、穴が空くほど凝視していた。やがて、呟いた。
「これ、何」
声が、微かに震えていた。
「これ、とは……」
アルトは黙って、紙を指差した。
そこには、誰かの署名があった。
非常に読み辛い、
刻んだような筆跡の、
緑がかったインクで書かれた、
署名が。
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