クロワッサンの中に迷い込んで

二石臼杵

ようこそパンの中へ

 近所の商店街に新しいパン屋ができたので、さっそく朝食やおやつ用にとパンを買ってきた。らぶりベーカリーという店で、店内の雰囲気も店員さんの対応もいい感じだった。

 家に帰ってきた私はリビングのテーブルの上に買ってきた荷物を置き、いったん手を洗ってから戻ってきていよいよ「らぶりベーカリー」のロゴマークの書かれたビニール袋と対面した。

 さて、息子や夫に食べさせる前に味見をする必要があるな。


 テーブルの上のビニール袋を開けて、パンの入った紙袋を取り出した。紙袋の中には、さらに小分けにされたパン袋がいくつか入っている。

 買ったのは、メロンパンが二つ、カレーパンを三つ、アンパンを一つ、ウインナーロールを三つ、それにクロワッサンを六個。

 食べるのはもちろんクロワッサンだ。好物だし、一つ二つ減っても大丈夫。

 パン袋をがさごそ。中からクロワッサンを一つ発掘する。

 私はそれを両手で持って、三分の一ほどのところにかぶりついた。


 バターの香りが鼻と口いっぱいに広がる。皮はパリパリしていて、あらかじめテーブルに敷いておいたティッシュの上に破片がいくつもこぼれ落ちた。対照的に中の生地は歯を包み込むように柔らかく、ふんわりと噛み切れる。

 サクサクした皮ともちもちした生地の二つの食感が私の口を喜ばせ、噛むたびに口の中で溶け合い、四季のように自然に移り行く味わいの変化を楽しませてくれる。

 クロワッサンは三日月の形が由来になっているそうだけど、私にはおひさまの味を閉じ込めたように思える。雰囲気もどことなく干したての布団に似ているし。この生地にくるまれて寝たらさぞいい夢が見られそうだ。

 口の中に優しい午後の日差しが行き渡る。そう、この味がいい。チョコクロワッサンや、中にあんこやホイップクリームの入ったやつみたいな甘いクロワッサンは私の中ではいまいちぴんとこなくて、やっぱりバターかマーガリン風味のものがグッとくる。

 クロワッサンの美味しいパン屋は繁盛する。これは私の持論だ。新しくできたお店は当たりらしい。これからもひいきにさせてもらおう。


 それよりも今はパンだ。もっとこの味を独り占めにしたい。クロワッサンの切れ端を飲み込んで、はしたなく大きく口を開ける。

 二口目は空振りした。噛み合った歯がかちんと音を鳴らす。

 ?

 手を見ると、そこにクロワッサンはなかった。異変はそれだけにとどまらない。クロワッサンどころかテーブルも消えているし、椅子に座っていたはずなのにいつの間にか私は立っていた。しかも、見たことのない部屋の中で。


 そもそもここは部屋といっていいのだろうか。広さは小中学校の教室ほどで、天井と床がなだらかなカーブを描いて前と後ろでくっついている。外から見たらラグビーボールみたいな形なんだろうなと思った。

 壁も天井も床も淡いクリーム色をしていて、床は高級そうなカーペットのようにふかふかしている。そして何より目に……もとい鼻につくのは、室内に充満するバターの匂いだ。

 嗅ぎ覚えのある匂い、ついさっきまで味わっていた香りだ。クロワッサン。そうだ、私はクロワッサンを食べていたんだった。とても美味しいクロワッサンだから、まだ食べないと。


 この場所はなんなのか。なぜ私はここにいるのか。わからないことばかりだけど、一つだけ確かなことがある。

 この部屋にクロワッサンはない。だから私はここを出なくちゃいけないんだ。

 そう決意したのはいいものの、肝心の脱出方法がわからない。出口も入り口も、ドアも窓もない。どうやって私が入れられたかはこの際置いておくとしても、さっそく八方ふさがりだ。困った。

 焦る私。いやおうなしに鼻に飛び込んでくるバターの香り。ああもう。ますますクロワッサンが食べたくなるじゃないか。なんて巧妙な密室トリックなんだ。


 しかしだね、匂いがするということは近くにクロワッサンがあるということだよ、ワトソンくん。


 何を言っているんだ、ぼくはワトソンじゃなくてジェイムズだよ。


 そうでしたか。

 頭の中のジェイムズくんに失敬、と告げて私は慣れない推理ごっこをやめた。クロワッサンの禁断症状に思考がねじ曲げられているようだ。ふうむ。


 何はともあれ、このまま立ち止まっているわけにもいくまい。クロワッサンが私を待っているのだから。

 弾力のある地面を踏みしめて進み、壁に手をつく。赤ちゃんの肌のような、しっとりとした感触だった。触った手の表面は妙につやつやしている。

 変な壁。いや、床もおんなじ色をしているから、この部屋全体がこうなのかな。

 改めて見渡してみるも、やはりドアノブ一つない。

 ならば。試しに目の前の壁を押してみる。手のひらは柔らかい壁に飲み込まれ、そしてふっくらと優しい力で押し戻された。

 これならどうだと今度は殴ってみる。ぼすん! 布団を叩いたような音がして、そして拳は強い力で跳ね返された。なんて弾力に富んだ壁なんだろう。

 打つ手なしかと腕を組んでうつむくと、下の方の壁からなにやら銀色の棒が生えていた。あれはなんだろう? ドアノブじゃなさそうだし、なんでこんなところに……。けれど妙に見覚えのあるそれを見ているうちに、私の中に電撃が走ってひらめいた。そうか!


 銀の棒をつかむと、思った通り手によく馴染んだ。やっぱりそうだ。棒の正体はナイフだった。サバイバルやコンバットみたいな危なっかしいやつじゃなくて、食事用に使われるテーブルナイフ。

 私は握ったテーブルナイフを両手で持ち、壁に刺したまままっすぐ上に動かす。すーっと抵抗なく滑らかに動くナイフによってクリーム色の壁に線が走り、切れ目が生まれた。ナイフが頭の近くの高さまで来たら、刃の角度を変えて垂直に横にずらす。そしてある程度幅ができたら、コの字を描くようにまた垂直に足元まで下ろした。


「よし、と」


 壁から引き抜いたナイフを握りしめたままの手でガッツポーズをとる。正面の壁には、人間大の長方形の切り込みができていた。

 それを軽く押しただけで、即席のドアは奥にぺろんとめくれて倒れ、ふかふかの道となった。

 あんなにも強情だった壁が素直に通してくれた。きっとこれが正しい進み方なんだろう。

 クリーム色の絨毯を踏んで部屋を出る。いよいよお待ちかねのクロワッサンとご対面だ。


 しかし、部屋を抜けた先に広がっていたのは、さっきいたところとまったく同じクリーム色の空間。とくに代わり映えはしない。

 どういうこと? あれが出口じゃなかったの?

 終わりの見えない迷路を進まされている気分だ。そのくせ、芳ばしいバターの香りはたえず漂ってくる。

 これじゃあ生殺しだ! ふわふわの地面を蹴って、走る。一番奥の壁にたどり着き、そこに思い切ってナイフを刺し込んだ。出口がなければ作るまで。出られなければ、何度も繰り返していけばいい。まさか無限にこの部屋が続いているわけでもないでしょう。たぶん。

 音もなく切り裂かれていく壁。再び長方形のドアができ、それを押し倒そうとした瞬間。

 壁がこちらに向かって丸くふくらみ、切れ目からにじゅ、と赤いものが染み出る。

 とたん、真っ赤な津波がドアを突き破って流れ込み、私はその中に飲み込まれた。

 勢いのままに赤い波に包まれ、流される。波は水というにはやけに粘り気が強く、ざらざらしていた。


「なんじゃこりゃ」


 首から下まで赤色に浸かり、部屋の中を私はたゆたう。浮力が私を天井近くまで持ち上げた。

 ぶつかる! そう危惧したとおり、私の顔が天井に飛び込む。痛みはまったくなく、柔らかい感触と、いっそう濃くなったバターの匂い、そしておひさまの味が顔中に広がった。

 私を追いかけるように赤い波も天井まで届く。とうとう液体が全身をすっぽり包み、口の中にも入ってくる。浮遊感の中で、私は強い酸味と甘みに襲われた。とろとろの赤い液体の中にはつぶつぶした胡麻のようなものも混じっていたので、私は確信する。

 ああ、やっぱりこれって。

 そうして、私は真っ赤に染まりゆく意識を手放した。



 目を開けると、そこはリビングだった。

 見慣れた我が家。使い慣れたテーブル。いつもの景色。

 帰ってきた。私は帰ってきたんだ。

 ならば最初にすべきことは決まっている。しかし、戻ってきたにもかかわらず、手に持っていたはずのクロワッサンはなくなったままだった。

 おかしい。ふと、テーブルの上にいつの間にか置いてあった瓶が目に留まる。ふたが開いたままの、真っ赤な苺ジャムの詰まった瓶。こんなの出した覚えはない。


「あれ、おかーさんいたの?」


 声の聞こえてきた方を見ると、学校が終わったのだろう、息子が廊下から顔を出していた。その背中にランドセルはなく、これからまた外に出るつもりらしい。


勇輝ゆうき、ここにあったクロワッサン食べたでしょ」


「うん。誰もいなかったもん」


 勇輝は真顔でうなずいた。


「ジャムつけるのはいいけど、食べ終わったら元の場所にしまいなさいよ」


「はーい」


 と、悪びれもなく言う。返事だけはするが、勇輝は玄関に向かって走っていった。


「かーくんのとこに行ってくるねー」


 ドアの開く音がする。


「ジャム片付けなさい!」


「帰って来てからするー」


 私の注意もなんのその。ドアはあっさりと閉められた。

 今、片付けないと意味がないでしょうに。私はしかたなく立ち上がって、ジャムの瓶を冷蔵庫に戻した。まったく。そもそもクロワッサンにジャムを塗って食べるのは、私の中では邪道なのだ。夫の影響に違いない。おかげでこっちは溺れるところだったんだから。


 家族でパン会議でも開くべきだろうかと考えながらリビングに引き返す。テーブルの上にある他のパンたちは無事だった。

 パン袋の中のクロワッサンも減っていない。どうやら勇輝は、私の食べかけのクロワッサンにだけ手を出したようだ。

 なら、まだ大丈夫。私は袋の中から、残っているクロワッサンを一つ取り出した。

 さっきはジャムの海に飲み込まれてしまったけど、今度はそうはいかないからね。

 期待を胸にクロワッサンにかじりつく。

 さあ、新しい冒険のはじまりだ。

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