7

 京都駅からさらに特急を乗り継ぎ、俺と葵条は昼過ぎに目的地へたどり着いた。リアス式海岸に面した町で、戦中は軍港として栄えたらしい。

 駅から海のほうへ少し下ったところに、葵条の母親とその同棲相手が暮らす家がある。少なくともラプラスの情報ではそうなっているし電話は通じた。タウンページで見たら一致したのでここに関しては間違いない。

「ほんとうにすごい能力ちからですね。その、ラプラス……さん?」

 話を心の底から信じたかどうかは別として、葵条は俺のイカれ切った世界観を受け容れる体で話してくれた。それがどれだけ俺の胸を軽くしたことか。俺にいろんな秘密や後ろ暗い話を打ち明けた万理も、こんな気分になれたのだと思いたい。

「悪用し放題だもんな。俺よりもっと頭の切れる奴が宿主になってたら、それこそ『デスノート』みたいな話になってたかもしれん」

「頭の良し悪しより、この場合、心の善し悪しが重要だと思いますけど」

 住宅地に入っていく下り坂を歩きつつ、葵条は楽しそうに話す。俺とくっちゃべるより母親に会う覚悟をそろそろ決めといた方がいいんじゃないのか、と思うが無粋なので言わない。俺は基本的に言うか言わざるか迷ったら言わない男だ。

「先輩はラプラスさんの力がいろんなことに使えるって知っても、悪用しようと思わなかったわけでしょう。それは、万理さんが最後まで貫き通した正義の心が、先輩のなかでいまも生きているからじゃないんですか……」

「よせよ、俺は結局自分のためにこの力を使ってるんだ」

 俺の中で万理がいまも生きている? 陳腐化しすぎて子供向けアニメでも使われなくなったような言い草だ。かけがえない人の死を、自分の中で都合よく消化するための自己欺瞞だ。

 でも万理が俺の幻に勇気付けられたと言ったように、俺が万理の幻によって悪から護られていると言うことはできる。記憶と妄想の産物。それを「万理の心が生き続ける」と表現するのは、自己欺瞞でも何でも、あたたかいレトリックだと感じられた。

 いまも、これからも、あいつは俺とずっと一緒にいる。そう信じて生きてもいいのだろうか。そう信じれば俺は、平和も幸福も素直に受け取って生きていけるだろうか。

「あっ」

「ん?」

 立ち止まった葵条の顔から表情が消える。

 視線の先に、女がいた。

 誰か、なんて訊く必要はない。ここまで来て葵条が驚く相手はひとりしかいない。なんてこった。唐突すぎる。家にいる所を訪ねるつもりだったのに。

 距離にして十五、いや二十メートルぐらいか。左右に民家の立ち並ぶ一本道。遮るものもなく、女もこっちに気付いて顔を蒼くしている。その反応が完璧に女の正体を裏付ける。

「葵条……いや、紫川咲花だな!?」

 俺が怒鳴ったせいか、娘の視線に射竦められてか、女は逃げた。俺は荷物を放り出してダッシュで追う。後ろから葵条がぱたぱた走ってくる音がする。隘路の追いかけっこ。土地勘は向こうにあるが俺には宇宙最強のナビがついている。絶対に逃がさん。

 娘と腹割って話させる前に、やっておかねばならないことがあった。葵条にも万理にもできないことを俺がやっておく必要があった。

「待てよてめえッ! 逃げるな、殴らせろ!」

「先輩!? はわ――」

 俺がいきなり不良みたいになったので葵条が驚いた声を出し、その直後、停めてあった自転車に衝突したらしい音が聞こえた。なんと母親の方もこっちを振り返り、その拍子に足がもつれてコケる。さすが親子。似た者同士か。紫川咲花が動きを止めていたのは二秒か三秒だったが、そんだけあれば俺が間合いまで踏み込むには充分すぎる。

「歯ァ食いしばれッ!」

 相手の背中に手が届こうという距離でジャンプ。再び振り返った紫川咲花のド頭へ叩き込む、打ち下ろすハンマーの如き鉄拳。人生で最高潮に荒れていた小学四から六年生の日々を思い出す。素人喧嘩に明け暮れた暴力の記憶が蘇る。これで女を殴るのは生涯二度目だ。

「はっんぐ」

 拳骨と頭蓋骨の激突する鈍い音。ごそん! と聞こえた。走ってきた勢いのまま、ひび割れたアスファルトを転がる紫川咲花。

「やめてください先輩! なにを――」

「ちょーっと黙ってろ葵条」

 追いついてきた葵条を押し留め、俺は紫川咲花の上体を強引に起こさせる。乱れた髪の下、怯えた顔で俺と葵条を交互に見やる女は、至近距離で見ると眼の色以外は娘そっくりだった。ただ歳は三十四歳と若いはずなのに、目元や口元に刻まれた不健康そうな陰翳のせいで、間違いなく美人と言えるはずの容貌から精彩が奪われている。

「もう一度訊く。紫川、咲花だな」

 女は黙っていた。十五秒そのままだったらもう一発殴ってやろうと頭の中でカウントを始める。八秒時点で、女は頷いた。

「娘を捨てて九年間、のびのび暮らしてきた感想はどうだい……」

 反応は予想以上に劇的だった。また殴られでもしたようにばっと顔を背け、細い肩を強張らせている。哀れを誘うほど弱々しい姿。でも俺は詰問をやめない。これは当然受けるべき罰の利子に過ぎない。

「毎日の目覚めは良かったか? 食う飯は美味かったか? その間、あんたの子供がますますトチ狂った父親にどんな地獄を見せられてきたと思う……」

「な、なに――誰ですか」

 声は弱々しいが、物言いは娘に似ていた。俺は頬が緩みそうになるのをこらえる。いまは悪人の顔をしていなければならない。それに俺は実際怒ってもいるのだ。

「クズの夫が娘を虐待してる間、自分だけさっさと新しい男見つけて人生仕切り直してるってのはどんな気分だい……ご機嫌なのか? その男と寝るのは、自分が母親だってことを忘れられるほど気持ち良かったか?」

「やめてください――やめて――」

 もがく女の視線がさまよう先、俺の半歩後ろで葵条がおろおろしている。そら、もう一押し。

「葵条幸雄を嗤えるつもりか? てめえだってクズだよ。母親の資格がない、そりゃそうだ、でも何を満足げに自己完結してやがるんだ? 他人に働いた罪を自分で裁いてハイおしまい、なんて冗談があると思ってんのか?

 被害者面してられんのも今日までだ。娘を置いて消えた日から、あんたは加害者になった。罪の報いを受けろ――俺はあんたみたいな大人が赦せない。親の務めを放棄したまま生き恥晒してるぐらいなら、ここで、娘の前で死ね!」

 拳を振り上げる。いまだ。

「だめッ」

 俺の腕を渾身の力で引っ掴んで、葵条が叫んだ。

「もう――もういいです、やめて! ひどすぎますっ! 先輩、どうしたんですか。こんなことのために京都まで来たんですか? わたしをママに会わせてくれるためじゃなかったんですか!?」

 碧い瞳に勇気と怒りを閃かせて、葵条新葉が俺を睨む。それでいい。それが正解だ。

 最初から母子で直接話させたら、互いに引け目があったり相手を疑ったりして気まずさが先立つかもしれない。自分を守るために相手を責めたくなるかもしれない。でもこいつらは心の底から和解を求めている。そんなことは解り切っている。通い合うはずの祈りを馬鹿馬鹿しいディスコミュニケーションですれ違いに終わらせてはならない。

 そういうわけで俺は最後までピエロを演じる。先陣切って紫川咲花に食ってかかり、やさしすぎる葵条が心のどっかに抱え込んでいながら言えないであろう怒りを、十倍ぐらいに増幅して俺がぶつけてやるのだ。娘はそんな俺を止める。外部化された自分自身の怒りから母親をかばうという構図。茶番めいてるがこれで本心がはっきりする。わだかまりを吹っ飛ばす役ぐらいには立つだろう。親子の時間はそれからだ。

 葵条が俺をぶん殴って追い払うぐらいまでやるとエクセレントだが、まず無理なので俺は去り際まで自分で演出する。

「俺は最初からこの女を殴るつもりで来たんだぜ……ところでおまえ、まだこいつのこと『ママ』って呼ぶのか? おまえをクソ親父のところに残してひとりで逃げて、いまもまた逃げようとしてた女が、母親だって認めていいのか?」

「当たり前ですっ! わたしに……この命をくれた人ですよ?

 殴ってくれなんて頼んでません。責めてほしいとも言ってない! わたしは……母親の資格なんてどうでもいいから、いっしょにいてって……ママに、そう言いに来ただけです!」

 途中から葵条は俺じゃなく母親に向けて喋っていた。とっさに出てきたにしてはいい科白だと思う。紫川咲花に向き直ると、若すぎる母親は肩をふるわせて娘を見上げている。娘の、碧い美しい瞳を。

「……だってよ、。よかったな。普通だったら、いや少なくとも俺だったら赦さないが、あんたの娘はあんたを赦すってさ」

 そうして俺は当たり前の可能性を提示する。自分の罪を誰かが赦してくれなくても、別の誰かは赦してくれるかもしれないということを。自分で赦せないような罪さえ、傷つけた当の相手が赦してくれるかもしれないということを。それは希望だ。

「後悔、してたんだろ……だったらこれ以上続けるな。贖罪のチャンスがいま、向こうからあんたを救いに来たんだ。

 もう一度、母親をやれ。九年間の弱さを償え。大人がせめてその程度の強さも示せなかったら、子供は誰の背中を見て育ちゃあいいんだ」

 俺はサルスティスの皺くちゃな顔を思い出す。

 ――すまない。責を負うべき大人が、弱かったばかりに。

 奴はそう言った。だが弱いことが罪なら全人類を断罪しなけりゃならない。そうじゃなく、弱さのツケを他人に払わせて、その相手に報いようとしないことこそが罪だ。殺人が許されないのは、償うべき相手を殺してしまえば文字通り誰もそいつを赦せないからだ、というどっかで聞いた説を思い出す。

 紫川咲花は弱かった。のみならずその代償を娘に押し付けた。それは罪だ。でもこいつはまだ赦しを得ることができる。葵条新葉が生きているから。犠牲を払わせた相手と対話できるから。俺はこの女が羨ましい。俺にはもう赦しを乞うこともできない。

「ま、俺が何言ったって見知らぬ他人なわけだし、心も動かんだろ。あとは親子でお好きに――葵条、ここからはおまえ次第だ」

 今度こそ玄野一宇の仕事は終わった。俺は紫川咲花を放し、葵条の手もほどいて、大股でその場から歩み去る。心配ではあったが俺は葵条新葉の兄でも恋人でもない。九年ぶりの再会にいつまでも部外者が同席するのは野暮だ。

「あ……あの、玄野先輩」

 坂を下る俺の背中に、葵条が叫んだ。

「ありがとう、ございましたっ」

「またそれか。母親殴った男に、礼なんか言うな」

 だいたいそんなことはいま言わなくていいのだ。葵条はどうもここでお別れって雰囲気漂わせてるが、俺は帰りの交通費も持っていないはずのこいつを残してこのまま茅葉へとんぼ返りするわけにはいかない。この場で金を渡すなんて無粋はいくらなんでも論外、事前に渡しておけば良かったがそれを言っても始まらない。俺は葵条が用事を全部済ませたらどこかで拾って帰ってやるつもりでいる。もちろん帰る必要がなければその方がいいにしても。

「それでも! ……ママに、会わせてくれて……ありがとうございましたっ」

 なおも言い募る葵条。阿呆が。俺に礼なんか言ってる暇があったらその母親との積もる話でも始めてろよ。まったく阿呆が。

 二人がおずおずと話し始めるのをラプラスに中継させながら、俺は振り返らずに歩く。玄野デリバリーはクールに去るのだ。

「えっと……それじゃあ、あらためて。お久しぶり、です。

 咲花さん――わたしはまだ、あなたをママって呼んでもいいですか」

「呼んで、くれるの……? ごめんなさい、ごめんね……ダメな母親で……」

 嗚咽。

「ダメでもいいです。ママ、いっしょにいて――」

「ずっと謝りたくて……でも、怖くて……」

「ゆるし、ますよ――ゆるさせて。わたしのなかにちょっとだけあった、ドロドロした気持ち、あの人がみんな持っていってくれた」

「あの人――さっきの彼は、新葉の――?」

「学校の先輩、です。なんでも知ってる、ヒーローみたいな人。こんど紹介します。あの……先輩がぶったこと、怒らないでほしいんです。ほんとはいい人だから……」

「ふふ、痛いパンチだった。目が覚めるみたいな、若い力。きっと彼、私のこと、新葉の代わりに殴ってくれたのね」

 げ。バレてる。あれでもさすがに大人ってことなのか。

「ほかにもいっぱい、話したいこと、あって……」

 あとはしゃくり上げる声やら何やら混じってぐちゃぐちゃになったわけのわからない言葉が続き、最後に「ああ、新葉!」と感極まった紫川咲花の声を聞いた俺はラプラスに中継終了を告げる。念のためにと盗み聞いていたがもう大丈夫らしい。見なくても解る。母と娘が固く抱き合っている光景が眼に浮かぶ。

 あいつらの願いは叶った。これから二人の新たな物語が始まる。そこにはまた別の問題がゴロゴロしているのだろうが、さしあたり今回の葵条の旅はハッピーエンドと言ってよさそうだ。

 眼球がチリチリしてくる。まずい。他人の幸せを自分のことのように喜んで俺は泣きそうになっている。俺の脳にこれだけの感情移入能力が残っていたなんて。そんな機能とっくに死んだと思ってたんだけどな。


 狭い道を行くと海岸に出た。

 地図で見た限りは湾内一帯が港になっているようだったが、実際に来てみると砂浜や磯といった自然の地形がけっこう残っている。足元をフナムシの群れが走り回っていたが、俺が足を止めていても一向に寄ってくる気配がない。こいつらは俺の中に異世界の化物が寄生してることを感じ取っているのかもしれない。

「なあラプラス。葵条の親父はどうして、娘の眼を潰さなかったと思う……」

 ちょっとした思い付きから、俺はそんなことを訊いてみる。

 葵条新葉の碧眼は、父親にとっては妻の憎むべき裏切りの象徴だったはずだ。悪意だけで娘を育てるほどのサイコパスが、見たくもないあの色を永久に破壊してしまおうと試みなかったのはなぜか?

 しばらくだんまりだったラプラスは瞬時に反応する。

《虐待の露見を恐れたのではないか、と推測する》

 なるほど。合理的な答え。そりゃそうか、ただでさえ特徴的な眼の色した子供が、ある日突然両目失くしてたら誰だって気になる。

 でもいまの俺は別の可能性について思うのだ。

「俺はさ、あいつの親父が実はいい奴だったなんて可能性は一ピコグラムも信じないし、妻や娘との和解の可能性があるとも思わない。葵条幸雄は疑いなく最低のゴミだ。生きてちゃいけない野郎だ。でもそんなクソ親父が娘の眼を潰さなかったのは、結局潰せなかったからだと思うんだよ」

 妻への愛情が残っていたから、じゃあない。娘に対してやはり一片の親心を残していたから、でもない。

 自分を見上げるあの碧い瞳が、ただどうしようもなく美しかったから、感情も理屈もなく葵条幸雄はその眼を抉れなかったのではないか。

 根拠はない。すべて俺の妄想。正解は多分ラプラスの言ったようなしょうもない理由なんだろう。わかってる。でも俺は、あいつの眼が単なる偶然の呪いでしかなかったとは思いたくないのだ。空とも海とも違うあの青さが、父親を狂わせる一方で、その狂気から娘を守る力も持っていたのであってほしい。その遺伝学的奇跡がいま、九年ぶりに会った母親の心を動かす魔力になるのだと信じたい。

 馬鹿げたセンチメント。東京行きの電車からそうだったが、やはり俺は疲れて理性的思考が弱っているのだろうか? 戒獣なんぞと結合してる影響で脳内物質のバランスが狂ってたりするのかもしれない。だがもう少し感傷と遊んでいたかった。後輩のために祈るくらい、いいだろう、万理。

 俺はおまえの代わりにはなれない。でもそれでいい。戒獣は変なのを一匹残していなくなった。人間同士のことは人間でカタを付ける。スーパーヒーローはもういらない。この世界に戦う魔法少女はいらない。だから安心して、おまえは休んでいい。

 俺は俺にできることをやる。怪物やテロリストと戦うのではなく、親と生き別れた子供に再会のチャンスを手渡せるような、たとえばそんなヒーローを目指すのだ。それが万理の遺志を継ぐことになると信じて、俺は勝手に理想を追いかける。

 人はありもしない「意味」で世界を彩る。いま俺が都合のいい解釈で現実をねじ曲げているように。そうして自分の幻想の中を一生さまよい歩いて、誰もがいつか平等にくたばる。センチメンタリズム。くだらん。しかし人間はそれなしに生きられない。万理が殉じたものだってこのアホくさい感傷なのだ。感傷の生む幻だけが人間に存在意義を与えるんだとしたら、俺の中に宿った万理の幻はひとつの真実と言えるんじゃないのか。

 この宇宙でただひとり、俺が万理のことを覚えている限り。

 あいつの一部はずっとここに、俺とともにいる。そう思える。

 いまこそ俺は、すべてを赦せる気がした。万理がいない世界を、それでも愛して、平和と幸福の中で生きていける気がした。少なくともその可能性、その希望が見える。

 いいさ。充分だ。

「ラプラス、おまえに感謝しなくちゃな。おまえのおかげで俺は、万理のことを覚えてられた……偶然だろうけど、何十億分の一って確率だ。万理の言い方を借りれば、運命って奴か」

《偶然とは?》

 駄目だこいつ。無限の知識を持ってるくせに、やっぱり文脈を読み取る能力ではまだ中学生以下らしい。

 ここはおとなしく感謝されとく場面だ、と教えてやる。

「つまり、人間は七十億だか八十億だかいるのに、その中で俺を宿主に選んだ偶然だよ。誰でもよかったんだろう?」

《――いいや、一宇。それは違う。

 私が君を選んだのは偶然ではない。君でなければならなかった》

「あ?」

 どういうことだ、と訊こうとしたそのとき、俺の肩に誰かの手が置かれた。思考を宙に浮かせたまま、反射だけで振り返る。

 八紘だった。

「や、カズ兄。選んだ服は、結局使わなかったみたいね」

 わけわからん。

 なんで妹がここに出てくるんだ。なんで俺が放り捨てた荷物を持ってるんだ。なんでちょっと事情知ってますふうのこと言ってんだ。なんで微妙に寂しそうな笑みなぞ浮かべてんだ。これは夢か?

 八紘はキャップ帽をかぶり、普段よりずっと地味な服装をしている。髪形も違う。いつもは横向きに髪が跳ねる面倒そうな結び方だが、いまは後ろで一本に束ねるシンプルな形だ。顔が見えなければ解らなかった。でもこうして向かい合えばやはり八紘に違いない。

「何してんだおまえは」

「昨日、カズ兄がばたばた荷造りなんかしてるから、怪しいなーと思って。で、朝早くから案の定こっそり出かけるでしょ。尾けてきちゃった」

 おいラプラスよ、いつからだ。こいつはどこにいたんだ。

《玄野八紘は君が家を出てすぐに尾行を開始した。検川駅からはひとつ後ろの車両に乗り、新幹線では君たちの二つ後ろの席に座っていた》

 怖えよ。言えよ。なんで教えなかった。

《訊かれなかった。報告の必要があったのか?》

 ファックザコマンドメンツ。天然で言ってんのか? それともわざとやってんのか? つーか八紘は新幹線の金をどうしたんだ。乗車券代は。

《君と同じく、親戚から『お年玉』と称して渡された日本円を使用している。彼女にも個人的な貯金がある》

 そうかい。で、それを持ち出してきて迷わず使ったと。怖えよ。

 もちろん俺は八紘を愛している。かわいい妹として。でもまったく気付かれずに他人を尾行するなんて忍者スキルを見せつけられてもどう反応していいのかわからない。しかも万単位の金まで使って。こいつの将来が少し心配だ。

 脳内会議を切り上げ、俺は八紘に訊く。

「……もしかして、一部始終見てたのか?」

「うん。最初はただのデート旅行かなって思って、どうしようカズ兄が不純異性交遊に走っちゃう、とか馬鹿みたいなこと考えてたんだ。ラブホテルとか入るようならその場で止めなきゃ、ってね。

 でももっと重そうっていうか真面目っていうか、そんな雰囲気だったでしょ? 新幹線とか乗っちゃうから、うええどこまで行くんだよーって正直思ったけど、あんまり気になるから八紘も乗っちゃった。おかげで実はオケラだったりして」

「馬鹿かおめーは。どんだけアグレッシブな好奇心だよ。ったく仕方ねーな、帰りの分は俺が出してやっから」

「お、お兄さま……っ!」

「置いてくわけにいかんだろ。あ、フナムシ登ってるぞ」

「ふな……ぎゃー!? キモいキモい取ってうわぁあばばば!」

 跳ね回る愚妹。よかった。電車や新幹線での話の内容までは聞かれていないらしい。戒獣だの魔法少女だのいうヨタ話を聞いたら八紘は俺の頭がおかしくなったと思うだろう。ラプラスの力の一端を体験した葵条だって、あの話の内容をまるごと信じたわけではおそらくないのだ。

「安全地帯発見っ!」

 俺がどういうわけかフナムシを寄せ付けていないことに気付いた八紘は、足踏みをやめて俺の首っ玉に飛びついてくる。もう一度言うが健康に育った十二歳の女子が羽毛のように軽いなんて冗談はない。「親方! 空から女の子が!」とかいう事態になったら俺は間違いなくこいつといっしょに落っこちる。

 八紘の両手両足が俺の背に回り、ベビーシートみたいにがっちりホールドした。もう逃げられん。通行人がこの図を見たらヤバいんじゃないか? 普通この歳の妹が兄に抱きついたりはしないだろうからあらぬ勘違いを招く。公然たる駅弁スタイル。

「重い。せめて背中に乗ってくれ」

「乙女に重いとかゆーなあっ! うう……地面に降りたくないよぉ……地に足着けず生きていたいよぉ……」

「小学生が何を言ってんだ?」

 結局八紘はそのまま体勢を微調整し、俺の正面で安定してしまう。抱える俺の負担も軽くなったがこいつはこれでいいのだろうか。いくら兄妹とはいえ。

 そこで俺は葵条の言っていたことを思い出す。

 ――同性愛がひとつの愛のかたちであるように、たまたま妹が兄に惹かれるなら、それは仕方のないことです。

「あのきれいな人、昨日は後輩って言ってたけど……」

 思い出した途端に葵条の話になる。何だこれは。ほぼゼロ距離だがこういうのもシンクロニシティっていうのか。

「目が碧くて黒っぽい服着てたあれか? あいつはほんとに後輩。ワケあってちょっと母親探しを手伝っただけだ」

「母親って、さっきカズ兄が殴ってた人?」

「そこまで見てたのかよ。ちゃんと理由があるんだ」

「ふーん、デートじゃなくて親探しか……そこまでしちゃうくらい親密な仲なんだ……」

「だからただの後輩だっつの。知り合ったの昨日だし」

 葵条との関係をネタにやたら絡んでくる八紘。まさかとも思いがたいが、まさかほんとうにそういう話か? 八紘は俺を兄じゃなく男として見ていると? 結婚できないとか言ってた相手が俺のことだとしたら。馬鹿な。ありえん。

 けれどもし八紘が本気なら、俺はやっぱりその想いを笑い事で済ませてはならないと思う。こいつだってひとりの人間だ。「普通の妹」であってほしいなんて願望は俺の都合でしかない。大事なのは八紘の気持ちだ。

 マイノリティはいつだって辛い。人に言えないことならなおさら、理解されない孤独を抱えている。新世界が始まったあの日、俺はもう八紘の伸ばした手を離さないと誓った。肩が外れようと腕がちぎれようと関係ない。だから妹がそういう感情を俺に抱くなら、俺はあくまで真摯にその思慕に向き合うべきなのだ。こいつが望むようには応えられないとしても。

「なあ、八紘。俺のこと好きか」

 単刀直入に訊こうと思った俺は女に振られる寸前の男みたいな物言いをする。こんな科白を吐く日が来ようとは。しかも妹に。

「なにそれー。好きだよ、当たり前じゃん」

「家族として?」

「もちろん。他に、なんかあるの……」

「たとえばの話、だけど――恋愛感情みたいなさ」

「ぷっはは!」

 八紘は俺に巻きついたまま身体を揺らす。「一笑に付す」という表現がしっくりくるような失笑が、胸元で弾けた。

 あれ? やっぱり葵条の勘違いか?

 そんなら俺が自意識過剰の気持ち悪い兄だったってだけですべては平和的に解決する。何も問題はない。八紘は俺が思っていた通り人懐っこいだけの妹。実兄に恋焦がれるような難儀なハートを持ち合わせてもいない。なーんだ。

「ごめんね、笑っちゃった。だって……そんな気持ち抱えてたら、恥ずかしくてこうやってベタベタできないよ。でしょ?」

「兄妹ならいいのか」

「いいの。ぜったい男と女の関係にはならないってわかり切ってるから、いくらでも仲良しでいいの」

「そうか」

 それから八紘は俺の耳に唇を寄せ、顔の見えない角度で言う。

「まあ、でも……たとえばの話だったら、八紘にもあるかな」

「何ぞや」

「もし八紘が、ほんとにカズ兄のこと好きだとしたら……つまり、実の兄に恋するおかしな妹だったら……カズ兄はどうしてた」

 いったん気を抜いたところにこの不意打ち。俺はまた硬直する。

 どうしてた? いやマジでどうしてたんだろうね。とりあえず家の中が気まずいだろうなあ、とは思うけど。

 耳元で八紘が明かすのは、俺が知らない過去の記憶。

「八紘ね、ケンカ強いでしょ。そのせいで男子には嫌われてるんだ。『男のメンツが立たない』んだって――あいつらバカで、ガキばっかだから。

 一年か二年のときだったかな。公園でぶっ飛ばしたいじめっ子に、『おまえなんか一生ケッコンできねーかんな! コドクシすんだ、コドクシ!』とか言われてさ。うちに帰ってネットで孤独死の意味調べて、誰にも見守られないでひとりで死ぬヨボヨボの自分想像して、怖くて泣いて。そんとき帰ってきたカズ兄に、『大丈夫だよ、俺がずっといっしょにいてやるから』って漫画みたいなこと言われて、それがすごくうれしくてまた泣いて。覚えてる? 覚えてないかあ」

 そんな事件が起きていたとは。でも八紘が泣いていたら俺はそれくらいのことを言ってしまいそうではある。うむ。納得。

「こんな小さいときの約束、いまでも宝物みたいに思ってて、本気でカズ兄のこと好きだったりしたら……ね、馬鹿みたいでしょ。セイブツガクテキにおかしいらしいし、そういうの、世の中じゃ頭の病気かヘンタイってことになってる。異常だって。……いまは小学生でも知ってるんだよ、それくらい。

 八紘が病気でヘンタイだったら、カズ兄だって気持ち悪いって思うでしょ。八紘のこと、きっと嫌いになる。だから……」

 八紘の腕に力が入る。両手は俺のシャツの背を強く握りしめていて、押しつけられた胸の向こうからは八紘の心臓が俺を叩く。苦しそうだな、痛くないかな――そんなことばかり俺は考えている。

「……だから、違うの。そういうんじゃない。カズ兄はやさしいお兄ちゃんで、八紘はただの妹。……でないと、ダメだよ」

 微笑んで念を押す八紘の、睫毛には涙の粒。ああ、もう。

 いやもちろん俺は解っている。八紘は俺や両親に迷惑をかけないようにこんな回りくどい言い方をしているのだ。健気なり我が妹。でもしらを切りとおせない程度には苦しくて、結局俺に話してしまっている。

 自分が我慢すれば誰も不幸にならない。だから一番欲しいものを欲しがらず、欲望を押し隠して生きていく。いまのこいつは万理と同じだ。

 もちろんスケールは全然違う――実兄への恋愛感情なんて一時の気の迷いに過ぎなくて、来年にはもう八紘だって彼氏を作っているのかもしれない。兄に惚れてた自分を恥じて「おにいちゃんキモい」とか挨拶代わりに言うようになるのかもしれない。それはきっと平和で、一番ありそうな未来だ。でもそうじゃなかったら? 俺にしてやれることは?

「八紘、俺はさ」

 俺は妹に万理みたいな思いをさせたくなかった。人生は挫折や喪失に満ち溢れていて甘いもんじゃあないんだって一般論があるとしても、せめて八紘には甘い人生を生きてほしい。過保護な兄のエゴをどうか許してくれ。我慢しなきゃいけないなら俺がする。

「おまえを女として、男の目で見たことはなかった。

 おまえのことは好きだし、いまこの世でいちばん大事な人は誰かって訊かれたら、たぶん妹の八紘ですって言うと思う。けど、それもやっぱり妹としてなんだ」

「うん……わかってる、それでいい。それが正解」

 八紘は頷く。当然だね、と言うように。目立たないように涙を拭って、傷ついたそぶりを見せまいとしている。

 俺は続ける。自分の中の覚悟を確かめながら、言葉を紡いでいく。

「それでいいって、おまえが心の底から言えるんなら、俺はいままで通りにする。できるだけ良い兄貴でいようと思う。俺にとっていちばん大事なのは、おまえが幸せかどうかだから。

 だけど、もし……どうしても『マトモな妹』でいるのがつらくて、耐えられないって思うんだったら……そんときは、正直に言っていいからな。そしたら俺だって、腹くくるよ。おまえだけのものになるって誓う」

 こいつが俺の全存在を独占したいと本気で願うなら、俺は他の誰のものにもならない。馬鹿馬鹿しくも神聖なその誓い。

 八紘の身体が震えた。小さな地震のような衝撃があった。

「……そんなこと言っていいの? 八紘、カズ兄が思ってるほど強くないよ」

 俺は頷く。見上げてくる八紘と顔が近すぎて目の焦点がぼやける。熱くて速い吐息が俺の喉をくすぐった。落ち着けよマイシスター。逃げも隠れもしないから。

「おまえが異常者でも変態でも、嫌いになんてならない。約束も守る。おまえが望む限り、ずっとそばにいる」

 ほんとうにいい兄貴なら、叱るべきところだったのかもしれない。

 世の中には確かに許されない関係ってのがあって、諦めて忘れて社会に適応して健全な幸せを見つけるのが正しい道だと、道を外れつつある妹に教え諭してやるのがたぶん正解なのだろう。

 でも八紘の抱える問題は正しさなんかでは解決しない。遺伝子だの常識だの倫理だのを持ち出して、“説得”するのはきっと八紘を追い詰めるだけに終わる。だから俺は、ここでクソの役にも立たない正論を説いて八紘を直す代わりに、八紘が壊れそうなときはいっしょに壊れてやろうとただ決意する。いい兄貴? 無理だろう。俺は俺にしかなれない。

「もう、バカ。シスコン。わかんないかな。そういうカズ兄だから、犠牲にしたくないんだ」

 もはや涙を隠そうともせず八紘は泣きじゃくる。泣きながら笑って、俺の倒錯した決意を一蹴する。そして俺の胸元は八紘の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていて、海風がひんやりと冷たい。

「犠牲?」

 俺は八月三十日の午後を思い出す。生まれ変わった世界で、俺が最初に取り戻したものは八紘だった。あのときは俺がいきなり抱きついてこいつを驚かせていたっけ。遠い昔のような気がするがまだ一ヶ月ちょっとしか経っていないのだ。万理がいなくなってから。

「きっとカズ兄は、八紘が『愛して』って言ったら愛してくれる。でもそれって結局、カズ兄を嘘つきにしちゃうことでしょ。八紘のわがままの、犠牲にしてるだけ。そんなの、ぜったい嬉しくない。

 だから、八紘のものになってなんて言わない。カズ兄も、マジな顔でバカ言わないで。みんなたとえばの話なんだから、ね」

 犠牲、という言葉が俺のどこかにあるやわらかい部分を刺して、出血させる。俺は八紘のためなら犠牲になったってよかった。万理が世界のためにそうしたように。だが八紘はそれを望まないだろう。俺が万理の犠牲なんか望まなかったように。

 馬鹿な俺が斜め上の覚悟を固めたところで、妹はちゃんとこの世界と折り合いをつけて生きていくつもりでいる。人が持つべき当たり前の強さ。消え失せた過去のどこかに俺が落としてきてしまったもの。

「わかった、ごめんな」

 八紘にとってほんとうに辛いことは何かを解ってやれない、俺の無思慮を悔いる謝罪だった。

「まあでも、もし八紘がほんとうにガチガチのブラコンで、ひとつだけお願いしてもいいんだったら……そうだなぁ。もうしばらく、好きでいることを許してほしいかな。

 ちゃんと諦める。気持ちの整理つけて、また“妹”に戻るからさ。それまではカズ兄のこと、好きなままでいたい――たぶん、カズ兄のことが好きな八紘は、そう言うと思うよ」

 ふるえる声で仮定を重ねるひとりの女。俺は八紘のやわらかい髪を撫でる。そうされるのが好きな妹に、少しでも愛情を伝えられることを祈って。俺に残されたものはこの世界だけで、八紘はその中心。それだけは掛け値なしに真実なのだ。

「いいよ。許すもなにも、そういう感情はコントロールできないもんな」

 偉そうに許可なんか出してみせるが、俺だって万理のことをずっと引きずっている。そのつらさも知っている。だから、続けた。

「だけど八紘、おまえには俺みたいな奴より、もっと愛すべきものがたくさんあるんだ」

 万理に言えなかった科白。

「……そうかな」

 弱い俺が言えなかった科白。

「ああ、そうだよ。世界は広いし、人生は長い」

 言えば強くなる、というもんでもない。よく考えれば文脈から微妙にズレてもいる。しかし俺はその言葉を、呪文か何かのように唱えずにいられなかった。

 この世界には俺よりも愛すべきものなんて無数にある。

 だから八紘はもっとマシな男を見つけられるはずだし、俺だってもう自分を真っ当には愛せないとしても、ほかの何かを愛して生きることは可能なはずだ。

「……そっか。うん。ありがとカズ兄。変な話に付き合わせてごめんね。もう降りるから――今度はおんぶしてくれる?」

「おーまーえーはー、もうすぐ中学生になるってのにどんだけ甘え癖が抜けねーんだよ」

 などと言いつつ俺は着地した妹に背中を向けている。過保護。いやいや、俺にはその理由がある。それにいまの俺には八紘の重さとぬくもりが前にもまして尊いものと感じられる。

 背中に覆いかぶさった八紘が、また耳元で囁いた。

「ね、カズ兄。あのきれいな人と付き合っちゃいなよ」

「だから葵条とは昨日会ったばっかだって、何度言やあ……」

「恋の始まりなんて突然だよ? あの人ぜったいカズ兄のこと好きだって。電車乗ってるときとか、すごいお似合いって感じだったし」

「へいへい」

 変な話をしていたかと思えば今度は葵条との関係発展を指嗾する妹。ベクトルが真逆なんじゃないのか? 葵条もそうだったが女心ってやつは解らん。ほんとうに解らん。多少は解っていたつもりの万理の心にだって俺はどれくらい近付けていたことか。

「だいたい出会った次の日に京都旅行なんて、いったいどんなマジック使ったの? ぜひ教えていただきたいですなー」

「企業秘密だ」

 八紘が耳元で抗議の息をフーフー言わせはじめる。こそばゆい。だがどんな抗議を受けようと俺はもう妹を戒獣に関わらせたくないのだ。たとえラプラスが人間に敵意を持たないポンコツだとしても。

「秘密にするようなテクがあるんだー……知らないところで、カズ兄はどんどん大人になってっちゃうね」

「なーにを寂寥感漂わせてんだ。おまえも大人になるんだぞ。誰だって、どうしようもない現実と折り合いつけて、たぶん気づいたら大人になってるんだ」

「なにそれ。オジサンっぽい」

「ガキだから大人になるんだよ。これからな」

 俺はまだガキのまま。アインシュタインのループ時空で何年分の八月を繰り返したとしても、十四歳の中二のまま。でも来年には十五歳になって、その次の春には中学を卒業する。俺は高校生になる。大学生にもなるだろう。そうやって年を取って肩書きが変わって、いつの間にか俺は大人になる。すべて万理がくれた可能性だ。

 あいつがくれた未来を、俺は父や母や八紘やひょっとすると葵条なんかとも一緒に生きていく。胸のいたみは消えないが、いまはそれを甘いと感じることができる。孤独からの解放。欠落との調和。世界は平和になった。俺はやっと幸福になれる。

 万理。

 遠回りしたけれど、おまえの願いは叶うよ。


 さて。

 旅の終わりが海岸ってのはまるでサスペンスドラマみたいでいい絵だ。八紘を背負ったままなのはちょっと間抜けだが、万理が取り戻してくれたものの象徴とか何とか自分で理屈を付けられないこともない。

 せっかくなので俺はここで最後の疑問を片付け、前世のあれこれにも終止符を打っておくこととする。

「ラプラス、さっき言ってたのはどういうことだ。俺を宿主に選んだのが偶然じゃないってやつ……」

 偶然じゃなかったならある種の必然が働いたということだ。何か感動的な裏話のひとつも出てきそうな雰囲気じゃないか? 小説だったらそろそろ最終頁であろうこの辺でそういうエピソードが明かされるのはいかにもクライマックスって感じで最高にいい。

 ラプラスはいつも通り淡々と俺の耳に美声を響かせる。

《リライトによる事象改変をやり過ごすためには、君の脳と波動結合している必要があった》

「ん? いや、それは誰の脳でもいいわけだろ」

 万理は戒獣を過去からも未来からも根こそぎ消してしまおうとした。だからラプラスは消されないように人間の中に隠れた。勝手に取り憑いたことをいまさらどうこう言う気はない。そうじゃなく、その隠れ蓑が俺だった理由を知りたいのだ。

 ラプラスはまた一歩も二歩もズレた答えを返す。

《君の脳と言った。君でなければならなかったのだ。あらゆる可能性未来において、リライトの後まで同一性を保持し続ける人間は玄野一宇だけだった》

 同一性って何だ。と訊く前にラプラスが答える。こいつとの脳内会話はスムーズに進みすぎて逆に整理の時間が必要になる。

《脳のニューロンマップ。イオン電位差のパターン。及び、グリア細胞が発する量子デコヒーレンス波のネットワーク。つまり、記憶や人格が断絶なく持続していることと理解していい。

 前の宇宙について覚えている人間は、現在の宇宙では君だけだ。それはつまり、リライトによる歴史の更新が君にだけ影響しなかったことを意味する。ゆえに最初の依代は君にする必要があった》

 はあ。

 駄目だ。会話が成立してねえ。だんだんイラついてきた。

「あのな……そもそも俺の記憶が消えてないのはおまえのせいだろ。それを他の奴にできない理由でもあったのか、って訊いてんの」

《君の認識には誤りがある。私は君の記憶の連続性には関わっていない。不完全体として実相化マテリアライズした私に、そのような能力はない》

「おまえのせいじゃない?」

 俺の記憶が消えてないのは――ラプラスのせいじゃない?

「じゃあ、俺はなんで」

 本能が警告した。訊くな、と。

 訊かなければラプラスは答えないだろう。そうしてこの問いを忘れて家に帰り、今度こそ平和と幸福の中で生きろ、と理性が言った。

 だが俺の脳ミソは勝手に質問を出力する。言葉は止められても思考は止められない。本能でも理性でもない何かが俺の精神を操って、知らないほうがいいと予感した真実を知ろうとする。

「俺は――なぜ俺だけが、戒獣や魔法少女のいた世界を覚えてる?」

《不明だ。しかし、推測するならば、可能性はひとつしかない》

 聞きたくない。訊くな。訊くな。

 俺はその可能性を知りたくないんだ。でも声が勝手に出ていく。

「教えてくれ、ラプラス。おまえの推測を」

「えっなに?」と八紘。うっかり口で喋っちまったがおまえに言ってるんじゃあないよ。

《リライトを発動した顕月万理は全能に近い。誰も、アインシュタインの能力さえも、彼女の意に反して事象改変を阻害することはできない。しかし君という特異点が存在し、それによってリライトは完遂されず、私という最後の戒獣が存えることを許した。君だけがすべてを覚えていた。

 ならばそれは、彼女の意思だ。

 新たな歴史に合わせてすべての人間の記憶を補正しなければ、戒獣の存在確率を抹消し切れない可能性があった。現にこうして一体残っている。顕月万理は当然それを承知していた。おそらく私の実相化マテリアライズさえ予見していた。しかしその上で彼女は、君の記憶だけを意図的に消さなかったのだ。理由までは、私には推し量れないが》

 万理が、俺だけに、前の世界の記憶を残した?

 理由。そんなもんは解らない。解らないが、俺の頭はいちばんあり得そうにない可能性だけを追っている。あの万理が、守ろうとした世界を危険に晒してまで俺の記憶を消さなかったのは、じゃないのか、と。

 あいつは俺に覚えていてほしかったのだろうか。

 他の全人類から忘れ去られたとしても、俺にだけは忘れられたくなかったのだろうか。

 待て待て俺。世界は玄野一宇を中心に回っているわけじゃないんだよ。たとえば万理が俺にラプラスを任せたって考え方はどうか? 宿主が邪悪な使い方をしなければこいつは無害だ。この力を正しく使って何かを成し遂げることを、万理が俺に望んでいたとしたら。うーむ。

 どうもしっくりこない。普通に生きられることの尊さを誰より知っていた万理が、俺にこんな超危険物を押し付けるとは思えないのだ。信頼されていなかったとは思わないが、正義の味方として後継者を選ぶなら俺よりもっと相応しい人材がいくらでも世の中にはいただろう。そういう判断をするなら私情を挟む万理でもない、と思う。まだ忘れられたくなかっただけの方が納得はできる。

 しかしその仮定は、俺にとって深刻きわまる問題を引き起こす。

 俺はやっとこの世界を愛せそうなところまで来ていた。こんなところまで俺を追ってきた八紘や、俺に新たな生の指針を示してくれた葵条。そういう家族や友人たちが、俺をこの世界に繋ぎとめてくれる気がしていた。やっと万理への後ろめたさから解放されると――でもそれは、万理が未練を残していなかった場合の話だ。あいつが百パーセント自分を納得させて、完全なる決意の元にリライトを実行したという前提のもとでの話だ。

 どんなに無茶に見えても、その前提は正しいと思っていた。あいつは強靭な精神の持ち主で、長い間悩み抜いた末に自分を犠牲にしようと決めたのだし、なにより世界はこうして実際に書き直リライトされたのだから。だがもし万理が納得も決意もし切れていなくて、後悔や未練を残したまま消えたんだとしたら、少なくともあいつの一部は自分以外の意思によって犠牲にされたことになる。その証が他ならぬ俺であるかもしれないという。

 あれが純然たる自己犠牲じゃなかったのなら。

                               「やめろ」

 その一部分が、最後の最後で俺のために正義を拒絶したのなら。

「俺はしあわせに生きなきゃならないんだ」

 すべての前提が引っくり返る。そのとき、俺は――

             「あいつが残した世界を赦さなきゃいけないんだ」

 赦す?

 なぜ?

「カズ兄、最近ひとりごと多いよね」

 八紘の声で俺は現実に引き戻される。

 前にもこんなことがあった。八紘はいつも過去へと沈んでいく俺を引っ張り上げてくれる。いまも背中に伝わる熱。足を通して砂浜に食い込む重さ。俺の全存在を大地に繋留する、黄金の鎖。

「おまえのおかげで、独り言じゃなくなってる場合もあるけどな」

 そうだ。なぜもクソもあるか。俺はもう取り戻したのだ。この世界で俺は大切なものをいくつも得た――充分なはずだ。八紘に言った通り、誰だって思い通りにならない現実と向き合いながら生きていく。それが人生。当たり前の光陰。五年間味わい続けた喪失の苦しみを思い出せ。万理のおかげで返ってきた幸せを受け取って何が悪いんだ。過去がどうあれ現在と未来を否定してしまうのは無意味じゃないか。それで万理が戻ってくるわけでもなし。生きる意味だって見つけた――みんなこれからだ。前途にある無限の可能性を俺は思う。

 親孝行しよう。母を温泉にでも連れて行って、父とは男同士腹割って酒でも酌み交わすのだ。妹には兄として注げる限り最大の愛情を注ごう。うんざりするほど過保護になってやろう。友達を増やそう。たまに話す程度のクラスメートとももっと仲良くなれるように努力してみよう。藤旗とラノベ談義に花を咲かせてみたり、完璧超人だと思われてる垣田が抱えてる悩みをそれとなく聞いてやったりしよう。それから新しい恋だっていつかは始めよう。万理を忘れられなくても誰かを好きになれそうだってことは今日でわかった。葵条――あいつはこれからどうするのだろう。母親と暮らせるだろうか。暮らすとしたら美砂か、ここか。そうなったあとでも俺はまた葵条に会えるだろうか。

 とりとめもなく、希望や目標を並べ立ててみる。万理が何を思っていたかだって実際には解りやしない。でも俺が余計な疑念に囚われてせっかく色づきかけた未来を灰色に戻してしまうなんてのは、絶対に万理の望みじゃなかったはずだ。

大丈夫。昨日までならまだしも、いまの俺なら過去と未来を秤にかけられる。その上で未来を選べる。

「                     」

 内なる弱さとの戦いに没頭していた俺は八紘の言葉を聞き漏らす。え何、と聞き直すと背中からまた声が降ってくる。

「ひとりごとじゃなくなったら、ふたりごとだね、って言ったの」

「いや意味わからん」

 つまりただの会話じゃねーか。普通のコミュニケーションだ。

「でも、ふたりごとのつもりで言ってても、答えてもらえなかったらやっぱり、ひとりごとになっちゃうのかな」

「いや、独り言ってのは最初から返事を期待しねーもんだろ」

「じゃ、おしゃべりの最後はみんなひとりごとなの?」

「高度な揚げ足を取りやがって……」

 でも八紘のおかげで俺は思い出す。もうひとつ「聞こえなかった言葉」があることを。

 忘れていたわけじゃないが、気にしないようにしてきた。たぶん怖かったからだ。あいつが最期に何を言ったのか。アイシテルとかサヨナラとか、そんなことならいい。悲しくなるが絶望はしない。だがもし、それが俺の無力をなじるような言葉だったら――万理が俺を恨んで、赦すことなく逝ったのなら、俺はもう立ち直れない。だからラプラスに訊かなかった。

 しかし俺は、いまこそ万理の最後の言葉を知りたい。そこに何らかの赦しを見出して、俺は前に進んでもいいのだと確かめたかった。きっとあいつなら、辞世の句でも「元気でね」とかそんなことを言っている。万理は俺とは違う。強い女だったのだから。

 祈る。

 命じるように。乞うように。

 ――教えてくれ、ラプラス。

《何を知りたい?》

 俺が聞こえなかった万理の最後の声を、この耳に聞かせてくれ。

《了解した。リライト発動直後の、彼女の発声を再現する》

 そして懐かしい声が、波の音や鳥の声や八紘の吐息をかき消した。



「――ほんとはあたし、きみといっしょにいられない世界なんか、つくりたくなかったんだけどな」



 何だそりゃ。

 何だそりゃあ。嘘つけ。

 俺は笑った。最後の科白なのにこれはどう考えても本心じゃない。創りたくないならリライトなんかやらない。同じ状況が何度訪れても万理は同じ決断をする。そんなことは知っている。あいつは天来のヒーロー。正義の味方となるべくして生まれた女。万理には人類とか世界って抽象概念をリアルな命の集合として想像することができた。それが何物にも代えられない尊いものだと信じて戦うことができた。俺がいちばんよく解っている。だから平和な世界を創りたくなかったなんてのは嘘だ。これはちょっと弱音吐いてみました程度の戯言であって本気にすべきではまったくないんだ。

 でもこの際、あいつが言葉通りに行動できたかどうかなんて、どうでもよかった。

                               「駄目だ」

 俺にとって重要なのは、最後に万理がそんな科白を口にした事実そのものだ。あいつがため息をつくみたいな口調で吐いたのは、俺が恐れていたのとはまったく別の意味での恨み言だった。少なくとも俺には運命を呪う言葉にしか聞こえなかった。世界なんか?

                              「折れるな」

 未練も、後悔も、最後の瞬間まで万理の中にあったのだ。

 当たり前じゃないか? ちょっと考えれば解る。あいつ自身が言ってたし俺も解ってたように、顕月万理は神じゃなく人間だ。ちょっとスペシャルな力を持っただけの子供だ。それが一片の心残りもなく自分を歴史から消すなんてできるわけはない。そうとも。解っていた。

                      「諦めるな。取り戻したんだ」

 だが俺は無理にそうじゃないと思い込んだ。未練や後悔なんてなかったと決め付け、万理は覚悟を決めて恐怖もためらいもみんな捨てて虚無の彼岸に向かったのだと信じようとした。そう信じて俺は、万理の不在を正当化するための口実を必死で探していた――あの自己犠牲が無駄でなかったなら、全存在と引き換えにするだけの価値あるものを取り戻せたなら、あいつの消滅はただの悲劇ではなくなるから。でもこれが、悲劇以外の何なんだ?

                  「否定するな。あいつが守った平和だ」

 そうさ。万理が求めて得られなかった平和だ。

                  「否定するな。あいつがくれた幸福だ」

 そうだとも。万理が世界の都合で奪われ続けた幸福だ。

                「俺はこの世界を赦さなきゃならないんだ」

 万理は消えたくなんかなかった。あいつが自ら選んだ道だとしても、弱さを見せまいとしていても、消えたくないと思っていた。俺は最後に一筋光った涙を忘れない。自分を騙しおおせると思っていたが無理だと解ったのでもうやめる。

                「俺はこの世界を赦さなきゃならないんだ」

 万理は消えたくなかったのに消えた。消えたくなかったのに消えた。消えたく、なかったのに、消えた。意志の力でそこまでやれた万理が、俺の記憶だけを消さなかった意味。

                           「俺はこの世界を」

 ――いっしょにいられない世界なんか。

 音がした。

 切れてはならないものが切れる音、壊れてはならないものが粉みじんに砕け散る音を、俺は聴いた。

 ――きみといっしょにいられない世界なんか、つくりたくなかった。

「俺だって、そうだったよ……」

 万理は魔法少女としてヒーローの生き方に殉じた。でも最後には、ほんとうに最後の最後には、ただの少女として生きられなかった己の宿命を呪ったのだ。正義の味方なんて理想に縛られた自分と、そんなものを必要とした世界を呪った。そうしてあいつは――

                                「俺は」

「おまえがいない世界になんか、いきたくなかった」

 あいつは――

                             「この世界を」

 自分が愛して守り続けたものを、呪って――

                       「■さなきゃならないんだ」

 泣きながら、消えていったのだ。



 とりあえず叫んでみた。

 息を吸うそばからそいつを吐き出し切るまで吼えて、苦しくなって海岸の湿った砂に手をついて、ぶるぶる震える手で砂と水を握り締めて。むせながらまだ絶叫してみた。狂ったように叫び続ければ、そのまま今度こそ本当に狂ってしまえるかもしれないと一抹の希望を抱いた。

 でも他方で俺は最初から無理だと気付いていた。まったく完璧な正気が俺の精神を覆い尽くし、すべての希望と幻想と自己欺瞞から目を醒まさせた。俺はもう死ぬまで狂うことなどできないだろう。これ以上何からも目覚めることはないだろう。二度と自分に嘘をつくことはできないだろう。

 自分の叫び声も含むすべての音が、奇妙に平板化して感じられた。もしかしたら笑っていたのかもしれない。

 顔を上げると世界は灰色だった。

 身体が軽い。何か背負ってたものを落としたような――ああ八紘か。

「ちょ……ちょっとカズ兄。ねえ、大丈夫なの? どっか痛い?」

 妹の声すらどこか無機質な音の集合としか感じられない。感情が抜け落ちている。フナムシを寄せ付けまいと爪先でちょこちょこぴょんぴょん跳ねる八紘は身内フィルター込みで考えてもそれなりに愛らしいはずだが、俺の心はやっぱり凪のまま凍りついた海みたいに波立たない。

 あらゆる正義が死滅していた。一切の美が色褪せていた。

 この世界を愛せると思った。大切なものを取り戻したと確かに思った。なのに、みんな指先からこぼれ落ちていく。掴んだはずの希望。夢。愛。万理の消滅を贖おうと拾い集めてきたすべてのもの。あまりに呆気なく手離してしまえる。それを哀しいと思う心さえも。

「教えてくれ、ラプラス」

《何を知りたい?》

 俺はこの世界を赦さなければならないと思っていた。万理がそうしたと信じ、万理がそう願ったと考えたから。そういう現実を受け容れて、大人になっていくことが万理への供養になると。

 馬鹿馬鹿しい。

 妄想だ。まやかしだ。何もかも俺の勘違いだった。

 俺はあいつを止めるべきだったのだ。それで世界が生きたまま終わっていくとしても、万人の正義に背くとしても、ひとりの人間としてエゴを曝け出して本気であいつの決意を否定すべきだったのだ。俺は最後まで魔法少女オラクルの味方をした。けれどほんとうの意味で、顕月万理の味方をしてはやれなかったのだ……

「……カズ兄?」

 前提が間違っていた。対応も間違っていた。

 だったら俺のやることは決まっている。

「俺に、教えてくれ」

「なにを?」

《何を望む?》

 灰になった空と海の狭間で、俺の心臓がどことも知れない闇の中へ落ちていく。光のない虚無へと、あかく潰れながら墜ちていく。

 俺は両手で目を覆った。もしかしたらまた泣くかもしれない、いや絶対泣くだろうと思ったのだ。でも泣かなかった。俺の目は乾いていた。喉の奥まで完璧に、いつまでも乾き切っていた。

「この世界を、終わらせる方法」

 からっぽに戻った胸の底で、永遠に消えない黒い炎が燃え始めた。

《――了解した》

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