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バタフライ・エフェクトというもんがある。
俺も詳しく知ってるわけじゃないが、日本で言うと「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな意味合いの、力学の喩え話だ。
小さな変化でも時間が経つと思いがけない大きな変化に結びつくことがある。たとえば一匹の蝶の羽ばたきが将来遠く離れたどこかで竜巻を引き起こすかもしれない。だからバタフライ・エフェクト。ラプラスがもっと専門的な説明を一通り試みたが俺は途中で寝た。カオス理論とかストレンジ・アトラクターとか用語はカッコいいが何言ってんだか全然わからん。化学のテストで七点取った男を舐めるんじゃねーよ。
しかし理論面は別に理解できなくても問題ない。内部構造が解らなくてもパソコンは使えるし車は動かせる。この効果で大事なのは、小さな変化が時間経過で大きな変化に繋がる可能性はあっても、その過程や結果を予測することはできないという点だ。ごく小規模かつ短時間なら別だが、エネルギーと時間のスケールが大きくなるほど予測は難しくなる。蝶の羽ばたきから竜巻を予測するなんてのはどんなスパコンを使っても不可能だし、この先も人間には絶対に解らない。人が自分の後頭部を直視できないのと同じで、物理法則上そうなっている。
だが、ラプラスなら解る。
戒獣は〈カブラの狭間〉という異界の法則を身に纏ったまま
バタフライ・エフェクトを支配し、偶然を必然に変える――それが、最後の戒獣ラプラスが持つ真の能力。ローゼンは空間をねじ曲げてワームホールを作り出した。アインシュタインは時間をねじ曲げてループする八月に世界を閉じ込めた。同じ流れで言えば、ラプラスは運命をねじ曲げて望む未来を実現する。前二体に負けず劣らずの凶悪すぎる性能。もし万理がこいつと戦うことになってたら果たして勝てたかどうか疑わしい。
不完全体として
京都から帰った次の日以来、俺は山奥で石を叩いたり防砂林の葉っぱに意味不明の紋様を描いたり駅前の自転車を倒してから起こしたりした。夜の墓地で奇怪な呪文を発したり洞窟の奥へたった一本の釘を打ち込みに行ったりもした。体力的にハードなものもあったし極度の精密さが要求される難問もあったが、ラプラスの指示をミスらずクリアーできればいいだけなので、俺は強靭な意志と途方もない集中力を動員し順調にタスクを処理した。
まったく無意味無秩序と思える数々の儀式。
それらの影響は誰も知らない背後法則に従って時とともに反射増幅され、やがて大きな確率の波となって、予定された一連の現象へ結実する。
世界は十ヶ月で滅びた。
年末から翌年夏に渡って、未曾有の
もちろんこの全領域的破滅は俺とラプラスが演出している。
バタフライ・エフェクトを操り、自然現象に限っても一千万年かけて放出されるはずのエネルギーを十ヶ月間で炸裂させた。すべて俺の意思だ。世界は俺を赦さないだろうがそんなことはもうどうでもいい。俺だってこの世界を赦さないことに決めたのだから。
これはあいつの魂を貪り尽くして生まれ変わった世界に仕掛ける俺の戦争。誇りはしない。恥じもしない。まして悔い改めたりは絶対にしない。懺悔したい相手はみんな、俺の手で殺した。
俺ははじめに八紘を殺した。あの海岸で、落ちてた石を拾って、頭がぶち割れ脳ミソが飛び出すまで殴って殺した。何が起きているのかわからず怯えた表情のまま死んだ八紘。もしかしたら俺が万理を想うように実の兄である俺を愛してくれたのかもしれない八紘。俺がこの手で撲殺した。鋭いいたみが胸を刺す。そのいたみも殴り殺す。
俺の最愛の妹は五年前にもう死んでいたのだ。万理の犠牲を否定するなら俺は歴史を修正しなきゃならない。死んだはずなのに生きてる奴をみんな殺さなきゃならない。
次に住宅街の方へ戻って葵条を殺した。母親のところから電話で呼び出し、海岸に落ちてたワイヤーみたいなもので首を絞めて殺した。あの碧いきれいな瞳。光を失ったあとに覗き込んで、ようやく万理が殺した少女と同一人物だという実感が湧いた。八紘が選んだ赤い服もきっと似合っただろう。母親ともうまくやっていけただろう。今日はほんとうに楽しかったし俺はこいつのことを実際好きになりかけていたのだ。でも俺はそんな葵条を絞殺した。また胸にいたみが閃く。そのいたみも絞め殺す。
殺人が難しいひとつの理由は相手だけじゃなく自分の良心にも抵抗されるからだ。殺人者は犠牲者といっしょに自分の魂の一部をも殺さなければならない。だがこのとき俺は巨大すぎる間違いを犯してきた自分に対してどこまでも無慈悲になることができた。どうしようもなく間違えてしまった世界をちょっとでもマシな方向へ戻すためなら誰であろうと殺すことができた。プロの暗殺者みたくスマートにアパセティックに自分と他人を殺めることができた。
ここで運命を歪ませるというラプラスの力を試すことにし、たまたま頭上を飛んでいた鳩を撃墜することに成功する。鳩は因果の見えざる矢に射られ、まったく偶然に心臓発作を起こして死んだ。二度目の実験ついでに俺はその場から獄中の葵条幸雄を屠る。自分の手足とペニスを喰いちぎったあげく窒息と内蔵破裂で死ぬという細かい条件まで指定し、すべてその通りになった。死神のノートでも手に入れたような気分だ。でもやったことは要するにゴミ処理であって全然嬉しくない。
新幹線と快速で美砂までとんぼ返りし、俺はその日のうちに父と母をも殺す。
母・夕奈は買い物から帰ってきたところで死角から心臓を刺して即死させた。角度や突き入れるパワーの加減が心配だったけれどもラプラスのアドバイスが適確だったのでうまく一刺しで殺せたようだ。まだ五十年ぐらい生きると言っていた母さん。俺にやさしさの価値を教えてくれた母さん。俺に命をくれた母親。俺が果物ナイフで殺した。そのいたみも刺し殺す。
父・暁鷹はまともに格闘すると負けるかもしれないので手製のトラップで爆死させた。ラプラスの知恵を借りて用意した代物だがまさか市販の電子レンジを使ってあんな恐ろしい対人兵器が作れるなんて。俺に宇宙やタイムマシンの話をしてくれた父さん。夏になると俺たちをキャンプに連れて行ってくれた父さん。男として尊敬していた父親。俺が罠に嵌めて殺した。そのいたみも爆殺する。
家族を皆殺しにした俺は自分の部屋に戻って眠り、翌日から世界を呪う巡礼の旅に出る。
日本各地へ。のみならず世界へ。学校は自主的にドロップアウト。両親や葵条や妹の死体が見つかり警察が俺を追い始めるも捜査状況が筒抜けなんだから捕まるわけはなかった。路銀は自宅から持ち出した分と道中で稼ぐ分。大金を持つ必要はない。リッチな暮らしなんかいらないし十ヶ月食い繋げればいい。つまり世界を滅ぼすのに必要な期間だけ生きていられれば。
結局途中から貨幣は何の役にも立たなくなった。インフラが寸断され気温は急降下し、そして地球上に蔓延する苦痛と困窮と死。絶望の世紀末。懐かしいあの地獄が戻って来たのだ。俺は無限の知識を武器に文明崩壊真っ最中のサバイバルを生き延び、なおも旅を続けた。
すべてを見届けて、最後にひとりで死ぬために。
月と日が巡る。
リライトから一年、ふたたび八月がやってくる。
八月六日までにだいたい七十一億人が死んだ。魔法少女のいない世界で、戒獣の力と人間の悪意を結合させた結果がこれだ。すべからく誰にも止められない。誰も生き残れない。止めさせないし生き残らせない。この時点でまだ二億人ぐらい残ってるらしい生存者も完全に殲滅するための布石は打ってある。
空はエアロゾルで真っ暗になっていてもう見えないが、もし大気がクリアなら太陽表面に現れた異常な大きさの黒点が天文台から見えたはずだ。八月三十日の午後、本来なら太陽では起きないはずのハイパーフレアが文字通り天文学的偶然によって発生し、地球の大気を吹き飛ばすことになっている。それでジエンド。世界は電磁波と荷電粒子の暴風に灼かれ、燃えてなくなる。
そしてその八月三十日。地球最後の日。
十五歳にはなったけれども中学三年生になれなかった俺は、半分崩れた美砂一中の屋上にいる。あの貯水タンクの裏。そこで何をするでもない。天地壊乱の仕事はもう終わった。いまはただ、屋上の縁に腰掛けて、季節はずれの雪をぼんやり眺めている。
汚い雪だ。大気中に不純物が多すぎるのと、その不純物が太陽光をほとんど遮っているせいで、白さも明るさも足りやしない。まるで灰が降っているように見える。というかたぶん実際に何割かは灰が混じっている。不純物の大部分はイエローストーン米国立公園や富士山の噴火で舞い上がった粉塵だった。
眼下を見渡せば、美砂の町並みはもう存在しない。六月に関東を直撃した地震の津波が、ここまで届いてぜんぶ押し流した。五年過ごした施設も両親を殺した家も黒い濁流に呑まれていった。いま俺の視界にあるのは、とっ散らかった瓦礫とその上に降り積もる薄汚れた雪だけ。見える範囲の外でもだいたい同じだと思う。廃墟。死屍累々。それら文明の残滓を慈悲深くも埋葬してゆく灰と雪。とはいえもうそろそろ太陽の表面で大爆発が起きているはずなので、あと十分もしないうちに衝撃波面が到達してこの景色も俺自身もみんな消し炭になる。
女の声がする。
《これでよかったのか、一宇。
君は一度として、私が伝えた顕月万理の言葉を疑わなかった。あれは嘘だと断じてしまえば、君はこのような選択をせずとも済んだはずだ》
「何でも知ってるおまえがそんな嘘ついて、得なことがあんのか」
適当にあしらいつつも考えてみる。もし一年前の今日、声を聞いたばかりのラプラスに真実を聞いていたなら、俺はそれを信じなかっただろう。囁く声のすべてを妄想の産物と決めつけて、ひとりで狂っていけたはずだ。
だが京都へ行ったあの日にはもう違った。俺はこの姿なき声を信用していたのだ。自分と同じように新世界へ放り出された孤独な戒獣に、もしかしたらシンパシーなんぞ感じていたのかもしれない。でもそれ以前に、疑う理由がなかった。
嘘をついて利益があるかどうかなんて、ほんとうは問題じゃない。こいつはただ、俺に一度として嘘を言わなかった。少なくとも確認できる限りでは。それで充分だ。信用はそうやって築かれる。たとえ相手が人間でないとしても。
俺は真実を信じたくなかったが、残酷なまでに正直なラプラスのことは信じた。だから万理の最期の言葉も信じた。それだけの話。
「つーか、そっちこそよかったのかよ。人間、いなくなるぞ」
俺はラプラスに問い返す。こいつはここまで淡々と俺に協力してくれた。人類が滅びればラプラスにとっても観測者や宿主がいなくなって不都合なはずだが、戒獣は戒獣で人間に理解できない感情を持っているらしくこんなことを言う。
《君の願いを、叶えたかった。たとえそれが私の存在を損ない、宇宙の熱死を早めるとしても》
「はァ?」
《何故そう思うのかは、解らない。何かを成したいと、自ら望んだのは初めてだ。合理的でない――しかし、きっとこれが、私の存在意義だったのだろう。私はいま、充たされていると感じる》
心なしか嬉しそうなラプラス。戒獣に懐かれても嬉しくねえよ。おまけに訊いてもない雑学まで聞かせてくるようになってますますポンコツぶりに磨きが掛かっている。
《古代の世界では高等観測者が寡少だったため、量子デコヒーレンス波の共振が起きにくく、現在よりあらゆる事象の存在確率が不安定だった。つまり、通常空間と〈カブラの狭間〉の境界が曖昧だったのだ。
そのような時代の人間は時として、因果の流れを視る器官を備えて生まれることがあった。彼らはごく限定的ながら、君がやったように因果律への介入を行うことができ、ゆえに王やシャーマンとして尊崇を集めた。
この者たちの異能を、古代の人類は魔法と呼んだ。未来を見通し引き寄せる力こそ、原初の魔法だったのだ。オラクルに倣えば、いまの君こそ魔法少年と名乗る資格がある》
「冗談まで言うようになったか、この期に及んで」
俺は
「魔法少年じゃ、正義の味方みたいじゃねえか。違うね。全然違う。
俺はな――魔王になろうとしてるんだよ、ラプラス。
正義の敵に。ヒーローを否定する最後の悪に」
《顕月万理の、敵にか?》
正義の敵。ヒーローの敵。
俺は頷いた。
「ああ。魔法少女、
つまりはそういうことだ。
いまなら俺は、万理の正義を否定できる。あいつに嫌われたくないからと、本音を押し潰して正しさに追従した俺はもういない。
なあ、万理よ。
おまえは人間たちの世界を守りたかった。弱くても愚かでも、一歩ずつ前進する人類の歩みを止めたくなかった。そのために新しい歴史を始めた。異物である戒獣を排除して。
だけどな、戒獣だって人間が生み出した人間の歴史の一部だ。たとえ理論を考えたのがひとりの天才科学者でも、そいつを焚き付けて金や設備も提供して滅びを呼び込んじまったのは不特定多数の人間であって、奴らにそうさせたのは夢だ。人類共通の夢とか銘打った豊かさへの妄執。人間の欲望に押し出されて
自業自得。因果応報。ヒトを滅ぼすものはヒトだ。戒獣じゃない。人間を守るために戒獣を消し去るなんてのはまったく的を外しているし、少数の人間が人類全体の命運を決めることが間違いだと言うなら、そもそも万理が世界を守ろうと戦ったことすら間違っている。
「たしかにこの世界は、俺にやさしかったよ。でも駄目なんだ」
否定する。この矛盾した正義と、ひとりの人間に人類すべての業を背負わせて生き続ける世界。どんなに正しくやさしいとしても否定する。何が自己犠牲だ。ふざけるな。あれは強いられた犠牲だった。世界の一部である万理が、世界全体の生存のために犠牲にされたのだ。誰かが命令や嘆願をしたわけじゃないとしても、誰もが信じる正義のためにヒーローが献身的自殺に追い込まれたなら、結局そいつは世界に殺されたのと同義だ。
自己犠牲。この上もなく崇高な行為。だがそれは自由意志のもとに行われた場合に限る。当然の義務になった犠牲なんか暴力でしかない。最も卑劣な無記名の暴力。誰かこれを崇高だと言えるものなら言ってみろ。切り捨てられたひとりに「私が犠牲になるのは自分の意思です」って言わせたところで事の本質が変わるわけはないんだ。ただ隠蔽されるだけで。
「おまえが犠牲になって残してくれた世界じゃなくて、おまえを犠牲にして残った世界なら――平和でも幸福でも、俺は赦さない」
ひとりはみんなのために。素晴らしい。美しい。だが俺はあいつの消滅を美談なんかにはさせない。万理が利用され消費され存在すらできなくなったことに、意味があったと信じて慰めを求めたりもしない。
否定する。俺は万理の辿った運命を否定する。意味などない。意味など持たせない。あったとしても破壊する。すべての意味を灼き滅ぼして、万理の不在を無意味にする。あいつはヒーローとして世界の命運と引き換えに消えたのではなく、普通の人間が死ぬように意味も意義もなく消え失せた。その結果だけを、残す。
「寒いな」
薄暗い空の下、吐く息さえ白くは見えない。俺は黒ずんだ呼気を吐き洩らしながら、森羅万象の終わりを待っている。あるいは来るはずもない正義の味方を待っている。
俺は世界を滅ぼす男。文句があるなら誰でもいいから俺を殺しに来てみせろ。カモン勇者。来たれ魔法少女。世界の敵はここだ。俺は魔王。正義の味方が討つべき絶対悪。
《かなしいのか、一宇》
「あ?」
何が哀しいってんだ? 俺の願いはこうして叶えられたじゃないか。万理が望んだからじゃなく、俺自身の望みに忠実に、正しさを否定して。
《違う。君の、ほんとうの願いは――》
「ラプラス?」
《――さよならだ。ありがとう》
それきり、ラプラスは沈黙した。
何を話しかけても反応しない。どうやら俺はほんとうに独りで最期の瞬間を迎えなきゃならないらしい。
最後の戒獣。いなくなってみると、意外と寂しい。なんて思ってたら、代わりに別の声が聴こえ出す。
「きみは、ほんとうに馬鹿だなあ」
なんてこった。
ラプラスがふざけて声を変えたか、それとも俺がとうとう本物の幻聴に見舞われ始めたかのどっちかだ。俺がいちばん死に際に聴いちゃいけない奴の声が聴こえる。
もう一度聴きたかった声。もう二度と聴けないはずの声。
そいつは後ろから俺に話しかけてくる。
「きみの記憶を消せなかったせいで、あたしの存在確率はゼロにならなかったんだ。そのツケが世界をこんなにしちゃったけど、観測者になるはずの人間がごっそり減ったから、また〈狭間〉との境界が不安定になってね。そこにとんでもない素粒子レベルの偶然がいくつも重なったおかげで、あたしは奇跡の復活を……んん?
あ、そっかそっか。これも仕組まれた偶然ってことね。つくづくヤバいなこの能力。あたしの
「何を言ってんだ?」
よく解らないことをブツブツ言いだす声に、振り返らないまま俺は答える。時計を見れば地球滅亡まであと三分を切った。この幻聴だかラプラスの茶番だかとお喋りしつつ、狂人らしい最期を演じるのも悪くない。
「……つまりきみは、あれか。あたしひとりのためにここまでやったってことになるのか。女としてちょっと嬉しい、とか思っちゃう自分がすんごくイヤだな。
もう、ほんと、超馬鹿。信じらんない。ありえない。玄野一宇、この後家根性小僧が! スーパーファッキンイディオットが!」
「うるせー自惚れんな。てめーのためにやったらまた自己犠牲の焼き直しだろうが。俺は俺自身のためにやった。自分ひとりの魂を救うために、他のすべてを犠牲にしたんだよ」
「……そうしなきゃ、きみは救われなかったの?」
答えのわかり切った問いだった。俺は頷く。
「こんな結末を……ハッピーエンドにさせるわけにはいかない。不正な手段で手に入れた未来は、潰えなきゃならない」
「それが、きみの正義?」
背後の声が、ため息とも笑いともつかない呼気を漏らす。その息が、視界の端に白く散った。あれ? 見えるのか、息が。
「――なーんだ。きみのほうが、あたしよりよっぽど正義の味方だったね。幼稚で最低な結論だと思うけど、少なくともあたしと違って、きみは自分の正義をちゃんと持ってたわけだ……」
「俺は俺だっただけだ」
幼稚で最低。否定はしない。結局いま俺がやってることは、傍から見れば全世界を巻き込んだ自殺でしかない。人類史上最悪の虐殺者。まさに魔王。ブリリアント。
でもそれが、俺という人間が最後にたどり着いた真実だった。だから後悔はない。自分の魂を守り切った、要するに大事なのはそこだ。
「あのさ、あたしぶっちゃけ怒ってるからね? これでもけっこう覚悟決めてリライトしたわけですよ。世界を、ていうかきみを、救うためだったら生贄にでもなろうって思ったわけっすよ。それをこうまでしっちゃかめっちゃかにしやがってさ、この、何してくれてんのマジで。ムカつく腹立つ」
「言ったろ。俺はおまえの犠牲を無駄にしたかったんだ」
鼻で笑って、返事を待つ。確かに、あいつがここにいたらいくらなんでも怒るだろう。怒って――どうしただろう?
後ろの誰かは怒りをどこかへやって、哀しげに響く声で答えた。
「……玄野くん、きみには消えてもらわなきゃなんない」
なるほど。
俺は笑う。事ここに至ればあいつでも、俺を殺してくれるのか。俺の妄想もしくはラプラスの酔狂なんだろうけど、可笑しみはある。
時計を見る。あと一分ちょいで地球が燃える。
「でもそれじゃあ、俺への罰にはならないな」
殺されて償える罪などたかが知れている。まして地球上の全生命が死滅しようってこのときだ。いかに惨たらしい殺し方であろうと、俺の罪に対する報いとしては不足も甚だしい。
みんな死んだ。俺が直接手にかけた奴らだけじゃない。葵条の母親も渡り鳥の藤旗も爽やかブラックホール垣田もツリ目イケメンの手島も保健室のディアン・ケト古崎さんも元ヤクザの伊藤も豆腐メンタル歴史教諭の天羽も髪が粘っこい英語教諭の宮本も、その他俺がこれまでの人生で関わり合ったすべての人が今日まで生き延びられなかった。俺は知っている。この世界では平和に生きていたアンダーソンや乾燥キノコのサルスティスもやっぱり死んだ。娘が生まれなかったことになった顕月夫妻も死んだ。みんなそれぞれ安らかにはほど遠い死を死んでいった。俺が殺した。
決して償い得ない。どんな罰を以てしても。
とか思っていたら、背後の声はあっさり前提を引っくり返す。
「なに言ってんの? あたしは罰なんかあげに来たんじゃないよ」
見覚えある小さな手が後ろから伸びてきて、俺の頭をやわらかく抱いた。見えてるし感触もあるので、どうやらこれはラプラスがやってることじゃなく俺個人の幻覚なんだろう。しかしそうならラプラスはどこ行ったんだ? 呼びかけても答える気配がない。
「あたしはさ、きみを赦しに来たんだ。人が背負い切れない罪を贖う、いつだってそれがヒーローの役目だからね」
「ナザレのおっさんかよ」
あいつによく似た手を額で感じながら思う。俺はもちろんイエス・キリストの役は演じられないが、アダムの気持ちだったら少しは解るかもしれない。
去年の夏に聖書を読もうと思って冒頭数ページで挫折した俺でも、アダムとイヴの楽園追放くらいは知っている。最初の人間アダム。禁じられた果実を食って神の怒りに触れた原罪の男。こいつがわざわざ神の厳命に背いてまで禁断の果実を食ったのは、たぶん蛇の思想に共感したからでもなければ木の実が美味そうだったからでもない。
ただ、先にその実を食べてしまったイヴを、どうしようもなく愛していたから。
最愛の女が神に叛くと決めたから、アダムはその愛に殉じて悪と滅びの道を選んだのだ。そうするしか、なかった。
読んでもいない聖書を勝手に解釈し、俺はひとり結論する。愛は正義より強い。当然だ。それが
そうか。
俺はここまでやっておいて結局
でも背中に当たる声はまた俺の自嘲を裏切る。
「ふふん、神の子じゃあないぜ。あたしは
あたしの残った存在確率と、過去現在未来できみが持ってた可能性ぜんぶを合わせて、もう一度、世界をリライトする。イヤとか言わないでね? あたしひとりじゃ、もうエネルギーが足んないんだ」
やっぱり他人の存在確率を使ってもリライトはできたらしい。もしくは俺の妄想がそういう設定になっている。誰にも赦せない罪なら丸ごとなかったことに。フ。同じ手を二度使うとは芸のない奴め。
しかしアリストテレスだって他の戒獣と一緒に消えてるはずだ。どうやって二度目のリライトなんかやるんだ? おいおいマイブレイン、設定に綻びがあるぜ。ちゃんと考証しろよ。
「ふたりいっしょなら、きっと淋しくも、怖くもないよ」
「勝手にしろ。どうせ俺にゃ止めらんねーよ」
まあ暇潰しの妄想に整合性を求めても仕方ない。どうせもうすべて終わるのだ。腕時計の秒針がカウントダウンを刻む。
「おー勝手にするとも。そんじゃあ、やりますか。
とは言っても、きみと相棒がお膳立てはやってくれたみたいだから、あたしは最後の呪文を唱えるだけの役割だけどね」
「何だって? まさか――」
俺の発言をもはや待たず、声は――魔法少女は――告げる。
何度でも、光あれと。
「リライト」
無辺の光が世界を脱色した。
これはとうとう太陽からの熱風に地球が灼かれ始めたのだろうか。それともほんとうに、あいつがいまふたたび世界を書き直す筆先に宿る輝きなのか?
俺にはわからない。もう何も見えなくなった。残った五感は熱さも轟音も知覚せず、いつまでもあいつの幻覚だけを再生し続けている。
ただ、もしこの手に重ねられた指先が本物なら。
この肌触りも、背と首と頭に伝わるぬくもりも、声も匂いもすべてが幻でなく、あいつ自身のものなら。
今度こそ、平和な世界がやってくるのだとしたら――
「ね、玄野くん。あたし、やっぱり正義の味方やめるよ」
「そうか。……がんばったもんな。いいよ、ゆっくり休め」
俺は願う。誰にともなく、願う。
きっと叶わないけれど、それでも、どうか。
みんながしあわせになれたらいい。どうか新しい世界では、みんなが――八紘も父さんも母さんも、葵条もその母親も、藤旗も垣田も手島も、古崎さんも伊藤も天羽も宮本も、アンダーソンもサルスティスも、顕月夫妻も――俺の知ってる人も知らない人もみんな、しあわせになれますように。
「おつかれさま、万理」
そして、どうかその世界に、俺の居場所がありませんように。
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