5

 うちの母、玄野夕奈は起き出すのが早い。

 平日ならだいたい朝の六時には活動を始めるし、子供たちを学校に行かせる必要のない休日でも七時には目覚めている。もしかすると世の母親たちの感覚では普通なのかもしれないが、俺にしてみればこんなバイオリズムは異常きわまる。

 そういう母を出し抜いて家を発たねばならないので、必然的に俺はより早い時間帯に動き始める。最低限の身だしなみを整え、荷物をチェックし、捜索願とか出されると面倒なので家族への書き置きを残す。葵条と会って目的および想定旅行期間が変化した時点でこの旅を秘密にする意味は薄くなっているのだが、いちおう新幹線で中学生二人が往復するぐらいの金を持ち出すわけだし、事情が込み入っていて説明が面倒なのでやっぱり無断で出発する。書き置きの文面は「ちょっと出かけてくる 今日か明日には戻る by一宇」としておいた。シンプルイズベスト。

 服選びに協力した八紘は俺が女と出かけることに気付いてあらぬ誤解をするかもしれない。しかし妹に誤解されたところでどうだというのか。同じ誤解を万理にされたら俺は全力で弁明するが、残念なことにそんな機会はもう来ない。

 二つの鞄を抱えてそろりそろり、自宅を脱出すべく体現する極限のステルスムーヴメント。音もなく玄関へ辿り着き、ドアを開けて荷物を外へ出し身体も出してドアを閉める。一連の動きはまるで禅の修行を積んだ忍者が静かに舞うごとく完遂され、道路へ出てからも俺は朝靄の中をひっそりと駅まで歩く。アスファルトを踏みしめる靴は履き慣れたジャックパーセル。スニーキングミッションにおあつらえ向きのやわらかな靴底を持ったまさしくスニーカー。いささか地味だがこんな装備で大丈夫か? と一瞬思うも別にデートじゃないので大丈夫だ問題ない。


 駅に着くと葵条が待っていた。立った姿を見ると万理より少し身長が高い。細い肢体を包むのは黒っぽい服だが、やっぱりところどころにふりふりした飾りが付いている。ああいうデザインが好きなのか。八紘の心眼に狂いはなかった。

 正直来ないかもしれないと思っていたのにまさか先に来て待っているなんて。恐るべし葵条新葉。しかしおかしいな俺十分前に来たはずだけど、と時計を見ている俺に葵条が言う。

「わたし、待ち合わせは三十分前に来てるタイプなんです」

 早朝の薄明かりにきらめくライトブルーの虹彩。俺はちょっとグッと来てしまう。人によっちゃ重いと感じるのかもしれないが、もしデートの待ち合わせで恋人が三十分も前から胸をときめかせつつ自分を待っていてくれたりしたら俺は嬉しい。健気でかわいいじゃないか? それが万理だったら最高だ、と思ったところで鋭いいたみが瞬時に俺をクールダウンさせた。デート。誰とだ。

 俺は顔のない恋人を想定する。

 俺はいつか誰かと新たな恋に落ちてデートして、誰かとセックスして誰かと結婚して誰かとの子供を育てたりするのだろうか。万理のいない世界で俺にそれらのことができるだろうか。

 この旅の果てに、答えがあるのかもしれない。

「荷物、ありがとうございます。けっこういろいろ持ってきてくださったんですね」

「足りないよりはいいと思ってね。妹から予備の服とかも借りた」

 不測の事態を考えてのことだったが、ちょっと詰め込みすぎたかもしれないと後悔する。いまさらなので口にも顔にも出さないが。

「妹さん、いらっしゃるんですか」

「ああ。いま小六。来年、美砂一中に来る」

「うらやましいです。わたし、きょうだいとかいなくて――あ、荷物持ちます」

 言いながら葵条が両手を差し出す。俺は首を横に振った。

「無理を言って連れ出したようなもんだ、俺が持つよ。無駄に重いし」

「わたしが女だから、ですか?」

「ジェンダーなんぞ知るか。俺がそうしたいだけ。例によって自己満足」

 微量の険を刻んでいた葵条の顔が、ぱっと晴れる。

「またそれ。わかりました、お願いします。でも、東京駅までです。それからは、自分で持ちます」

「ま、ほとんど電車が運んでくれるんだけどな」

 時計を見る。東京行きの電車が来るまでまだ時間があるが、ホームに上っていても罰は当たらない。

「じゃ、行くか……」

「はい」

 もしかしたらこいつICカード持ってなくて切符を買わなきゃいけないんじゃないか、と思っていたがそんなこともなく葵条は普通にSuicaを取り出した。千円札を差し出しチャージするよう言うもやんわり断られる。やはり他人同然の奴から現金を受け取るのは抵抗があるか。仕方ない。そのままタッチアンドゴー。

 さあ長旅のはじまり、はじまり。



 たとえ施設暮らしであろうと中学で留年する奴は滅多にいない。そういうわけで成績も内申も落ちこぼれの眷属だった俺だが半ば自動的に二年生へと進級することができた。

 新年度の始まる四月には万理も各国の軍やレスキュー隊やNGO、NPO、企業その他諸々にローゼンの件の復興作業を引き継いでいて、呼び出しが掛からないうちは学校にも顔を出せそうだった。事実万理は始業式にはちゃんと出席したし、短いスピーチまでぶって拍手喝采を浴びている。

「ま、あたしはスピーチのウケがよかったことよりも、玄野くんとまた同じクラスになれたことの方がうれしいけどね」

 式後、教室へ流れていく行列の中で万理がそんなことを囁いた。思春期の少年としてはその言葉をこそ素直に喜びたいところだったが明らかに万理の表情が浮かない。

 俺はまた自分を皿にしようと決心する。

「言えよ。なんかあっただろ。聞いてやる」

「ん、いや――すっかり見抜かれてるなぁ」

 万理の返した微笑みは、悲しげだった。夜の砂漠みたいに冷たく乾いていた。メディアの伝えるオラクルしか知らない人間には見分けられない心のあや。一年間そばで見てきた俺には分かる。

「実はね、あたしもうお上の命令聞かなくてもいいんだ」

 それ以上説明してくれないので、俺は自分のリテラシーを総動員して言葉の意味を推測する。

 命令を聞かなくてもいい? 魔法少女が任を解かれるなんてことはあり得ない。日本に莫大な利益をもたらすこいつを手放す理由が政府にはないし、そもそもまだ戒獣が片付いていない。

 別に自衛隊や政府が壊滅したという話も聞かないので、命令系統自体は存在しているはずだ。それが万理に命令する手段を失くしたとすれば……

「屋上いこ?」

 そう言って万理は俺の左手を引いて歩く。右肩の傷がまだ痛む俺のために、わざわざ左側に回ってくれているのがわかった。でも俺はあえて右手で万理の腕を掴む。万理は何も言わず微笑み、奇妙な体勢のまま俺たちは階段を上る。

 ある時期から俺と万理が友達以上恋人未満の何かであることは校内に知れ渡っていて、休み時間の屋上はすっかり俺たちが私物化していた。なにしろ相手がオラクルだから誰も異議を唱えられない。もっとも腰巾着の俺に対しては嫌がらせもあって、上履きに生きたゴキブリがピン留めされていたり机の中身が池に放り込まれていたりしたが、こんなことで万理を煩わせるわけにいかないので俺は内密に処理した。うんざりしたしムカついたが、自分を哀れむ気にはなれない。万理が背負わされた苦しみに比べればこの程度の生ぬるいいじめは文字通り児戯だ。

 階段を昇り切ってドアを開けると淡い碧天が出迎えた。俺はなおも万理の手に入れた自由について考える。

 万理が意に反する人殺しまでやってきたのは人質のためだ。保護の名目でどこかに軟禁されているらしい両親。彼らが政府の手の内にある限り万理は「お上の命令」を聞かねばならない。でも万理はもう聞かなくてよくなったと言う。

 政府が二人を解放する可能性は? あるはずがない。万理が人質を見捨てる? ナンセンス。とすれば、残る答えはひとつ。

 人質が人質として機能しなくなった。

「……いつからだ?」

 貯水タンクの裏、日陰に並んで腰掛ける。ここは長時間座っていても日焼けしないし、見晴らしもよく、何より誰にも盗み聞きされない。万理がガス抜き代わりの機密漏洩を決行するときはお決まりの場所になっていた。

「一月。あたしが知ったのはもっと最近だけど。

 ローゼンが日本でも暴れまくったでしょ……で、うちの親が保護されてたホテル、新宿にあったらしいんだわ。

 都庁が半分消し飛んだりでヤバいからって、二人とも地下の緊急避難ルートから自衛隊の車で護送されてたの。そしたら途中で天井が崩れてきて、潰されはしなかったんだけど閉じ込め喰らう形になったらしいのね。んで逃げ場のない地下道に、下水管から漏れ出た汚水が流れ込んできた。三日後に発見されるまで、そのまま」

 結末を問い直す必要はなかった。

 万理の両親とついでに車のドライバーは、都市が吐き出すあらゆる汚濁の底に車ごと沈められて、溺死したのだ。

 怒りが寒気となって肩甲骨の下あたりから這い上がる。これは俺の怒り。俺は万理の父母を知らない。だから「あんなにいい人だったのに」とかそういう形では故人を悼むことができない。だが代わりに俺は自分の両親を亡くすという中一にしてはレアな経験を万理と共有することになった。万理の親がどんな人だったか知らなくとも、万理の心境に対する想像力は働かせられる。

 自分の親が地底の闇に閉じ込められて、糞とヘドロを喉に詰まらせながら死んでいったら? 俺だったら怒る。無意味な破壊を撒き散らすだけの戒獣に対して怒り、保護とか言っておきながら二人を守れなかった国に対して怒る。そして何事もなかったようにやってくる明日とそれを迎え入れる世界に怒りを爆発させすぎてからっぽの燃えカスになる。五年前の俺がそうだったように。

 だがひとりで頭に血を上らせる俺に、当の万理は「落ち着け」と手振りで示して笑うことができた。

「親と仲が悪かったとか、そんなことは全然ないんだけどさ。

 三年もろくに会えないでいると、慣れちゃうのかね。親がいない生活に。あと、ひっどい状態だったっていう死体も見てないし、そのほかにもたぶん、いろいろ麻痺してるんだと思う。ひょっとして頭ん中に戒獣なんか飼ってると、人間性が失われていくのかも。

 ……あんまりね、動揺しなかったんだ、あたし。

 動揺しなかったことに驚いて取り乱すくらい、親が死んだことにショックを受けなかったんだよ。好きだったのに。感謝してたのに。ああいなくなったのね、あの人たちはあたしの人生から消えてしまったのね。しゅっ、どろん――そんだけ。

 いや、自分に裏切られた気分だったね。あたしは親のために涙ひとつ流さない薄情な娘だったのかー、って。幕僚とか役人とか、誰かを責める気にもならなかった」

 俺はこんな瞬間にもつくづく自分と万理が別の人間だということを思い知らされる。俺だったら。俺だったら。無意味な仮定だ。俺がこいつならとっくに潰れてキレて十億人ぐらい殺して人類種の天敵とか呼ばれてるだろうに万理はそうしない。

「これね、当分あたしには知らされない予定だったんだって。その方が都合いいもんね。でもサルスティス博士が教えてくれた。ほら、人造戒獣の設計者の人。今度はあたしを魔法少女にしたこと、後悔してるみたい。『君にこうまで過酷な運命を歩ませることになるとは……』って、おせーよ。うちの親死んだよ。

 けど博士がお父さんとお母さんの末路をリークしてくれたおかげで、あたしは自由の身となったわけだ。うん。それを喜びたくは絶対ないけど、ちゃんと悲しめるようになるまで、前向きに考えることにした。

 もう、殺さなくていい人まで殺す任務なんか絶対やんない。あたしは自分の意志で、自分が信じる正義の味方になる」

「……強いな、おまえは」

「うれしくないにゃー」

 言われるまでもなく解っている。嬉しいはずがない。いくら強くたって親の死に目に会えないヒーローが強さを誇る気にはなれないだろう。解ってるが俺はそうとしか言えなかった。

「だけど、新しい人質が用意されたらどうすんの……他にも親戚とかいるだろ。あとは、学校の友達とか」

 俺は当然の可能性を指摘する。人質だけが世界最強の個人を縛れるのだとしたら政府は新たな人質を探すことなど躊躇うまい。おそらくは俺もその候補に入っている。もしかすると筆頭候補かもしれないと思うのは自惚れだろうか。

「いちおう釘は刺しといた。会議中のお偉方に、それぞれ調べつけといた家族の写真配って、『どなたかご家族を下水に流されたい方はいらっしゃいますでしょうか~』って脅してみたり」

「こわッ!」

「あのー、さすがに本気で言ってないからね。無関係のパンピー手にかけるぐらいなら、その会議の連中皆殺しにするし」

 正直言うと俺は万理の口からそんな言葉を聞きたくなかった。でもそれは俺の勝手な理想の押し付けであって、こいつにはその権利ぐらいあるのだと思わんでもないから黙っている。どうせほんとうにはやらない。万理にはできない。

「要はみんな、あたしが怖いんだよ。人質に銃突き付けてないと、あたしがテロリストになったり外国に身売りしたりすると思い込んでる。善意ってものを根本的に信じらんない悲しい人たちが、いまこの国を運営してるんだ。ぞっとするでしょ。

 まあ向こうが怖がってくれるおかげで、あたしがマジギレしちゃうような危ない命令は出されないんだけどね? 世間の目もあるし……でもこれ、正義の味方っつーより爆弾に対する扱いだよね。

 だからいま、人質なしで仕事して、証明してるとこなの。あたしがヒーローやってるのは、何よりも自分の理想のためだって。

 こっちが基本的には自分から協力するって信用させられれば、向こうも人質確保に予算と人員割かなくて済む。あたしは汚れ仕事を強いられなくて済む。お互いハッピー。いいじゃん。

 それでもまだ、連中があたしから大切な人を奪うようなら――」

 万理は両手を顔の高さに上げた。お手上げのポーズ。

「――あたしは今度こそ、正義の味方やめちゃうかも」

「無理だな」

 俺があっさり否定すると万理は笑顔から一転、意外そうな表情へ。麻痺してるとか言いつつこいつの表情は依然として豊かだ。

「あたしがヒーロー廃業できないっての?」

「実の親が人質にされたまま死んだのに、『今度こそやめる』とかまだ言ってる奴が、次の人質を見捨てられるわけないだろ」

 そしてこんなことはおそらく万理の性格を調べ上げて魔法少女に選んだ政府の人間も解っている。自国民の子供を兵器に改造する時点で奴らはマキャヴェッリもドン引きする冷血人間の集まり。だから奴らがまた万理を汚い仕事に駆り出そうと思ったら誰かが人質になるのだろう。あるいはその誰かが俺かもしれない。万理の足枷になる自分なぞ想像したくもないが。

「むむ……」

 口を尖らせて無言の抗議に出る万理。しかし俺は自分の言ったことが絶対に正しいと確信している。残酷だし悲しいが、万理はきっと死ぬか発狂するまで正義の呪いから逃れられない。そういう魂を持って生まれた女が顕月万理だ。奇跡のようなお人好しだから魔法少女に仕立てられたのだし、これまで戦い抜いてこられた。

「ほんとに見抜かれてるなぁ」

「できるもんなら、別に廃業してもいいと思うけどな」

 個人に世界を救う義務を押し付けるなら、同時に世界を滅ぼす権利も持たせないと不公平じゃないか? 俺は最近わりと真面目にそんなことを考えている。危険思想。くだらん。知るか。宇宙はバランスで成り立っているのだ。

「おまえが正義の味方やめても、俺はおまえの味方をやめないから」

「やだ玄野くん。そんなに愛されると濡れちゃう」

「ビッチ乙」

 万理はまた笑う。にっこり。スマイル。万理はほんとうにいろんな笑顔を笑い分けられた。その必要があったからというだけでなく、たぶんもともとよく笑う子供だったのだ。幸せな家庭で育ったんだろう、と思ったとき俺は名も顔も知らないこいつの両親を悼んでいる自分に気付く。娘をこんなふうに育てられるのはいい親だけだ。

「なあ万理」

「うん?」

「使うなよ、例の魔法」

 両親の死は万理に大きなダメージを与えている。本人がどう思っていようとこれは間違いない事実だ。いろいろ背負い込みすぎてパンクしていた心の痛覚が次第に戻ってきて、失ったものの輪郭に触れられるようになったとき、万理があの魔法を使う気になるのではないかと俺は恐れた。最後の魔法。己の全存在を捧げて世界を再創造する、神の御業。

 万理はまた笑顔をスイッチ、今度は薄い微笑みを唇に乗せる。俺はバラエティやCMでオラクルが見せる破顔よりも、万理のこういう儚い微笑みの方がずっと好きだった。

「だいじょうぶ。まだ使わない。お父さんとお母さんがいなくなって、ぶっちゃけ正義の心もそろそろ折れそうだけど、あたしにはまだ生きる理由が残ってる。なんだかわかるかい、玄野くん」

「さあ?」

 万理の微笑に心奪われていた俺はそんな設問に頭を働かせられなかった。かろうじて「カネ・暴力・SEX」とか答えない程度の分別を残していたに過ぎない。

 そんな俺の心臓を万理の人差し指が射抜く。

「ニブチンめ。愛だよ、愛!」

 なるほど。愛は正義より強いのか。なるほど。

 陳腐だがまったく正しい。

 納得すると同時に俺は、望めばすべてを手に入れられたはずの万理が、とうとう胸の内に愛しか残せなかったことを悲しく思う。そして万理の指先が俺に向いていることを嬉しく思いながら、やはり切なくも思う。

 おまえには俺みたいな奴より、もっと愛すべきものがたくさんあるんだよ。

 そう言えなかったのは、きっと俺が弱かったからだ。



 母を訪ねて三百数十キロメートル。

 名作アニメのタイトルにしてはしまらない。やはり三千里でなければ。でもラプラスに訊いてみたら三千里ってのは一万二千キロぐらいあるらしい。すげえ。マルコすげえ。本編見たことないけど。

 早朝の電車は人がいない。もう少し経てば通勤ラッシュだが、いまは同じ車両に俺と葵条と着物の婆さんとスーツの紳士だけという状態で、婆さんと紳士はそれぞれ俺たちから何メートルも離れて座っている。

 葵条は俺の隣で姿勢よく本を読んでいた。緊張しているようにも見える。何に? これから訪れるであろう母親との対面? それとも包帯を取ってひとりの男として同行している俺にか? いやいや自意識過剰。しかし待て、父親に虐待されていた経歴を思えば男性恐怖症ぐらいはあってもおかしくない。いやさらに待て待て。そんなら俺と一緒に行こうなんて思わないし俺の隣にも座らないだろう。こんなガラガラの過疎車両なんだから。

 ほんとにこいつはなんで俺のすぐ横にいるんだ?

 俺は数日前の朝のロングホームルームを思い出す。十分間ある読書タイムに藤旗から借りてちょっとだけ読んだ小説。タイトルは『このままでは俺の寿命が対人ストレスでマッハなんだが』と無駄に長い。いわゆるライトノベルで、やたら受動的な主人公に都合よく美少女たちが惚れまくるだけのシンプルなお話だ。藤旗曰く「典型的ハーレム系ラブコメ」で、頭をからっぽにしてファンタジーとして割り切るのが楽しむ秘訣だという。

 その小説ではどういうわけか、複数出てくるヒロインがみんなものすごく簡単に主人公に恋してしまい、脈絡なく強引な色仕掛けによる接近を図る。いきなり下着を見せびらかしたり胸を押し付けたり。大半は事故として処理されるがどう考えても無理がある。怖すぎる。現実にいたらたとえ美少女でも俺は関わり合いを遠慮したい。まず美人局つつもたせの類を疑う。

 そんな連中と比べてしまえば葵条は普通かもしれない。隣に座ってるだけだし。だが理由が思い浮かばないのはなんとなく不気味だ。

 ほとんど話したこともない俺の前で魔法少女に変身したり、政治の裏話をぶちまけた奴なら知っている。しかしあいつは自分を一個の人間として扱ってくれる友達が欲しかったのだし、俺をターゲットに選んだのはたぶん勘違いからだった。同じように、いきなり俺のベッドに潜り込んで朝まで隣で寝ていた奴も知ってるが、あれはそもそも家族なので問題外。じゃあ葵条は? まるで解らん。

 ダメ元でラプラスに訊いてみるも、こういうテーマについてこいつの推測はまだまだまったく当てにならず。

《単に、君に好意を抱いているのではないのか?》

 んなワケあるかアスホール。不自然だろ。俺は昨日初めてこいつの世界に現れた保健室の包帯巻き巻き変態仮面。垣田や手島のようなハンサム顔でもなければ女を発情させるフェロモンが出る特異体質でもない。急にモテ期が来たなんてアホな話は論外。だからときおり触れ合う肩が伝える葵条の体温に興奮してる俺の細胞はいますぐ壊死すべきなのだ。性欲が生むくだらん妄想はみんな滅びろ。くたばれ。くたばれオスの本能!

 この右肩の温度は巡る血が運ぶ命の熱。このぬくもりを母親のもとへ届けるのが俺の使命。あんたの産み落とした娘はいまもあんたにもらった命を脈打ってますよ、と大声で伝えてやること。別に葵条がどういうつもりで俺の隣に陣取ってようが関係ない。俺は玄野デリバリーをやり遂げるだけだ。ビークール。KOOLになれ。

 クールな俺は運命という言葉について考えてみる。そう。命を運ぶと書いて運命。まさにこの状況のことだ。俺は葵条母子おやこの運命そのものになろうとしている。運命の人ではなく。それがいい。

 今日の俺は命を運ぶ天使。新幹線が俺の翼。

《いま乗っているのは新幹線ではないが……》

 シャラップ腐れ辞書戒獣。快速電車が翼じゃしまらんのだ。

 などと脳内コントを繰り広げている俺に葵条が話しかけてくる。

「玄野先輩、妹さんってどんな人ですか」

 唐突だなオイ。しかし本とか持ってきてない俺は退屈している。黙ってラプラスと独り漫才を続けるよりは葵条と話す方がいい。

「うちの? うーん、どんなっつってもな。

 名前は八紘。身長はおまえよりあるかな。性格は人懐っこくて、ちょっとアホだと思う」

「アホって、先輩……」

「アホはアホだ。よく自分の服と俺の服間違えるし、人が風呂入ってるのに気付かねーで自分も入ろうとするし。ホラー映画が怖いから一緒に観て、とかも言われる。観なきゃいいじゃねーか」

「……それ、愛されちゃってませんか? 家族としてでなく、ひとりの男性として、妹さんに」

「ああ止せよ葵条、おまえもか」

 ラプラスはともかく、うちの母といいこいつといい、どうして兄と妹の間にそういう関係を想定できるんだ。とくに葵条は自分の身にあったことを考えればこの手の話題に拒否反応すら示すべきじゃないのか。

 俺はまたも藤旗の顔を思い出す。あいつがよく読む学園ハーレム小説なるジャンルでは、妹すなわちブラコンの方程式が成り立つらしい。すべからくお兄ちゃんラブ。でもこれはファンタジーと割り切って読むべき小説の中の話だ。そういうのは最終回が来れば終わりになるフィクションだから楽しいんであって、現実だったらたぶんいつまでも気まずいし家庭崩壊の危機さえ惹起しかねない。

 しかし葵条はやんわりと常識に背く。

「わたしは、いいと思いますけど。同性愛がひとつの愛のかたちであるように、たまたま妹が兄に惹かれるなら、それは仕方のないことです」

「いやその理屈は……あるのか?」

 家族間の恋愛をセクシュアル・マイノリティと同じ次元で語る。俺にはない視点と文脈。だが面白い。なるほど、確かに同性愛を例に出されると、兄妹だろうが姉弟だろうが親子だろうが愛し合っていいのかもしれないと思ってしまう。もちろん背景にはもっと社会的・生物学的な問題があるにしても。

「まあ、とりあえず俺は、八紘をそういうふうには見てない」

「そうですか」

 カーブ。電車が揺れる。葵条の左肩がまた触れて、離れる。

「父も、せめてわたしを愛してくれていれば……」

 ささやくように小さい声だった。でもすぐ横の俺には聞こえている。

「娘を愛してたら、おまえの親父みたいなことはしない」

 ほとんど反射的に言ってしまってから、俺は自分を殴りつけたくなる。馬鹿かクソ。これじゃあ「おまえの親父はおまえを愛してなかった」と勝手に断定してるようなもんだ。

 俺自身はそれが間違いだとは思っていない。子を虐待するような親は結局人並みの愛情も持ってないからそんな真似に走るんであって、本人が愛ある躾のつもりでやっていても子供が苦しんでたらそれはただの虐待なんだ。んなもん愛とは呼ばない。でもこれは所詮第三者の理屈なわけで、当事者である葵条を傷つけてしまうようならどんな正論も無意味になる。俺はそこまで考えて発言すべきだった。

 気だるげに向けられた葵条の碧い瞳が、きらり、と俺を射抜く。

「父がわたしになにをしてきたか、知ってるんですか?」

 そっちに反応して来たか。つまり、虐待の具体的な性質を知っているかということ。

 しらばっくれることもできる。だがいたみを押し隠すような薄い笑みと、表情に反して硬い口調が、俺に「知らない」なんて嘘を言わせなかった。

「ごめん。知ってる」

 いまさらながらに罪悪感を覚える。俺は他人の最も知られたくないトラウマを覗き見ていたのだ。ラプラスの力を使うとは、一歩間違えれば人の心を蹂躙することにもなると知る。

「そうですか。べつに、謝らなくていいです。そんな気はしてましたから。

 父がわたしを娘として愛していないのは、わかっていました。でもわたし、父にどんなことをされても、信じていたんです――父がわたしを捨てたり殺したりせずに、男手ひとつで育ててくれているのは、彼の中にもなにか情愛みたいなものが残っているからなんだ、って。

 それがどんな形でもよかった。母の代わりに、女として求められるのであっても。家畜や物に対するような愛着でも。卑しくても、歪んでいても、それが愛なら。

 けれど、父の中には……そんなものさえ、なかった」

 どこか遠くを見ながら喋っていた葵条は、そこでふっと息を吸い込み、小さく首を振った。

「――すみません。やめましょう、この話は。退屈ですし、反応に困りますよね」

 俯き、口をつぐみ、自分自身の影の中に沈んでいく葵条。どこかで見た表情だった。俺はこういう顔を知っている。無理に笑おうとして失敗し、自嘲だか何だかよくわからないが強いて言うなら泣き出しそうに見えるこの顔を知っている。

「あのさ葵条、話すのがつらいことなら、もちろん話さなくていいけど――」

 あの秋の日。背負い切れない大きな秘密を、夜のアーケードよりも暗い世界の闇を、俺だけに打ち明けようとしていたあの瞬間。万理は確かにこんな顔をしていた。心臓に鉛の塊を埋め込まれたような、苦しげな声。

「もし、もしもだ。それが話せなくてつらいようなことだったら――俺に話せ。聞く奴がいるだけで、楽になることもある」

「きのう知り合ったばかりのひとに愚痴を聞かせるほど、わたしは恥知らずな女に見えますか?」

 やっぱ駄目か。ぽっと出の男にそうやすやすとプライベートな秘密を明かすなんて――いや待て。愚痴。秘密じゃなくて愚痴と言った。愚痴は聞かれて恥ずかしいもんではなく聞かせることが恥ずかしいものだ。

 もう間違いない。葵条の中で、話したくない気持ちよりも、話したい思いの方が強い。

「中一のくせに年寄りみたいなこと言うな。んな恥、捨てちまえ。

 知り合ったばかり? だからだよ。親しい奴には話しにくいことってあるだろ。児童相談所や養護施設のカウンセラーにだって、何でも話せるわけじゃない。わかるんだ。そういう経験、俺にもあったから……」

 俺はとてつもなく図々しい提案をしている。タチの悪い飛び込みセールスマンを演じるような気分。しかし同時に俺は思う――葵条は溜め込んできたものをいま吐き出すべきなのだ。父親とのことをひとりで抱えたまま母親に会っても、きっとろくなことにならない。

 聞くことしかできない無力な俺が、ちょっとでも万理の心を救えたのだと信じるように。

 いま再び一枚の皿になって、葵条の傷口から噴き出す膿を受け止めることは、無駄ではないと俺は信じる。

「……玄野先輩、あなたは非常識なひとです」

「うん」

「思い出したくもない記憶を、話せだなんて」

「言わなくてもいい。そしたら、俺も訊かない」

「話しにくくなるほど親しいひとなんて、わたしにはいませんし」

「そりゃ悪かった。あー、そっか。施設の奴らって新入りによそよそしいし、おまえ学校じゃ保健室だもんな」

 電車が走る。進行方向と逆向きに、手すりや窓枠を伝って光が流れていく。人も疎らな車両は静かだったが、走行音が俺たちの会話を聞こえすぎないようにしてくれていた。

 やがて葵条は言う。

「……きいて、くれますか」

 俺は頷く。

「うん。おまえが聞いてほしいと思うことなら」

 葵条が顔を上げる。碧い虹彩が朝の光を吸い込んで、涙に似た軌跡を描いた。

「ほかのだれにも……言わないでいてくれますか」

「誓って、言わない。それくらいの常識は残してある」

 ふふ、と儚げな笑みをこぼす葵条。美しかった。でもその薄桃色の唇から飛び出した話は、正直言って俺の最悪の予想すら超えて最悪だった。

「――父は、母への恨みをぶつける道具として、わたしを育てたんです」


 葵条の話は必ずしも整理されてはいなくて、記憶が錯綜していたり冗長だったりしたし、本当に言いたくなさそうな部分は俺もあえて訊かなかった。だがラプラスの力は借りずに再構成してみると、おおよそこういう話になる。

 葵条新葉が初潮を迎えてしばらくした、ある日。

 葵条幸雄の虐待はついに一線を越えようとしていた。泣き叫ぶ娘を殴って、組み敷いて、父は真意を――八年越しのドス黒い憎悪を吐き散らす。

“この日を待っていた。俺は今度こそ俺の子供を手に入れるんだ”

“生まれてきたのが間違いだったお前も、これで役に立てる”

“産めるんだろう? リサイクルだ。ゴミの再利用、有効活用だ”

 父は娘を愛していたから育てた――そんな感動的なドラマは、真実の中に塵ほども含まれていなくて。

 妻とその架空の愛人に復讐するため、そして同時に、本来生まれるはずだった自分の子供を取り戻すために。自分の娘ではない葵条新葉の、子宮が使い物になるまで待っていただけ。

「一石二鳥だ――とか、そんなことも言っていました。

 彼の中でわたしは、母の……妻の裏切りの結晶です。当然、憎い。だからそのわたしを、心も身体もめちゃくちゃに壊して、さらに自分の遺伝子を正しく継ぐ子を生み出す。すごい発想ですよね。わたしも一瞬、なに言ってるのかわかりませんでした。

 子どもを産ませたら、わたしのことは殺すつもりだったみたいです。用済みになったら処分する。それだけの存在だったんです。父にとって、わたしは、それだけの……」

 結局、その迂遠な復讐は失敗に終わる。

 間一髪で近隣住民が異変に気付き、通報して止めに入って大捕物、挙句に葵条幸雄はお縄となる。勇敢な市民たちによって処女と正気をなんとか守られた娘は施設送り。母方の親類とは連絡が取れず、父方はあらゆる手を使って関わり合いを拒否した。それが去年。

 そうして天涯孤独の娘は、東京行きの電車の中で言う。

「父も、せめてわたしを愛してくれていれば……」


 話を聞いて俺が最初にやったことは、葵条幸雄を塀の外から殺害する手段があるかどうかラプラスに訊くことだった。

《方法はある。いまこの場からでも可能だ》

 嘘だろ。どういうことだ。やり方を聞いたらほんとうに殺ってしまうだろうから俺はそれ以上訊かない。でも本気で殺したい。

 せめて愛してくれていれば。

 さんざん自分を痛めつけ辱めた父親でも、そこに愛があったなら赦せたかもしれないと葵条は言う。あるいは解り合えたかもしれないと。この甘さ。そしてとてつもない心の広さ。だがそんな娘さえ最終的にはすべての可能性を諦めなければならないほどに、父は邪悪で腐り切っていた。

 妻が憎いから、その娘を虐待して憂さ晴らしをする?

 再利用? 一石二鳥? ――処分?

 眩暈がする。最低最悪のサイコ野郎。人間の心の闇が行き着くところまで行ってしまえば、戒獣なんか憑いていなくたってこんな化物が生まれるのだ。万理が守ったこの世界に。生かしておけない――俺は顔も知らない人間にこれほど殺意を募らせられるのかというくらい頭に来ている。ローゼンの真の宿主を知ったときと同じように、否それ以上にプッツン来ている。前の宇宙では誰にも助けられることのなかった葵条が、人間の暗黒面に絶望して悪の魔法少女と化したのはまったく当たり前の話だったのだ。それでも戒獣の破壊衝動にブレーキをかけられたことがむしろ俺には信じられない。

 葵条新葉はほんとうにすごい女なのかもしれない。俺なんかよりよっぽど、ラプラスの力を行使するに相応しい心の強さがある。

《君が望むなら、私の宿主を彼女に変えることもできる》

 俺にしか聞こえない声が響く。まだだ。いまは俺の脳みそで我慢しとけ。葵条だって戒獣になんぞ関わらないのがいちばんいい。

 だがラプラスの次の宿主については検討しておく必要があった。たとえば俺が道半ばに斃れたとき、こいつの力が悪人の手に渡ったらまずい。葵条なら万理のいないこの世界で、今度こそ善なる魔法少女になれるかもしれない。それは俺にとって希望だ。すこぶる勝手な話ではあるが。

 怒りと尊敬と早すぎる後継者選びなんぞ考えていたところで、葵条がすいと頭を下げる。細い黒髪が液体のように、耳元から流れ落ちた。その間からこぼれた水滴は見なかったことにした。荷物の中にはハンカチやタオルもあったが、わざわざ探し出して渡すのも恩着せがましい。好きに泣かせてやることに俺は決める。

「あの、きいてくれて……ありがとうございます」

「感謝を安売りすんな。聞くだけなんて、誰でもできる」

 俺は声に出さずくり返す。そうさ。万理のような強さや高潔さを持っていなくても、こんなのは誰にでもできることなんだ。

「でも、実際はそれをだれもがやるわけじゃない。でしょう?

 わたしの過去を知ってるひとはみんな、わたしと関わりたがらないか、そうでなくても好奇の目で見るだけでした」

「ああ? 何だそりゃあ。どこのみんなだ」

 聞けばどうやら事情を知ってる人間の中におしゃべりな奴がいて、葵条の過去を吹聴して回ったらしい。ゴシップは施設で爆発し、瞬く間に学校へ飛び火した。俺は下級生の噂話なんか聞く機会がないから知らなかったが、美砂一中の校内でもそれなりに有名になってしまっているという。

 父親から性的虐待を受けて育った碧眼の美少女。俺が聞いたような細部は抜け落ちているとしても、なるほど事件の概要だけでエンターテインメントとして消費するには充分すぎる。そのせいでこいつは教室に行けなくなって、施設にいるのも嫌だから保健室登校なんぞする羽目になった。どんどん尾ひれがついて大きくなる噂。死体に鞭打つようなイジメ。うんざりする。俺は真っ黒なゲロがビームみたいに飛び出しそうなくらい人の悪意というものにうんざりしている。

「玄野先輩だけです。わたしが汚れてることを知っても、こうやってとなりにいて、ふつうに話してくれたひとは……」

 自分から隣に座っといて何を言ってんだ、と思ったがいま突っ込むべきはそこじゃない。俺はまた鸚鵡返しに訊く。

「汚れてる?」

「ええ。目に見える汚れじゃないんです。父と同じ血が流れていて、父の精液のにおいがいつまでも取れない。生きながら腐っていくみたいなこの身体に、わたしは死ぬまで閉じ込められている――そういう、細胞とか遺伝子のすき間にまで染みついた、どうしようもない汚さです」

 葵条が自分の細い腕を抱く。落ち着いてるように見えたがやっぱり思い出すのは辛かったらしい。そりゃそうか。こいつが父親に壊されかけてからまだ一年も経っていない。心の傷が癒えるには時間が掛かることを俺は知っている。知っていて、俺はそれを抉りにいったのだ。

《彼女の身体には、もう父親の精液は残留していないようだが》

 的確にズレたコメントをしてくれるラプ公がだんだん愛らしく思えてくるのはきっとこの涼やかな美声に騙されているんだろう。親父の精液が残ってない? 当たり前だファックヘッド。明らかに葵条の気のせいだ。でも気のせいだと言ったところでどうにもならない。

「ごめんなさい。ほんとは……我慢してくれてるの、わかってるんです。先輩のやさしさにつけ込んで、甘えすぎてるって。

 でも、だれかがそばにいてくれるの、ひさしぶりだったから……」

「別に俺、汚れてるとか思わないけど。いやむしろ逆っつーか。

 親父のことなんか関係ない。卑屈になんな。おまえはきれいだ」

 勇気づけるつもりで正直な感想を言ったところ、なぜか急激に全身から血液が上がってくる。首へ。顔へ。おい待てよマイバディ。そういうことじゃない。このタイミングでその誤作動はあらぬ誤解を招く。

「……その、全然変な意味じゃなくて、事実を言っただけだからな」

 俺の不注意な問題発言に驚いていた葵条の顔まで赤くなる。誤解が誤解を呼ぶ玉突き事故。なんでこんなことを説明しなくちゃあならんのだ。俺は心に決めた女がいるんだ。いやいたんだ。

「ああ馬鹿、よせ違う違う。こんな重い話してるときだぞ。きれいだっつったのはつまり、外見だけじゃなく内面のことでもあるというか」

「よけいに恥ずかしいですっ!」

 後輩に裏返った声で一喝されて俺はもう駄目。大クラッシュ。DV親父の性暴力の話からナンパ疑惑に飛んでくるなんて最低すぎる。最低すぎて泣けてくる。なぜ俺はシリアス一辺倒のテンションを維持できないんだ? 五年前から俺はずっとこんな調子で世界と不真面目にしか向き合えなくなっている。万理のおかげでマシになったと錯覚していたがそんなことはなかったみたいです。

 停車駅で人が乗り込んでくる。早朝出勤のリーマンたち。駅名とドア上の路線図を見れば、東京駅は近い。いつのまにか時間が過ぎていた。

「じ、じゃあ、あのっ、重くない話をしましょう。ね。

 好きな本とか、映画とか。アニメでもいいです」

 頬を染めたままの葵条が露骨な助け舟を出す。後輩の女子にここまでフォローさせるとはなんて情けねえ男だ玄野一宇。せめてまともな会話をしてみせなくては。

「ああ……本だったら『エルマー』シリーズ好きだったな。知ってる? 児童書なんだけど」

 施設に入りたてのころを思い出す。目の前でワケの解らない物体に家族を喰われ、ほとんど精神が崩壊しかけていた俺は虚脱の中で本を読み漁った。ファンタジー。SF。時代劇。現実から逃避できれば何でもいい。俺は自分がまだ生きていて、いつか復活しなければならないことを知っていた。家族の分まで生きなければならないことを知っていた。それまで俺を狂ったリアルから守ってくれる、虚構の繭が必要だった。

 たとえば少年エルマーの物語。動物たちに捕らえられた竜の子供を救い出すため、単身敵地へ乗り込み、知力とバイタリティで困難を切り抜ける男の子。九歳の俺はそんなエルマーに自分を投影し、ひとりでも強く生きていくのだと己に言い聞かせた。人はどんなふうにでも生きていけるのだと信じた。

「知ってますよ。わたしも読みました。エルマーがそらいろこうげんに忍び込むとき、水を飲むシーンが好きで。そこだけ何度も読み返したりして」

「おっ、三巻か。渋いな。ていうかあのシリーズは全体的に、飲み食いするシーンがいいんだ。俺、エルマーがみかん食ってるシーンばっか覚えてる」

 この会話は無駄だ。しかし無駄が無駄と感じられない。判断力が低下している。これも早起きなんかしたせいだろう。しかし葵条がちょっと元気になったみたいで、そこに関してはまあよかった。

「お話の最初から、みかん島でしたもんね」

「アレ何だったんだろうね。みかんばっかり生えてる島。植民地政策でプランテーションやってたとかじゃないよな」

「なんて夢のない発想を……いいじゃないですか、みかん島。よくわからないけど、ファンタジーらしい想像力で、胸が躍ります」

「俺だってそうだよ? わかんなくても、いいものはいい。あれのおかげで俺、嫌いだったみかん食えるようになったし」

「ふふ、みかん嫌いだったんですか」

 葵条の微笑みが至近距離で花開く。ふん。クールな俺はもう動揺しない。我が心は万理とともに。とか思っていたら心臓が俺の胸板を内側からドッカンバッコン叩いて全然冷静じゃない自分に気付かせる。え? 何なの? 俺はどうして一コ下の女子としょーもない話に興じて血圧上げてんの? 俺はなにゆえ昨日知り合ったばかりの女とぴったりくっついて座っていい雰囲気になってんの? 葵条との間に数センチあったはずの隙間がいつの間にか埋まっている。意味不明。助けてオラえもん。

 一瞬思い浮かべた万理はなぜか拍手をしていて、俺は自分をクールダウンさせる機会をまたも逸する。なに祝福してんだ。そこはしかめっ面を見せるとこだろ。万理が責めてくれないせいか俺はいまあのいたみを感じない。むしろ温かさすら感じている。

 いやいやそんな馬鹿な。

 そんな馬鹿な。


 長い減速のあと、電車が停まった。

 ドアが開く。「ァ終点ンン~、東京、東京ゥ~」と鼻にかかったアナウンス。それを聞いて俺と葵条は無駄に熱いアニメ談義をやめる。

「ちがいますよ先輩、ロールパンナちゃんが巻いてるのは包帯じゃなくて……あっ、終点みたいです。

 降りましょう。荷物、ありがとうございました」

「俺は事実上何もしてないんだけど?」

 すっと立ち上がった葵条が、自分の荷物を勝手に持っていく。ずいぶん楽しそうだ。そんなにアンパンマンの話がよかったのか。

「新幹線では、約束どおりそちらの話をきかせてもらいますからね」

 そういえばそんな約束したんだっけ。楽しみにされても困るが。

 網棚に乗せていた荷物を降ろす俺の耳の中で、またラプラスが何かほざき始める。

《神経伝達物質のバランスから見て、やはり彼女は君に好意を》

「アーアー黙れバーカバーカ死ね死ね」

 そんなデータ要らねえよいい加減にしてくれ。俺はあいつを支えに来たのだ。落としに来たんじゃない。そもそもそういうキャラじゃねえから俺。そういうツアーじゃねえからこれ。

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