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 平和な時間はものすごい速さで過ぎていくのだということを、俺はいま初めて体感している。小さい頃は一日がとても長かったし、ここ五年あたりは平和なんて俺の世界になかった。万理といたときでさえ、空を見上げれば、あらゆる光を吸い込む〈ヴァロータ〉が見えてしまいそうな気がした。平和とは相容れないイメージ。軌道上を巡る黒い球体は、人間がちょっと無茶をやるだけで穴が開いてしまう世界の意外な脆さを象徴しているようだった。

 光陰矢の如し。九月に入り新学期が始まったと思っていたら秋分を過ぎてあっという間に十月になり、まだ暑いながらも秋が来る。俺は可能な限り普通に学校へ通い、普通に親孝行な息子となり、普通に妹想いの兄として暮らす。平和。幸福。

 一方で、旅の準備を進めてもいた。意義を探す旅だ。万理が犠牲になったことには意義があった、そう心の底から信じられれば俺は救われる気がする。そして俺が救われなければ万理は報われない。十四歳ならちょっとぐらい失踪してても自分探しとかなんとかで納得してもらえるはずだ。もちろん大目玉を喰らいはするだろうし、それも帰って来ればの話だが。

 実行は十月初旬の秋休みを予定していた。祝日と土日を寄せ集めて作られた、申し訳程度の長期休暇。この期間内に目的が果たせたなら、この探索行は失踪ですらなく単なる小旅行で終わる。目的が果たせなければ――そのときはそのときだ。どうせ行き先も決まっていない。この先の人生を左右する一大事、片付けるまで彷徨ってやれ。

 そんな秋休みの開始を明日に控えながら、俺は体育の授業でサッカーに興じている。

「ボールを見るんだよ玄野ォ! 球技でボール見てなかったら何見るんだキーパーのキンタマか! さっきから買収でもされてんのかってぐらい敵にパス出しまくってるぞォォ!」

 元ヤクザ、いまは審判役の伊藤がホイッスル片手に叫ぶ。シャットザファックアップ。運動の不得手な生徒を下ネタで罵倒する体育教師があるか。俺はドリブルの突破力ならそこそこだがパスやシュートの精度は絶望的に低いのだ。足がどうにもイメージ通り動いてくれない。

 俺が出したへなちょこパスをカットしたのは体育会系イケメンの手島。尖った顎とツリ目が攻撃的なシャープさを醸し出す人気者。今日も自慢のフットワークでこっちのディフェンダーどもをゴボウ抜き、俺のナイスアシストを得点に変える。敵チームから湧き上がる歓声。味方チームが落とす溜め息。そして俺への恨みの視線。ヤバいまずい。

 授業のサッカーは校庭を半分に区切って男子だけでやっていて、残りの半分は女子がバレーボールに使っている。で、伊藤が男子の方ばかり見ているもんだから女子はバレーそっちのけで男子サッカー観戦に回る。手島のような人気者が活躍すれば拍手すら飛んできた。運動しろよ。どいつもこいつもビッチ。

 万理がいた去年は、体育の時間でもあいつがクラスの中心だった。あのときの球技は野球とバスケットボールだったが、流石の伊藤も魔法少女への興味は人並みにあったようで、いまとは逆に女子の方に掛かり切りだった。当然男子は野球なぞやるわけもなく体育館の女子バスケを覗きに行く。俺はどうでもよかったが、ひとりで残って野球ができるわけでもないので仕方なく野次馬どもに紛れた。

 思い出すのは万理がボールを追いかける姿。

 万理のチームメイトはおろか敵チームでさえも、あいつが魔法でちょっとしたズルをやってくれることを期待していた。万理は仕方なく空気を読んで、期待以上の派手なパフォーマンスを披露する。天井まで飛んでいってから急降下ダンクを決めたり、スリーポイントシュートを相手ゴールに弾かせて自軍のゴールに精密誤射したり。ゲームが崩壊しない程度にパフォーマンスを切り上げて、上手いことエンターテイナーとして立ち回っていたように思う。

 しかし俺は知っている。

 あいつは、ほんとうは普通にバスケをやりたかったのだ。バスケだけでなく、あらゆる競技あらゆる種目を。もともとの運動能力は凡庸で、魔法抜きじゃスタープレイヤーには到底なれない奴だったが、それでもあいつは普通の女子中学生として走ったり跳んだりボールを追ったりしたかった。

 本人が言ったわけじゃない。商店街で最低の告白をしてしまったあの日から、あいつは俺にさえ弱音を吐きたがらなかった。ただ、表情を見れば解ることもある。俺が体育館の窓から覗き見た授業風景で、万理がいちばん楽しそうに笑っていたのは、誰も呼ばない名字の刺繍された体操服を着て、床をぺたぺた走っているときだった――

《一宇、ボールが来るぞ。七時の方向だ》

「あん?」

 ラプラスの警告に周囲を見回した俺は、飛んできたサッカーボールを顔面に受けてひっくり返る。「ごめん玄野!」と言った奴は垣田だろうか。奴はこれまたイケメン勢で、バレンタインには女たちの本命チョコをブラックホールよろしく吸い集める重力源。サノバビッチ。あとで殺してやる。だがその前に俺の鼻が潰れている。

「先生、玄野が鼻血出しました!」

 また垣田の声。聞いて初めて、仰向けに倒れた自分の顔を伝う液体の感触に気付く。

「うーし、保健委員いるかー。あ、お前そう? ちょっとさ、こいつを保健室にぶち込んでこい」

 今度は伊藤の声。なんたる言い草か。捕虜の収容所送りを決定する軍人でももう少し礼儀を知っている。ひとりで行ける、と言おうとして、誰かの手で助け起こされた。

「はーい。聞いたろ玄野、行こうぜ。おまえ最近ぼんやりしすぎ」

 見ると、藤旗の顔があった。始業式の日に俺をボウリングに誘った奴だ。なんだかんだであれからよく話すようになっている。そういえば、保健委員はこいつだったか。

 こいつになら連れて行かれてやってもよかろう。

「そうだな。ちょうどいい機会だ。授業中にたっぷり寝かせてもらうことにする」

「でも教室ほど眠くならないんだろ」

「そりゃそうだ。授業中の教室には催眠ガスが充満してる」

 こぼれる血は生温かい。鼻は痛い。血と痛みは生の証。こんなことにまで後ろめたさを感じてしまう俺は間違いなく病気だ。学校の保健室で治せるものでもないが、授業を受けていたところで万理の不在を意識するだけに終わる。保健室ならあいつを思い出させるものは少ない。俺はあまり保健室に行かない生徒だったし、魔法少女も怪我や体調不良とは無縁だった。あいつの場合は、そうでなければならなかった。アイドルは血を流さないのだ。

「おィーっす! 古崎先生いるぅ?」

 藤旗が呼ばわった古崎とは女性の養護教諭で、いわゆる“保健室の先生”ポジションの人である。とはいえ白衣なんぞ着てないし、男子生徒の妄想に登場するような若くてエロい女医さん風の人ではまったくない。どっちかというと「みんなのオカン」な感じの豪胆なおばさんであり、その容姿は藤旗曰く某有名カードゲームの『治療の神 ディアン・ケト』なるカードの絵柄にそっくりだという。クラスの男たちはこの喩えに大爆笑していたが元ネタを知らない俺には笑いどころが解らない。普通にいい人そうな見た目だ。笑うのは失礼じゃないのか。治療の神というのは、養護教諭としては悪くないあだ名であろうけれど。

「はいはい。いるよぉ。藤旗くん、保健室来る子にしちゃー元気な声じゃないの」

 治療の神がメディカルカーテンの後ろから現れる。やっぱり白衣ではないが、私服の上になぜか赤のエプロンを着けていた。オカン指数は通常の三倍。「今日のごはん何?」と訊けば答えてくれそう。

 去年の俺はありていに言って孤児だったワケで、このステレオタイプなまでの母性は癒え切らない古傷を抉った。そういう理由から、保健室を積極的に利用することはなかったのだが、今年は――というよりこの二年後期からは――俺は家族とともに暮らしている。ホームシックの発作を起こすこともなく、あれこれ理由付けて授業をサボりに来られる次第である。今後世話になる機会も増えるだろう。

「今日は俺じゃねーもん。顔面にシュート決められた役立たずのミッドフィルダーを護送してきたのだ」

 藤旗に突き出された俺を一目見るや、古崎さんは「ふむ」と唸り、抽斗からガーゼらしきものを取り出すと、二枚に切り分けて丸め始めた。

 何をするのかと見ていた俺は、彼女の太い指で突然鼻を引っ張られた。ごぎゅ、と音がしたのを聞く。鼻を押さえる間もなく、鼻腔に丸めたガーゼを突っ込まれた。痛み。抽斗の臭い。後ろめたさ。

「養護教諭は医者じゃないから、『医療行為』が許されてないのよねえ。だからまあ、代替医療ってことで。大丈夫、治るから」

 医者でない人にヤブもクソもあるまいが、この処置は大丈夫なのだろうかと心底不安になる。別に鼻が折れてるとか曲がってるとか言ったわけではないのに。

「あと先生、こいつ最近ぼーっとしてるんすよ。ちょっと寝かしてやってくれませんかねぇ」

 藤旗の要請に片眉を上げ、古崎さんがカーテンの向こうに声をかける。既に誰か寝ているらしい。

「きじょうさん、隣に男の子寝かせても大丈夫かしら?」

「静かにしてくれるなら」

 先客は“キジョウ”と言うらしい。苗字だろうが、どんな字だ? どうやら女子で、声は小さい。

「じゃ、ミスター鼻血、奥のベッドで大人しくしてなさい」

「玄野です」

 訂正したが、藤旗がニヤついているのを見て、俺は自分の新たなニックネームが決定したことを悟る。授業が終わって教室に戻った瞬間、俺は男どもから「ミスター鼻血」とか「鼻血真拳伝承者」とか呼ばれるに違いない。そして惰性で三日ぐらいはその状態が続く。

「俺もう行くわ。保健室で女子とロマンス育んじゃうとかやめろよ? 畜生にも劣る下劣な行為だぞ?」

「静かにしろって言われたの、聞こえなかったか」

 藤旗を廊下へ蹴り出し、俺は血の染みたガーゼを鼻から突き出させながらベッドへ向かう。こんな面構えでロマンスも何もあった話か。あってせいぜい笑劇ファルスだ。

 カーテンをくぐると、視線はそいつに吸い寄せられた。

 肌が白い。長い髪は艶めいて黒い。

 首が細い。腕が細い。シーツに隠れて見えないものの、おそらく脚も細い。その女は上体を起こして本を読んでいるのだが、頁を繰る指もやっぱり細い。

 胸元の名札には「葵条 新葉」とある。あれでキジョウと読むのか。下の名前はなんと読むやら。文字色からそいつが一年生らしいことが見て取れた。

 そんな葵条の、俺を見つめ返す瞳はライトブルー。ハーフなのだろうか。あまり凝視するのもどうかと思い、俺は視線を外し隣のベッドに入る。

「日本人です」

「へっ?」

 振り向くと、葵条は本の頁に目を落としていた。そのまま俺に話しかけてくる。

「この眼。たいてい、はじめて会ったひとには訊かれるから。色素が薄いだけで、両親とも日本人です」

「ああ――そう」

 訊いてねえよ。こっちはもっと気の利いた答えを返すべきだったかもしれないが、それ以上話しかけてくる様子がないので、俺も最初に言われた通り静かにしていようと決める。せっかく授業中にベッドで横になっていられるのだ。爆睡せねば天罰が下る。

 などと考えていたら、いきなりラプラスがわけの解らないことを言い出した。

《一宇、君は葵条新葉にいはを知っている》

 俺はあの名前がニイハと読むらしいことに感心する。感心というのもおかしな表現だが、素直にいい響きだと思った。

 それから、声にせず訊いた。

「どういうことだ。記憶にない」

《一月十日に出現した、第八の戒獣“ローゼン”。あれは私やアリストテレス同様、特定の人間に波動結合することで、自己観測能力を得て己の存在を安定させていた個体だ。その宿主が……》

 思い出した。

 目に灼き付けられた深紅。

「プロフェテス……」

 たぶん万理にとって最強の敵だった、もうひとりの魔法少女。

「この街に住んでたのか」

「なんですか?」

 怪訝そうに、葵条が再び俺を見る。顔は正直なところ、記憶の中の像が粗すぎて重ならない。だが声は? 注意して聴いてみれば、あの紅いドレスの少女に似ている気がした。

「ごめん、なんでもないんだ」

 せっかく保健室まで来たのに、と長い息を吐く。

 俺はやはり、消え失せた過去から逃れることができない。



 一月十日。万理の携帯が非常用アラームを鳴らしたのは、四限目の英語の授業中だった。

 魔法少女オラクルにはあらゆる例外と特権が許されている。たとえばいつスクランブルが掛かるか解らないから、あいつは公然と学校に携帯電話を持ち込めた。官給品だというその携帯が、けたたましい音で鳴ったのだ。

 クラスの視線が集まる中、ばつの悪そうな顔で万理が廊下へ出て行く。廊下から洩れ聞こえる声。今度はクラス中が聞き耳を立てる。英語教師の宮本は粘っこい髪をしきりに撫で付けつつ、誰かひとりでも授業を聞いてくれそうな生徒がいないかと目を左右させていた。

「……戒獣なんですか? え、魔法少女? あたしと同じ?」

 語尾は上がりっぱなし。疑問に次ぐ疑問。どうやら確定情報が少なく、それでも電話してくるくらいの緊急事態だということは解る。

 やがて教室前側の扉が開き、万理が戻ってきて、言った。

「先生、テレビ付けてください! 1番です」

 魔法少女の要請は国家の命令に等しい。髪をいじる片手間に、宮本がテレビを点ける。チャンネル1。NHKが昼のニュースをやってる時間だ。

 画面に映し出されたのは、ニュースキャスターではなかった。

スタジオはいかにもニュース番組らしい無味乾燥なセット。しかし、中央の白い机にどう考えても場違いな奴が座っている。

 そいつはまだ子供だった。俺や万理よりも年下に見えた。長い黒髪と、あちこちにフリルのついた紅いドレスが、目に悪そうなコントラストを成すいでたち。どうも瞳が黒くないようだったが、教室のテレビが安物なこともあり、アップでもなければその虹彩が何色かまでは判別できない。

「では、もう一度くり返しますね。あとは録画でも流しといてください。べつに普段どおりの放送計画に戻ってもいいですけど、あのひとが来なかったら建物ごと、この星から消えてもらいます」

 少女が喋っていた。

 狂気という形容すら、ひどく安く思えるほどに、歪んだ笑顔で。

「魔法少女、オラクルさんに伝えます。

 はじめまして。このたび、わたしも魔法少女になりました。プロフェテス、とでも呼んでください。わたしの戦闘法衣コンバット・カノーニカルは、いま着ているこのドレスです。赤で統一してみました」

 机に座ったまま、自称魔法少女が長いスカートをつまんで浮かせる。きつすぎる色合いが悪趣味に映らなければ、どこぞの舞踏会に着ていっても良さそうなデザインだ。もっとも、ほんとうに戦闘法衣コンバット・カノーニカルならば、あのドレスも大陸間弾道弾を跳ね返せるほどの魔力の鎧ということになる。

 プロフェテスのメッセージは続く。

「わたしはあなたと違って、正義の味方をやるつもりはありません。

 この世界に、ほんとうの正義なんてないと思ってるからです。

 それを証明するためには、あなたを殺すのが手っ取り早いですよね。

 正義の魔法少女。奇跡の巫女ミラクル・オラクル。人類最後の希望――

 そんなあなたが負ければ、みんな『正義は勝つ』なんてふざけたこと、言わなくなるでしょう?

 というわけでオラクルさん、決闘を申し込みます。

 このメッセージを聞いたら、NHK新放送センターの屋上へ来てください。場所は東京都渋谷区の……ここ、どこでしたっけ。神南? えーと、おっきいパラボラアンテナがいっぱい並んでるところです。こっちで目印出しときますね。

 自衛隊のひとたちとか、応援に呼んでもいいですけど、やめといたほうがいいと思います。

 わたしの力、ほんとに、ものすごいですから。

 それじゃあ、きょうの午後三時まで待ってます」

 手を振って、少女は机から降り、画面外へ歩み去った。スタジオに奇怪な物体が残されていたので何かと思って目を凝らすと、スーツを着た男の首から下だけがカメラ正面の椅子に座っている。ニュースキャスターだ。プロフェテスは宮本がテレビを点けるより前に、生放送中のスタジオでライブ殺人を敢行していたのだ。全国の視聴者はさぞ恐怖したことだろう。そしてその恐れは、プロフェテスに強大なパワーを与える。反吐が出るほどクレバーな魔法少女デビュー。わたしはパブリック・イメージを一顧だにしません、という宣言。

 結局この日は休校となり、三限の途中で生徒は家へ帰された。当然万理はその前に変身して現場へ急行。政府は魔法少女プロフェテスを戒獣相当の存在と断定、自衛隊にこれの殲滅を指示する。

 魔法少女と戒獣の戦いがテレビで放映される場合、いままでは録画の映像だった。撮ったのはテレビ局だったり民間人だったり。生放送しない理由は、都合の悪い映像を流さないためだ。万が一にもオラクルが負けたら、全世界でパニックが起きてそれだけで人類が滅亡しかねない。

 ところがプロフェテスはNHK局員を脅し、新放送センターの周辺に数十台ものカメラを設置させた。オラクルとの決闘を全国ネットで生中継させようというのだ。脅迫は他局にまで及んだらしく、しばらくするとどこのチャンネルを回しても渋谷の空ばかり映している状態になった。

 史上初、ライブ型マルチアングル魔法少女バトルが幕を開けようとしている。字面から連想されるファンシーさには一ミリも掠らない、神々の戦いもかくやの壮絶なエネルギーの激突。

 その間俺はどこにいたか?

 家に帰った生徒は多い。だが俺は養護施設に戻らなかった。

 学校に残った生徒もいる。俺は残らなかった。

 そう、俺はもちろん万理を応援しに東京へ向かったのだ! ――なんて話はいちばんあり得ない。電車やバスは止まっているしタクシーを使う金もない。だいたい俺が行ったって応援どころか足手まといになるのが関の山だ。中一の頭でもそれくらい解る。

 だから俺は、区役所の待合スペースに設置されている大型モニターを見に行った。

 今回も俺はただ守られるだけの市民Aとして、椅子の上で膝を抱えて信じてもいない神や仏に万理を守ってくれるよう頼みながら、テレビを見ていることしかできなかった。


 自衛隊としては、切り札のオラクルをぶつける前にまず市民の避難を完了させておきたかった。相手は戒獣ではなく魔法少女、そして明らかに狂っている。万理が人的被害を気にせず戦える環境を整える必要がある。

 そこで、対戒獣作戦を遂行するための特設一個連隊が陸海空から送り込まれた。避難誘導のあいだプロフェテスの注意を惹きつけておくための時間稼ぎ、言ってしまえば囮だ。囮と言っても人員数は戦闘部隊だけで千人近く、後方支援まで含めるとさらに増える。戦闘機や攻撃ヘリ、最新の武装オートマトンまで動員される作戦規模はもう戦争と呼んで差し支えない。

 だが甘かった。

 魔法少女相手に、人類の基準で言う「戦争」なんてものはクソの役にも立たない。コンビニで売ってる花火と超新星爆発ぐらいには使えるエネルギーの桁が違う。

 新放送センターを完全包囲した自衛隊は、戦闘開始から十七秒で壊滅した。

 誰も、何が起きたのか解らなかった。解らないうちに車両から航空機から無人兵器からそしてもちろん人間までがしゅっと空気の抜けるような音とともに消失していき、ほどなくして空に流星雨が降り始めた。プロフェテスがその光にカメラの一台を向けて言う。

「ごらんください。いまあそこで流れ星になって墜ちてくるのが、さっきまでそのへんにいた自衛隊のみなさんです」

 この発言と映像を解析し、分析し、現場から流れ込んでくる情報と総合することにより、どっか遠くの作戦本部で指揮を執っていた連中はいろいろな知見を得ることができた。まずプロフェテスの固有能力は物質を瞬間移動させる類のものであろうという予測(ニュースキャスターの首を消し飛ばしたのも同じ能力らしい)。その範囲、発動速度、転移精度はいずれもきわめて大であるという事実。そしてもちろん、一千人の自衛隊員が高価な兵器もろとも大気圏再突入の断熱圧縮で燃え尽きたという被害。ついでにプロフェテスはそれだけの殺戮をやらかしておきながらヘラヘラ笑っていられるサイコ野郎だという精神分析。

 幕僚たちは、敵が戒獣以上に危険な存在だと悟った。遅すぎる。その見通しの甘さで、ツケを払わされるのはいつも万理だ。

 これ以上の被害を出すわけには行かない。それにプロフェテスがほんとうに魔法少女だとすれば、どうやって力を手に入れたのか。自然発生なら八体目の戒獣がアリストテレス同様の寄生タイプとして実相化マテリアライズしたことになるし、どこかの国が兵器として作ることに成功したのならまたミリタリーバランスに深刻な影響が出る。そうでなくとも政府にとって都合の悪い情報を暴露されかねない。たとえば魔法少女の正体は戒獣に寄生された人間であるとか。下手を打てばそのお膳立てをしたのが政府の機関であることまでバレる。日本人はもう何があろうと革命や反乱なんか起こさないだろうが、それでも内閣総辞職は当たり前だしわかりやすい悪を見つけたマスコミの集中砲火が始まるだろう。巷間では匿名のネット弁慶軍団が無駄に高い情報収集能力を駆使して魔法少女製造計画(仮)の責任者をあぶり出し社会的な意味で血祭りに上げることは間違いない。上げられる奴が本物とは限らないにしても。

 そういう危険が一ミクロンでもある以上、お偉方は二人目の魔法少女を一刻も早くカメラとマイクの前から消さねばならない。結局アンダーソンによる衛星兵器テロのケースと同じだ。かくして、自衛隊員たちの尊い犠牲が稼いだ時間に周囲一帯の市民は避難を完了し、先生やっちゃってくださいとばかりにオラクルが出撃する。

 基地を離陸した万理は全速力で飛べば戦場まで一秒も掛からなかったが、ソニックブームで地上を根こそぎ引っくり返すわけにもいかないので常識的な速度で渋谷まで飛んできた。そんな万理を迎撃するでもなく、紅いドレスの少女は新放送センター屋上でカメラ映りを気にしながら悠然と構えている。

「来ましたね。お会いできて光栄です、オラク――」

 屋上が爆発した。

 先制攻撃。万理がプロフェテスの足元に叩き込んだのは超高エネルギーのγ線レーザー。ショックウェーブと輻射の洗礼が新人魔法少女を襲う。

 もちろん戦闘法衣コンバット・カノーニカルを纏う魔法少女にただの物理現象がダメージを与えられるはずはない。その一撃は意思表示だった。絶対に赦さないという怒りの表明。

 万理は怒っていた。間違いなく。

 人を殺してしまったと、夜にひとりで泣いていたあの万理が。曲がりなりにも人の姿をした相手に、降伏勧告もなく無言で攻撃した。その意味を知る俺は、あいつの怒りの深さと冷たさを想って戦慄する。同じ魔法少女を名乗る相手だからこそ、その名に込めた理想を汚されたような気がしたのかもしれない。

 粉塵を割ってプロフェテスが浮上する。爆風にも耐えた最新鋭の高集音マイクが、空を舞い始めた少女の声を全国にまだ届けている。

「ちぇ、しょっぱなからバリバリ実戦モードですか。せっかく同業者があいまみえるのに、風情がなさすぎます」

 言いながらプロフェテスが何かやったらしく、飛翔する万理の頭の辺りで炎が弾けた。ばちん――白い閃光とノイズがたっぷり数秒間画面を塗り潰す。俺は肝を冷やしながら、それにしてもカメラの切り替えが的確だなぁなどと阿呆じみた感想を抱く。NHKスタッフ熟練の技よ。

 またカメラが切り替わり、火の中を飛ぶ万理が映る。無傷だ。一方のプロフェテスは意外そうな顔で、またおしゃべりを開始する。

「あれっ、頭の半分だけ太陽に放り込んだつもりだったんですけど……弾かれてますね。うーん、転送面が重なってると駄目なのかな……」

「――どうして」

 万理の声が、初めてスピーカーから聞こえた。

 テレビ向けに作り上げたオラクルの声ではなく、人間・顕月万理の声。

「どうして、ああも簡単に人を殺せるの……」

「ふふ、やっとお話する気になってくれましたね」

 数人殺して泣いた女と、千人殺して笑う女が空で相対する。撃ち合いをやめたのは、双方に言いたいことがあったからだろう。

 俺は一刻も早くマイクとカメラが壊れてくれることを祈った。この戦いはあいつにとって辛すぎる。それを全国放送とはいったいどういう仕打ちだ? 自衛隊は狙撃でもミサイルでも使って無駄に高性能な放送機材をとっととぶっ壊すべきなのだ。早くやれ。早く。

「オラクルさん、魔法少女になって最初にやったことって、なんでした……」

「戒獣と戦った。当たり前だ、そのために魔法少女になった。ヒルベルトと戦って、コペルニクスと戦って、みんなを守ってきた!

 守れなかった人もたくさんいる。だけど、あんたとは違う。一度だってこの力を、人の命で遊ぶためになんか使っちゃいない!」

 背後に利権と陰謀が渦巻いていようと、正義の味方という理想を追い続けてきた。その矜持。なじるように、万理は叫ぶ。最後まで問答無用で通せなかったのは、弱さとか若さだったかもしれないし、アンダーソンの一件で生まれた迷いを振り切るために己を鼓舞する必要があったからかもしれない。どれも蚊帳の外にいた奴の勝手な推測でしかないが。

「あんたは……わかってんの? 人を殺してるんだよ、いっぱい殺してるんだよ! ゴミみたいに燃やして!

 誰の人生だって、自分のと同じようにたったひとつなんだって、そんな当然のことをどうして想像できない!」

「月並みですね。ご立派で、安っぽい。子供向けアニメの脚本だって、いまどきもう少しマシなこと、主人公に言わせるのに。

 人を殺してる? わかってますよ。わたしがこの力を手に入れて、最初にやったことは、実の父親を殺すことですから」

 嫣然と笑むプロフェテス。万理の怒りも、誇りも届かない。緋のドレスが血の彩りを帯び、斥力フィールドが空間を揺らがせる。

「妻にはDVで逃げられて、残った娘にもずっと虐待を続けてた。それがわたしの父。最低のクズ人間です。ずっと殺してやりかった……だからこの力で、じっくり復讐を楽しませてもらったんですよ。

 指を一本ずつ胃の中にテレポートさせていって、次は鼻、その次は耳、それから歯と髪の毛と……お腹がパンパンになって破けるまで、いろんなパーツを食べさせてあげたんです。わたしを何度もいじめたペニスは、最後まで取っておいたらお腹に入らなくなっちゃったので、口の中にねじ込んでおきました。結局それで窒息して死んじゃったんですけど。ふふっ、自分のおちんちんで喉詰まらせて死ぬって、馬鹿みたい」

 俺は全国で何人の視聴者がテレビの電源を切ったかと考える。存在そのものが放送事故な番組とはいえ、こうも始まりから終わりまで胸糞悪い話が出てくると大衆は困惑するほかないし俺だってそうだ。同情であれ嫌悪であれ、この話に人々が何らかの印象を持てばそれがまたプロフェテスのエネルギーになるのだから、戦略としてはなかなか利口と言える。その戦略に自覚的だったかどうかは別として。

 いちばん反応に困ったのは万理だった。ただの戒獣なら自然災害として処理できた。ただの狂人なら絶対悪として裁くこともできた。だがバックグラウンドが見えてしまえば正義の怒りに不純物が混じる。結局魔法少女とは戒獣の力を得ただけの人間であって、自分がこれからやらねばならない任務はまたぞろ人殺しなのだと思い出させられる羽目になる。本気で戦っても勝てるかどうか解らないのに。

「でもそんな父が、ひとつだけ大切なことを教えてくれました。世の中で大事にされてる常識とか正しさとか、そんなのは地獄を見てない人間が、自分たちだけの都合で作ったまやかしだってことです」

「地獄を見た人間が、そうでない人より偉いわけじゃない!」

「そんなこと言ってないじゃないですか。なにキレてるんですか」

 言い合いを画面越しに見ながら、俺は不遜にも万理の心情を慮る。あいつが守っている人類という大きなものの中には、妻子を虐待するクズやそれ以上の悪がゴロゴロしている。ヒーロー永遠の命題。正義が守れと命ずるものは、ほんとうに守る価値があるものか。

 あいつは何のために戦っているのだろう。解っていたつもりの答えが、指の間をすり抜けて落ちてゆく。正義のため? 両親のため? もしかしたらひょっとして、一パーセントくらいは俺のためだったりしないだろうか。ナンセンス。自惚れと妄想。

「わたしはただ、善は人の本性だなんてつまらない妄想にしがみついてるお馬鹿さんたちを、思いっきり嗤ってみたいだけです。

 殺しますよ。これからも。たくさんの人を、差別なく容赦なく、わたしは惨殺しまくります。誰もが絶望して、悪と混沌が人間の本質だって納得するまで、命と生ゴミの間に等号イコールを書き続けたいと思います。

 だから――止めてみせてくださいよ、先輩。これでもあなたのファンだったんです」

 プロフェテスが微笑み、空が爆発した。戦闘再開の花火。この瞬間マイクが全滅し、カメラも数キロ離れた路上から撮影していた一台へと切り替わる。唐突に静かになった画面。視聴者はみんなでポカーン。俺もポカーン。

 区役所で見た映像の続きと俺自身の体験、のちに万理から聞いたディテールを合わせて再構築すると、あとは以下のような状況が展開されていたらしい。

 ――止めてみせてくださいよ、先輩。

 その言葉に、そしてそれを言う少女の声に込められた絶望に、万理はこれ以上なく明晰に悟った。プロフェテスもほんとうは自分と同じで、正義を信じたかったのだ。その想いを下種な父親に何度も踏み折られ、取り落とした理想をついに拾い直せなくなって、それでも誰かが善なるものの勝利を証明してくれることを望まずにいられなかった。だからこんな決闘を仕掛けた――自分でも勝ちたいのか負けたいのか判然としないままに。

 実際にそうだったかは万理にも解らない。まして俺なんかが永遠に解るはずもない。もしかしたら「可哀想な悪役」のステレオタイプに相手を押し込めて、無理矢理片付けてしまっただけなのかもしれない。

 だが万理は己の直感を疑わなかった。少なくとも戦いの間は。そして同時に、この戦いを終わらせるには自分とプロフェテスのどちらかが死ぬしかないと悟った。アンダーソンのときとは違う。緋色の魔法少女は「殺さなくてもいい相手」ではなかった。決定的に、不可逆的に、道を違えてしまった万理の鏡像だった。生かしておけば必ず多くの死を生み出す。説得も和解もあり得ない。否定しなければ前に進めない、そういう相手。

 その判断を自己満足の偽善とか言おうと思えば言えそうだが、俺はあいつが戦いのあとでどういう顔をしていたのか知ってるからそんなことは言わない。顕月万理にとってはわざと戦いに負けて死ぬ方がよっぽど楽だったに違いないのだ。

 爆炎の中を急上昇しながら万理が言う。

「わかった。来なよ後輩。あたしが終わらせてやる」

 鋭角のターンを繰り返す万理の周囲で、次々に爆発が起きる。本命の大技を叩き込むための牽制。万理もしつこく追尾する光の球を六百発ほどばら撒いて応戦した。あの光弾一発ごとに戦艦大和を三回沈められる威力があるそうだが、そんなもんでも魔法少女相手ではやっぱり牽制にしかならない。

 プロフェテスは小刻みなワープを繰り返して誘導弾を翻弄、終いには弾を直接万理のいる所に転移させて反撃する。万理はノーダメージ。あいつは「相転移の操作能力を逆用し、構成存在のエントロピー変位を拒絶する」ことで、エネルギーの相殺が追いつく限りあらゆる攻撃を無効化できた。俺は詳しい原理なぞ知らないしどうでもいいが。

 魔法少女同士が繰り広げる空戦は、俺の貧弱な予想を遥かに凌駕して異次元の闘争だった。プロフェテスが使う「何もない空間に爆発を起こす」技ひとつ取っても、太陽内部の超高圧プラズマをワームホールで吸い出してくるとかいうとんでもない代物だ。その熱と電磁パルスと衝撃波で地上がえらいことになっていたが、もう近辺に人なんか残っていないし万理にも自分以外を気にかける余裕はない。

 魔法とは名が付いていても、仰々しい呪文を唱えたり杖を振り回したりといったアクションはない。予備動作ゼロ。防御と攻撃を同時かつ多重に行う。その間万理は音速の数倍だか数十倍だかいう速度で稲妻のような軌道を描いて飛び回り、プロフェテスはそもそも飛行すらせず瞬間移動しまくる。見た目のイメージは魔法使いより超能力者の戦いに近そうだったし実際そっちの方が魔法よりは妥当だろう。ただ超能力少女より魔法少女の方がヒロイックな感じになってマーケティング上も都合が良かったからそう名付けられたに過ぎない。広告代理店が儲かるほど万理は強くなるのだ。

 やがて濃密な一瞬間が訪れ、戦いは決する。

「あんたはひとつ、勘違いをしてる!」

 叫びながら万理が飛び込む。問いながらプロフェテスが迎撃する。

「へえ、どんなです?」

 一点に魔力を集中したプロフェテスの転移フィールドが、変化を拒絶する障壁すら突き破って万理の左耳を抉り取っていった。間髪入れず脳天に穴を開けようとした第二撃がかわされ、ワープで逃げたプロフェテスはワームホールをブチ抜いて迫る万理を見る。万理の掌には黒い光。対象に反存在の波動をぶつけ、存在確率を直接削り取る絶対消滅魔法“エーテル・デストロイヤー”。いまどきの小学生なら誰でも真似するオラクルの必殺技にして、戒獣を滅ぼす唯一の手段でもある。

 万理が掌を突き出す。

 輝く闇が波動となって前進し、攻撃を逸らそうと展開されたワームホールもろとも、プロフェテスの首から上を消し去った。狙いはその脳に同化していたであろう戒獣。エーテル・デストロイヤーの消滅波面に触れた存在は通常空間から排除され、〈カブラの狭間〉の奥深くへ沈んで戻らない。

 首なしの、紅いドレスが墜落していく。万理はその亡骸を抱きかかえ、戦闘の余波で半壊した新放送センター屋上へ舞い戻った。

 結局「勘違い」の訂正は間に合わなかった。万理はたったいま殺した少女に、遅すぎる答えを呟く。

「……あたしはもう、正義の味方になりたいだけで戦ってるわけじゃないよ。

 ほんとうに大切なものがあって、失くしたくなくて、守れる力がたまたまこの手にある。だから戦う。ヒーローを目的じゃなくて手段にしちゃうのは、不純かもしれないけどさ。でも、人が戦う理由なんて、それだけで充分だって思えたんだ」

 クサい科白を言い終えたところで万理は気付く。

 死んだはずのプロフェテスの、長いスカートがもぞもぞ動いていることに。

 閃光。

 暗転。

 次の瞬間、万理は宇宙にいた。

 地球が近くに見えるような軌道上とかじゃなく、まったくどこの星系とも知れない宇宙の果てに飛ばされていた。空気がなかろうと超高エネルギーの宇宙線に晒されようと魔法少女は死なないが、地球から物理的に隔離されてしまえば傍からは死んだも同じだ。

 万理の防御魔法は、身体の組成や分子結合など局所的に「変化を拒絶する」ことで成立する。物質を外部から体内へテレポートさせたり、逆に身体の一部だけを他所へテレポートさせたりする技は、非効率なほどにエネルギーを集中させなければ万理には通じない。「変化」を起こしてしまうからだ。だが全体をそのまま遠くに飛ばしてしまう分には話が違う。ただの移動は「拒絶」できない。万理が喰らったのはそれだった。ワープによる戦場からの強制排除。


 百億光年の彼方で万理が混乱している間、全国に流れていた映像のカメラは新放送センターへの接近を試みていた。赤と白の人影が隣り合って屋上へ降りてから、音沙汰がない。決着が付いたのか、戦いが膠着したのか、勇敢にも確かめに行ったわけである。俺は正直アホだと思ったが、その命を顧みないジャーナリスト魂のおかげで状況が判明する。

 テレビカメラの最大ズームが映したのは、宙に浮く血まみれの胎児だった。

 何だこりゃ?

 惑乱の中、誰よりも早く事態を把握したのは俺だったと思う。紅い魔法少女の胸糞悪いオリジンが画面の中の物体と臍の緒で繋がる。なんてこった。マザファッキンモンスター。あれが戒獣だ。戒獣が同化していたのはプロフェテスを名乗る少女じゃなく、その腹の中にいた胎児なのだ。

 誰との子供かなんてのは考えるまでもない。俺は怒りのあまり目の前が暗くなる。前の空席を思い切り蹴飛ばしてしまい、隣に座っていたジジイから睨まれた。一応謝る。しかし憤激は収まらない。

 虐待の二文字が意味していたもの。その結果。妊娠するまで実の娘をレイプし続けたクソ野郎がこの世にいたのだ。亡くした親を恋しく思い続けてきた中学一年生の俺にとって映像の暗示は衝撃的でありすぎた。親とはすべての子にとって偉大かつ神聖なる存在であるべきだという俺の理想を踏みにじる現実。キレてしまった娘にその男が惨殺されるのは当然の報いだがそれだけじゃあ到底足りない。聞こえてるかクソ野郎、あの画面を見ろよ。あの渋谷を。

 大型モニターの中では、渋谷が空から落ちてきていた。そこらじゅうの建造物や車両や地面が空中にテレポートし、元あった位置に重力の加速度を得て落下してくる。あの胎児がやっているのだ。街が降る街。ヤク漬けの悪魔にデザインさせた地獄のアウトサイダーアート。いろいろ入り混じりすぎて音源が何だかわからない破壊音がスピーカーから轟き、胎児を映したカメラまでもがテレポートに巻き込まれて空へ放り出されそのまま映像が途絶する。

 放送各局の対応は速く、準備してましたとばかりに全チャンネルで緊急報道が始まる。区役所職員がリモコンのボタンをぷちぷち押していくと、どこの局もさっきまで渋谷区だった一面の廃墟を映している。報道特番のスタジオに未確認情報が飛び込んできて、今度は仙台で何かあったようだとか、その確認が取れる前に福岡がどうにかなっただとかアナウンサーが片っ端から読み上げる。錯綜。合わせて区役所でも人がざわざわし始め、誰もが同じことを口走った。オラクルはどうした?

 敵前逃亡を疑われなかったのは万理の人徳かもしれない。だが、だからこそ人々は推測した。オラクルが無事なら戦うはずだ。その姿が見えず、渋谷が一瞬で崩壊するような被害が出たということは……

 パニック一歩手前。誰かが走り出したり大声を上げればそれだけで区役所はカオスの炉心と化すであろう緊張状態。むしろその危うさが場の全員を縛り付けているようですらあった。

 俺は万理が負けたとか死んだとか思いたくなかったから、気絶するなり身動き取れない状態に置かれているのだと推理した。まさか宇宙の果てに飛ばされてるとは思わなかったが考え方はなかなかイイ線行ってたはずだ。すぐに考えてる余裕なんかなくなったけど。

 リアルタイムで状況の全容を把握できた奴はもちろんいなかったが、結果的にあの胎児=第八戒獣ローゼンは万理が戻ってくるまでの八分三十一秒に世界各地の人口密集地域を手当たり次第襲撃して甚大な被害を出した。犠牲者や行方不明者の数を調べることすら困難な規模の破壊。後に万理が「文明を半壊させた」と語ったほどの壮絶な攻撃。

 ワームホールを操るローゼンに距離の概念は存在しない。ロンドンでビッグベンを空に打ち上げると奴はその落下を待たずしてヴァチカンに現れサン・ピエトロ大聖堂をどこぞかに消し去る。次の瞬間には香港へワープ、ビル群を海底に沈めたと思うや何を考えたか海水ごと陸地に戻して香港市民を一掃した。水を使うと殺しすぎてしまって観測者がいなくなることを学習したローゼンはシンガポールに転移し地形をパズルのように組み換えて遊び始める。たっぷり二十秒かけて都市国家をレゴブロックの失敗作みたいなオブジェに作り替え、胎児はさらに恐怖を求めて旅を続ける。七秒でモスクワ壊滅。三秒でソウル埋没。五秒でベルリン空中分解。十三秒でムンバイとニューヨークが物理的に合併。

 ここ日本の美砂も例外ではなかった。近くのオフィス街を支えるベッドタウンであるこの街は昼間だってそれなりの人口を抱えているのだ。ローゼンが飛び回るうちにほんの一瞬だけここをかすめ、その一瞬で駅周辺は瓦礫の山に変わった。通りを二つ挟んだ向かいの区役所も崩壊した。つまり俺が魔法少女バトルを観戦していた当の現場が。

 女子アナがあたふたするだけの醜態を映していた大型モニターがブラックアウトし、同時に電気が消える。そして雷のような音とともに区役所の天井が上階ごと落ちてきて、パニック直前の硬直に立ち尽くしていた人々を生き埋めにした。俺も真上にあった蛍光灯が頭に直撃して椅子の間に倒れた。この椅子のおかげで天井に潰されずに済んだわけだが、脳震盪でも起こしたのか身体が上手く動かない。感覚だけが冴えて、反対に思考能力はひどく鈍っていた。

 床から一メートルもなくなった天井と、椅子の列が作るわずかなスペース。俺が倒れ伏すそこに冷たい外気が流れ込んでくる。当然壁もぶっ壊れているので一月の乾いた寒風から俺を守るものはない。右肩に鈍い痛みを感じて首を回すと、コンクリートから飛び出た鉄筋が肉を貫いて俺を床に縫い付けていた。なんだ、そりゃ動けないわけだ。

 次第に痛みが鋭くなってくる。脚や背中も負傷したらしくて、俺の感覚神経は脳が到底処理し切れないような苦痛の信号を各所で爆発させる。たぶん怪我の程度で言えば大したことはないんだ。内臓をやられたわけでもないし人間この程度で死にやしない。病院に行っても軽傷者のタグを付けられて治療は後回しになる程度の傷なんだ。でもそう言い聞かせたところで痛みは本物だった。どんな感覚も元を辿れば脳が作り出す幻みたいなもんのはずなのに、俺の感じる苦痛は確かに個々の傷から生まれ出るソリッドな灼熱だった。

 ああ、寒い。痛い。死にたくない。やっぱり俺は死ぬんだろうか? 傷自体が致命的じゃなくたって血が失われすぎれば人間は死ぬ。ここで失血死したら、俺は両親や妹のいるところへ行くんだろうか――

 撒き散らされたガラス片に、身じろぎするたび余計な傷を付けられつつ、混濁した俺の意識は五年前へと時を遡る。

 フラッシュバック。俺は家も家族も食ってしまった恐ろしい銀色のキューブから逃げていた。手を繋いでいた八紘に続いて俺が喰われなかったのは、反対側から逃げてきた別の一家が戒獣の注意を引いたからにすぎない。血塗られた僥倖。たぶんあの家族は死んだだろう。そうして父も母も妹も他人も犠牲にし、俺は生き延びるために走った。涙と鼻水と小便を垂れ流しながら、必死に街路を走った。死にたくない――走るうちに躓いて、身体を支えようとした右腕が動かなくて転んで、いまと同じように右肩で激痛が揺れていることに気付く。肩の関節が外れていた。いつ外れたんだろうと思い、右手で掴んでいたものを思い出したとき、俺はその悪夢が悪夢でないことを苦痛に教えられ、泣いた。手離してしまったものはもう戻って来なくて、俺はこの世にひとりぼっちなんだ。遠く鮮やかな最悪の記憶。

 瓦礫の下で十三歳の俺は嗤う。なるほど、こういうもんだった――久々に味わう、理不尽なほどに圧倒的な戒獣のパワー。奴らのエネルギースケールから考えれば人間の力など塵に等しい。肩の関節が外れるまで粘っても、結局俺は最後まで妹の左手を離さずにいてやることができなかった。かつて俺から命以外のすべてを奪い去っていったあの無慈悲な力が、建物の壁もテレビ画面もぶち破って、五年前に取り逃した俺をふたたび殺しに来たのだ。

 だが五年前とは違う。いまは万理が、奇跡の巫女ミラクル・オラクルがいる。

 ――戒獣は人の憎しみも力に変えちゃうんだ。これからは戒獣を憎む代わりに、あたしを応援してよね。

 俺の中で勇気が再点火する。あいつを支えたいと、はじめて思った日。虚ろな人形でしかなかった俺が、ちょっとでも人間に戻れた気がした、一年前の春の日を思い出す。

 戒獣を憎むのでなく、万理を想うのだ。俺の中で燃えるいちばん強い感情が、万理の力になると信じて、祈る。

 人はひとりでは戒獣に勝てない。にもかかわらず人間は、勝つだろう。人の願いを力に変える器、魔法少女がいる限り。

 勝て、万理。

 勝って、戻って来い。

 体温が血に乗って流れ出ていき、俺は瓦礫の下で冷たい眠りに沈む。当然俺が寝ている間もカタストロフは続いたし、決着の瞬間にも俺は無様に気絶したままだった。


 ローゼンの暴走開始から八分半を過ぎた頃、ついに万理が宇宙の深淵から帰還する。とりあえずあいつは、陸上自衛隊練馬駐屯地に着陸した。ここには魔法少女をバックアップするための設備が多少ある。

 百億光年の距離を埋めて地球へ戻ってきた方法はというと、自分の後ろで子宇宙ベビーユニバースの膨張と収縮を連鎖させてその相転移波面に乗ってみたら光速を遥か超えた速度で移動できた、との話だが例によってあとで聞いた俺はチンプンカンプン。方角は「なんかあったかい感じが来る方」を目指して飛んだら地球に着いたらしい。イッツアミラクル。エネルギーの供給経路を辿って戻ってきたと言えばもっともらしい説明になるが、俺は俺や世界中の人々の祈りがあいつを導くコンパスになったのだと思いたい。

「状況は!?」

 自分がいない間に、どうやら戒獣本体が暴れ出したようだ――と聞いた万理は基地から再出撃。人工衛星からの観測データを受け取って、ローゼンの転移ポイントを割り出し急行する。

 決戦はインドネシアのジャカルタ上空で再開され、瞬く間に地球全域が戦場となった。世界中の衛星ネットワークからバックアップを得て、新たに編み出した超光速移動でワープに対抗し、逃げ回るローゼンを追い掛けて万理は飛ぶ。プロフェテスはあれでも能力をかなり抑えて戦っていたのだと確信して万理はまた悲しくなる。そして怒り。死んだ魔法少女の運命を惨劇に変えたすべての悪と正義に対する怒り。もちろん最後に手を下した自分も万理には赦せない。その激情を掌に集めて、魔法少女オラクルが再び必滅の一撃を放つ。

 エーテル・デストロイヤー。

 夕焼けに染まる太平洋の空で、黒いオーロラが揺れた。


 次の日も休校になった。

 東京都庁の上半分がなくなっていて捜索のあげく月面に突き刺さっているのが発見されたり、千葉の某テーマパークが燃えていたり地下鉄が水没したりと、ニュースでは現実感のない被害確認が続いている。昨日の昼までとは違う世界が始まってしまったようだった。それとも終わったのだろうか?

 あのあと俺は自衛隊に救助され、二日ほど病院にぶち込まれる羽目になった。体温が下がりすぎて意外と危なかったらしい。ベッドが窓際だったり食事がちょっと多かったりとやけに待遇がいいのは、たぶん俺を使って万理のご機嫌を取りたい連中が手を回している。

 俺はかまわず窓から一日だらだらと雪を眺めて過ごす。雪。こんなときに灰色の空から降る冷たい結晶。あの赤ん坊に荒らされた諸都市で、今日の内に何人が凍死するだろうと考える。病院のテレビは大雪の池袋を映していた。サンシャインシティの瓦礫の下で救助を待ちながら凍てついてゆく命。想像する――身体が末端から赤い氷に変わっていって、最後に心臓がひっそりと鼓動を止めるまであと何分ある? あるいは何秒? その時間で彼らは何を思うだろう。死にゆく人間が最期まで思うこととは何だろう。

 万理はもちろん、前日の戦闘終了直後から休まず救助活動に従事し続けていた。ここで俺の見舞いに来るような寝ボケた奴ではない。フルタイムで魔力全開。渋谷で瓦礫を巻き上げて空き地に運び、シンガポールでエッシャーの絵みたいにされたビル群を解体し、街ごと水葬された香港を脱水して救助隊が入れるようにした。生き埋めにされた人や漂流している人、まだ助かるかもしれないあらゆる命のために万理は飛び続けた。

 また次の日も休校。

 そこらじゅうにいる入院待ちの傷病者に追われるようにして、俺は退院する。養護施設は直接の破壊を免れていたが、児童のうち何人かが深刻なPTSDに掛かりどっかで療養中らしい。あと流通が止まった影響でもともと不味かった飯がさらに不味くなった。ジーザス。

 その次の日も休校。

 俺は本格的にこのまま中一後期が終了してしまうかもしれないと考える。雪は降り続いていて自衛隊や警察総動員での救助作業を邪魔した。万理はまだ飛び回っている。上海。デリー。バンコク。バグダッド。人口の多い大都市はおおよそ何らかの被害を受けていた。日本でも東京のほかに大阪、福岡、仙台などが周辺含め半壊したり沈没したり改造されたりしている。そのことごとくに万理は駆り出された。

 プロフェテスとその子供に宿っていた戒獣は、事後処理の忙しさにかこつけてどこのメディアも扱いたがらなかった。重くて暗くて面倒すぎる。いちおう防衛省の公式発表では、少女と胎児をまとめて「魔法少女に擬態した第八戒獣ローゼン」と認定し処理した。戒獣に寄生された人間だとかいちいち説明しないのは、二人を殺した万理のイメージダウンを避けるためでもあるだろうし、魔法少女の真実が明るみに出るのを恐れたせいもあるだろう。一方ネットではプロフェテスが人間だったと勘付いた連中がいて、便乗した暇人どもが個人情報を肴に祭を始めようとしていたが、京都府警のサイバー犯罪対策室(通称“モノリス”)による苛烈な電脳弾圧に遭って沈黙した。俺はその辺のネット文化にはノータッチだから少女Pの名前や年齢や通っていた学校は知らない。興味もない。

 俺はただ政府広報の「正義の魔法少女はオラクルただひとり!」とかいう新しいCMが鼻について仕方なく、施設のテレビをぶち壊しかけて理事長のオバサンに怒られた。大声に右肩の傷が疼くも反省はしない。何が正義だ。何がただひとりだ。正しさと孤独を抱き合わせであいつに押し付けたのはどこの誰だ。

 四日目にして、美砂一中は授業を再開する。当然万理はまだ仕事中。魔法少女は疲れない、というより疲労すら「拒絶」できるらしい。ずいぶん前に万理が「あたしって、もう人間じゃないんだよね」とヘビーすぎる自虐ネタを振ってきたことを思い出す。ビームをぶっ放したり超光速で移動したりするよりも、疲れないということの方がよほど非人間的な気がして俺は悲しくなる。

 登校すると万理の他にもちらほら欠席者がいた。身内が電車の脱線で死んだとか、当人が重傷だとかショックで登校を拒否したとか事由はいろいろだそうだ。仕方ないと教師も生徒も割り切って、どこかぎこちない授業が淡々と行われる。無理に日常を取り戻そうとする試み。痛々しい儀式。集中している生徒なんぞひとりもいなかったし数学教師の高橋は黒板に何度も同じ問題を書いて自分が上の空だと暴露した。静かなる授業崩壊が常態化した学校で俺は居眠りを繰り返すようになる。浅い眠りと薄ボケた目覚めを往復しながら、万理の帰りだけを待っていた。


 ようやくあいつが俺の前に姿を見せたのは、戦いから二週間近くも過ぎた後だった。夕方、また施設に俺宛ての電話が掛かってきて、少し休憩が取れたから公園に来てくれと言う。

 走った。噴水のある公園だ。魔法少女応援ポスターでいっぱいの路地を右へ左へ曲がり、フェンスを飛び越え上り坂を走った。雪は降っていないが、融け残りが道路の隅で氷のスロープになっている。

 公園に飛び込むと、ベンチに座っていた万理が立ち上がる。プロフェテスに抉られた左耳はすっかり元通りになっている。便利なもんだ。他に着ているのは美砂一中の制服だが、まさかあの日から一度も着替えていないのだろうか? さすがにそんなむごい話はないと思いたい。女だぞ。たとえ服を分子レベルで分解再構築できて代謝まで制御できるとしても。

 万理は俺を見るなり泣き出しそうになり、涙をこらえて力むあまり変な顔をしつつ、片手を上げて挨拶した。

「よ、おひさ。入院したんだって? 大丈夫だった? お見舞い行けなくてごめんね」

「おまえこそ大丈夫だったのかよ。働きづめだろ」

「問題なーし。今度は赤ん坊殺しのオラクルになっちゃったけど、ね」

 白い息に乗って漂う言葉たち。

 俺は万理を抱きしめたい衝動を必死でこらえなければならなかった。触れるだけでも駄目だ。いまのこいつに人肌のぬくもりは致命的なまでの逆効果。きっと心を壊してしまう。

「そうかい。大したことねえな。俺は今朝、赤ん坊になる前の人間を一億人ぐらい殺してきたぜ」

「……朝っぱらからオナニーしてんじゃねーやい!」

 万理の表情がちょっとだけ笑顔に近づく。もしかしたら腕の中で泣かせてやって、その場で壊れるのを許してやるべきだったのかもしれないが、相変わらず俺にそこまでの勇気はないから手が届く距離に踏み込まない。チキン。

「オカズがお前ならサポートになるだろ。感謝してくれ」

「引くわー。さすがにそれは引くわー」

 また少し、笑顔ポイント上昇。いいぞ。もう少し気の利いたことは言えないか。ありもしないユーモアのセンスを振り絞ってネタを探す俺に、万理は一転して真剣な目を向けた。

「玄野くん、あたしが使える最大の魔法ってどんなのかわかる?」

 射すくめられ、空白になった思考が緩慢な回転を始める。最大の魔法? エーテル・デストロイヤー、じゃあないんだろう。わざわざ訊くぐらいだし。物質を飛ばしたり変形させたり消滅させたり、相対性理論をつま先で一蹴できる魔法少女の力の限界を想像しろということだ。無理に決まっている。

「銀河系をぶっ壊すとか」

 もちろんふざけて言った。案の定、万理は首を横に振る。しかしその意味は俺の想像と違った。「そこまではできない」じゃなく、「もっと凄い」の意味だった。

「理論上の話なんだけどね、全宇宙で現実を書き換えて、新しい世界を創り出すことができるらしいんだ」

「待て、待て、意味がわからん」

 わかんなくていいよ、と万理は言う。相転移制御能力の窮極の応用形は空間そのものを相転移させることであり超光速飛行にもこの現象を用いているとか、相転移空間の内部は新たな宇宙であってアリストテレスの能力があれば作り出した小宇宙の量子状態をサブエーテル域まで完全に支配できるとか、一通り意味不明な説明をしてみせてから万理はそれらをぜんぶ投げ捨てて要約と喩え話に移る。

「つまり、あたしの一存でこの宇宙をまるまるリセットして、好きなよーに創り直せちゃう魔法よ。たとえば世界中の人の性別が逆転した世界とか、あたしの胸がもうちょっと大きい世界とか、戒獣のいない世界とかにね。

 まあドラえもんで言うと、もしもボックス? ちと違うか、あっちはもともとあるパラレルワールドに移動するだけだし」

「無茶苦茶だなオイ。何でもアリじゃねーか」

 万理は肩をすくめた。アニメやアメリカの学園ドラマ以外ではあまりお目にかからない仕草。似合っている。

「無限のエネルギーが必要になるから、理論上。でもアリストテレスは、あたしの全存在確率を注ぎ込めば発動できるって言ってる。

 この魔法を使うと、あたしはすべての可能性を使い果たして、〈カブラの狭間〉の向こうにある〈ネアン〉ってとこへ落ちる。落ちて、無になる」

 ぞっとした。

 無になる、と言ったその響きに。

「何だよそれ、おまえはどうなるんだ」

「存在確率がゼロになって〈狭間〉からも消えるってことは、言い方を変えれば全次元、全平行宇宙から消滅するのと同じなんだって。

 ……つまりさ、アレよ。もしもボックスであたしを探しても、絶対見つからなくなっちゃうワケ。お客様がおかけになった番号はー、現在使われておりませぇん、って」

「死ぬのとは違うのか」

 俺は訊く。万理はまたかぶりを振る。

「死っていうのは、言ってみれば状態の変化じゃん? 細胞の集合体が、電気的な手段で自律稼働してる状態が生。いのち。その永久的な休止が、死。死んだあとは死体になって、灰とか土とかになって、またどんどん存在の様式が変わっていく。それはもう命じゃないけど、だからって命が存在しなかったわけじゃない。わかる?」

「お、おう」

 正直どこへ向かって話が進んでいるのかよく解らなかったが、話している間は万理が罪とか罰とか考えなくても済むんじゃないかと思って俺は聴きに徹する。ときどき相槌も打ちつつ。

「存在確率がゼロになるっていうのは、死ぬこととは全然違うみたい。初めからどこにも存在しなかったし、いま存在してないし、これから先も未来永劫存在することはない……そういう状態のこと。

 生まれない。生きない。死なない。記憶されないし思い出されない。知覚されないし認識されない。想像もされない。

 そこが〈ネアン〉。世界を創り直して神様になったあたしは、その代償に世界から影も形もなく排除される。神って言葉や概念はあっても、本当の意味で全知全能の神を想像できる人っていないでしょ? それと同じ。顕月万理って名前の人はいるかもしれない。あたしの特徴を言い表せる言葉も残る。けど、誰もそこからあたしには辿り着かなくなる。あたしっていうパターンは二度と世界に現れない。うちの親とか、ガッコの友達とか、玄野くんもあたしのことを覚えてない世界がやってくる。きっと素晴らしい世界が、ね」

 おぼろげながら、理解した。

 万理はその魔法を使っても死ぬわけじゃあない。初めからいなかったことになるのだ。なーんだ簡単。実にシンプルでクソッタレな代償。

「……その魔法」

 俺はほんとうは「使うな」と言うつもりだった。間違ってもそんな、自殺の究極進化形みたいな発動条件が付いた魔法は絶対に使うなと。だのに万理の顔がみるみる険しくなって、もうその背中には個人の感情よりずっと巨大で救いようのないモノを負ってしまっているのだと無言で示したから、何も背負っていない俺はまたしても否定や拒絶の言葉を口にできなくなる。問うことしかできなくなる。

「使う、のか? あの八体目、ローゼンが世界中で人を殺しまくったから、自分の全存在と引き換えにしてリセット掛けようって?」

「まだ使わないよ。どうやっても最後の手段になっちゃうのはわかるでしょ。でも今回の戦いで、覚悟決めなきゃって思ったの。

 実を言うとローゼンはさ、もうちょっとで文明そのものを崩壊させるところだったんだよ。やりすぎたら自分が困るくせに、宿主が赤ちゃんだから加減効かなかったのかね。その前の“マクスウェル”だって、地球を氷河期に戻しかけた。おかげでこの冬は寒い寒い。

 こいつらの被害からも復旧し切れない状況で、戒獣はあと二体実相化マテリアライズする。ローゼン以上の奴が出てきたら、あたしは勝てないかもしれないし、そしたら今度こそ選択を迫られることになると思う」

 せんたく、と俺は白痴のように繰り返した。選択。ディスィジョン。最後の手段を使うか否か。

「それを、言いに来たのか」

 次の戦いで死ぬかもしれないと、月並みなセリフを吐く代わりに。

 次の戦いで可能性ごと消滅して全世界の人から忘れ去られるかもしれないと、想像を絶して余りある覚悟を俺に告げるために、貴重な休憩時間を費やしてこの公園へやって来たのか。

 万理は俺の問いに答えず、暮れゆく空のグラデーションを眺めている。飛び回ってばかりいたから、地に足着けて空を見上げる機会はあまりなかったのかもしれない。

「……この魔法のこと、もし世界中の人が知ってたら、なんて言うかな? やっぱ、いますぐ使えって言われちゃうのかな」

 俺は世界なる抽象概念に想像力を拡げてみる。戒獣に殺された奴の遺族や、全然関係ない地震や台風の被災者、疫病、貧困、あらゆる不幸を抱えた人々が万理にリクエストを出す。どうかこんな世界にしてください。死んだ母を生き返らせてください。金持ちにしてください。イケメンにしてください。えっ代わりにオラクルちゃんが消える? 仕方ないよね世界のためだもの。全人類の幸福のためだもの。ヒーローなら自己犠牲の精神を持たなきゃ。

 勝手に想像した名もなき大衆の反応で俺は不快になる。まさかこんなことを万理に面と向かって言える奴はいないと思うが、心の中では「俺のために犠牲になってくれ!」と思うだろうし、匿名の掲示板なんかじゃ普通に「早くオラクルちゃんが新世界の神になんないかなー」とか書き込む奴も出てくるだろう。終いにはなりふり構わなくなった衆愚が犠牲コールを唱和しながらデモ行進し始める。犠牲! 犠牲! そのとき万理は“空気”を読まずにいられるだろうか? 宇宙の果ての闇より冷たい空気。俺は身震いする。

「やめろよ。んな魔法、無くて当たり前なんだ。世界がどんなに滅茶苦茶になったって、生き残った奴だけでどうにかしていかなきゃならないのが現実だろ」

 もっともらしいことを言ってはみたが、本心じゃなかった。俺は万理が死ぬより絶望的な目に遭う未来を否定したくて、空っぽの一般論でリアリストぶってみせただけだ。万理ができると言えばどんなに荒唐無稽でもそれが現実になる。魔法少女とはそういうもんなのだ。

 たとえば世界を創り直す魔法の代償が百円玉一枚なら、俺は何の躊躇いもなく「YOU発動しちゃいなよ!」と万理を唆しただろう。あるいは万理以外の人間を犠牲にしてもいいんだったら、俺は消滅させても心が痛まないような奴を選び出そうとしただろう。死刑囚とか自殺志願者とか。でも万理がそんなアイデアを受け容れるわけはないし、むしろエゴまみれの発想に失望されるのが怖くて、結局俺は身代わりを立てるやり方が可能かどうか訊くことさえできない。

 五年も前に瓦解した現実なる観念を持ち出してのおためごかしはもちろん見抜かれていて、万理は苦笑しつつ言う。

「似合わないなあ。でも、ありがと。ちょっと勇気出た。

 死んでいった人たちや、世界を変えてほしいと思う人たちには申し訳ないけどさ。あたしだって消えたくない。やりたいことはまだあるし、一緒に生きたい人もいるからね」

「魔法少女にだって欲望はある」

 当たり前のはずでありながら確信が薄らいできたその事実を、俺は疑問形にさえせずただ述べる。戒獣と同化したって人間がロボットにはなれやしない。我欲を持たず淡々と人類の利益に奉仕するヒーロー、なんてのはヒーローが人間として生まれている限り無茶無謀の歪んだファンタジーだ。万理はあっさり首肯して、俺の言葉を当たり前に戻してくれる。よかった。実に。

「そゆこと。性欲もちゃんとある。ここしばらくずっと忙しくてさー、オナニーできないんだよね。困ったことに」

「おいやめろ馬鹿。落ち着いてからゆっくりやれよ手伝ってやるから。だからそれまで、死んだり消えたりすんな」

「そいつは是非とも生き延びなきゃ、ですな」

 万理はやっと翳りのない笑いを見せる。俺はこの笑顔さえ見られればいいのだ、とようやく思うことができた。覚悟は何気ない瞬間に、静かに決まるものだと知る。

 俺は万理の恋人になれなくてもいい。キスしたりオナニーを手伝ったりセックスしたりできなくていい。ただこいつが微笑んで生きられるなら、それだけで俺は幸福になれる。その確信。

 そこで万理の携帯に電話が掛かってきて、休暇の終わりを告げる。今度はカイロへ出勤らしい。

「じゃあね。短い時間だったけど、オナニーに使わなくて良かった」

「そこは冗談でも、会って話せてよかったって言うとこじゃねーのかよ」

「それ、冗談じゃなくなっちゃうもん」

 手を振って万理は変身し、紫紺の空へ飛び立っていった。

 あいつがまともに登校してくるようになったのは、結局年度が終わる直前の三月になってからだった。



 さて?

 ラプラスの野郎に記憶を刺激されてちょっとした回想に耽っていた俺は、ほんとうに万理の犠牲でめでたく書き換えられた世界における葵条新葉の境遇を考え始める。

 前の宇宙では、父親のせいで人格が歪んだとはいえ、戒獣の力を使って公開殺戮ショーを楽しむキチ○イ娘だった。この点弁明の余地はない。だがあれは力を手に入れたことがトリガーとも考えられる。大きすぎる力が人間を堕落させるなんてありがちもいいところの話だ。それにアリストテレスやラプラスと違って完全なエネルギー準位で実相化マテリアライズしたローゼンなら、宿主の脳に何らかの影響を及ぼして攻撃的な性格に変えてしまったりできそうだがどうだろう?

《可能だ。実際、ローゼンは赤子を介して彼女の神経系に干渉していた》

 ビンゴ。いいぞ冴えてる。古崎さんに鼻を引っこ抜かれそうになった痛みがまだ俺の脳を覚醒させているのだ。

 ラプラスは続ける。

《ただし、母体が死亡した後に力を制御できなくなっていた点から推測するに、葵条新葉の意思がブレーキの役割も果たしていたようだ。

 人格に干渉しなければ攻撃性が足りず、かと言って赤子だけでは必要以上に殺しすぎてしまう。ローゼンは不適切な宿主を選んだな》

 じゃあ俺を選んだてめーはどうなんだよミスじゃねーのかよと毒づきかけたが、本を読みつつ俺の方にチラチラ視線を寄越す葵条が気になって仕方ないのでこっちの考察を再開する。

 ローゼンがいないのだから、葵条があんな劇場型サイコパスになる原因はひとつ消えている。だが家庭環境はどうなのか? 父親はやっぱりクズ野郎で、母親もそんな夫のもとに娘を残して逃げ出す薄情者なのだろうか?

《事象改変の結果、彼女の過去にも多少の修正が起きたようだ。

 母親は前の宇宙と同様、娘が四歳のときに出奔している。父親は昨年、児童福祉法違反で逮捕された。そして葵条新葉当人は、児童養護施設で暮らしている。育導院レルヒェンハイム茅葉――君が暮らしていた施設だ。ゆえに進学先もここ、美砂第一中学校になる》

「その修正は、万理がやったのか」と俺。声は出さない。

《不明だが、蓋然性の観点から、そうだと推測する》

「でも父親の虐待はあったし、母親の蒸発も変わってないと」

《その通り。ただし父親による強姦は未遂に終わっている》

 ふーむ。

 俺は万理の心情を想像しようという無謀な試みにまたも挑む。自分と同じ魔法少女でありながら、運命に翻弄され悪役としての最期を迎えたプロフェテスに、万理が格別の関心を持ったのは解る。世界を作り直すにあたって、少しくらいマシな境遇にしてやりたいとお節介を焼くのも、まあ解る。俺の家を移動させたように。

 だったら、もっと大規模な改変をしてもよかったんじゃないか? 父母の性格を真人間にアッパー修正すれば万事解決のような気がする。万理ならできただろう。小説家が小説の内容を書き換えるように。だが現状そうなっていないということは、やらなかった理由があるということだ。

 なぜ万理は中途半端に葵条の運命を変えたのか。

 そこまで考えて、俺は途中から自分の基準でシミュレーションしていたことに気付く。いやいや待て。違うだろ俺じゃない万理だ。あいつは生まれ付いての正義の味方。「できる」ことと「やる」ことの間には天地よりも広い隔たりがある。

 万理は好き勝手に世界を作り変えず、最小限の改変に留めたかった。あいつ自身がそんなことを言っていたし、戒獣と魔法少女について以外ほとんど変わっていない世界を見れば分かる。もちろん戒獣がいないだけで歴史は大きく変わる――俺の家族の生死が分かれたように。だが万理はその変化に、必要以上の恣意的な介入はしなかったはずだ。あいつは自然の、ありのままの世界を尊重した。

 葵条の両親だって、クズでも薄情でも一個の人間として歩んできた人生がある。娘本人にも、悲惨だろうと人生があってその中で形成されたパーソナリティがあった。それらを勝手に悪だ不幸だと決め付けて根っこから書き換えてしまうのは、万理の性格からして赦しがたいことに違いない。面倒だと思うし俺ならちゃっちゃと人格改造してしまうだろうが、少なくとも万理ならやらない。善人も悪人もひっくるめてヒトの営為そのものを守ろうとしてきた、あいつ自身の戦いを否定することになるからだ。

 それでも万理は、葵条新葉が実父に何度も犯され妊娠させられるという運命を捨て置けなかった。たぶん、女として許せなかったのだと思う。だからその前に父親が逮捕され、娘は施設に入るよう仕向けた。ジレンマ。無敵の魔法少女の心理的限界。特定の人間だけをこうして救うのは中途半端だし一貫性には欠けるのかもしれない。だがギリギリまで悩んだ末の線引きだったに違いないし、そこにあいつの輪郭が見えたような気がして、俺は白のシーツごと膝を抱える。

 ふと、救えるだろうか、と思った。

 葵条新葉を。俺の手で。

 人が人を救うなんてのは、自分を主語にすればいかにも傲慢な言葉に聞こえる。だが俺は実際救われた。親と妹を失って、元の学校の友達とも会えなくなって、不貞腐れるばかりで生きる意味を見出せなかった俺を、救ってくれた奴がいたのだ。

 去年あいつが俺にそうしたように、今年は俺が葵条を救うことはできないだろうか。

 もちろん俺はヒーローじゃない。だが俺は悪魔と契約したヨハン・ファウスト。やれる。いける。考えるほどいいアイデアじゃないか? 少なくとも、あてもないセンチメンタルジャーニーに望みを託すよりよっぽど建設的だ。

 パッチン!

 思わず指を鳴らす。驚いてこっちを見た葵条と視線が合う。この際おせっかいでも何でもいい。おまえのきれいな瞳から憂いの影をさっぱりぶっ飛ばしてやる覚悟しろ!

 これぞ新世界に取り残された旧世界人たる俺の存在意義。そしておそらくは、自分探しの乗り物に俺を使っているおセンチ戒獣ラプラスくんの存在意義でもあるのだ。確かに俺は魔法少女(魔法少年?)にはなれない。空も飛べないしビームも撃てないしICBMを喰らえば普通に死ぬ。ハリケーンを消し飛ばしたり核シェルターを引っこ抜いたり一ヵ月半働き続けたりもできない。だが万理にできなかったことが俺にはできるはずなのだ。戒獣のいない世界で、唯一の例外であるラプラスと協力すれば。

 事件解決率一〇〇パーセントの探偵になってもいい。いまどき探偵は古いってんなら刑事でもいい。大学入試や国家公務員試験の筆記テストなんぞ楽勝だ。そのほか弁護士でも政治家でもジャーナリストでも、なんなら必殺仕事人みたいなクライムファイターだって構わない。スーパーマンにはなれなくてもバットマンの真似くらいはできるかもしれないじゃないか? とかくラプラスの能力を使えば世界をちょっとずつマシにしていく方法はいくらでもあるはずで、それが可能なのはいまんところ俺だけなのだ。

 万理は言った。魔法少女オラクルは、人造戒獣アリストテレスの力の制御装置に過ぎないと。だったら俺もそうだ。ラプラスという巨大すぎる情報集積システムのちっぽけな制御装置。それとも出力装置とかインターフェースか。なんであれ俺は自分をパーツと看做すことにあんまり抵抗がない。装置。けっこう。俺は意思ある装置になれる。そうあることに誇りだって持てる。

 オラクルという愛と正義と力のヒーローを失った地上で、その遺志を継いで善を行う。そうすることでだけ俺は、万理に赦されるような気がした。世界を赦せるような気がした。

《興味深い発想だ》

 ラプ公も乗り気と見える。グッド。そうと決まれば行動だ。善は急ぐのだ。いま俺が葵条にしてやれることは何だろう?

 こいつは境遇としては過去の俺に非常に近い。考えろ考えろ。母親に見捨てられ父親に虐げられ、死別したわけじゃないがある意味それ以上に救いようのない形で親を失くした葵条。あのクソ退屈な施設に押し込められて仲良し子好しの集団生活を強要される葵条新葉。何を望む? 何をすればかつての俺のように救われる?

 突破口はやはり家族だ、と思う。父親はどうしようもないクズで確定だが、母親の方は果たしてどんなもんか。

 宇宙最強のスーパーコンピューターと暫しの脳内会議。

「ラプラス、葵条の母親の所在はわかるな……?」

《葵条えみ。京都府在住。現在は旧姓のゆかりがわを名乗っているようだ》

 そうか。よろしい。はるばる京都まで夫から逃げていったわけだ。俺が考えようとしているシナリオは、この母親を探し出して娘と会わせること。できれば親子の和解で〆られると美しくてナイスだ。

 ハッピーエンドの目があるかどうかを探ってみる。

「何か、娘に対して未練が残ってそうな証拠物件があるといいな……その咲花って女、娘の写真とか持ってないか? 写真でなくても新葉こいつに関連するものならなんでもいい」

《皆無だ。過去の言動から推測するに――咲花は共に暮らしている男性に、夫や子供の存在を知られたくないのではないか》

 ちっ。新しい男付きか。俺の中で、親の道を踏み外した女への怒りがモコモコ泡立ち始める。コブ付きだと男のところに転がり込めなくなるから子供の存在を抹消してるってことか? これじゃあ娘と会っても和解どころか反省すらしないかもしれない。

 母子感動の再会プランを廃棄しかけたところで、ラプラスが続ける。

《ただ――推測を重ねる形になるが、彼女は後悔しているように思われる。これまでに六十四回、娘の名を睡眠中に呼んでおり、うち十八回は謝罪や悔悟の言葉が伴っていた。『新葉、ゆるして』との発言を同居者に聞かれ、友人の名だと誤魔化したこともある》

 思わず口元がほころんだ。

 情報そのものにではなく、ラプラスが自分で考えてその情報を取捨選択し伝えてくれたことに、迂闊にも俺は感動していた。このポンコツ戒獣は確かに人間の心ってものを学習しつつあるのかもしれない。

 情報を総合するに、葵条の母・咲花は心底情けない女ではあるが、父親と違って性根を腐らせ果てた論外級のド畜生ではないようだ。これならイニシアティヴは娘の方にある。心の底で赦しを求めているダメな母親に対し、温かい抱擁を与えるもよし、ぶん殴って訣別を告げるもよし。それは俺が決めることじゃあない。俺の成すべきは葵条に選択の機会を与えることまでだ。

 母親をこいつのところに引っ張ってくるのがいいか?

 否、と首を振る。「待つ」より「行く」方が娘も覚悟を決められるはずだ。どうにかして葵条を京都まで連れて行くのが俺のミッション。どうせ旅行はするつもりだったから、その目的および荷物が変わったと思えばいい。

 問題はどうやって葵条を連れ出すか。ここに尽きる。と言っても交通手段じゃなく口実のことだ。普通に考えて中一の女子は知らない男と京都旅行に出るような真似はしない。その程度の分別はある。だから俺はその分別を乗り越えさせねばならない。

 最大限に活用すべきカードは母親のこと。お母さんに会わせてやるから一緒に来い。施設っ子にはいちばん効くであろうこれが基本方針。ネックになるのは情報の信頼性だ。つまり俺がどうして葵条の母のことなんか知っているのか。またほんとうに京都にいるのか。そこを信じられるだけの材料を与えないことには俺がただのストーカー扱いされて終わる。

 ふーむ。

 とんでもなく非常識なことを持ち掛けるんだから、中途半端に常識的な態度を取るのはかえって警戒を生むだろう。俺は実際に非常識な力を借りられる。無理に日常の枠内に収まろうとする必要はない。怪しさを隠さず、むしろ非日常の使者として徹底的に怪しい奴になった方が信憑性を獲得できるような気がする。

《そういうものなのか? 蓋然性をあえて低めることで信用させられると?》

「そういうもんだ。人間、小さな嘘より大きな嘘に騙されるって言うだろ。まあ俺のは嘘じゃないけどな」

 うーむ。

 よし、道化になろう。

 決断。俺は六秒で狂人の仮面ペルソナを作り上げ、それを演じる作業に入る。オール即興。どうせ計画も脚本もない。ノープランでやるだけだ。必要なのは葵条のリアリティを翻弄し突き崩すキャラクター。「こいつならほんとうに何ができてもおかしくない」と思わせられれば俺の勝ち。

 古崎さんは少し前に保健室を出て行った。いまここにいるのは(不用心なことに)ベッド利用者の俺と葵条だけ。俺はおもむろにベッドを出て葵条の視線を背中に受けつつメディカルカーテンをくぐり抽斗の方へ行って包帯を取り出す。何の変哲もない包帯。それを顔にぐるぐる巻いていく。鼻血ガーゼは邪魔だったのでゴミ箱に投棄した。

《何をやっている?》

「人ならざるものに変身する作業」

 俺は鏡の中で作り上げられていく己の包帯フェイスを見ながら月光仮面を思い出す。エロ本の最後のページに乗ってる広告みたいなあのマスク。それからロールパンナちゃんの方が近いかなーとか考える。俺は『それゆけ! アンパンマン』のキャラクターで彼女がいちばん好きだった。善と悪の心を併せ持つ戦士。人間誰しもそうだ。現実に愛と勇気だけが友達なんてアンパン野郎はいない。強いて言えば万理が近かったけれどこの世界に万理はいない。

 包帯を巻き終え月光仮面だかロールパンナちゃんだかミイラ男だかになった俺は、畳んで置いてあった清潔なシーツをマント代わりに装備し、再びカーテンの中へ踊り込み葵条と相対する。本を読んでいた葵条が顔を上げ、怪人包帯仮面を見てあからさまに硬直したところでさあショータイム。一世一代の大芝居だ。

「んっん~~~~~~~~~、はじめまして葵条くゥん」

「なにやってるんですか、玄野先輩」

 くろのセンパイ?

 いやいや待てちょっと待てウェイト! ストップザファッキンタイム! どうしてこいつが俺の名前や学年を知ってるんだ?

 包帯で狭まった視界に自分のいでたちを見下ろして、俺はシーツの隙間から覗く体操服のズボンに自分の名字の刺繍を見つける。そういやこんなんあったな。しかもうちの学校では学年ごとに体操服の色が違うから紺色のズボン穿いてる俺が二年生であることは一目瞭然だ。合掌。

 まあいい。どうせ喜劇役者になるならアクシデントも利用しなくては。ヤケ気味に戦闘再開。

「よくぞ見破った。いかにも我輩は二年B組の玄野一宇である」

「そうですか」

「しかしそれは世を忍ぶ仮の姿。ん~わが正体はァ! 宇宙のすべての叡智を記したるデータベース、“クラシック・レコード”と繋がれし者なのだ!」

「……それ、“アカシック・レコード”じゃないんですか?」

 あれっ。うろ覚えで言ったのはマズかったか。つーか何だよクラシックレコードって。仕方ないよ即興だもの。みつを。

「そうそれだ。しかし名はどうでもよい。明確な答えのある問いなら、我輩はどんなことも知り得るというのが重要でああるゥ。

 証明してしんぜよう! これよりおぬしが持つその本の、いま開いている頁を見ずに読み上げるッ!」

「いえ、あの、けっこうです。なんなんですか」

 抗議を聞かなかったことにして、ラプラスに無言の指示を出す。

「葵条が開いてる頁の文章を教えてくれ。俺が音読する」

《了解した》

 俺はラプラスのやわらかな声に従って、アドリブで抑揚を付けつつ朗々とその文を歌い上げる。


  ガブリエルよ、汝は賢明のほまれが天国では高かったが――

  そして私もかつてはそう思っていたが――

  いまのその問いを聞き、それが疑わしくなってきた。

  苦痛を愛するなどという者が果たしてあると思うのか?

  たとえ呪われて地獄に落ちたとしても、もしその手だてさえ

  あれば、そこから脱出しようとしない者が果たしてあろうか?

  汝にしてもそうするに決まっている。汝自身、苦痛の場所から

  最も遠く離れ、呵責の代わりにやすらぎを求めることができ、

  懊悩の代わりによろこびを一刻も早く味わうことができそうな

  ところであれば、敢然として赴くに決まっている。

  私がここへ来たのもそのためなのだ……


 誰のどういう科白だよ。そもそも何の本だこれ。

《作品はジョン・ミルトンの『失楽園』。魔王サタンが天使ガブリエルを嘲弄する場面だ》

 あっそ。タイトルしか知らん。

 とりあえず読みやめて、俺は葵条の本を指差す。

「いかがであろう?」

「すごいですね」

 超棒読み。ファック。葵条はいまのパフォーマンスをただの手品か何かだと思っている。まあ当たり前だが。

 本番はここからだ。音読は布石に過ぎない。

「ん~ん~、お気に召さなかったようであるな。よろしい。

 ではいま少しおぬしに関わりのある情報を、エスニック・レコードから引き出してまいるとしよう」

《アカシック・レコードだ》

 黙れポンコツ戒獣。葵条の母親の携帯番号教えろ。

 俺は保健室の据え置き電話から子機を取ってきてラプラスの言う番号をプッシュする。病院に連絡入れたりする必要があるので、保健室の電話は教室の内線と違って外部に通じるのだ。たとえ京都だろうと個人の携帯だろうと。

「んんむ、よーし、宇宙の根源的カオスより発せられる超対称性波動を捉えたぞ。うむ。この電話に出るがよい」

「ちょっと、困ります。誰にかけて……」

「おぬしの母親だ」

「えっ?」

 ラプラス、葵条咲花の個人情報プリーズ。娘に解りそうなネタで。

 頭の中に響き出す情報を、編集しつつ並べ立てていく。

「葵条咲花。三十四歳。旧姓紫川。実家は宮城県。専門学校を出てすぐに葵条幸雄と結婚し娘を出産。しかし四年後、夫の家庭内暴力に耐えかねて蒸発。以後九年間、家族への音信はなし」

「どうして、母のこと」

 葵条の手に押し付けた電話からコール音が洩れ始める。

「現在は京都府に潜伏中。しかし娘に自分の居場所が知れたと思えば、またぞろ行方をくらますやもしれん。おぬしは声を出すなよ。相手の声を聞いて、確かに母親だと納得できたらば通話を切れ」

「京都って、あの、いったい――」

「はい、紫川です」

 出てしまった。葵条があわてて子機を耳に押し付ける。ぴったりくっつけているものだから俺には声が届いてこない。

「ラプラス、向こうの喋ってること、俺に中継できるか……」

 答える代わりに、耳の中で知らない女の声が流れ始めた。ラプラスのそれとは違う。高くて小さい。少女のようなこれが葵条咲花の声らしい。

《もしもし、どちらさまでしょうか? ……もしもし。あれっ、間違いかな……それともいたずら……》

 喋ってる内容だけ復唱してくれればよかったのに、まさか声まで完全再現とは。誰にも探知できないリアルタイム盗聴すら可能というラプラスの恐るべき能力。乱用しないように気をつけねば。

「紫川、咲花……さん?」

 葵条がふるえる声で問う。あーあ。喋っちまった。このリアクションを見る限り、四歳のときに消えた母親の声でもやっぱり覚えてるし分かるもんなのだろう。五年越しの俺もそうだったし。

《あ、はい。そうです。そちらのお名前、おうかがいしてもよろしいでしょうか?》

 言うなよ? 言うなよ? 絶対言うなよ? とか思ってると

「新葉、です……葵条、新葉……」

 言っちゃうんだよなあ。まあ仕方ないね。

 聞こえるのは息を呑む音。を、再現したラプラスの声。

「ママ、ですか……?」

 おそるおそる、葵条が問い直す。その声を聞いて俺は安心する。

 もしかしたら葵条は、いかなる意味でも母に会いたいとは思っていないんじゃないか。俺はそれを危惧していた。可能性は充分にある。たとえば自分は母の身代わりとして父の元に残されたのだと考えれば、母親に愛想を尽かしてしまってもおかしくはない。あるいは母の本心を知るのが怖くて、それで会いたくないというパターンもある。どっちにしろ二人を引き合わせるプランは無意味になる。

 だがそんなことはなかった。ささやくような葵条の声には、九年の時が築いた他人行儀越しでも、母への思慕が滲んでいる。

《新葉……? そんな、どうして……ほんとうに新葉なの……》

 答える母の声もふるえていた。いきなり切られなかったことで俺はまたひと安心。

「は、はいっ。わたし、ほんとうに、新葉です……」

《ああ、うそ……こんなこと……なんて言ったらいいか……

 ごめんなさい、私……えっと、新葉、げ、元気にしてた?》

「うん。はい……元気です。学校も通ってます。中学生です」

《中学……ああ、よかった……そう。そうなの……》

 葵条の長い睫毛を伝って、涙の滴が落ちる。俺が他人の涙をこんなにもつぶさに観察したのは初めてだ。丸い宝石のような光が重力に引かれ、白いシーツに吸われて消えるまでの一瞬。その連続。

 万理が泣いているときは俺に観察なんかしている余裕はなかった。ただどうやったらこいつが泣かずに済むのだろうとか、逆にどうやったら気持ちよく泣かせてやれるだろうとかそんなことを考えてはオロオロしていただけだ。

「……ママ。いま、どこですか? 京都にいるってほんと……?」

 沈黙。

「パパは――幸雄さんは逮捕されました。去年、児童虐待で通報されて。親権も剥奪、あっ、停止かな。それでわたし、いま施設で暮らしてます。施設。孤児院みたいな。あんまり、いいとこではないですけど」

 沈黙。

「ママ、お願い……また、わたしといっしょに」

《――ごめんなさい》

 縋るような表情のまま、葵条が凍りついた。

《私にはもう、あなたの親である資格がないの》

「ママ?」

 ノイズ。電子音。

 切れた。

 母と子を繋いでいた電気信号の送受信が、途切れた。

「ママ……」

 濡れたライトブルーの瞳が、絶望に翳る。葵条は俯いたまま生ける屍になろうとしている。よくない。非常によくない。まだゲームセットには早い。

 俺は用済みの電話を葵条の手からひったくった。

「まさか、諦めるんではなかろうな?」

「……もう、いいです。どうやって母にかけてくれたのか知りませんが、ありがとうございました」

「ありがとうじゃねーよ。いいわけねーだろこれからだ。立てこもり犯だって電話で交渉人ネゴシエーターがしくじったらSATやSITが突入するだろ。おまえも京都まで行って母親んところ突入しろ!」

 つい口調が素に戻ってしまった。俺の大声に驚いた葵条が身体を縮める。

「そんな、無茶苦茶です……それに母だってほんとうは、わたしに会いたくないかもしれません」

「どうして」

 俯いて、ぐっと言葉に詰まった様子の葵条だったが、やがて顔を上げて言う。

「先輩、さっき父のことも言ってましたよね。家庭内暴力とか……

 父が母に暴力を振るうようになったの、わたしのせいですから」

 碧い視線が正面から、挑むように俺を見据えた。淡く、それでいて吸い込まれそうな深みを持った瞳。葵条はその虹彩を自ら指し示す。

「この眼。ただの突然変異です。遺伝子疾患。生まれたとき、ちゃんと病院の人が確認してくれました。でも父は、わたしが自分の子供じゃないって思い込んで……」

「ああ」

 読めた。妻が産んだ碧眼の娘に、夫は実在しない間男の影を見て取ったのだ。青い眼の男。外国人。そいつと妻の不義密通。

 そしてドメスティック・バイオレンス。

《不合理だ。ブルーの虹彩は遺伝的に劣勢の形質であり、たとえ父親の虹彩が青くとも、黒い瞳を持つ母親とのハーフの子には継承されない。葵条幸雄はこの旨、医師の説明も受けていた》

 そうだね。不合理だね。だが信じなかったんだよ、ラプラス。

 不合理にも愚かにも人間はなれる。葵条の父親は結局、妻を信じ切れなかった。そのせいで科学を信じられなかった。幻の外国人に囚われ続け、わざわざネガティブな方へ現実を歪めていったのだ。

「母はなにも悪いことしてないのに、わたしのせいで父があんな……そのことでわたしを恨んでるとしても、おかしくはないでしょう」

「あり得るとは思うけど、それ、おまえも悪くないだろ」

 葵条咲花が娘を連れて行かなかった理由はこれなのか? 災いの色を瞳に宿して生まれた娘。夫を暴力に駆り立て、生活を壊した原因から離れたかった。筋は通る。だがこれも大概クズの行動じゃないか。ただ珍しい眼をもって生まれただけの子供に責任なんてないし、DV男のもとに残された娘がどうなるかは馬鹿でもわかる。

 あ、そうか。

 だから「親である資格がない」のか。なるほど。

 畜生。ふざけている。資格の有無を決めるのは親じゃねえよ。自分でどう思っていようと葵条咲花は娘に裁かれなければならない。

「大丈夫だ。たとえ昔は恨んでたとしても、いまは違う」

 確かに親子対面の電話予約を入れられなかったのは残念だが、幸いあの切り方はどう聞いても娘への未練を残しまくっている。当の娘がショックで気付いてないだけで、まだ目はあるのだ。

「あの人、おまえの名前寝言で呼んでんだぞ。この九年間、何十回って呼んでて、『ゆるして』とまで言ってる」

「……うそ」

 ゆるゆると首を振る葵条。しかしそんなソフトな拒絶なぞいまの俺には通用しない。俺は月光仮面! 俺はロールパンナちゃん!

「嘘じゃねえよ。タカシくんレコードに直結してる俺が言ってんだから、掛け値なしに宇宙の真理だ」

「アカシック……」

「んなこたどうでもいい! おまえしか赦せないんだ。親である資格がないって言ってたあの人に、母親の資格をもう一度与えられるとしたら、それは娘のおまえしかいないんだよ。

 あの人のこと、もし赦したいと思うなら、会いに行けよ。俺が案内する。荷物も旅費も俺が持つ。だからママがどっかにバックレないうちに突撃だ。明日、一緒に京都行こう」

 言いながら俺は場違いなことにJR東海のキャッチコピーを思い出す。ららららららららららー♪ ららららららららららー♪ そうだ、京都行こう。この「そうだ」にとてつもなく重い決意が込められている可能性について俺は思う。たとえば自分を奮い立たせる魂の運動。そうだ。そうだ! そうだ、京都行こう! 馴染みのコピーが勇壮に響く。いまこの瞬間にその響きは似つかわしい。レッツゴートゥーキョウト! イェア!

「明日なんて、そんな」

 無茶苦茶です。はい。

 そんなことは解っている。

 解ってるが、行かないと葵条は絶対に後悔する。その確信がある。

「どうして先輩は、わたしにそんなこと……」

「そうしたいから」

 即答する。エゴだ。そうとしか言いようがない。俺は結局のところ俺のために葵条を助けようとしている。親がいない子供の苦しみを多少は理解できるつもりだし、それを取り除いてやれるものならそうしたいという気持ちに嘘はない。嘘はないが、それが最終目的かと言われればNOだ。俺のヒロイズムは利己心に根ざしている。

 偽善かもしれない。だが俺は万理のようにはなれない。だから偽善でもいい。それが俺の存在意義になるなら。それがラプラスの力の正しい使い方だと自分で思えるなら。そうして俺がこの世界を赦して、愛せるようになるんだとしたら。

 いつか偽善の泥土から、ほんとうの善が芽吹くかもしれない。それは万理の願いに報いることにならないだろうか?

「いや、そうできるから、かな。うん。たぶんこっちだ」

「できるから――それだけで、わたしを京都まで?」

「ああ。連れて行く。必ず、おまえをお母さんに会わせる。

 できるのにやらない、ってのは理由が必要だ。でも、できるからやる、ってのには理由なんかいらない。自分がいいと信じたことならな」

 堂々と言う。馬鹿馬鹿しいことは胸張って主張するに限る。

「変ですよ、玄野先輩」

「見りゃあ解るだろ」

 俺はシーツごと両手を広げる。我は非日常の使者。包帯ぐるぐる巻きの不審者。変な奴が変なことを言うのは当たり前であって何もおかしくない。

 葵条は一瞬頬を緩ませかけ、それから真顔になって俺を見る。なかなか恥ずかしいがここは茶化せない。あれは決意の表情だ。

「……わたし、母に会いに行きます」

 おお?

 勢いで喋ったが説得できたようだ。案外決断が早い。葵条だってあの電話で母親の本心に薄々気付いているのかもしれないぞ。もしそうならあとは認めるだけだ。ベストエンディングが見えてくる。

「でも、先輩」

「ん?」

「母の居場所を教えてもらって、わたしがひとりで行くんじゃ駄目なんですか……?」

 あ。

 驚くべきことに俺は、この当たり前の疑問を予期していなかった。

 額に手を当てる。指先が包帯にめり込む。くそ! 常識的な返事ほど想定外ってのは俺の頭がやっぱりおかしいのかもしれない。やるべきことを見つけた喜びでハイになりすぎた。変なキャラを作る前に俺はまず自分が同行する必然性を提示しなければならなかったのだ。

 何と言おう。単純に中一女子をひとりで行かせるのが心配だから? 赤の他人にんなこと言われて納得する奴がいるか。母親がどこへ逃げても俺(とラプラス)なら追えるから? ちと弱い。施設暮らしの葵条じゃ旅費が出せない? 渡せばいいじゃん。

 合理的な説明が思い付かない。バカ思い付かないとか言ってる場合か考えろスィンクスィンクスィンク。

 いや待て、思い付かないんだったら無理に付き添わなくていいじゃないか?

 うん。然り。むしろこれが正常な判断というものだ。まさしく。十二、十三の健全な(家庭環境が健全じゃなかったかもしれないが)女子が見ず知らずの怪しい男と二人旅に出るという前提がそもそも狂い果てている。経過を見守るだけならこっそり尾行すればいい。

 なーんだ。

 俺の仕事ほぼ終わっとる。

 いったい俺は何をしようとしていたのか。万理を忘れるために新しいロマンスを無理矢理見つけ出そうとしていたのか? それとも親子感動の再会にコーディネーター兼証人として同行して涙ながらに感謝でもされたかったのか? どっちにしてもクソすぎる。こんなんじゃまだまだ俺に万理の遺志を継ぐ資格はない。

 そういうわけで俺はあっさり葵条の言い分を認める気になった。善は決して間違わない奴よりも、間違いを認める奴の心に宿るのだ。

「……ん~~~~、それもそうであるな。確かに我輩が一緒に行く必然性がござらん。よろしい、咲花さんの現住所を」

「なんで急に口調戻したんですか」

 ぷ、と葵条が吹き出した。どう考えても俺の間抜けさを笑っているはずだが、不思議と笑声に嘲りの色がない。それに笑顔が美しかった。不思議と万理に対する罪悪感を伴わず、そう思えた。

「ちゃんと京都まで、母のところまでいっしょに行ってください」

「ん?」

 は?

「案内してくれるんでしょう? 先輩について行きます」

 マジかよ。

 何なんだこいつは。解せぬ。必然性がないことを確認しといてわざわざ俺と行く方を選ぶ意図が解せぬ。

「ちょ、いやちょっと待て。いいのかよ。おまえ俺のこと知らないだろ。俺アレかもよ? 調子いいこと言っておまえ連れ出して、そのままラブホテル直行してヒャッハー不二子ちゃーん、みたいな変態かもしれないし。もっと警戒しようよそこは」

「いえ、あの、見るからに変態っぽいから、逆にいい人かなって……先輩を見てたら、試したくなっちゃったんです。ほんとうにいい人かどうか」

「いかん。その発想はいかん。世の中には見た目も中身も暗黒面に染まり切った純度一〇〇パーセントの変態オブ変態だっているんだぞ」

 見るからに変態っぽい包帯ヘッドの俺が、必死に変態の脅威を主張する。なんたる倒錯。葵条は細い首を傾げる。

「先輩はそうなんですか?」

「違うけど。つーか違うと思いたい」

「だったら、いいじゃないですか」

 こいつは変態がワタシヘンタイジャアリマセーンつったら信じるのか? とはいえその辺の教育は俺の役割じゃない。ひとりで行くなら行けばいいし連れて行けってんなら連れて行く。それでいい。シンプルに考えて己の使命を遂行するのだ。

「まあいいや。じゃ、明日の朝に検川あらたがわ駅の……」

「そういえば先輩、また口調変わってますけど」

「ん~~~~、銀河標準暦における一マイクロサイクル経過後ォォ~~~、ギャラクティック・検川ステーション前方にあるゥゥ」

「もうそれいいですって」

 また葵条が笑う。こんなにきれいな娘の笑顔を、母親が見てやらなくてどうするんだ。絶対会わせてやる。

「うまく運べば日帰りだ。面倒な準備は要らない。おまえの分の金とか荷物はこっちで用意するから、まあ身軽にしてこいよ。

 あのなんたらハイムって施設、起床は六時半だったよな。その前に出てくれば人目を避けられるだろ……」

 こんな調子で突貫工事の旅行プランを詰めていき、ついに俺は葵条新葉を京都へ――母親のもとへ連れてゆく守護天使の役割を勝ち取ることに成功する。ああ疲れた。

 疲れてる場合じゃない。さっさと学校をフケて家に戻って二人分の荷物を用意せねば。廊下は古崎さんと鉢合わせする可能性が高いので俺は窓からの脱走を試みる。

 明日の再会を約束した葵条は、最後にもう一度訊いてきた。

「玄野先輩、ほんとうはどうやって知ったんですか。本の文章とか母の電話番号……それに、わたしの家のことも知ってたみたいですし、施設のことも……」

 アカシックレコード云々はやっぱり信じられなかったらしい。そりゃそうか。でも真相はそれと同等以上にトンデモで複雑な物語を含んでいる。ここで説明するのは無理だった。

 だから俺は、秘密と真実を明日に預けた。

「長い話だ。明日、ちゃんと来れば道中で教えてやるよ」


 まず教室へ戻り、垣田のせいでミイラ男になってしまいましたとか適当に言いつくろって早退した。あだ名は「ミスター鼻血」から更に更新されて「ししお」になったがこれも元ネタがわからないのでまったく面白くない。「玄野ォ! そのまんまで『シークレットソード2』やってくれよ!」知らねえよ死ねよ藤旗。

 包帯をパージしつつ帰宅すると、俺は必要なものを速やかに旅行鞄へ詰め込んでいく。といっても俺の分はほとんど出来上がっていたからむしろ余分な着替えやタオルを減らす作業が主だった。本来もっと長期の旅になることを想定していたが、一日か二日の旅ならそう何セットも服を持っていく必要はない。時間を掛けたのは葵条の荷物で、女は日帰り(予定)旅行のときに何を持っていくのだろうとあれこれ推測したりネットで検索したりラプラスに訊いたりしつつ荷造りを進めていたら夕方になっていた。もうすぐ八紘が帰ってくるだろうから予備の服はあいつのを借りようと思い、リビングへ降りる。

「母さんが俺のお年玉、預金してた口座の通帳とカードは?」

《一階の和室にある黒い布袋だ。片方の取っ手が破損している》

「オーケイ、解った」

 幼稚園ぐらいの頃から俺は親戚にお年玉をもらっていて、毎年その半分くらいは専用の銀行口座に母が預金していた。高齢者ばかりで俺を引き取ることはできなかった親戚たちだがいまは感謝したい。もともと出費の多いほうでもなかった俺は半分以上預金している年もザラで、俺の知らないこっちの世界の五年間にもきっちり貯金は続いていたから合計額が十数万にまで膨らんでいる。中学生二人が京都へ行って帰ってくるぐらいなら土産代を入れてもお釣りがくるだろう。ちなみにひとりで旅する当初のプランでは、道中に旅費を稼ぐつもりでいた。方法はラプラスを使ったちょっとイリーガルなものだがどうでもいいのでもう忘れる。

 今日のうちに金を引き出しておこうか、と玄関へ向かうと、帰ってきた妹とばったり対面した。世界が変わったあの日と逆の構図。今度は俺が出迎えている。もちろん抱き付かれはしない。

「おかえり」

「ただいま、カズ兄」

 通帳とカードをポケットにねじ込み、俺は先に葵条の荷造りを片付けてしまうことにする。

「あのさ、八紘――いきなりで悪いんだけど、服、貸してくれないかな」

 絶句した妹がおかしな想像をしているのは表情から明らかだったので、俺はすぐ二の句を継ぐ。

「待て、当たり前だが、俺が着るんじゃないぞ。後輩の女の子がちょっと、服が必要で……」

 後輩の女の子、と言ったところでなぜか八紘の眉間に皺が寄る。機嫌を損ねる要素がどこにあったか解らんが、まずい。手を合わせてたたみ掛ける。

「頼むよ、もしかしたら着ないかもしれないし、汚したりも極力ないようにするからさ」

 八紘はたっぷり十秒は悩んでいた。見ず知らずの人間に自分の服を貸すとなれば、女子はとくに抵抗もあるのだろう。

「……仕っ方ないなあ。いいよ貸したげる。その人の体格とか、見た目がどんな感じか教えて。いちばん合いそうな服選ぶから」

「ありがとう」

 かくて俺は妹の助力を得て、ついに女子ひとり分の行李をも完成させる。口頭で伝えた葵条の特徴をもとに八紘が選んだ服は、奇しくも赤っぽくてひらひらしていてプロフェテスの戦闘法衣コンバット・カノーニカルを連想させた。あれも確かに似合ってたといえば似合ってたんだが。八紘曰く「色白黒髪のお人形系だって言うから、赤ロリをだいぶマイルドにしたイメージで、どこでも着ていけるセットを考えてみました!」とのことだが俺にはファッションなぞ解らない。非存在力学イマジナリー・メカニクスと同等かそれ以上に理解しがたい。まず赤ロリって何だ。赤狩りとか赤シャツとかの親戚か。

 ともあれ準備は整った。金はまあ飯食ったあとで引き出すんでもよかろう。コンビニでもATMあるし。

一息ついたところで折良く母が帰宅したので、俺はまた降りて行って何か手伝うことはあるかと訊く。とくにないけど、と言い置いてから母は冷蔵庫の脇に手を伸ばし、磁石で留めてあった紙切れを俺に差し出した。

「ちーっと疲れてんだわ。これ使っていいかねえ?」

 見るとその薄汚れた紙片には鉛筆で文字が書かれている。読みにくい。拷問されたミミズが発狂してのたくったような字だ。無理をすれば「かたなにまけム 10ねWわうこラ」と読めなくもない。

何だこれは? 刀に負けむ?

《これは君が幼稚園の頃に書いたものだ》

 ラプラスの思いがけぬフォローが、遠い記憶を呼び覚ます。

 六歳のとき、母の日だったと思う。幼稚園年長の俺は月・星・雪と分けられたクラスの雪組にいて、雪組の園児を担当するのは若い女の先生。その先生が俺たちに呼びかけている。

「じゃあ今日は、ここにある紙を使って、みんなでお母さんへのプレゼントを作りましょうね……」

 そういう企画だった。

 周りの奴らが折り紙や切り紙のテクを披露する中、不器用な俺はさんざんゴミを量産した挙句、半ベソで一枚の紙を四角く切った。そして先生のペン立てから鉛筆を一本ひったくると、切り出した紙にこう書いたのだ。

“かたたたきけん 10ねんゆうこう”。

 肩叩き券。ペーパー・アートの才に恵まれなかった俺が、呻吟の果てに作り得た母親への贈り物。何ら造形美を備えない感謝の証。

 やがて迎えに来た親に、他の園児が色とりどりのメダルや鎖やジオデシック球(垣田はいったいどうやってあんな代物を作ったのか?)を手渡す中、俺はヤケクソ気味に手製の肩叩き券を母へ差し出した。恥辱の原体験。六歳の俺に突き刺さる劣等感。意地悪な肥満児のあきらくんが俺を指差して笑っている。だが母は両手で券を受け取って、大真面目に俺の瞳を覗き込んで言ったのだ。

「ありがとう、一宇。大事に使わせてもらう」

 俺は泣いた。

 色や形にできなかった思いを、大切な人が確かに受け取ってくれたのだという喜び。物質だけで構成されているかのように見えるこの世界には、物質以上の何かが存在していて、たとえば感謝や愛をそれに乗せて他人の心と響き合うこともできる。その希望。人としていちばん大切なものを、あの瞬間に学んだ気がする。

 どうして忘れていたのだろう。万理と出会う前から、世界には美しいものがたくさんあったのだ。

 そんな思い出に不意打ちされて、十四歳の俺はまた泣く。母は苦笑しながら俺の頭を撫でてくれる。

「一宇ェ、ノスタルジアに浸って泣いちゃってんのかー? ホントにどうしたんだいあんたは。最近涙もろいなぁ。まだ昔を振り返って泣くには若すぎるぞ……」

 母が夕飯の支度を始めるまで、俺はずっとその肩を叩いたり揉んだりしていた。懐かしい話や、俺の知らない五年の話をした。

 いつか葵条もこんなふうに、母親と過ごせる日が来るだろうか。

 ふと思い、そして、そうであって欲しいと願った。

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