3


 九月には夏の終わりの匂いが漂っている。

 夕暮れを響かせる蝉の声から、八月の残り香を嗅ぐとき、俺が思い出すのは一年前のこと。あの九月には万理がいた。過去を振り返ってばかりいてはならないと自戒する一方、あいつのことを忘れないために何度でも思い出せと叫ぶ自分がいる。

 時はすべてを癒してくれるらしい。どんな心の傷みも、平等に薄らがせてゆく風化作用があるらしい。本当かどうかは解らない。いまのところ、俺のいたみは日を追うごとに蓄積されて大きくなる一方だ。いつかこの上昇曲線が反転して下降曲線になり、あらゆる悲しみと怒りとを脱色されたモノクロームの思い出として、万理を偲べる日が来るのだろうか。

 そうでなければならない。俺がいつまでも喪に服していることなど、あいつは決して望まなかっただろうから。

 笑え、玄野一宇。

 笑え。



 戒獣は数カ月おきに軌道上の〈ヴァロータ〉から実相化マテリアライズしてきた。専門家の予測では、〈門〉の真空エネルギー変動値から見て、戒獣は十体目まで出現するだろうとのことだった。裏を返せば、十体目までを退ければ戒獣騒動は幕引きとなるのだ。それは超自然の脅威に晒された人類がやっと見出した希望だった。

 ちなみに“コマンドメンツ”という呼び名はこのとき生まれた。実相化マテリアライズが十体目まで続くと聞いたどこぞの宗教家が、旧約聖書の『十戒テン・コマンドメンツ』に準えてそう名付けた。この危難を人類全体への戒めと捉え、これからはより善く生きよう! みたいな意味らしい。脳細胞がことごとく腐り落ちてないとこの発想は出てこない。それを怪獣と引っ掛けて“戒獣”なんて訳語を充てた阿呆はというと、何度もノーベル文学賞を取りそこねている日本の小説家だそうだ。さすがワープロでクソを垂れ流す仕事は言語感覚が違う。くたばれ。

 とかくオラクルという対抗手段を得て、事態に収拾の目処も付いたということで、人類は俄然強気になった。四体目の“オッカム”あたりからは魔法少女を軸に据えた迎撃態勢が整ってきて、かなり迅速に戒獣を殲滅できるようになる。それでもオッカムの野郎は富士山の上半分を斬り飛ばしたが、各々がとんでもない固有能力を持っている戒獣の被害としてはだいぶマシな方だ。これまで最悪だったのが六体目の“オッペンハイマー”で、こいつは軌道上から降下してくるやいなや原子核分裂のカーニバルをおっ始め、万理が駆けつける間もなくシチリア島を世界地図から消してしまった。

 しかし全体的には戒獣が長期間暴れ回ることもなくなり、初期に比べればずいぶんと、世界中が緊張を強いられる時間は短縮された。大衆は数カ月に一度行われる魔法少女の戦いさえ応援していればいいはずで、俺も夏ごろまではそう思っていた。

 実際は、戒獣のいない間も万理は頻繁に学校を休んだ。テレビ出演などメディアへの露出を欠かさなかったことも欠席事由のひとつではある。だがそれ以外にも、あいつは様々な形で大人たちの都合に振り回され、利用され、消費されていたのだ。


「国後島ねえ。北方領土だっけか」

 中学一年の、九月初頭。俺はまた学校の屋上で、万理が――というよりオラクルが――特別親善大使に任命され、八月に国後島を訪れた話を本人から聞いている。

「そ、ロシアと領有権争い絶賛続行中のアレ。涼しかったよ」

「何でそんなとこに」

 俺はニュースや新聞をあまり真面目に見る方ではなく、オラクルの国後訪問についても多くは知らなかった。だからこのときも、恒例と化した万理のストレス解消に驚かされることとなる。

「お題目は、対戒獣作戦でロシアとの連携強化を図るための友好使節。誰も信じてないけどね。実際は示威行動。外交圧力だよ」

 当事者やってるうちに変な話に詳しくなっちゃった、と万理は笑う。

 曰く――国際政治の場において、オラクルは要人であると同時にミリタリーバランスの特異点としても扱われているらしい。アイドルとしてバラエティ番組でニコニコしている姿からは、想像もつかない一側面。考えてみれば当然だった。魔法少女とは、なのだ。天変地異に比肩するエネルギーを自在に操る子供。その気になれば人類文明を滅ぼすことさえできる個人。そもそもこいつが自衛隊所属の特殊作戦要員とかそんな扱いになっているのも、国際的なパワーゲームの結果だという。

 まずその戦闘能力が明らかになった時点で、国連安全保障理事会がけちを付けている。特に米中露仏英の常任理事国。曰く、巨大すぎる武力を日本一国の管理下におくのは軍縮が進む世界情勢を鑑みるにいかがなものか。魔法少女オラクルは国連平和維持軍の戦力として国際合意の下に運用されるべきである。云々。しかし日本としては当然こんなワイルドカードを手放したくないから理屈をこねる。オラクルこと顕月万理は日本国のれっきとした国民であり、人権ある個人を危険な兵器のごとくに扱われるのは甚だ遺憾である。云々。自分たちこそいたいけな少女を兵器利用しておいて何言ってんだという白々しさはあったが、それでも正論だったし何より魔法少女擁する日本の機嫌を損ねたくないから理事会の半分は黙る。残りはなおも食い下がって「あくまで彼女が一国民であるというなら、未成年の民間人を戦闘行為に従事させるのはジュネーヴ条約を含む諸国際法違反であるばかりか日本国憲法にも反する」と日本政府をバッシングした。ペナルティ覚悟で条約から抜けるべきかとか日本の政治家たちがあれこれ話し合った結果、万理は自衛隊へ編入されて「民間人」ではなくなる。年齢が入隊基準の十八歳に届かない点は「特殊技能保持者特別措置法」なるスペシャル感たっぷりの法案が国会を素通りして即座にカバーされた。日本の立法システムは与野党の議員と官僚の利害が一致したときだけ信じがたいスピードで機能する。

 で、国後島訪問。

 国際社会をこうも振り回す危険人物が領土問題の現場に上陸して来れば、いくら見てくれが愛想のいい女子中学生とはいえ、係争の相手方がピリピリするのは当たり前だ。露骨すぎる威嚇。もちろん日本政府だってそれを狙って派遣したのに違いなく、お題目の連携強化とやらも「あんまりうちの国を舐めてると、戒獣が落ちて来てもちゃんと守ってあげないよ」とかいう脅しをオブラートに包んだ形ですらあったかもしれない。世界最大の国土面積を誇るロシア連邦にとって、戒獣が自国内に降下してくる可能性は決して小さくない。魔法少女擁する日本の迅速な助力が得られるかどうかは、国防上切実な問題のはずだ。

「本来はこれ、もっとえげつない計画でさ。三月の大統領選挙直前にぶつけるつもりだったんだよ。

 ふつう外交って、強気な方が国民ウケはいいらしいんだけど、こんときのロシアは逆。日本に何かしらの譲歩を見せないと、逆に国内の支持率下がるっていう変な状況になってた。有権者の大半としちゃあ、目先の危険のほうが領土問題より重要だもんね。

 結局オホーツク海に居座ってた超すんごい低気圧と、地中海に落ちたオッペンハイマーのせいで、三月の訪問は延期になっちゃってさ。八月になって決行したのはなんでかっつーと、今度は日本こっちで与党の支持率落ちてきたからだそうな」

 万理の要約するところ、北方領土問題は十年くらい前からいちおう返還の流れにはなっていて、それを二島だけにするか四島全部にするかで国内外がいろいろ揉めているらしかった。歯舞と色丹だけ返してもらって手打ちにするか、国後と択捉も返させるか。だから万理が国後島に上陸したのは偶然じゃなく、『あくまで四島返還にこだわる』という外務省の方針からすれば必然なのだ。ただの中学生にはとても想像がつかない政治力学の深淵。俺は眩暈を覚える。

「外交関係でわかりやすい成果上げれば、支持率アップに繋がるのは日本も同じってことよ。魔法少女はカネと権力を産む機械。もうね、アホかと。天体現象並みのアホかと。

 ま、さっきも言ったとおり、あたしは涼しかったからいいけど」

 ぱたぱたと、万理が制服の胸元を摘んで引っ張る。隣にいた俺は、夏服の袖から押し出された空気に触れ、万理の汗の匂いを嗅いだ。臭くはなく、むしろ甘かった――ような気がする。

「ただ正直さ、思っちゃうんだよね。あたしがなりたかった魔法少女って、もっとシンプルなものじゃなかったかって。

 戒獣と戦うのは怖いけど、遠慮しなくていいんだ。災害救助とかに呼ばれるのも、別にいい。実を言うと、血とか火の臭いがしないような仕事がいちばん好き。教育テレビの番組で子供と遊んだり、大学でやる実験に協力して新しい元素作ってみたりね。

 でも、人間相手の武器として使われるのは、やだな。たとえ脅しだろうと、抑止力だろうと」

「いまさらだけどさ、拒否権ってないの……やりたくない仕事は蹴っていい、みたいな……」

 万理は力なく首を振った。

「あたしって結構、空気読んじゃうタイプなんだよね。

 小さい頃、従兄弟たちと一緒にUNOやっててさ。その日あたし絶好調で、めっちゃ勝ちまくってたんだ。そしたら従兄弟のひとり、あたしと仲良かったリョウタくんって子がブスーっとしだしてね。言うわけよ。『万理おまえさぁ、空気読めよ』って。

 あたし、すっごいヘコんだの。ああ、世の中勝てばいいってもんじゃないんだ。自分のことだけ考えてちゃ駄目なんだなぁ、って。それから、人の期待には応えないといけない、みたいな考え方が染み付いちゃったんだ」

 せっかくエピソード付きで説明してくれたわけだが、それだけじゃない、と俺の直感がボリューム大で訴える。

 馬鹿すぎる。なぜいままで疑問に思わなかったのか。全世界の軍隊を合わせたより巨大な力を持つ一個人が、どうして日本政府のコントロール下に置いておける?

 性格、それもあるだろう。空気を読んで、期待に応えて、自分しかできないからと、戦うヒロインの役割を進んで演じている。もともとの正義感も強い。だがそれだけじゃない。もっと別の、強い拘束力がこいつには働いている。

 その力は、暴力ではあり得ない。魔法少女を力ずくで脅すなんて不可能だ。だとしたら、万理に言うことを聞かせる手段とは――

 予感だけで吐き気がするほど、掴みかけたイメージは黒くて冷たかった。妄想だ。いくらなんでも狂っている。おいおい日本だぞ。北朝鮮じゃない。国家が自国民にそこまでやるはずはない。

 そう信じようとしながら、訊かずにいられない自分がいる。

「顕月、もしかしておまえ」

 それ以上は言えなかった。万理が人差し指を唇に当てて、その動作だけで俺は口に出しかけた問いを飲み込んでしまう。

「……きな臭いお話はここまで!

 今日はお休み取れてるんだ。いっしょに英語のテスト勉強しよ?」

「おまえと英語やってると汚いスラングばっか覚えるのは何でなんだろうね」

 万理は俺が何を訊こうとしたのか知っていた。

 知っていて、その答えを口にしてしまうほどには、まだ追い詰められていなかったのだ。このときは。



 平和な日々が過ぎてゆく。

 幸福といたみの間をぶらぶら揺れていたら、いつの間にか秋分の日が来ていた。学校が休みなのをいいことに俺は十一時まで寝て、起きてからもしばらくリビングでぼんやりする。両親は祝日でも仕事があるからとっくに家を出ている。八紘はまだ起きてこない。

 テレビをつけた。丸顔のニュースキャスターと字幕。『女子児童連続殺人、新たな犠牲者か』――字幕だけで概要は解った。実に優秀なニュースだ。優秀すぎて詳細を聞く意味もないので俺はさっさとチャンネルを変える。

 魔法少女も戒獣もいない世界とて、紛争はあるし犯罪も起こる。政情不安定な国の子供なら「どこが平和だ、これだからジャップは」とか言いそうなもんだが、万理が世界を完全平和のお花畑ワールドに変えてしまわなかった理由を俺は知っている。

 あいつは人類種について楽観的なビジョンを持っていた。人間は無数の悲しみを生み出しながら歴史を紡ぐが、全体としてはちょっとずつマシになっていくのだと信じていた。より良い未来を目指す牛歩の営為。だから自分の一存で勝手に大改造するわけにはいかない。そういうわけであいつは、戒獣というイレギュラーだけを因果地平の彼方へ弾き出し、世界を元の姿に戻した。自分はそこへ戻れないのに、だ。万理にとっての平和とは、あくまで戒獣が現れる前の世界を指していたのだと思う。

 世界を丸ごと変えられる奴が世界を最低限しか変えないのは、想像力の貧困であるのかもしれないし、責任感の欠如だったりエゴだったりするのかもしれない。ありのままの世界に不服な人間からすれば、どうせなら一切の欠乏や悲劇や悪を追放した世界に作り変えて欲しかったというのが本音だろう。イエスの不器用な親父は六日もかけておきながら悪徳はびこる不完全な世界しか創れなかった。万理はやろうと思えば六ナノセカンドで善と幸福に満ち溢れた完全世界を創造することもできた。だがやらなかった。誘惑はあったはずなのに、世界を自分ひとりの理想で塗り替えなかった。俺はそれこそ、万理が人間というものを信じ抜いた証拠だと思っている。

 で、信じ抜いた結果は?

「カズ兄おはよぅ」

 思考がまた不穏な方向に向かいかけたところで、折よく八紘がやってきて俺の注意を逸らしてくれる。

「お早くねーよ。そろそろこんにちはする時間だよ」

 自分も遅くまで寝ていたのは棚に上げて言う。八紘は冷蔵庫からオレンジジュースを出してきて、ぐい、と飲み干した。キリンビールのロゴが付いてるコップ。なぜ俺のを使う。別にいいけど。

「ぷはぁ。えっと、じゃあ、おはようございました?」

「強化しすぎて頭おかしくなった改造人間みたいな挨拶はやめろ」

「はやく人間になりたーい」

「それは妖怪人間」

 ここはいい感じに平和だ。あいつは少なくとも、俺の目に見える世界は平和にしてくれた。それで満足して何が悪い? 俺は紛争地域の子供じゃないし、万理は神の力を持っていても神じゃなかった。

 被害妄想を弄んでいるな、と自覚する。そもそもいま、どんな不幸な人間でも万理に文句なんか言わない。覚えてないものに文句は言えない。

 俺はまた憂鬱な記憶を掘り返す。

 前の世界で魔法少女オラクルに物申せる奴は少なかった。崇拝と恐れ。作り上げられたパブリック・イメージが強固すぎたせいもある。あいつが失敗したり、仮に悪事を働いたとしても、公然と批判できる人間がいなくなってしまったのだ。叩かれたのはいつも魔法少女に頼らざるを得ない政府や自衛隊、社会そのものだった。

 だからあいつは、自分が悪いことをしたと思えば、自分で自分を責めるしかなかった。

 たったひとりで戦っている人間が自分を味方にできなかったら、いったい何に頼れるのか。なるほどそこで、俺があいつの拠り所になれる男ならよかっただろう。カッコいい。最高だ。でもそんなのはおとぎ話であって実際の俺はやっぱり守られてるだけの十三歳のガキだった。

「カズ兄さ、昼ごはん食べたの?」

「いやまだ。母さんいないし、シリアルで済ます」

「不健康だー! 八紘がなんか作ってあげる!」

 栄養価で考えればシリアルはかなり健康志向だと思うが、口には出さない。せっかく取り戻した妹が料理を振舞ってくれると言うのだ。ありがたく御馳走になろうと思う。小学六年生の腕前に期待はしないが。

 いそいそと料理を始める八紘を尻目に、俺も飯のひとつくらい作れるようになっておけばよかったと思う。何か、元気の出るメニューがいい。そうしたら、戦いで神経すり減らして帰ってきた万理に、ただの言葉より少しはマシなものを食わせてやれたかもしれない。

 五年前、一度家族を亡くしたあとと同じだ。違うのは対象だけ。こうすべきだった、ああしてやるのだったと、到底できもしないことまで夢想する。まるでそうしていれば、いなくなった奴が俺の前に再び現れて、「じゃあいまからやってもらおうかできるんだよねホラどうした有言実行のチャンスやるよ」と軽口を咎めてくれるかのように。

 後悔。そう、俺は後悔している。

 何を?

 すべてを。



 秋だった。夏の残り香が抜け切ろうとする、十月の日曜深夜。

 俺は万理から電話で呼び出され、養護施設の近くにある商店街へ向かった。アーケードの下は昼間からシャッター通りと化していて、夜はろくな明かりもない闇のトンネルになっている。暗すぎて不良が溜まり場にすることさえできない。

「顕月、いるのか」

 アーケードの入り口まで来て問うと、闇の中で何かが動いた。ゆらり。一歩、またゆらり。

 万理じゃない、と思った。だが万理だった。まるで生気のない、糸で吊られた人形みたいな歩き方で近づいて来る。

「どうした。昨日、ずっといなかったろ」

 歩み寄ろうとして俺は棒立ちになる。月明かりの下に出てきた万理は私服姿で、唇を噛んで、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

「玄野、くん……」

 世界を守る英雄、ではなかった。

 大きすぎるものを背負わされて、その重みに耐えて耐えて耐え続けて、立ったまま潰れていく十三歳の女の子がひとり。

「……え、へへ。あたし、ひと、殺しちゃった」

 しゃくり上げながら無理に笑おうとして、万理は失敗する。

「みんなが、って……自衛隊の人もアメリカの人も、正義の味方なら手を汚す覚悟も必要だ、って」

 そして万理は語る。俺は、とてつもない闇を垣間見る。

 昨日、北米でテロがあった。正確には、未遂で終わった。日本のニュースでもちらりとは見たが、詳しい報道はされていなかったと思う。情報統制が掛かったためだと万理は言う。

 テロ自体はかなり大規模なものだったらしい。それこそハリウッド映画にありそうなレベルの話。米軍が対地攻撃用に開発した衛星兵器〈天使の礫弾エンジェル・シェル〉が、何者かにコントロールシステムをジャックされた。搭載されていたのは、原爆相当の破壊力を叩き出す質量マスミサイル三十六発。衛星の軌道をいじれば、地球全土を宇宙空間から狙撃できる。それが大統領官邸ホワイトハウス国防総省ペンタゴンをはじめとするアメリカの重要施設に照準を合わせた。テロリストの出した要求は奇妙なもので、合衆国政府に対し、戒獣に関する全機密情報の自主的開示を求めたという。

 最新鋭の戦略兵器を乗っ取る技術といい、この意味深な要求といい、アメリカの中枢と関わりのある奴が首謀者なのは明らかだった。

 万理は語る。息継ぎも億劫だというように、どんどんスピードを上げながら、機密に違いない情報を暴露する。

「テロリストのボスはすぐに割れてさ。元NASA局員のフレデリック・アンダーソンっておじさん。んでこの人、戒獣が最初に実相化マテリアライズしてきたとき壊された実験宇宙ステーションの管制官やってたんだって。部下や友人が死んだそのときのことで、公表されてなかったり事実を曲げて伝えられてる情報があるのにキレちゃって、どうあっても政府が自分たちから非を認めるようにしてやろうと。本当のことを全世界に明かさなければ、合衆国を無政府状態にしてやる! って息巻いてたみたい」

 要は、国の隠蔽体質に義憤を燃やした元NASA局員が、お偉方に衛星兵器を突き付けて情報公開を迫ったという話である。当初は普通に内部告発する予定だったが、CIAに邪魔されて武力行使に切り替えたらしい。こんな奴なら本当に撃つ心配はなさそうな気もするが、照準を向けられている当人たちは心底震え上がった。それだけ自分たちが断罪されるに値することをしている自覚があったからだろう。しかしそうまでして暴こうとした事実ってのはいったい何なんだ? 恐ろしい予感だけが膨れ上がる。

「提示された情報開示のタイムリミットまであとちょっと、ってときに、やっとアンダーソンさんの居場所わかったんだけどさ。核シェルターの中から衛星にコマンド出してんの。冷戦時代にパラノイアが作った、超ガッチガチにガード固めてあるすごい奴。真上でヒロシマ型原爆二百発ぐらい爆発させても大丈夫だし、普通の対地下壕弾バンカーバスターでも歯が立たない。毒ガス流し込んでも換気システムに浄化されてダメ。水攻めも時間かかりすぎてダメ。唯一通じそうなのは奪われてる衛星兵器。ナンセンスでしょ。で、手詰まりになったアメリカさんは日本に応援を要請したわけ。助けてオラえもん!」

 誰の真似やらよくわからない声色で、万理が叫ぶ。俺はただ聴くことしかできなかった。こいつがほかの誰にも漏らせない思いを、受け止める一枚の皿。それでも、ないよりはマシだと信じる。信じながら、受け皿以上のものになれない無力を呪う。

 万理は俺の目の前で壊れていこうとしているのに。

「あたし、殺さないで止められるって言ったんだよ。でなきゃ衛星の方を撃墜してもよかった。でも米軍の偉い人、なんか階級章とかジャラジャラ付けた白人のおっさんが来て、『奴は数万の人命を質に取っている。極悪非道の犯罪者だ。生かしておいてはならない。合衆国のために、いや世界のために』とか言うの。どー考えても口封じじゃん。自分たちの首を守るためだろ。そしたらあたしのオブザーバーで来てた自衛隊の特別顧問技官、鈴木って言ってたけどたぶん偽名の、いけすかない参謀気取り野郎が『イエス。サー』とか即答しちゃって。はァ!? って思ったよ。うん猛抗議。でも自衛官とアメリカ軍人があたしを囲んで言うんだ。『正義とは悪を滅ぼすことでこそ正義たることを承認されるのだ』とかなんとか。タイムリミットは迫るしガチムチ軍人に囲まれて正義ジャスティスコール受けるしで、あたしもうわけわかんなくなって、最後に鈴木が……」

 ささやくように、言ったのだという。

 ――人質を取られるお気持ちは、貴女にも解ると思いますが?

「あたしの両親をね、日本政府が保護してる。魔法少女として活動しだしたころ、『あなたの力を第三者に悪用されないための措置です』って言われて、素直に信じちゃったんだけどさ。まあ最低のジョークだったよね。ほかならぬ自分たちが、魔法少女を操るための人質に使ってんだから。

 あたしが奪還できないように、二人の監禁場所は秘中の秘にされてる。いつか探し出してやるんだ。正義の味方くらい、脅されなくたってやってみせる。でも、それまでは……」

 そして万理は、首を縦に振った。

 魔法少女オラクル、初の対人任務。内容はテロリストの殲滅。交渉不要。生け捕り不要。確実に、迅速に、元NASA局員フレデリック・アンダーソン及び彼の一味を全員殺害すること。

「任務そのものは簡単だよ。ゲームにもなんないくらい。シェルターごと地面から引っこ抜いて、空中でシェイクして逆さまに叩き落とすだけ。それで中のものぜんぶぶっ壊れるし、人間はみんなぐっちゃぐちゃの挽き肉になる。

 あたしさ、シェルター浮かせてる間に、こっそりアンダーソンさんと話したんだ。ちょいと魔法で、声が届くようにして。驚いてたよ。魔法少女がホントに人殺しのミッション受けるなんて。でもなんとなくこっちの事情は察してくれて、真実をきみに託す、って。彼が知ってたこと、調べたこと、まとめたメモリの在処、あたしだけに教えてくれた」

 話しながらどんどん俯いていった万理は、ポケットから一本のフラッシュメモリを取り出した。それがアンダーソンの遺産であることくらいは俺にも解る。

「頼む、って言ったんだ……これから自分を殺す奴に、世界を頼むって……背負い切れるわけないじゃん、重すぎるよ……」

 メモリを両手で握りしめ、祈るような姿勢で、万理は涙を隠す。

 自分がもっとうまく魔法を使えば、こっそり逃がすことだってできたかもしれないのに。その程度のことさえ思いつかなかった。そんな己の愚かさを呪って、無敵の魔法少女が泣いていた。

 俺はまだ、ふるえる肩に触れられない。この瞬間、どんな慰めも上滑りする。絶対の深淵が、目の前の女との間に横たわる。

「結局ね、殺した。アンダーソンと愉快なテロリスト御一行。正義の魔法少女がブッ殺してやりました。でもあの人、絶対〈礫弾シェル〉使う気なかったと思う。民間人巻き込むもん。そういう人たちを、あたしはったんだ。保身しか考えてない下衆と、そいつらに恩売りたいクズの命令聞いて、虫けらみたいに潰したんだッ……!」

 映画の主人公みたいに、抱き締めて慰めてキスしてすべての罪を赦してやれたなら。

 あるいは、人質になってる両親は俺が助けてやるから安心しろ、とか言えるスーパーソルジャーだったなら。

 いや、そんなんじゃなくてもいい。俺はただ人間としての、器の大きさが欲しかった。ほんとうは、あいつを乗せる船になって、黒く冷たい正義の海からひとときでも守ってやりたかった。だが俺は一枚のちっぽけな皿に過ぎなくて、皿にできるのはあいつが溜め込んできた毒を吐き出させてやることくらいだ。

「メモリの、中身は……?」

 吐け。機密を、秘密を、毒を吐いちまえ。

 万理は地獄へ続く穴のように、暗く虚ろな笑みを浮かべた。

「誰が、戒獣を、この世界に、呼び寄せたか」

 フレデリック・アンダーソンの遺した真実。

 戒獣が実相化マテリアライズしてくる特異量子真空、通称〈ヴァロータ〉――すなわち、非存在域〈カブラの狭間〉に通じる球状空間。これはアメリカの実験宇宙ステーション至近に、突如として開いた。そのせいで、実相化マテリアライズした第一戒獣ヒルベルトにより、ステーションは真っ先に破壊されてしまう。〈ヴァロータ〉の軌道がステーションの残骸とほぼ一致することは不幸な偶然で、当局は戒獣の出現に一切関与しておらず、まったく予期し得ぬ事態であった……以上、NASAの公式声明概略。

 嘘だった。

 いまだかつて見たことがないほど、見下げ果てた大ウソだった。奴らは関係どころか直接の原因で、予期さえしていたのだ。

 第一の戒獣ヒルベルトが実相化マテリアライズしたあの日、ステーションでは、極限まで不安定化させた真空を利用して〈カブラの狭間〉から物質を取り出す実験が行われていた。言ってみれば、現実と非現実の間に扉を開き、可能性を実体に変える実験だ。供給エネルギーの帳尻さえ合わせられれば、どんな物質でもポンと実相化マテリアライズさせられる。食糧だろうがレアメタルだろうが思いのまま。誇張でも比喩でもなく、世界が変わる。

 研究を主導していた物理学者、アーツマン・サルスティスは、目に見えるようなサイズの物体を取り出す実験は時期尚早だと主張した。扉は双方向的に開くのだから、こちらが可能性事象にエネルギーを与えて通常空間へ引きずり出すのと同様、〈狭間〉の方からこちらのエネルギーを奪って実相化マテリアライズしてくるような何らかの非存在があるかもしれない。せめて安全が確実な半径まで特異真空を縮小するために、エネルギー・レベルを下げて装置を起動すべきだ。云々。云々。

 アンダーソンはこの訴えを耳にしていたが、まーたサルスティスのじじいが強迫観念に駆られてSFみたいなこと言ってやがる、程度にしか受け取らなかった。年老いた博士は天才だが慎重すぎる。存在していないものがどうやって意思を持つと言うのか。馬鹿げている。幽霊が肉の身そなえた人間になるくらい馬鹿げている。計画の責任者もそう思ったし、スポンサーもそう思った。もちろん実験は強行される。

 結論から言って、その馬鹿げた現象は実際に起きた。

 生成された特異真空の中から銀色の立方体が飛び出し、手当たり次第ならぬ触手当たり次第、勤務中の飛行士や科学者らを呑み込んでいった。後に戒獣ヒルベルトと呼ばれるそいつは、十分も掛からず実験ステーションを宇宙塵デブリに変える。そして喰った人間の数だけキューブを増やし、大気圏突入、日本へ降下した。あとの被害は世界中みんながご存じの通り。とある少年の両親と妹もその日のうちに喰い殺される。軌道上にはそれからも九体の戒獣を吐き出す〈ヴァロータ〉が残る。

 戒獣は勝手に現実世界へ侵攻してきたわけじゃなかった。

 功を焦った人間が不用意な実験なんぞやったせいでこの世に招き入れてしまった、人災だったのだ。

「データの中身はまだあってね。こっちは、アンダーソンさんがあとから調べたこと。

 自分の理論がとんでもない生体災害を引き起こす結果になって、サルスティス博士はすっごく落ち込んだみたい。だから、戒獣に対抗できるような、非存在力学イマジナリー・メカニクスの粋を集めた兵器を作らなきゃならない! って決意したんだ。それには国家プロジェクト級の技術とお金が要る。だけどアメリカ政府には任せておけない。当たり前だよね。そこで、充分な資金も技術も持ってて、ヒルベルトの襲撃で戒獣の怖さを思い知った国に目を付けた。さてどこでしょう」

「日本……」

 対象の絞り切れない怒りに震えていた俺は、話がまだ底に辿り着いていないと知って、急に怖くなり始める。

 戒獣に対抗し得る、非存在力学イマジナリー・メカニクスを用いた兵器?

 聞きたくない。この話の先を聞きたくない。

 だが俺はその思いを口にする資格がないのだし、万理はいまさら口を止めることなどできずに話し続ける。

「博士はその兵器の設計プランを手土産に、日本に亡命してきた。秘密裏にね。それから一年半かけて研究続けて、めでたく兵器は完成。“アリストテレス”の誕生でございます」

 淡々と語る万理が額に手を当てると、そこがぼっと光って、なにか丸いものがせり出してきた。その物体が掌に乗せて差し出される。

 丸くてふわふわした――なんだかよくわからない、生き物。

 ハムスターだと言われればハムスターっぽいし、太ったフェレットに見えなくもない。しかし全体的には知らない小動物で、顔の付いた毛玉という表現がいちばん当たっている気がする。

「何これ」

 万理は俺の問いに応えず、別の質問で返した。

「玄野くん、あたしがどうやって魔法少女になったか知ってる?」

 もちろん、知っている。〈門〉が開いた影響で、脳のまだ解明されていない機能が目覚めた人間。そいつは戒獣と同じタイプの力を行使できる。まるで魔法のような。たまたまローティーンの少女がこの力に覚醒したから、彼女の国でポピュラーな“戦うヒロイン”の一類型になぞらえて、魔法少女と呼ぶことになった――

 

「実はそれ、でっち上げなんだよね。真っ赤なウソ・アットオール。設定テキトーすぎっしょ。目覚めたもクソも、人間の脳にもともとそんな機能あるわけないじゃん。ファンタジーじゃないんだから。

 魔法少女の力は、契約して手に入れたの。ホントはあたし自身の才能なんかじゃない。この丸くてちっこい、いかにも無害そーなゆるふわマスコット君のパワーを、借りてるだけなんだよ」

 毛玉が俺を見上げる。くりくりした丸い瞳で見上げる。とてもそんなものには見えない、こいつが――

《はじめまして。僕がアリストテレスです》

 しゃべった。

 毛玉がしゃべった。

 呆気にとられる俺の前で、人造戒獣アリストテレスは光の翅を生やして飛び始める。すいすい。くるくる。万理の頭の周りを回る。

《君が玄野一宇ですね。どうぞよろしく。存在自体が最重要機密ゆえ、僕がこうして具現構成体を作ることはめったにありません。

 僕はオラクルの前頭葉に波動結合しています。僕ら非存在は基本的に波動の形でしか実相化マテリアライズできないのですが、知的生命体の中枢神経ネットワークに半物理的に融合することで自己観測能力を獲得し、粒子としてふるまうことができるようになります。粒子は量子状態において安定です。人間の言葉でいえば、脳を借りて初めて『我思う、ゆえに我在り』が可能になるということです》

「顕月、こいつが何を言ってるのか全然わかんねえ」

「このケダモノはね、あたしの脳に寄生して存在を保ってんの。代わりに、こいつが本来持ってた戒獣としての固有能力を、そっくりそのままあたしが使えるわけ。なんだっけこの力、相転移の制御?」

 自分の頭の中から引っ張り出した小動物を、ケダモノ呼ばわりする万理の口調は苦々しい。

「人造って銘打ってるけど、ほとんど戒獣そのものだよ。違いは、あえて存在確率が不安定な状態で実相化マテリアライズさせられてることぐらい。そのせいでこんなサイズになってるし、エネルギーの安定性が足りないから、固有の量子干渉能力も発揮できない。ほっといたら自然消滅しちゃう。単独じゃ無害無能もいいとこよ。

 作った連中もそれを解ってたから、実相化マテリアライズさせる前に、宿主になる人間の選定は済ませてたんだ。身体能力は戦いにほとんど関係しないから、別にマッチョな成人男性を選ぶ必要はないでしょ。年齢性別も関係ナッシン。つまり大事なのはメンタル面の素養だけだよね。私欲のために力を使わず、国の命令を良く聞いて、進んで世界のために戦えるような人材……」

 万理の口元がひん曲がっている。自嘲の笑み。自分を揶揄しながらでもなければ、できない話なのだ。

 聞いているのはつらい。聞くしかできないのは、もっとつらい。しかし話している万理がいちばんつらいに決まっているので、俺は自分のちっぽけな苦しみなどおくびにも出すまいと努力する。

「そこで、子供がいいんじゃねーの? と、誰かが言い出しました。空気が読めて押しに弱いけど根っこは勇敢で正義のヒーローに憧れてるような子供だったら、御しやすいし献身的に戦ってくれるしみんな応援したくなるよね! おおナイスアイデア。ちと非人道的だけどこの際仕方ないだろ国難だもんね。人気が出るほど強くなるんだから美少女がいいよ。スーパーパワーで戦う女の子、魔法少女ってわけですねわかります!」

 語る口調が、戯曲じみた熱っぽさを帯びてくる。静まり返った夜の商店街に、万理の声が響く。誰も聞いていないのだろうか。あるいは聞いても、オラクル当人が大声で自分と国家を罵っているとは思わないのか。

「全国でじっくり時間をかけて、いい子ちゃんの選別が行われました。専門の調査機関やら心理学者やらが大量動員されて半年間。で、とうとう選ばれたひとりの所へ、実相化マテリアライズしたアリストテレスが送り込まれてなんかいろいろ言うのです。『力が欲しいか』だの『僕と契約して』だのと。

 ――十一にもなって魔法少女アニメ大好きっ子だった馬鹿なガキは、目の前に転がり出てきたふわふわもこもこのファンタジーに一も二もなく飛び付きました。世界を救うヒーローになれると思ったのです。救いようのないド阿呆でした。わかってると思うけど、この間抜けな子供はあたしです。顕月万理です。いやー、つい昨日まで自分が選ばれたのは運命的な偶然だとマジで思ってたんだよね。ぷ――はっは! えっはは!」

 手を叩いて、万理が笑う。魔法少女が己を嗤う。

《ちなみに、オラクルがあなたに機密情報を話すのも、当の自衛隊上層部から黙認されています。思春期の少女の精神衛生上、適度にガス抜きをするのは好ましい効果がある、との判断です。また、あなたに情報が洩れたところで、さしたる危険もないと》

「黙れ」

 俺は毛玉野郎を引っ掴み、商店街の床面タイルに叩き付けた。こたえた様子もなく、奴はまたふわふわと舞い上がってくる。

《勘違いしないで頂きたいのですが、僕は自衛隊や日本政府に忠誠を誓っているわけではありません。そもそも波動結合した時点で、僕の力をどう使うかという決定権はすべてオラクルに移っています。彼女の許可がなければ、具現構成体を作ったり、喋ったりもできない。兵器として設計されている以上、僕の自我は仮初かりそめなのです》

「だったら――万理、やめさせろ」

 毛玉のせいでイラつき指数が臨界値に達していた俺は、何を思い上がったか魔法少女に命令する。万理は少し驚いた様子で、しかしまだ笑っていた。

「そいつウザいでしょ? あたし、そんな奴の演技に騙されて契約したんだよ。手口がブラック企業以下だと思う。まあそんなんでコロッとOKしちゃうあたしも大概カモだし、文句は言えないけどね。

 わかったでしょ。魔法少女ってのは最初から、兵器として生み出されたものだったんだよ。あたしの存在価値は、この腐れ戒獣の力をコントロールするための、制御装置でしか――」

 気付いたら、万理の横っ面を張っていた。

 女の顔面にビンタ。人生初の経験。

 宿主がぶん殴られた影響か、アリストテレスが弾けて消える。奴はどうでもいい。できるなら八つ裂きにしてやりたいくらいだ。だが万理に関しては、なぜ肩を叩くでも抱き締めるでもなく殴ったのか、真っ白になった頭が理解を拒否する。

 とりあえず、謝った。

「ごめん」

「……いいね。誰も殴ってくれなくてモヤモヤしてたんだ。むしろもっと殴ってくれないかな。人前に出られなくなるくらいボコボコに。――あ、待った。もっといいこと思い付いちゃった」

 変身の閃光。紅く腫れた頬と、光る涙の筋はそのままに、万理の肢体が戦闘法衣コンバット・カノーニカルを纏う。手袋をした指先で短いスカートを指し、俺が目をやると、万理はスカートをばっとまくり上げた。

「じゃーん」

 何も穿いていない。

「うわ何だ、止せどうした」

 見えてはならないものがむき出しだ。さすがに普段からノーパンなんて狂ったデザインではないはずだから、いまはショーツの部分だけ実相化マテリアライズさせなかったということだろう。などと冷静を装って分析する俺に、万理は容赦なく狂気を叩き付ける。

「玄野くん、エッチしようよ。いまここで、この格好のあたしと。斥力フィールドは解除してあるから、なめくじの交尾みたいにぬっちょぬちょのぐっちょぐちょな感じでヤっちゃおう。んでそれを一部始終ケータイでムービー撮って、動画サイトに流すの。魔法少女だって男とセックスするし、下品な言葉わめきながらなんかいろんな汁垂れ流すし、AVみたいにアヘ顔ダブルピースとかしちゃう女なんだってことをさ、全世界に教えてあげるんだ」

 万理はどこからともなく携帯を取り出し、動画撮影モードにして、背後の空中に固定した。本気だ。

 顔は笑っている。間違っても幸せな笑みじゃない。苦しみから逃れることしか考えられなくなって、自分が自分でなくなる前に壊れてしまいたいと願う人間の顔。俺はそんな顔をかつて見たことはなかった。それでも、実際に見れば、一目で解った。

「ね、そゆわけだから服脱いで。下だけでいい。あ、心配しなくても玄野くんの顔は消しといてあげる。世に出回るのは、誰とも知れない男にハメ倒されてよがる魔法少女の、あられもない姿だけ――」

「いい加減にしろッ!」

 万理がまくり上げたスカートをはたき落とす。もう俺も限界だった。訂正、とっくに限界を超えていた。

 それでも自制が働いてしまうのは、ただ万理を傷つけることへの恐れが怒りよりも強かったからだ。あるいは万理に嫌われることへの恐れ。俺はそれを乗り越えられなかった。憎まれ役を演じることさえできない無能だった。

 怯懦が生んだ冷静さで、強いて声をトーンダウンさせる。

「……俺は、いやだよ。こんな形でおまえとするなんて。

 おまえとやりたいとか思わなかったわけじゃない。むしろしょっちゅう考えてたよ。でもそれは、こういうことじゃない。

 もっと別の機会、プライベートな場所で、普通の服着たおまえと、なんとなくいい雰囲気になってそのまま自然にセックスして……そういうのがいいんだ。おまえが自分を痛めつけるための道具に使われて、終わったあとに惨めさしか残らない初体験なんて、俺はいやだよ……」

 言葉尻から毒が漏れてしまい、黙り込んだ俺は逃げ出そうとしたところで見えない力に絡め取られる。この状況で魔法を使うのは外道だ。言いかけるも、万理が後ろからしがみついてくる。

 すすり泣く声。

「ごめん……ごめんなさいっ……あたしも、こんなんやだよぉ」

「じゃあやめろ。謝るのもやめろ」

「謝らせてよ。聞いてよ。ビッチなだけじゃなくて、あたしがギルティで真っ黒だって認めてよぉ」

 万理の望みは解っている。こいつは自分の罪を、裁かれないことがつらかったのだ。

 ローティーンの少女を兵器同然に扱うこと、その運用についての批判はマスコミや世論にだって当然ある。しかし矛先はいつも政府や自衛隊に向いているのであって、万理は「大人の都合で異才を利用されるかわいそうな子供」という前提のもと責任能力を認められていなかった。子供を白痴同然に看做すことで子供の人権を守れるという、想像力の足りない大人が作り上げた児童幻想。万理自身はいつだって自分の正義に従って戦ってきた。人の期待に応えるのだって、こいつが正しいと信じたからだ。だから自分の罪を自分で背負えないことは、万理にとって屈辱でもあるし、心が痛む。

 そんなことを思うのは道徳的な人間だけで、そういう奴は基本的に死ぬまで損をする。だがそういう奴しか本当のヒーローにはなれない。超能力を持ってようが魔法を使えようが、棘だらけの理想で自分を縛って戦える奴でなければヒーローと呼ばれるには値しない。だから万理が選ばれた。最悪だったのは、この事実を俺が心のどこかで誇らしく思っていることだ。救いようのない市民根性。殺してやりたい。この世の正義という正義を殺し尽くしたい。

 代わりのいない魔法少女に、俺は何を言ってやるべきだったのだろう。このときも解らなかったし、きっと永遠に解らない。ただ実際には、言うべきでないことを言って、逃げた。

「……おまえのことが好きな奴に、そういう頼みをするのは、残酷だよ」

 何を言ってんだ?

 何を言ってんだ俺は?

 測り知れない残酷な運命を背負わされたこの女に。助けてやりたい、支えてやりたいと思ったはずの女に。

 追い詰めるだけだと解っていた。だがもう止めることはできない。言語を奪い取って、醜悪なエゴが実相化マテリアライズする。

「人殺しだから何だ。正義の味方じゃなくたって、それが何だ。知らねえよ。おまえが悪魔だろうと戒獣だろうと、俺は顕月万理を嫌いにはならない。絶対に……おまえを見限らない」

 最低の告白。ガソリン代わりのイカ臭い愛をぶっかけられて、救世の聖女に祭り上げられて、万理は否定されることをこそ望んでいたのに。俺は万理の願いよりも自分の欲望に屈して、絶対の肯定で万理を裏切ったのだ。

「ごめん。でも、おまえが世界の敵になったとしても、俺はおまえを否定できない。それは、自分に嘘をつくことだ」

「……オラクルじゃなくて、あたしが好きだって、言ってくれるんだ」

 ああ――万理が泣き止んでしまう。

 けぶるような微笑みを取り戻してしまう。

 やめろ。やめろ。おまえはまだ泣いていいのに。

「ありがと。あたし、また戦える。心の中の正義がぜんぶ折れても、玄野くんのためだけに戦える」

 光とともに、変身は解けて。

 万理の姿は私服に戻る。その心は、強い魔法少女に戻る。

「戒獣をみんなやっつけて、お父さんとお母さんも取り返したら、あたし引退するよ。ふつうの女の子に戻りたい! つってさ。そしたら、ちゃんと付き合おう。最初は健全に。そのうち、愛のあるエッチもいっぱいしよう。んふふ、えへへ――」

 それから最後の日まで、あいつは一度も泣かなかった。

 少なくとも、俺の前では。



 八紘の手料理は意外にも美味かった。

 実のところ俺は、妹が料理なんかできるとは思っていなかった。アニメでよくある魔界の食い物みたいなのが出てくることも覚悟していた。だから見栄え抜群のスパゲッティ・カルボナーラが出てきたときには冷凍食品かと疑ったし、食ってみてその絶妙な塩加減に唸らされたときは賛辞が口を衝いて出た。

「うまい。最高。おまえ、将来すごくいい嫁さんになるよ」

 我ながら古臭い褒め方だと思ったが、八紘は喜んでくれたらしい。頬を染めて、小便を我慢するようなポーズでうっとりしている。

「……でも八紘、結婚しないかも」

 パスタをフォークに巻く。くるくる。

「なんでだ。もったいねー」

 フォークを口に運ぶ。ずるずる。

「八紘がいちばん好きな人とは、結婚できないから」

 だいたい話が読めた。学校で既婚の教師にでも惚れたんだろう。

 それをガキの恋と嗤うような真似はしない。当たって砕けようが、胸に秘めたまま風化させていこうが、八紘の自由だ。ただその相手が、妹のちょっと抜けたところに付け込んで弄ぶようなクズ野郎だったらぶっ殺す。容赦なく仮借なく殺す。

 苦痛と鮮血と死。

 目の前のおいしいカルボナーラとは程遠いイメージを脳裏に描き、ふと思う。

 人を殺せば、あの夜の万理の気持ちが万分の一でも解るだろうか。

「というわけでカズ兄、報われない愛に生きる妹をなぐさめてください」

 狂人そのものの思考に囚われかけていた俺を、また八紘が現実に引き戻す。俺が受け容れて生きなければならない世界。万理が望んだ平和な世界に。

「なんで俺が。どうやって慰めたらいい」

「なでなでして?」

 ため息が洩れる。こいつはあと半年もすれば中学生になるというのに、これは人懐っこいとかそういうレベルを通り越して人に甘えすぎじゃないのか。

 などと思いつつ、隣に座った八紘から期待のまなざしで見上げられると、俺は求められるままやわらかい髪を撫でてやらずにいられない。

「よーしよしよし、おーよしよし」

「むー! 違うのそういうわしゃわしゃする撫でかたじゃなくて! これじゃムツゴロウさんだよぉ……あ、結婚できないならペットになればいいって? なるほどー」

「やめんか」

 いったいこいつがどういう男に惚れてんのか心配ではあるが、いちおう妹の恋の悩みである。兄としてはどこまでも真摯に聞いてやるのが筋だろう。

「人を好きになるのはいいけど、その人が応えないことを解ってて好きでい続けるのは、つらいよ」

 現在進行形の経験則。もっとも八紘の場合は相手が生きて存在しているわけだから、この先寝取るという選択肢も可能にはなる。当然修羅場となるだろうがこんなのは至極フェアな勝負だ。男も女も、パートナーの不倫相手に競り負けるようならそもそも結婚すべきじゃない。

 八紘は兄の歪んだ結婚観など知らぬげに頷く。

「うん、知ってる。でもね、自分が幸せになりたいから誰かを好きになるわけじゃないの。自分がつらくても、どうしようもなくその人の幸せを願っちゃう。それが、好きってことだと思うな」

 やけに大人びた恋愛観を小六の妹が持っていることに俺は驚く。昔と変わらずかわいいアホのままだとどこかで思っていたが、十二ともなれば内面的にも変わるのだ。女の成長は男より速い。

「……そうだな。こういう感情は、コントロールできない」

「カズ兄も経験あるんだ? 選べないからつらいよね。でも、だからって自分の気持ちに正直にならなかったら、もっとつらいよ」

「カッコいい」

「むふふー」

 兄妹で身を寄せ合って、くすくす笑う。傍から見れば仲が良すぎて気持ち悪い光景に違いない。だが少なくとも平和で、幸福だ。

 これでいいのかもしれない。家があり、それぞれ違ったやり方で子供を想ってくれる両親がいて、兄を慕う可愛い妹がいる。学校では新しい友達ができそうだ。授業も順調にこなしていける――ときどきラプラスとかいう怪しい声の力も借りつつ。

 素晴らしい。俺は誰もが羨む幸福ボーイ。何不自由なく暮らし、当たり前の問題に頭を悩ませながら平和に生きるのだ。

 万理のおかげで。

「駄目だな」

「え?」

 見え透いた自己暗示なんて効果がない。どんな平和も幸福も、胸の奥にいたみを呼び起こして、結局あいつのことばかり考えてしまう。

 ――自分が幸せになりたいから誰かを好きになるわけじゃない。

 だとしたら俺は、万理を好きじゃなかったんだろうか。いつも自分のことばかり考えていた。でもいまは、自分の幸せを殺してまであいつを悼んでいる。

 あいつがいなくなって初めて、俺の中でほんとうの愛が目覚めた? だとしたら、それはそれで寂しすぎる話だ。

 こんなふうにウジウジ悩んで万理の望みを実現できずにいる時点で、たぶん俺は根本的に変わっていない。弱くて臆病でエゴの塊だった玄野一宇。万理の陰で無力を言い訳にして、何もしないことばかり選んで後悔を育ててきた玄野一宇。

 変わらなければならない。俺は成長して、万理がいないこの世界を、なんとしても万理のために肯定しなければならない。

 いたみが打ち消せないほどの平和や幸福を見つければいいのだろうか? たとえば人間の至高の善を。たとえば宇宙の究極の美を。それがどんなものかは解らないが、そうでもして怒りも悲しみも振り切らなければ、俺はまた世界を呪うだけのクズに逆戻りする。

《何を知りたい?》

 全知の戒獣が問う。俺はそいつに言ってやる。

「おまえにゃ解んねーこと」

 美の定義だとか、人間はなぜ生まれるのかとか、こいつに訊いてみたって仕方ない。同じことで、俺が世界を赦せるようになる方法なんてのも、所詮スーパーコンピューターの延長に過ぎないラプラスが教えてくれるはずもないのだ。

 あるいはこう言われるのかもしれない。君は可能なすべての未来において、彼女の犠牲の上に営まれる世界を赦すことができない――と。そんな形でまた万理を裏切ってしまうのが怖くて、俺はラプラスに訊けないのかもしれない。万理はすべてを納得した上でその身を捧げたのだ。変革した世界自体がそれを証明している。あいつの覚悟に報いられないとしたら、俺は何だ。

 自分で探しに行くしかない。あいつの不在を埋め合わせるに足るものを。ひとつの計画が、頭の中で形を取り始める。

「なにがわかんねーの?」

 八紘が膝の上に乗っかってきて、俺は思わずうめき声を洩らしてしまう。細身の女の子とはいえ、健康に育った十二歳の人間が羽毛のように軽いなんて冗談はない。具体的な数字は知らないし知ってても言わないが、三十数キロの質量がずっしりくる。

 命の重さだ、と陳腐なことを考えた。それからすぐに否定する。いやいや。八紘だぞ。俺の心を何年も凍土の底に縫いとめていたあの重さはこんなものじゃなかった。人の命はその肉体よりも重い。あるいは、ほんとうに重いのは、死か。

「ん、何でもない。ごめんな、八紘」

 考えてみれば俺は相変わらず最低だった。せっかく取り戻した妹や両親への家族愛というものが、もういない万理への未練に負けていることになる。「俺は家族であるおまえよりも、もうこの世にいない女を大事に想ってしまっている」――その後ろめたさに対する謝罪だった。

 だからこそ、だ。

 だからこそ俺は、家族を愛することに罪の意識なんぞ感じなくても済むように、万理の不在と向き合わなきゃならない。あいつの犠牲を乗り越えて、進まなければ。

 前へ。

 何度も同じことを考えている。何度でも考えねばならない。

 前へ。前へ。

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