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夏休みの宿題は楽勝だった。
友達や親の力を借りたわけではないし、鬼門である数学と英語の問題群も解答冊子丸写しなんて横着は初めからできない。うちの中学では不正防止のため、課題の採点を生徒任せにしておらず、夏休み明けに教師たちが血ヘド吐きながら手作業でやるのだ。一説では採点のバイトが存在するともいう。休暇期間の関係で九月半ばまで暇な大学生とかが雇われる、らしい。
部屋の隅に積まれていた今年の夏課題を瞬殺できたのは、全面的にラプラスの力だ。《私が正解を教えては課題の趣旨に反するのではないか?》とか何とか言いながら、訊けばきっちり教えてくれる。打てば響くとはけだしこのこと。俺の頭の中にしか響いていないが、それで問題集が片付くなら妄想でも妖怪でも構いやしない。
もしラプラスの声が俺の幻覚に過ぎなければ、俺が書いた答えはどれもこれもデタラメな自動筆記ということになる。その時は職員室に呼ばれて三十分くらい絞られ、ちょっとした追加課題を出されて、これも踏み倒すとセカンド説教タイムに突入し、それからようやく教師たちが諦める。少なくとも去年はそうだった。OK大丈夫だ。宿題なんぞすっぽかしても死にやしない。
そうして、五年ぶりに家族と過ごす片手間に忌まわしき課題どもを殲滅し、八月三十一日。俺は小学校入学以来初めて何の負い目もなくスッキリ夏休み最後の夜を眠ることができる。
はずだった。
だが現実には、あれこれ考えてしまって寝つけずベッドの上をゴロゴロ転げ回った挙句、やっと落ちた眠りはとても浅かった。俺は切れ切れに短い夢を何度も見ては起きかけ、砕けた鏡みたいに記憶のバラ撒かれた闇をまどろみゆく。
夢の欠片のひとつひとつに、万理が映っていた。
「
白の衣装を身に纏ったオラクルが、カメラ目線で笑みつつピースサイン。ばら撒かれるCGの星。それから字幕が映る。
『魔法少女オラクルの力は、多くの人の想いが集まることで高まっていきます。国民の皆様には、ご理解いただくとともにぜひとも、彼女への応援という形でのご協力をお願いいたします』
画面はさっさと切り替わり、公共広告機構のロゴが出る。そしてお決まりのACコール。エェーシィィー。
日に何度流されたかわからないこのCM以外にも、万理はしょっちゅうバラエティ番組などに引っ張り出され、歌って踊って笑顔を作って全世界に媚を売った。そうする必要があって、国ぐるみであいつをアイドルに仕立て上げたのだ。
戒獣は人々の恐怖をエネルギーに変える。これはあまりに乱暴すぎる要約だが、詳しい原理にまで踏み込んでいたら量子力学と
重要なのは、魔法少女の力も戒獣と同じシステムで作動していて、ただこっちはパブリック・イメージの問題から恐怖を別の感情で代用しなきゃならないということだ。たとえば好意。たとえば欲望。世の子供たちが戒獣退治のヒロインに素朴な憧れを表明したり、どこぞのロリコンがオラクルの写真集でマスを掻いたりするほど、万理が扱えるエネルギーの量は天井知らずに上がっていく。
そんなわけで十一歳の戦場デビュー以来、万理はお上の命を受けて魔力を高めるために芸能活動までこなしていたのだが、俺は当初どうしようもなくこの魔法少女という存在が嫌いだった。
地球人類の最終兵器、兼ジュニアアイドル。ふざけている。ネーミングセンスも衣装デザインもお子様向けアニメから抜け出てきたような代物なのに、こんな奴だけが戒獣を倒せて、日本国政府と自衛隊が全力でこいつをバックアップするという。ふざけている。極めつけは、戒獣“コペルニクス”討伐作戦の成功が生中継され、魔法少女の実力は本物だと世界が認めてしまったことだ。ふざけ倒している。
あとから思えば半分は嫉妬だった。俺に同じ力があれば戒獣をみんなぶっ殺してヒーローになってやるのに、という幼稚極まる誇大妄想。己の無力から目を背けたかったのだ。実際には、俺なんかがどんなスーパーパワーを手に入れたって万理の代わりを果たすことはできない。誰にも代われないから、あいつが戦うしかなかった。
そのままメディアの映すオラクルだけを見ていたなら、俺の偏見が改まることはなかったに違いない。魔法少女もそんなのを本気で崇めている連中もくだらないと、世の中を下衆なジョークに見立てていつまでも絶望をしゃぶっていたはずだ。
だが俺とあいつはたまたま同じ中学校に入学した。たまたまとは言うが、万理の入学先がうちの学校だった理由はちゃんとある。美砂一中は養護施設から通うワケあり生徒も多いため出席に関する規定が緩く、しょっちゅう任務へ駆り出される魔法少女が在籍するには好都合なのだ。人類最後の希望だって日本国民である以上は義務教育を受ける権利があるということらしいが、内実は子供を化物と戦わせることへの批判を少しでも軽減するための政治的措置だった。
入学早々俺はオラクルこと顕月万理と同じクラスになる。これは偶然以外の何物でもなく、しかもありがたくない偶然だった。活動開始から二年、すでに名実ともに国民的を通り越して世界的ヒロイック・スーパーアイドルとなっていた魔法少女の入学である。当然クラス内どころか学校中がパニックを起こし、どいつもこいつもオラクルちゃんオラクルちゃんと騒ぎ立て、奴が出席している日は授業もままならない。
俺はまたイラついて仕方なく、意地でも狂信者どもには紛れまいと、クラスでただひとりあいつを「顕月」と呼んだ。蔓延する宗教じみた空気へのささやかな反抗。魔法少女ファンの連中には疎まれたが、もともと精神が荒んでいた俺は孤立することなど意にも介さなかった。
これがどういうわけか、当のオラクルの注意を惹いてしまう。
初めて向こうから話しかけてきたのは、昼休みの屋上だった。
五月の空は晴れて、涼しさが心地いい日。覚えている。何もかも、覚えている。陽射しの匂いも風の味も、万理と結びついている記憶はすべて忘れられない。
「玄野くん、だったよね」
貯水タンクの陰に座っていた俺が顔を上げると、万理が立っていた。
テレビで見せている活発さからは考えられないくらい、おとなしい調子だった。俺は毒気を抜かれつつも、そっけなく、突き放すように答える。
「玄野、一宇。なにか用か、顕月万理」
オラクルのファンがこの場に居合わせれば、思い付く限り残虐な手段で俺を処刑すること疑いない口調。しかしオラクルは――万理はそれを聞いて、微笑った。
「かずいえ、って読むんだっけ。武将みたい。
いつもあたしのこと、名前で呼んでくれてありがとね」
こいつは勘違いしている、と思った。俺がオラクルという愛称でなく本名を呼ぶのは、親しみの表れであると解釈しているのだ。実際は真逆なのに。
馬鹿め、と薄ら笑いで嘲る。
「コスチュームを脱いでる間は、魔法少女じゃないだろ」
つまり特別扱いなどしてやらない、という意図だったのだが、どういうわけか万理は嬉しそうな目をした。
「で、なんだ? まさかそんな当たり前のことに礼を言うだけで話しかけてきたんじゃなかろう」
「お礼言いに来たんだけどな。じゃあ、ついでにお願いもしちゃおう」
閃光。
一瞬のうちに、万理の服装が変わっていた。あちこちから伸びる飾り帯が羽を思わせる、紫がかった白の衣装。
「あたしがコレ着てる時でも、オラクルじゃなくて顕月って呼んでくれないかな。万理、でもいいよ」
「下の名前で呼ぶほど親しくねーだろ。まあ、言われなくてもオラクルなんてふざけた名前じゃ呼ばないけどな」
「ふざけた名前だと思う?」
「ふざけてるだろ。魔法少女だぞ。アニメか。デパートの屋上でやってるヒーローショーか」
愛称を馬鹿にされて怒るのかと思い、俺は半ば挑発するつもりで言いつのる。実際ふざけた名前だ。防衛省のホームページには「魔法少女とはわが国に固有のヒーロー像であり……」云々ともっともらしい説明が書いてあったが、俺はこんなもんに日本を代表させる奴らの脳ミソを疑う。何が『魔法少女 ミラクル★オラクル』だ。チープな韻なんぞ踏んでんじゃねえよ。
しかし万理は頷きながら笑った。
「あたしもそう思う。なんていうか、俗悪だよね」
テレビの前では絶対にしないであろう発言。俺は思わず、変身した万理をまじまじと見てしまう。
近くで眺めると、ひどいデザインの衣装だ。飾り帯のせいで目立たないが、脇は大きく開いているしスカートの丈も短い。肘まで覆う白い手袋やオーバーニーソックスがあるから露出面積自体はさほど広くないのに、ピンポイントで見える肌がやけに煽情的だった。
「よく見たら、意外とエロいな」
率直なコメントを述べると、万理は流し目をくれながらスカートの裾を摘んでひらひらさせた。ちらつく太腿。はしたない女め、などと頭の端で毒づきながら、しっかり凝視してしまう男の性。
「エロいでしょ? 男の目が行くとこだけ開いてるの。この衣装、
魔法少女が人気を集めなければならないという事情くらいは知っていた。が、衣装までもがそのための装置だとは思わなかった。
このとき既に、俺はきな臭さを感じていた。こいつの戦いは、いったいどこまでが自分の意志で、どこからが国や社会の意思なのだろう? 答えを俺が知るのは、後の話になる。
「まあ見た目はコミケ会場にいてもおかしくない感じだけど、防御力は鉄壁なんだなこれが。大陸間弾道ミサイルが直撃してもノーガードで弾ける、超すごい斥力フィールド張ってるから。ちなみにこれ防衛機密なんで、クラスのみんなには、内緒だよ♪」
「じゃあなんで話した」
くすくす、からから。羽衣を揺らし、魔法少女が朗らかに笑う。常に笑顔を作っていなければならなかった万理は、感情を表現するのに幾通りもの笑い方を持っていた。
「機密漏洩くらいしか、ストレス解消手段がないんだもん」
「俺をガス抜きに使うな。余計なことを知りすぎて、自衛隊とか公安とかにシメられるのは御免だ」
「だいじょぶだいじょぶ。そしたらあたしが守ってあげる。だからさ、ときどきこうやって軍機のお漏らしに付き合ってよ。あたしをオラクルって呼ばない、玄野くんにしか頼めないんだ」
「きたねえ魔法少女だなぁ」
呆れ返った。アイドルが仕事と日常生活で別人になるなんてのは普通のことだが、その二面性を直視する立場に置かれれば戸惑いもする。
とはいえそのギャップが、目の前の非現実的存在に人間味を与えているようでもあり、俺の心理的抵抗がほんの少しやわらいだのは事実だ。
「そうだ、顕月――俺もおまえに感謝しておくことがあった」
「なに?」
「ヒルベルト。おまえが最初に倒した戒獣。あいつ、俺の家族を殺した奴だったんだ。だから……」
仇を取ってくれてありがとう。
そう言おうとした俺を制し、万理は人差し指を振る。
「戦果にお礼を言ってくれるのはうれしいけど、戒獣は人の憎しみも力に変えちゃうんだ。これからは戒獣を憎む代わりに、あたしを応援してよね」
ぱっと目の前が白くなる。一瞬で変身を解いた万理は、また制服姿に戻っていた。
「おうよ。じゃあ一日三回、おまえん家の方角に向かって勝利を祈ってやるよ」
「イスラム教じゃないですかーやだー。でも本家は一日五回だよ」
「知るか。だいたいおまえの家がどこかも知らんわ」
「自衛隊のセーフハウスだけど、こんど遊びにくる? ガチムチのガードマンがお出迎えしてくれるよ」
「絶対行かねー」
揶揄と否定の言葉ばかり返していた俺だが、そのときにはもう、こいつが嫌いではなくなっている自分に気付いた。
だから俺は、俺だけは、魔法少女オラクルでなく顕月万理を応援してやろうと心に決めたのだ。
平和な朝がやって来た。
俺は復活した自宅の二階、自室のベッドで目を覚ます。クーラーの風に当たっていた目元が冷たく、寝ながらまた涙をこぼしていたことに気付く。涙、なぜ、と自問したところで、すべての記憶が現実に追い付いた。
ああ、そうだ。
妹が戻ってきたからだ。
母が戻ってきたからだ。
父が戻ってきたからだ。
そして、万理がいなくなったからだ。
「カズ兄おはよう、泣いてるの?」
隣を見る。
八紘がいる。
俺の部屋の、同じベッドの上で、パジャマ姿の妹(十二歳)が、横になって至近距離から俺を見ている。
なんてこった。コンディションレッド。平和じゃない。
「……何やってる」
「なにって」
「つまり、なんでおまえが俺の横で寝てるのか」
「節電。昨日また熱帯夜だったでしょ。それぞれの部屋でクーラーつけてたら電気代かさむじゃん。だからこっち来ていっしょに寝てたんだけど……あっ、別にカズ兄の匂いが恋しくてとかそういうアレな動機じゃないからね?」
「んなこた誰も言っとらん。つーか二人でこんなに引っ付いて寝てたらクーラー動いてても暑いだろ離れろはーなーれーろー」
さっさと出てけ、と言おうとしたところでドアが開く。妹が忍び込んで来られるくらいだから当然鍵なんてものはなく、大声を出しながら母が突入してくる。
「遅ォい一宇! ギリギリまで寝てたらバタついて忘れ物するし朝ごはん冷めるしでいいことねーから早めに起きて来いといつもあれほど――おや」
母の目が八紘を捉える。兄のベッドで、兄と一緒に起きたばかりらしい妹の姿を。ついでに娘の寝乱れたパジャマやほんのり紅潮した頬まで一瞥した母は、兄妹を交互に指差しながら一言。
「事後か?」
俺はとっさに何を聞かれているか理解できず、そのせいで妹に先手を取られる。
「お母さん待って! カズ兄からこうしようって言ったんじゃないの、八紘が無理やり押し掛けて……」
「はあ。なるほど。んで実の兄と寝たわけだ。――いいか二人とも、とくに一宇よく聞け。あんたたちは非常に困難な道を行こうとしている。覚悟はあるのか。ないなら引き返せ。いまなら、まだ間に合」
「ちょっと待てェエエェェエェェェエエエエェエエァアアアァアアアァァアアア!!
馬鹿かてめえら! 馬鹿なのか!?」
俺は絶叫によってこの茶番を強制的に打ち切り、ベッドから跳ね起き制服を引っ掴んで部屋を飛び出して階下へとランダウン。脱衣所まで行き扉を閉め脱いだ寝間着を洗濯機にぶち込み持ってきた夏用学生服に着替えている途中で扉が開いてまた八紘が現れる。
「ごめんね、迷惑だったよね? でもおととい玄関でいきなりぎゅってされたとき、ちょっとうれしくて……八紘、覚悟ならできてるの! もう何も怖くない!」
「俺はおまえが怖いよ」
さっさと着替えると俺は八紘を押し退けエスケープ。気を取り直せ。平和とはこういう日常の小事件もひっくるめてのものだ。妹が空白の五年でちょっとばかりクレイジーになっていたところで何だというのか。嫌われているわけでもないようだし問題はない。世界は平和で、俺は幸福でなければならないのだ。
万理のために。
先に朝飯を食っていた父の向かいに座り、ソーセージとコーンサラダとスクランブルエッグと食パン一枚をちゃっちゃか平らげる。早食いは健康によろしくないと言うが、新学期初日から遅刻するよりはマシだ。
食い終わる間際になって、ようやく父が口を開く。
「おはよう、一宇」
「おはよう父さん。反応遅すぎ」
「んむ」
父子、朝の会話終了。この人はいつもこんなだったしこれからもこうだ。平和。幸福。
提出物や筆記用具が入った学生鞄を忘れたことに気付き、部屋へ取りに戻ろうとすると、母が鞄を持って階段を降りて来るところだった。
「肝心の荷物を忘れてんじゃないよ。それから、ベッドで妹と何をしていたのかは、帰ってから詳しく事情聴取させてもらう」
「無実だ! 行ってきます!」
かくて家を飛び出し、見慣れない通学路を、足が自然と向かう方へ小走りすること数分。俺は見慣れた校舎を目の前にして、また新たな感慨に耽る。
また学校生活が始まるのだ。体感でわずかに三日ほど前、永遠に九月が来ないかもしれないと思っていたのに。
時はつつがなく進み出した。万理の犠牲によって。
だから俺も、ひたすら前に進まなければならない。
《回想なら席に着いてからやるといい。君の教室は前と同じだ》
もうラプラスの声も耳に馴染んでしまった。実を言うと俺は、まだこいつが何か善からぬことを企んでいる可能性も捨て切ってはいない。しかし何ができるわけでもないので利用しつつ利用されてやっている。
「玄野ォ! 始業式に遅刻するつもりかァ!」
体育教師、兼生徒指導の伊藤が校門に陣取り、アスファルトの路面を竹刀で叩きながら怒鳴る。色黒でパンチパーマで首元に金物をジャラジャラ下げているこの男は、元ヤクザだが組の金をキャバクラで使って千葉港に沈められかけ、何の因果か美砂一中の校長に助けられて忠誠を誓い教師となった――という伝説の持ち主である。大半はたぶん嘘だが、伊藤の背中に刺青があるのはマジだ。七月に水泳の授業で目撃した。よく教職やってられる、とつくづく思う。
伊藤の刺青がどんな柄だったか考えているうちに靴箱を通り過ぎ、無意識に履き替えた上履きで階段を昇る。二年の教室は二階。俺のクラスはB組。扉が見えた。
教室後方の引き戸をそろりと開け、中へ入っていく。
拍子抜けするほど、中学二年の教室だった。男と女がそれぞれいくつかの小グループを作って固まり、点々と孤立している連中はガリ勉だったり単なる本好きだったりコミュニケーション不全のオタだったりする。それから寝ている奴。顔ぶれも前の世界と同じだ。何人かが「おう」と手を挙げてきたので、応じて「おう」と返した。この世界でまっとうに育った俺は交友関係もそう悪くないらしい。そりゃそうだ。失うことを恐れて誰彼構わず遠ざける必要がなければ、俺だって友達ぐらい作る。
万理がいるときは、いつもあいつを中心にひとつの大きなグループが出来ていた。俺は最後までその輪に入ることはしなかったけれど、屋上で変身の秘密を教えてくれた日以来、万理が人垣越しに投げて寄越すようになった視線だけで充分だった。
いまの群島みたいな人間配置は、万理がいない日の教室に似ている――そこまで考えて、俺は心臓が地の底へ落ちていくような感覚に襲われた。
似ている? 何を馬鹿な。
これからずっと、万理のいない日が来るのだ。
顕月万理のいない明日だけが来るのだ。
ゆとり教育をやっぱりやめにしてまたカリキュラムを書き換えた結果、俺たちの学校も週休二日じゃ授業のコマ数が足りないということになり、さりとて私立でもないから土曜登校を勝手に復活させるわけにはいかず、授業内容の過密化など諸方面に弊害が出まくっている。始業式の日からさっそく通常授業をスタートさせるというのも昔はなかった現象だ。この国の教育計画を考えている奴らは世界が平和であろうとなかろうと安定して頭が腐っている。
そんなわけで九月一日から、始業式のあとに俺は教室で歴史の授業を受けている。いまは世界史の範囲で、キリスト教の変遷について駆け足で暗記させられているところだった。
資料集のカラー写真を眺める。壁画、彫刻、映画など様々な媒体に刻まれたあるひとりの人物。こいつが世界の歴史の半分を決めたと言っても過言ではない。
イエス・キリスト。
人間の罪を贖うため、磔刑に処された男。
自己犠牲は尊いものだ、という観念は二千年前からあったらしい。俺がいま、それに異を唱えるわけにはいかない。三日で復活できる程度の死なんか比べ物にならないほどの、とてつもない自己犠牲を体現した女を知っているのだから。
かぶりを振る。
万理のことは考えるな。万理のために嘆くな。
重くのしかかる至上命令。俺の存在意義。平和。幸福。
「どーした玄野ー、眠いのかー」
歴史教諭の天羽が俺を名指しする。奴は寝てたりぼんやりしてたり話してたりする生徒ばかり狙って問題を出すサディスト。心を別の世界に置いてきてしまった俺はこの教室で格好のターゲットに違いなかった。
「はい、じゃあ玄野がちゃんと話聞いてたかチェックね。カトリック教会が初代ローマ教皇としている人物は? 教科書は見るなよ」
知らねーよ。が、いまの俺は過去と未来を宇宙の果てまで見通せる悪魔と契約している。
声は出さず、ラプラスに話しかける。
「やつは授業でなんて説明してた? それを教えてくれ」
《使徒ペテロ。イエスの最初の弟子とされており、名の意味はギリシア語で『岩』。だが一宇、この授業の内容は史実と違うことだらけだ。まずナザレのイエスが最初に弟子とした人物はペテロではないし、使徒ユダは裏切り者では――》
「おまえの能力で見える史実なんぞどーでもいい。先公は自分が言ったことを生徒が聞いてるかどうか確認したいだけだ」
ラプラスが文句を垂れ始める前までの部分を、そのまま復唱する。天羽が舌打ちした。正解のサインだ。
「起きてたんかい。ならもうちょっと話聞いてるふうのポーズ取っててくれ。授業中にボケーっとされてると傷付くタイプなんだ」
豆腐メンタルめ。教師やめちまえ。黒板に向き直った天羽の背中に、俺は両手でファックサインを出す。周りの席の奴らが笑いをこらえ、エア拍手で俺の見事な正解を讃えた。
平和。幸福。なんたる虚無感。
それからは真面目に授業を聞いた。暗記作業に精を出していれば、万理のことを考えてしまわずに済んだからだ。
「玄野、ボウリング行かね?」
「いいよ。行こう」
提案と返答。放課後、クラスメートの藤旗に誘われ、俺はとくに何も考えずボウリング場行きを即決する。この藤旗という男、前の世界ではオラクルの追っかけをやっていた有象無象のひとりだ。この世界では、どこのグループにもするりと入り込める特技を持った渡り鳥みたいなポジションらしい。話してみると意外にいい奴で、他人の好ましい一面を見つけた喜びに俺の幸福指数がちょっとだけ上がる。同時に胸の奥のいたみも増してしまい、差し引きゼロ。
男四人で球を投げ始めると、少しは気が紛れた。俺はあまり上手くないのでスコアボードにGの字が並び、「ガーターベルト」なる不名誉な称号を拝領してしまう。笑いを提供できたのがせめてもの救いだった。俺は救われていないが。
身体を動かすことに関してはラプラスの力も役に立たない。《床上五センチからレーン右端に対し十五度角で秒間〇・七回転の右スピンを掛けつつ投げろ》とかなんとか言われた気がするが、実践できる人間はそもそもアドバイスなんぞ聞く必要もないはずだ。
ヤケクソで九ポンドの軽い球を持ち出し、助走まで付けてスピード特化の一球を投げてみるとこれが隣のレーンまですっ飛んでいってそっちのピンをストライクしてしまう。まさにそのレーンで投げようとしていた幼女が呆然と俺を見つめるので、ガッツポーズしてやったらその父親らしき男に睨まれた。親子の楽しみを邪魔してどうもすみません。藤旗たちは大爆笑。ラプラスが《あの男性は生物学的には少女の父親ではない》などと不穏なことを突然脳内で囁くから、俺は戻ってきた九ポンド球に頭を打ち付けて下世話な戒獣を黙らせる。「早まるな玄野! 自殺に九ポンドを使うのはスマートじゃない!」うるせーボケ死ね。気を取り直しての二投目は手から離れて三メートルも進まない間にガター。藤旗たちは大喝采。俺は笑えない、いや構うものか。笑ってやれ。HAHAHAHAHAHA。
平和。幸福。そして疼痛。
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