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 平和な世界がやって来た。

 目の前に公園の噴水がある。ポンプの力で噴き上げられ、重力に従って落ちる水。その前には飛沫を浴びてはしゃぐ子供たち。さらに手前では腹のたるんだ中年女が犬を散歩させている。犬種は知らない。小型で、ブロンドで、耳は垂れている。なるほど。平和。

 視線を思い切り横へ振ってみる。公園の外に一台のトラックが路駐していて、運転席で作業着のおっさんが熟睡している。泥のように。世に言うブルーカラー。肉体労働者の眠りに幸あれ。

 地上が文句なしに平和なので、俺は空を見上げる。青い。ブルーカラー。そこへ、ホワイトカラーの点々が滑り込んでくる。羽ばたいている。

 鳩だった。

 完璧すぎる。なんてこった。まごうことなき平和のシンボル。

 俺は大声で笑った。あひゃひゃうぇへほはひゃはへは。犬の飼い主が飛び上がってこちらを振り向き、さっきまで引っ張る側だった犬を逆に引っ張って公園から離脱していく。水遊びに興じていた子供たちも、ベンチでひとり哄笑する中学生くらいの男に気付いたらしく、声は小さく動きはぎこちなくなってしまう。かくして俺が高笑いしたことにより、夏の公園はほんの少し平和じゃなくなる。

 小さな満足感。

 だがトラックのおっさんはまだ眠りこけている。公園の外の世界は、依然として絶望的な平和を営んでいる。

 大きな喪失感。

 仰ぐ蒼穹にデカい砂時計なんか浮かんでいないし、重力の向きも正常だ。半径十六キロの黒い球体が西の空を埋めてたりもしなければ、地平線の向こうからでも見える碧い光のブレードがぐるんぐるん回転してたりもしない。なにより、独裁国家の選挙ポスターもかくやという密度で町中に貼ってあった、政府広報の魔法少女応援ポスターがどこにも見当たらない。

 もっと遠く、他の町や外国ではどうか解らないぞ、なんて悪あがきの自己欺瞞を試みる根性はなかった。

 信じて、とあいつは言った。なら結果は決まり切っている。

 成功したのだ。

 最後の奇跡を起こして、この平和な世界を残して。

 戒獣コマンドメンツどもと一緒に、魔法少女オラクルは消えてしまった。

「……だったら、なんで」

 続きを声にする必要はなかった。おかしいじゃないか。

 あの魔法が成功したなら、なんで俺は、あいつのことをまだ覚えてるんだ?


「あの、すいません!」

 人に、声をかけた。

「戒獣のこと、覚えてますか。怪しい獣って書く方じゃなくて、戒める獣って書く方の。コマンドメンツとも言うんですけど」

 公園を飛び出し、道ゆく人に声をかけた。

「じゃあ魔法少女のことは? キャッチコピーは“奇跡の巫女ミラクル・オラクル”、みんなは単にオラクルって呼んでて、所属は自衛隊。白っぽいヒラヒラの衣装が装飾過多な割になんかエロくて、それ着てしょっちゅうテレビ出てアイドルみたいなこともやってた。日に十回はACのCMで見たと思う。ACってあれ、公共広告機構。でもホントはまだ十四歳の中学生で」

 老若男女手当たり次第に訊いて回り、全員から困惑やら蔑みやら同情やら勘違いやら、ありがたくない反応を頂いた。

「怪獣映画かい、昔よく観てたなぁ。ゴジラは初代と『VSビオランテ』が一番好きだよ。でも魔法少女ものはあんまり観なかったな。僕も男の子だったからね。あの頃やってたのはセーラームーンだったか……」

「はぁ? カイジュー? 魔法少女? なに言っちゃってんのオタクきんもー。現実と二次元の区別付けろよ。あと通り魔とか幼女誘拐とか犯罪起こすんじゃねーぞ」

「えーと、私はアニメとかあんまり見ないからよくわかんないけどね。夢を持つのはいいことだと思うの。ところでキミ何年生? え、中学二年? じゃあ来年受験ねー、今のうちから行きたい高校探しといた方がいいわよー」

 つまり、誰も覚えていないのだ。俺以外は。

 あいつが失敗したわけじゃない。

 だったら、どうして俺は――同じ問いかけの堂々巡り。自問自答の無限ループ。なんでどうしてなぜなんだ。

 なぜ俺だけが、戒獣や魔法少女のいた世界を覚えてる?

顕月あらづき万理まりは失敗しなかったが、完全に成功したわけでもなかったということだ》

 女の声がした。耳の内側で。

 それが無難な内容だったら、ただ距離感を間違えただけで実際は誰か通行人の声を聞いたのだ、と納得できたろう。今日の晩ごはん何にしようかしらーとか桐島部活やめるってよーとか。しかしその声は万理の名を言った。この世界で俺以外の誰も覚えていないと、確信したばかりの名を。魔法少女オラクルの本名を。俺以外の声で。

「誰だ、どこにいる……」

 見回せど周囲には誰もいない。さっきまで傍目には変質者まがいの行動を続けていたせいか、人をすっかり遠ざけてしまったらしい。

 とすれば、合理的な解釈はひとつ。

「幻聴じゃねーか」

 俺は頭がおかしくなったのだ。マジに。精神的に多大のストレスを蒙った結果俺は自我を分裂せしめるに至り、わざわざ知らない女の声まで脳内で合成して自分自身と会話してしまっているのだ。

 なんてこった。素晴らしい。どこまでが現実でどこからが妄想か解らないなら、厭な記憶はぜんぶ夢かもしれないということだ。世界中の涙を集めて光のスピードでぶっ飛ばしたって永遠に追いつかないし一抹の慰めにもならない万理の運命さえ、俺個人の脳みそが勝手に作り出したファンタジーかもしれないという希望。そうであってくれ。むしろそうであってくれ。

《違う》

 否定されたところでそれを鵜呑みにできるわけもない。俺はすっかり自分を気違いだと思いたくなっていたし、幻聴以外にこの声を説明できる現象などありそうもないのだ。

「じゃあ誰だ」

《私は最後の戒獣コマンドメンツ。呼ばれるはずだった名は――“ラプラス”》

 みしり。

 現実が凍り付いて、ひび割れる。

「……なんだって?」

 実相化マテリアライズしなかったはずの、十体目の戒獣。

 あり得ない。世界が退屈なほど平和になっているのだから、万理は最後の仕事をやり遂せたはずだ。万理が成功したならこの世界に戒獣はいないはずだ。単純な論理。いやそもそも戒獣や魔法少女自体が俺の幻想なんだ。そんならこいつの名乗りも俺の脳内設定を踏まえたセルフ狂言ってことになるわけで、どこにも矛盾はない。あるのは狂気だけ。わーいハッピー。

 俺の涙ぐましい逃避行動を意にも介さず、また声が響く。

《私は創界魔法“リライト”の発動を予知し、ごく低いエネルギー準位で強制的に自らを実相化マテリアライズさせた。そして君の大脳に波動結合することで、リライトの事象改変を逃れることができた》

 みしり。めきり。

 安っぽいハリボテの狂気が、あまりに容易く微塵に砕ける。他の誰が聞いても意味不明のうわ言としか聞こえないであろう声は、そのじつ俺だけに理解可能な筋道を立てて話している。

 あり得るかもしれない、と思ってしまった。

 戒獣というのは、あり得なかったはずの可能性が実相化マテリアライズしたものだ。奴らに何ができたところでおかしくないと思える程度には、俺もその脅威を目の当たりにしてきた。

 戒獣が自分の存在確率を補正するために、人間の脳に寄生できるのは知っている。最後の魔法、リライトが戒獣だけを世界から弾き出し、人間は誰ひとり――万理を除いて――消えたりしないのも聞いた。だからこれも、単純な論理と推測。人間と一体化していれば万理はこいつを消せない。

 俺はこのラプラスとかいう悪知恵の働きそうな戒獣に寄生され、リライトによる消滅をやり過ごすための隠れ蓑に利用されたのだ。よりによってこの俺が。そのせいで世界の書き直しリライトが不完全に終わり、俺だけが新しい世界に記憶を持ち越した。大いにあり得る。戒獣という圧倒的理不尽の権化を前にしては、何だってあり得る。というより、そうでもなけりゃ俺があいつのことを覚えている事実は説明できない。

 だとしたら。

 俺のせいで、万理は負けたのか。世界を救い損ねたのか。

《それは違う。私は君を支配しているわけではないし、人類を害する意図もない――現在のところは》

「しっかり路線変更の可能性をちらつかせてんじゃねーよ。信用できるかタコ。てめえが本当に戒獣なら……」

 戒獣なら、全世界を恐怖のどん底に叩き落すのが本懐なはずだ。考えただけで伝わるようだし、字面があんまり馬鹿馬鹿しいので、口には出さなかったが。

 戒獣は〈カブラの狭間〉からやって来る。非存在力学イマジナリー・メカニクスの理論では、そこは「現実世界と薄皮一枚隔てた裏側にあって、存在する可能性がゼロではないにもかかわらず実在していない事象が、全次元・全時空的にプールされる亜空間」だそうだ。こんなクソみたいな科学者の説明では全然解らん。去年万理がもう少し噛み砕いて説明してくれたおかげで、ようやく俺にも理解できた。

 ――つまりさ、現実はなぜいつもひとつの姿に見えるのかって考えたとき、現実にならなかった無数の可能性がぜんぶ〈カブラの狭間〉に落ちていくから、って説明するのが非存在力学イマジナリー・メカニクスなわけ。世界の裏側はいつも幽霊みたいな可能性でパンパンになってて、その存在圧であたしたちの現実は今日も安定してられると。どう? わかった?

 いま思い返すと、やっぱりそんなに解ってなかったかもしれない。が、実相化マテリアライズしてきた戒獣がだいたい破壊と殺戮に明け暮れる理由は得心がいった。奴らは存在を認めてほしいのだ。科学者たちの言い草を借りれば、存在確率を少しでも高い値で安定させたい。そのために観測者を求める。観測とか言うと物理学の用語っぽくなって胡散臭いが、要は悪戯ばかりしているガキと一緒で、自分のことを考えてくれる奴がひとりでも多くいる状況を作りたいわけだ。それも強い印象や感情――たとえば恐怖――を向けてもらえればなおいい。

 言い換えれば、戒獣は人間の恐怖を喰って生きる。だから壊す。だから殺す。注意を惹くために。シンプルでハタ迷惑な本能。

 そういうわけで戒獣は、複雑ですぐれた認識能力を持つ人類にとって、不倶戴天の敵なのだ。そうでもなければ万理が、ゴキブリも殺したがらなかったあの万理が、自分ごと消滅させてしまおうとするはずがない。

 ないのだが、またあっさり否定される。

《君の認識は無根拠の断定が多すぎる。

 確かに、より多くの人間に、より強く存在を印象付けるには、破壊活動を行うのが最も簡単な方法だ。存在者たること自体を目的とする個体は、本能に従ってそうした非友好的な手段を取ることも多い。

 しかしそうでない個体もあったし、私は存在そのものを志向しない。私が求めるのは、存在することの意義だ》

 俺は笑った。

 この戒獣は、生まれてきた意味を探しているらしい。安っぽいJ-POPの歌詞か。もしくはおセンチ旅行でインドとか行っちゃう大学生の科白か。

 こいつがひとつ前の宇宙からやってきた超生物なんかじゃなく、俺の妄想に過ぎないという可能性がまた鎌首をもたげる。しかし声はしっかり聞こえる。

《おそらくこれも、存在を希求し続けるわれら非存在の、ひとつの進化の形なのだろう。ヒトは生存本能以上に、生の意味を重要視することがある。私の行動原理も同じではないかと推測する。

 私は必要以上の存在確率を得ようとは思わない。よって、人々を恐怖させるための破壊を行う理由もない。現状、君の脳細胞と同化しているおかげで、閾値以上の量子ゼノン効果を確保できている》

 生き血? とか一瞬思った自分を殴りかける。ああ閾値いきちね。でも量子ゼノン効果ってのが何かまでは解らん。この長広舌が俺の自意識の産物だとしたら、俺の脳はかなり独り芝居が上手いことになる。即興で謎の用語を作り出すセンス。あるなら普段から使わせてくれ。

「戒獣のくせに無害アピールすんのか」

《私が人類にとって無害なものとなるか否かは、君次第だ》

 ファック。こいつは俺を脅迫する気だ。

 せっかくオラクルが平和にした世界でまたぞろ暴れられたくないなら、自分の言うことを聞けと。冗談じゃない。核兵器がガキの玩具に見えるような危険物を頭の中に入れといて、いつ爆発するか解らんそいつに怯えながら生きろという。冗談じゃない。

 突っぱねようとして、唐突に俺は、自分にそんな覚悟も能力もないことを思い知る。

 冗談じゃなかったらどうするんだ? 魔法少女はもういない。俺に戒獣を殺す力なんてない。自分の頭をかち割って、せめて協力はしないという意地を押し通すだけの勇気もない。ないないない。なんにもない。俺はしょせん魔法少女の腰巾着に過ぎなかった一般ピープル。いまは腰巾着ですらなくホントにただの男子中学生。不良にカツアゲされれば金出して土下座して非暴力を嘆願するし、そういう目に遭ってる他人を見ても見ぬふりで通り過ぎる。弱い人間なのだ。間違っても万理みたいに世界を救う英雄にはなれない、どこにでもいていくらでも代えの利く市民Aなのだ。

 だったら、いやだからこそ。こすい手でも使って裏切り者にでもなって、ヒーロー不在の世界を全力で維持することに汲々としなきゃならない。以上、悪に屈する言い訳完了。

 アンサー、服従。

「わかった……要求を言えよ。聞いてやる。だから、何もするな。人を喰ったり、島を丸ごと吹っ飛ばしたり、時間の流れをおかしくしたりもしないでくれ。頼む」

 セミがやかましい。カンカン照りの下、立ち尽くす道路のど真ん中、俺は制服の中と外で汗をだらだら流しながら、目に見えない相手に懇願している。どうかこの世界は平和なままにしておいてください。屈辱だったが、この平和は万理が望んだものだ。守らなければならない。あいつの願いを覚えているのは、もう俺だけなのだから。

 知性を持った戒獣は俺に、どんな理不尽な要求を叩き付けるのか。いまいちこいつのやりたいことが読めないせいで、予測も立たなかった。存在意義だって? 哲学の勉強でもさせられるのか?

 かぶりを振る。

 そんなことで万理が残した世界を守れるなら、万々歳だ。だがそう甘い話じゃないだろう。もっと、とんでもないことに違いない。

 恐怖する。

 頭の中に忍び込んだ怪物が、俺をどうにでも料理できるという事実に恐怖する。

《何か、勘違いをしているようだが》

 ラプラスが淡々と言う。音源がどこにあるか解らないのにテレパシーっぽいエコーなんか微塵もなく、耳でクリアに聞こえているこの感じが気持ち悪い。

《君に不利益となるようなことは要求しない。それどころか、私と共生関係にあることは、君にとって有益でさえあるはずだ》

「は?」

 ラプラスの声が急にフレンドリーな調子を帯びて聞こえる。

《私は宇宙の全量子状態をリアルタイムで把握できる。過去に何が起きたか、現在何が起きているか、未来に何が起き得るか、そのすべてを知覚し演算し得るということだ。

 たとえば、探し物がいまどこにあるかが解る。ものの名前、値段、物質組成も。他人の年齢、職業、家族構成、過去の心的外傷トラウマも瞬時に把握できる。災害の発生を予知できる。

 この力は、様々な局面で君の助けになることと思うが、どうか》

「どうか、って」

 かなりとんでもないことを言っているが、ラプラスのヤバすぎる能力そのものを疑う気は起きなかった。戒獣の持つ固有能力が物理法則をフルスロットルで無視するのはいつものことだ。核分裂を自在に操ったり、ワームホールをホイホイ作り出したりする奴らに比べれば、見た目はまだ地味な方とすら言える。

 不確定性原理も一般相対性理論も投げ捨てて、要するにラプラスは全知。全能じゃあない。全知全能なら俺の脳に間借りする必要なんかないだろう。簡単な推理。

 問題は、なぜ戒獣がこんな申し出をするかという点に尽きる。合理的に考えろ。俺に力を貸すことでこいつに何の利益があるか。ひょっとしたら俺は、メフィストフェレスに契約を持ちかけられている最中のファウストなのかもしれない。博士なんて肩書きは一生付かないにしても。

「家賃払ってくれるってか? ありがたいね。どういうつもりだ。人間を憎んでるわけじゃないとしても、肩入れする理由はないだろう……」

 とくに行き先は考えず歩き出す。突っ立ったままでは太陽に炙られすぎて人体発火しそうだったし、車が来たらクラクションを鳴らされまくって近所迷惑に違いないと思ったのだ。

 少し間があって、ラプラスは答えた。

《あらゆる物理運動を知る能力があっても、己の存在する意義を見出すことはできない。哲学的思索の分野においては、人間の方がずっとすぐれた抽象思考の能力を有している。

 私は人類に対し、敵対者ではなく、傍観者であろうと思っている。そうすることで私の望む答え、存在意義を見つけるヒントが掴めるかもしれない》

 俺は話の先がどうなるかピンと来て、半笑いでおそるおそる訊いてみる。

「まさか……人の心を観察するために俺をカメラマンとして使おう、とか考えてるんじゃねーだろうな」

《いい喩えだ。そういう理解で構わない》

 なんてこった。ガッデム。

 陳腐すぎる。あまりに陳腐すぎる。

 戒獣がみんなこういうポンコツ野郎だったらよかったのだ。そしたら前の世界だって平和なままで、万理はあんな存在論的自殺を敢行しなくて済んだのに。

《顕月万理を悼んでいるのか》

「そうだよ、てめえにゃ理解できない感覚だろ」

 かすかな優越感を覚える。たとえラプラスが宇宙の果てを知っていても、人間には当たり前の心のいたみは知り得ないのだ。

 知ってても、幸せにはならないが。

《存在しなくなった者のために祈ることは、どんな意味がある?》

「知るか。ブンガクでも読んでろ。俺は目的や意味があってあいつを思い出してるんじゃない。ただ自然に――どうしようもなく――記憶が現実に纏わり付いて、離れないだけだ」

 ほとんど来たこともない住宅街の中を、足の向くまま歩く。歩きながら、考える。この自分探し戒獣と一緒に新世界に取り残された、俺の存在意義は何だろう。

 ビッグな夢があるわけじゃない。自分の将来なんて、前の宇宙では考えたことがなかった。その余裕もなかった。

 やりたいことを無理にでも思い浮かべるとすれば、それは万理の最後の望みを叶えることだ。

 あいつは俺にも、この平和の中を生きてほしかった。この当たり前の平和。退屈で、凡庸で、誰も有難がらなくて、でも前の世界じゃ誰もが求めて止まなかった平和。クソつまらない日常をクソつまらない人間として生きられる幸せを、人々が全力で享受してくれるのが万理の望み。

 だから、寂しいとか思ってはいけない。

 あいつの末路に、悲しみや怒りを抱いてはいけない。

 笑え。

 笑え、玄野一宇かずいえ

 笑って生きていかなければ、あいつに申し訳が立たない。

 笑え。

《君の家はそこだ》

 自然に動いていた足が止まる。顔を上げた。

 二階建ての、モダンな一軒家が目の前にあった。表札に“玄野”と書かれている。

 俺の家だ。

 九歳の頃まで住んでいた家。軌道上から降ってきた最初の戒獣“ヒルベルト”に、両親と妹もろとも喰われて消えた家。それが五年前と変わらない姿で建っている。

「なんで……」

 わけがわからなかった。なくなったはずの家があること自体もそうだが、そもそも俺の家があったのはここじゃない。

 この家があったのは、北に三十キロは離れた別の町。俺はそこで生まれ育って、九歳のときにヒルベルトの襲撃で家と家族を喪い、ここさごの児童養護施設に預けられたのだ。

 養護施設の四角い建物を思い出す。引き取り手になれる親戚がいなかった俺は、“育導院レルヒェンハイム茅葉”なるセンスを疑う名前の付いたその施設から直接学校に通っていた。あちこち塗装の剥げた蒼白い外壁や、微妙に手入れの行き届いていない遊具。匂いまで覚えている。「施設のみんなが家族です!」みたいな痛々しい代理アットホーム感に馴染めなかった俺は、理不尽すぎる運命への怒りをどこに吐き出せばいいか解らず、転入先の小学校で窓ガラスを割ったり消火器を爆破したりと荒れに荒れた。世の中を冷笑するだけのクズに成り下がっていた俺を、救ってくれた奴は、もういない。

 とかく俺が美砂に来たのは家を失くした後の話であって、昔の家が何食わぬ門構えで住宅街の一角を占めているなんてのは、まったくもっておかしいはずだ。

 そこでラプラスが平然と解説し始める。

《世界が改変されたことで歴史も変わる。現在の世界では、玄野家は五年前、ここに引っ越してきたことになっている》

 そういえば、こいつは何でも知っているのだった。自称だが。

「いやおかしいだろ。なんで家ごと引っ越してきてんだ」

《君の家は元々、第六世代型の免震モジュール建築だ。このタイプの家屋は、基礎部以外を分解して運搬し、別の基礎と合わせて組み立て直すことができる。よって家そのものを移動しての転居も可能となる》

「……マジかよ」

 住んでいた俺さえ知らなかった家の構造。偶然としては出来すぎだ。たぶんこの引越しには万理の意思が働いている。

 学校。茅葉市立美砂第一中学校。

 俺と、万理が出会った場所。

 あの校舎にまた俺を通わせる、それだけのために万理は歴史を改竄して、俺の旧家を丸ごとこの学区に移してきた。そんなことがあり得るだろうか。

 当の万理が、もう学校へ行けないというのに。

《もちろん、私以外の戒獣が存在しないのだから、君の家族も死んではいない。君はもはや、孤児ではないということだ》

 それはそうだ、と認識が追いつく。学校の風景はいったん遠のき、心臓が肺の間で跳ね回り始める。

 忽然と蘇った、この家の中に。

 五年前に喪った家族が、いま生きている?

《せっかく取り戻した家族に挨拶したらどうだ。もっとも、彼らはこの世界で君と生きてきた記憶を持っているのだから、特に感慨もないだろうが……》

 扉に歩み寄り、ドアノブに手を伸ばす。

 開く。

 鍵は掛かっていない。

 この家は、俺に対して、鍵を閉めていない。

 別に俺のために鍵を開けていたわけではなかろうし、いちおうポケットを探ってみるとしっかり家の鍵は入っているのだが、そんなことは関係なかった。何の障害もなく、失われて二度と戻れなかったはずの家に入れる。そこに何かひどく象徴的なものを見たような気がして、俺はもう涙腺にじんわり来ている。

 玄関に踏み込む。見慣れていた、懐かしい間取り。板張りの廊下が奥へと伸び、右にトイレ、左にリビングへの扉がある。突き当たりには階段があって、二階は俺と妹の部屋だったはず。

 と、リビングから知らない女の子が現れる。やっぱり別の家だったか? 半瞬の思考停止。

 いや違う。知っている。俺はこいつを知っている。

 妹だ。

 最後に見たときから五年分の成長を遂げた、妹の八紘やひろだ。

「あ、カズ兄おかえり」

 何を食って育ったものか、十二にしてはいいスタイルの美少女となっている。しかしそんな妹を前に、俺が思い返すのは生涯最悪の瞬間。

 あのとき八紘はまだ七歳だった。七歳の幼女が、目の前で家の半分ごとバケモノに両親を喰われ、引っ張って逃げようとする俺の腕から掻っ攫われて、自分も家の残り半分ごと喰われた。

 忘れ得ない。体内に無限の空間を持つ戒獣、ヒルベルト。大小数万にも及ぶ立方体で構成された、長大無機質な銀色の龍。飛んできた一辺四メートルくらいのキューブから、水銀みたいな触手が伸びて人を絡め取って飲み込んでいった。あの頃人類にはまだ戒獣への対抗手段がなかった。だから間一髪で助けてくれる魔法少女なんてのもいなくて、両親と八紘は助からなくて。ああ、ああ。

「どしたのカズ兄、肩ぷるぷるしてるよ。具合悪いの? 風邪ひいた?」

 八紘の声は昔と変わっていない。この声で、俺の手からもぎ取られた七歳の八紘は泣き叫んでいたのだ。やだああカズにいたすけてたすけて――叫びながら呑まれていった。何年も悪夢に見続けた。

 その妹が、いま目の前にいて、元気に成長した姿を見せている。俺の体調なんぞ気遣っている。俺はこいつのために震えているのに。

「ひゃ」

 頭のどこかで、心底気持ち悪い兄貴だなと思いつつ、俺は八紘を力いっぱい抱きしめていた。殴られたっていい。シスコンと呼ばれようが知ったことか。火のような涙がこぼれて、あふれて止まらないのだ。

「八紘……八紘ぉっ……!」

 もう二度と、会えないと思っていた。

 後悔を募らせた。もっと妹にやさしくしてやればよかったと。

 謝りたいとも思った。手を、あのとき手を離してすまない、すまない八紘、俺が代わりに死ねばよかったのに。おまえを生き返らせるためなら何でもできると腹の底から信じた。それは結局、別の奴にやらせてしまったのだけれど。

 こみ上げてくる熱い愛情と、沈んでいく冷たい悔恨。俺は必死に、腕の中のぬくもりを感じようと身体を寄せる。

「八紘っ……あぁ、おっきくなったな、八紘……」

「ちょちょちょちょちょ、ま、待っ、どうしたの落ち着こうよカズ兄! 何かもっとこうあるでしょ妹の成長具合を確かめる方法ぐらい――き、兄妹でエロスは御法度ですぞぉぉぉ!?」

 気がついたら床に伸びていた。俺が。ひとりで。

 鮮やかな正中線連撃を喰らった気がする。きっと気のせいだ。でも股間の鈍痛は気のせいじゃない。

《見事な膝だった。しかし、体温・発汗・血圧・心拍数など諸々のヴァイタルを見る限り、彼女も攻撃するほど嫌がっているようには思えなかったが》

「そりゃ家族だしな」

 実の兄に許されざる想いを、とかそういう昼ドラみたいな話じゃなく、八紘は昔からちょっとアホなだけだ。根っこが変わっていないと解って、俺はまた新しい喜びの涙を流す。本当に八紘だった。死んだ妹が、死ななかったことになった。

 万理の犠牲と引き換えに。

「……駄目だ」

 考えるな。悲しんではいけない。ほかならぬ万理のために。

 俺は痛みに耐えながら立ち上がる。八紘は兄の奇行に恐れをなし、二階の自室へ逃亡したらしい。少し冷静になって考えればあれはマズい。謝罪し、誤解を解かなければ。

 両親は家にいないようだった。そういえば、今日は平日なのだろうか。

《火曜日だ。日付は八月の三十日。時刻は十五時三十五分》

 ラプラスを、ちょっと便利かもしれないと思う。そうか。日付や時刻は前の宇宙からそのまま続いているのか。そうか。

 五年前を基準に考える。火曜なら父は普通に会社へ出ているし、母も夕方までスーパーでパートタイムの仕事をやっている。なるほど、俺と同じく夏休み中の妹が留守番をしていたわけだ。リビングでくつろいでいて、玄関で音がしたので出迎えに行ってみたら血迷った兄が襲い掛かってきた。なんたる悲劇。土下座確定。

 待てよ、八紘ひとりで留守番してるのに鍵が開いてたのか? 無用心きわまる。入ってきたのが俺じゃなく通りすがりの強盗だったら、いまごろ妹は五年前と同じように俺の名を呼びながら――

 断じて許せぬ。可能性すら抹殺せねばならない。

 そんなわけで八紘の部屋に突撃し、焦るあまり謝罪しながら説教を仕掛ける俺。

 度重なる兄の奇行を見ても、八紘はまだ親しげにカズ兄と呼んでくれる。ほんとうにいい子になった。戒獣がいなければこんなふうに育っていたのだ。そしてこれからもこんなふうに育っていくのだ。きっと。

「八紘が俺のこと嫌いでも、俺はおまえのこと、ずっと大事に思ってるからな」

「急になに言い出しちゃったのかなマイブラザー!」

 八紘は驚きすぎてベッドにしこたま肘をぶつけている。その隙に俺は土下座しながらまくし立てる。

「ずっと言いたかったんだ。これからは、もっといい兄貴になるよ。困ったことがあったら何でも言ってくれ。俺は絶対、八紘の味方になるから」

 本心だった。妹が生きて戻ってきたら言ってやろうと、埒もない空想の中で考え続けた言葉。

 やっぱり俺はシスコンかもしれない。だが、妹があんな死に方をしてトラウマにならない奴はいない。その妹が本当に戻ってくれば、人間は過保護にもシスコンにもなるのだ。

「そんな……その……カズ兄のこと別に嫌いじゃないしむしろ好きだし、あっ違うのこれは家族愛的なアレで、でももっといい兄貴になんてなられたら惚れちゃうよ家庭崩壊しちゃうよぉ! だから出てってお願い! あやまちが起きる前に!」

 部屋から追い出された。

 俺は階下へ降りていき、声を出さずラプラスに話しかける。

「な、アホだろ」

《多分に君のせいではないかと推測する》

 誰もいない台所へ入り、冷蔵庫から牛乳を出してコップに注いで飲む。コップはガラス製、どういうわけかキリンビールのロゴが付いているやつだ。昔からちょっと麦茶やら牛乳やらを飲むときに使っていた。前の宇宙では、家と一緒になくなってしまったけれど。

 施設では、冷蔵庫の中身を勝手に飲めたりはしなかった。牛乳一杯を飲める幸せ。ほのかな甘みを噛みしめながら、空になったコップを洗う。

「八紘はあのアホっぷりがときどきウザくて、ケンカすると何か強くて余計にイラついて、でも人懐っこくて可愛いから許しちまうんだ」

《愛憎入り混じる、というやつか》

「そこまでガチな話じゃねーよ」

 リビングへ行き、テレビの前のソファに身を投げ出す。昔もこうしてここで昼寝をした。ソファはところどころ汚れてボロくなっていたが、新しいのに買い替えられていなくてむしろよかったと俺は思う。昔と変わらないものがあるだけで、幸せな気持ちになれた。カーテンの色が変わってたりテレビが薄型のデカいのになってたりするくらいは御愛嬌だ。

《ときに一宇、君の妹が言っていた“あやまち”とは何のことだ。説明を求める。なぜ家庭が崩壊するのだ?》

「うるせー黙れ。何でも知ってんなら解るだろ」

 俺はもう眠くて、いやこの世界ではまだ一時間も過ごしていないのだがとにかく疲れ切っていて、ラプラスと独り芝居めいた会話をするのもそこそこにソファで寝てしまう。夢を見ない深い眠り。

 そして食欲をそそる匂いに目を覚ますと、いつの間にか俺の身体にはタオルケットが掛けられている。台所の方から響く小気味よい包丁の音。とんとんとん。見れば母が料理中だ。

 玄野夕奈。

 悲鳴を上げる暇もなく、ヒルベルトのキューブに吸い込まれて死んだ、俺の母親。

 とても四十近くには見えない。生活の疲れというものが感じられないのだ。これは彼女が幸せに暮らしてきた証に違いなく、その若々しさに俺は否応なく五年前へ引き戻される。

「母さん」

 一瞬で九歳のガキに立ち返った俺が、かあさんうわああかああさああんとか意味不明の叫びを発しながら飛び付いていくと、母はとっさに包丁を置いて、十四の息子を大きな胸に受け止めてくれる。

「どーした息子よ、泣くほど辛いことがあったのか。それともママのおっぱいが恋しくなったのか。よしよし」

 別に万理が世界を書き換えたせいで母がおかしくなったわけじゃない。この人は俺が物心ついたときからこういう喋り方だった。そんなふざけているとしか思えない母親によしよしされて、俺は無様にも大粒の涙をこぼしながら五年分の愛情を呼吸する。少し汗ばんだ胸元の匂いを鼻から吸い込んで、また会えたら言おうと思っていたことをゲロのように口から垂れ流す。

「俺っい、いい子になってっ、もっと親孝行するからっ。俺のこと産んで育てて、くれた感謝もいっぱいするから、い、生き、てて」

「ん~? だいたいわかったぞー、さてはアレだな。昼寝中に『親が死ぬ』系の夢見たな。だぁいじょーぶだってアタシまだ五十年くらい生きるし。死に際までぴんしゃかよく動くババアになって、子供らに介護の手間なんか掛けさせないって決めてるんだからさ」

 身長で言ったら俺の方が少し高いくらいになっているはずなのに、抱き付いてきた中学二年生を、母は大樹のように揺るぎなく支えた。当たり前だ。俺を産んでくれた女性が俺より小さいはずはない。母親は子にとって、いつまでも絶対的に大きいのだ。

「さあほら、夜ごはん作れないからどいたどいた。はーなーせって暑いよベタつくよ。それにちょっと恥ずかしいんだ」

「ご、ごめ」

 俺がおたおたしながら離れると、母は笑って包丁を取り、切りかけの野菜に向き直る。その笑顔に、ああそういえば、と小さい頃のことをまた思い出す。この人、スマイル一発で十歳ぐらい若返れるんだった。いまでもそうらしいので、どうせならこれからもそうであってほしい。

「ところで一宇、中学生にできるいちばんの親孝行は……何だと思う?」

「えっ」

 これは晩飯の支度を手伝えというサインだろうか。それとも洗濯物の干し残しがあるとか、お遣い行ってきてくれとかそういう話か。いやいやいちばんだぞ、もっとスケールの大きい話に違いない。親より先に死ぬなとか正義を愛して生きよとか、きっとそんな。

 どれでもなかった。

「それはねー、夏休みの宿題を、ちゃんと新学期の初日に提出してくれることなんだなー」

 天井知らずの幸福に、氷の弾丸が撃ち込まれる。ラプラスはさっき何と言ったか? 確か、今日は――

《八月三十日。あと一日と数時間で、君の夏期休暇は終わりだ。ちなみにさご第一中学校の二年生に与えられた課題は、前の宇宙と同じく学年共通となる。国語が読書感想文一二〇〇字程度、数学が問題集一冊、英語が教科書の巻末練習問題、社会科は……》

「ヴォオオオォォオオォォォォオオオォオオオオ」

 獣の咆哮にも似たこの音。俺の叫びである。

 なんてこった。当たり前だ。俺は小一の頃から夏休みの宿題を新学期まで投げ捨て続けることに定評のあった男。家族を亡くしてからも心を入れ替えて猛勉強なんてことはなく提出遅延のエキスパートであり続けた剛の者。どんなに家庭環境が良かろうと人の本質は変わらない。俺が八月の終わりになっても課題を放置し続けているのは、修正された歴史においても厳然と貫かれる宿命なのだ。

「わかった、今年からやる! ちゃんと間に合わせる!」

「たりめーだろスットコドッコイ。来年おめー受験だぞ。出された宿題もこなせないようじゃド三流高校しか入れねーぞ。不良高校生たちが恐怖と暴力で支配する世紀末な感じの学校入りたい? バイク通学してくる上級生に毎朝『ヒャッハー新入生だァ!』とか言って襲われるハイスクールライフ送りたい? 御免だよねー、そんなら勉強しようねー。東大目指せとは言わないから、せめて楽しい青春を過ごせるように努力したまえ長男」

「やるから! やるから包丁振る手元見て!」

 自室へ向かおうとするも、母に止められる。

「もうすぐできるから待ちねえって。あ、お皿並べてくれる?」

 そうして母の夕餉支度を手伝っているうちに妹が降りてきて、三人で食卓を完成させようというタイミングで父が帰宅する。

 父、玄野あきたかは何事につけても静かな人だ。死ぬときでさえ、子供たちにひとこと「逃げろ走れ!」としか言わなかった男である。いまも玄関の開け閉めに音を立てず、リビングにひっそり入ってきて娘を驚かせた。

「えひゃい!? あっおっお父さんおかえり!」

 どんだけ動揺してんだ。俺は苦笑する。しかし俺も動揺している。

 父は静かであっても決して不愛想ではない。なで肩の上にいつも穏やかな微笑みを乗せていて、妻や子供が話しかければ口下手ながら快く応じる。すごい特技や職能を持っているわけではまったくないが、俺も八紘も普通に尊敬していた。いまでも尊敬できる父親であるはずだ。

「おかえり、父さん……」

 おずおず話しかけてみると、グレーのスーツを脱ぎながら、父は俺としっかり視線を合わせて言った。

「ただいま、一宇。

 ……もし、何か悩みがあるなら、相談してくれてもいい。これでも人生の先輩だからな。男の大抵の悩みは、経験してきた」

 息子の目を見ただけで、「何か悩み」があると見抜くこの鋭さよ。そして、俺が八紘に言ったのとどこか似た文言。

 どうしようもなくこの男は父親なのであって、俺はまた何度目かの落涙を母と妹にまで見られてしまう。

「カズ兄、帰ってから変だよ……でもいいの。嫌いじゃない。カズ兄がココロのビョーキになっちゃっても、八紘だけはそばにいてあげるからね」

「おーい娘。確かに今日の一宇は奇妙キテレツ摩訶不思議だけどさ、アタシにゃあんたの方が数段ヤバく見えるよ」

 三文コント以下のやり取りすらもいとおしい。

 やっと揃ったのだ。

 あの日、理不尽に奪われたものすべてが。

 二度と取り戻せないはずだった平和が、こうして再びいまここに。その奇跡が、確かに胸を熱くする。

 なのに、一方で腹の底が冷えてゆく。奇跡の尊さを感じるたび、払った犠牲の大きさを想わずにいられない。

 万理。

 おまえのくれた幸せが、いたむ。

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