夕闇に立つ

餅月

夕闇に立つ

 最寄り駅の前には、制服を着た警備員がぼんやりと立っている。

 その隣にも、似たような人が立っていた。僕はそこを軽い会釈と共に通り過ぎる。

 始めは物珍しかったものだが、一年も経つと流石に見飽きた光景になってくるものだと思った。


 二限からの授業の日はやはり電車が空いている。誰一人望まない押しくら饅頭に参加せずに済むし、立ちながら寝て小っ恥ずかしい屈伸運動もせずに済むのだから、世間の大学は一限など抹消してしまえばいいのにと思う。

 僕は最寄りから特急の一つ格下の電車に乗って、余裕で手に入れたシートの端に座りうつらうつらしていた。

 ただ唯一気になってしまうのは、やはりラッシュを外した時間なだけあって、車内に深緑色がよく見えるということ。でもそれだけだった。

 別に昼下がりの電車でおばさま方がうるさくしている訳でもなく、終電間際で酔っ払いが吐瀉物内蔵の青い顔をしている訳でもない。見慣れたし、全くもって迷惑には思わなかった。ただ、未だに残る違和感の欠片だけが、その深緑の服を気にさせるのだ。

 眠気を覚え始めたちょうどいいところで大学の最寄り駅に着き、僕は不機嫌むき出しな顔で電車を降りた。

 乗る時は地上だが、僕の利用している路線は途中から地下鉄になる。発車していった電車の残り風を受けながら上りのエスカレーターに乗り、そこで今日初めてスマホを取り出した。

 以前まで行きの電車は専らこれでゲームに勤しんでいたのだが、携行バッテリーの調子が悪いのに加え、最近は電波の通りも悪くなって更に電池消費が激しくなったので、やめてしまった。政府が都市部で民間に回すネット回線を削減したとかいうニュースを、少し前に聞いたのを思い出す。

 改札の上には太字で「安全輸送にご協力ください」と書かれた横断幕が張ってあった。企業の広告と違って飾り気の欠片もないので、やっぱり微妙だと思ってしまう。しかしあまりまじまじと見るとこの駅の警備員にもまじまじと見られることになるので、早々に視線を移して登校を急ぐことにした。


 授業が始まって間もなく、友人の一人が息を切らせて大教室に入ってきた。他の受講生が一瞬だけ向けた嘲笑と興味の目を避けるように素早く扉を閉めた彼は、忍び歩きならぬ忍び走りで僕の隣席に滑り込むと、リュックを下ろして大きくため息をついた。

 自転車通学の彼曰く、踏切、それも特に長いタイプのに引っかかったのだという。「でも珍しい車両が見れてちょっと心躍った」とか、「だから昨晩ネトゲを遅くまでやったことを後悔はしてない」とかいう彼の話を右から左へ受け流して、僕は確保しておいたプリントと出席票を手渡した。……彼が小脇に置いている購買のビニール袋を尻目にしながら。

 ちゃっかりコーヒー買ってる暇はあったんだな、と言ってやると、友人は歯を見せて笑うのだった。

 色んな意味で何も知らず、心浮かれていたであろう一年前の自分に、もうちょっとましな友達を作っとけよと物申したくなった。

 とはいえ大学には、夏頃にもなれば息を切らすことすらせずに、談笑しながら悠々と遅れてくるような連中もいる。またこれは私怨であるが、そのさらに上位種として席取りだけした挙句に数十分遅刻してくる連中というのもいる。――ともあれ、そんな者達がいるのだからこの友人はまだ全くもってましな方だろう。

 だが彼は、授業の後半になる頃には机に頭をもたげて力尽きていた。

 ちなみに僕はその三十分ほど前、とっくに睡魔に魂を売り渡していた。


 心地よい睡眠の後は食事と相場が決まっている。決まっていて欲しい。それが肥満への一歩という説は置いておいて、この二つはどちらも幸福感をもたらすのに最適な行動であることは間違いないのだから。

 昼休み、無事に席取り合戦を制した僕達は、喧噪まみれの学食で醤油ラーメンを啜っていた。微妙に味が薄いラーメンである。それでも僕と彼は恐らく幸福であった。

「塩の供給が滞ってる訳じゃないよな?」

 友人は眉根を寄せてもごもごと喋る。全方位を塩水に囲まれたこの国で塩不足は無いだろう、と僕は唸った。

「じゃあなんでこんなすまし汁みたいに薄いんだろうな」

「君がこってり豚骨スープに慣れ過ぎてるだけだと思うけど」

 オフィス街や基地が近く、成年・中年男性向けの飲食店が散在しているせいか、うちの大学はやたらと高カロリーラーメンの愛好者が多い。肥満に直結している訳ではなさそうだが、食後の腹痛に直結している者は数知れない。

 もしかしたら、ここのラーメンが薄いのはその事情を考慮しているのかもしれないなと独りごちて、僕は申し訳程度に添えられたナルトを口に放り込んだ。

 そりゃねえよ、と友人は返す。その後ろでは、ほとんど誰も見ていないであろうつけっ放しのテレビが昼のワイドショーを垂れ流していた。右上のサイドテロップには「日本、今年も優勢維持なるか?」とある。

『……〇〇さん、日本の今後の戦局は思わしくないそうですが』

 神妙な面持ちの若いアナが、顔の濃いコメンテーターに話を振る。

『そうなんですよ、何せ向こうも随所でチームワークを駆使してきますからねぇ。侮れない相手ですよ。……』

 コメンテーターは両手でエアろくろを回しながら答える。その様子を、学食でただ一人僕だけがぼんやりと、ナルトを咀嚼しつつ眺めていた。一方友人はいつの間にか気管に入ったらしいお茶に噎せていた。

「……大丈夫?」

 画面が切り替わったので不運な友人に目を向ける。

「ぇほっ…やっぱり寝不足は良くねえな」

 関係ないでしょ、と一蹴したら悲しそうな顔をされた。


 二限から授業が始まる日は楽だという話をしたが、短所もある。

 一限からであれば昼過ぎに放課になるような時間割でも、同じ授業数で二限スタートの日は、授業を終える頃には夕方なのである。つまり、それほど長い時間を大学で過ごした訳ではないのに一日がほとんど終わってしまったような感覚に襲われるのだ。休日に午前中いっぱい寝過ごしてしまった時の喪失感に近い。

 おまけにこの日は所属サークルの活動日でもなく、数少ない友人も全員自分より前か後に最後の授業があるため、週の中でも屈指の寂寥に駆られる帰路になる。

 こうして日常の中でふと訪れる孤独感というものは、ある程度世界共通なのではないかと、駅への道すがらで空を見上げて考えた。生活の豊かさや安定度合いに関わらず、誰もがこんなタイミングで感じるものなのかもしれない。――平和ぼけした考えだと言われればそれまでなのだが。


 ところが、駅が近づいてくるにつれて、やかましい音が聞こえ始めた。聞き取れるようになってくるとそれが何者かに気付き、去年の八月以来かと思い至ると同時にげんなりした気分になった。

『……我々は断固として反対する! 今も続いている国軍の海外派兵、特措法で可決された米軍の前線基地建設補助、そういったものに真っ向からノーと言える人が、刃を向けられる人が、今の日本には少な過ぎるんです!』

 駅の前では、奇妙な旗やカードを掲げた真っ白なワゴン車が、耳障りなノイズ混じりの声と古い歌を垂れ流していた。警官や駅警備員と押し問答になっている者もいる。

 仕方ないので、別の改札口に回ろうと僕は踵を返した。ここからでも入れるには入れるが、単純に近付きたくないという気持ちが勝る。

 信号待ちの間、彼らの声に少し耳を傾けようとしてみたが、支離滅裂の名を体で表したような内容で、とても聞けたものではなかった。

 そんな彼らも、近くを深緑色のトラックが横切る瞬間だけは大人しかったのがなおのこと癪に障る。

 どんな世になっても、きっとああいう連中はどこか現実の世情と乖離したことしか言わないのだろう。平和なら平和で、またトンチンカンなことを槍玉に上げて叩く。そうすることでしか、彼らは存在を示せないのだ。自衛隊が改称する時でさえ、彼らは直訴や請願などせず、署名活動すらしなかったのがその証だ。

 僕も僕なりに恐らく無知な部分は持っているはずだが、ああいった人間への嫌悪感はそれだけで拭い去れるものではなかった。腹の底で生コンをかき混ぜられているような不快感に、僕はひっそりと顔をしかめた。

 嫌なものを見たと思い、帰りの電車は音楽でも聞きながら帰ることにした。バッテリーは食うが家まではもつだろう。

 イヤホンをはめると、世間から一つ線を引いた内側に入ったような、先ほどとはまた違う少し居心地の良い孤独が身を包んだ。


 ホーム丸一つ分の距離を歩いて辿り着いた改札には、またしても安全輸送云々の横断幕があった。国家機関の掲示にしても少々しつこいなと思ったが、その矢先ではたと思い至る。この時期だと風の強い日が多く空路の輸送が難しいのか、と合点がいった。

 今が一応の国家緊急事態とはいえ、それが一年以上続き形骸化・常態化しているのも事実だった。この間も空軍の夜間騒音問題とその反対運動がニュースになったばかりである。代わりに地下鉄の線路を酷使することになるから、こんな幕を出して利用客の理解を得ようという案が通るくらい、政府も大変なのだ。

 改札からエスカレーターを下る最中、列車の到着を知らせる接近音と同時に、特徴的なブザー音が鳴った。ホームの方、もといトンネル内から吹き上がってくる風を感じる。

 ホームに着いたところで、僕はホームの先端をを見やった。眩い前照灯が線路を照らす。

『臨時の軍用車両が通過します、白線の内側から出ないでください』

硬い声で駅員が放送した。呼応するようにして、普通の電車にしては荒々しい、電気機関車のような警笛が鳴り響く。

 羽田行きの輸送列車が、回転灯を点けながらゆっくりと通過していった。分解された装甲車や、大きな艦砲の砲身のようなものが、幌を被せられた状態で長い貨車の荷台に収まっていた。

 思えば、二限の時間に友人が言っていたのと同種の車両かもしれない。聞き流していたので本当かどうかはわからないが。

 どのみち、確かに「安全輸送」と呼びかけるだけのことはあるなと納得した。無理して強風の日に空輸するよりは、確かに地下鉄で運んだ方が安心だろう。

 だがその後やってきた電車が、さっきの輸送列車によって遅延し超満員になっているのを見て、その納得はあっという間に吹き飛んだ。


 最寄りに着く頃には日が暮れかけていた。

 駅の前には、やはり制服を着た警備員が所在なさげに立っている。

 その隣にも、似たような人が立っていた。制服は制服でも、深緑色の迷彩が施されたそれを着て、小型バイザー付きのヘルメットをかぶり、肩には自動小銃を提げ、すぐ脇に機動戦闘車と装輪装甲車を従えた、軍人。

 ちょうど、コンビニから別の隊員が出てきて彼におにぎりを渡すところだった。そばにいた警備員は一瞬羨ましげにそれを見たが、気を利かせた隊員が袋からもう一つ出して手渡しに来ると慌ててそれを断る。一緒になりたくない、と言っているようにも見えてしまった。

 だが深緑の彼らもまた、所在なさげだった。

 昼に学食で見たテレビで言っていた「相手」、つまり敵国。

 そして帰りの駅で見た装甲車や砲身が羽田から運ばれ、使われる場所。

 今も砲火が飛び交っているであろうその戦場のことを、彼らは想像できないだろうし、したくもないのだろうなと思った。


 くぐもった轟音に視線を上げた。宵闇の迫る遥か高空を、十隻近い戦空艦の艦隊が抜けていく。……この時間だと、現地に着くのは深夜だろうか。風に煽られるのを警戒してか、その太った飛行船のようなシルエットは随分と広く距離を取っていた。

 ゆっくりと流れていく白い航跡の束が、空を二つに割く。いつまでもその境界線は、消えないままだった。

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