第54話 愛する世界にお別れのキスを
共和国新政府の成立からひと月が経ち、魔物の国から二度目の大型使節団が来航しました。
本格的な貿易協定、安全保障条約の締結を目的としたこの第二陣は、船団に専門家を満載してやってきたため、僕たちが共和国に残るべき理由は、ここで完全になくなったのでした。
「少しの間、お別れだ。次会うときは、私が魔物の国に
出港を前に、ルキアはそう言って僕たちを見送ってくれました。
船が警笛を鳴らし、ゆっくりと動き出します。
僕にとってはとても長い、そして大きく人生を変えた旅。
それが、ようやく終わろうとしているのでした。
「シメオン、よかったの? ユライアのこと、気になるんじゃないか?」
走り出した船の甲板で、いつまでも大陸を見つめているシメオンに、僕はそう聞いてみました。
シメオンは、意外にもさわやかな声で答えます。
「またすぐ会いにいくさ。戦争は終わったんだ」
シメオンはそう言って、べべの肩を叩きます。
「それより、お前はどうするんだ。人間の国で暮らすのか?」
べべは、真面目な顔で答えます。
「はい。作家になる夢を叶えたいっていうのもあるけど、ミミさんとお仕事をしてみたいんです。彼女の仕事から学んで、僕はいつか、魔物の国でベストセラーになるような本が書けるようになりたい。一度コクマ村に帰って、母ちゃんに報告します。しばらく人間の国で暮らすって」
「……そうだね。ベベならきっと、うまくいくよ」
僕がそう励ますと、今度はベベが僕に問いかけてきました。
「エルさん、それより、クリオさんはどうするんでしょう? 元の世界に帰っちゃうんでしょうか?」
「……どうだろう」
僕があいまいな答えを返すと、シメオンは驚いたように言います。
「なんだ、まだ聞いてないのか? このままクリオが帰っちまっていいのか?」
「そりゃ、僕だってこの世界にいてほしいよ。でも……」
「まったく、あんたは器用なんだか不器用なんだかわからんな。いいか、元の世界に帰るか、この世界にとどまるか、そりゃあクリオが決めることだ。だけどな、お前がお前の気持ちを伝えることを、ためらう必要なんか無いんだぜ」
シメオンにそう言われ、僕は頭を抱えました。
どうするのが正しいのか。いやそもそも、正しくあろうとすること自体が間違っているのかも。
とはいえ、クリオと話したい気持ちは、偽りなく僕の中で大きくなっていました。
夜になり、陸地は視界から消えました。
月が海を照らし、空に星が瞬いています。
夜風を浴びながら甲板を歩くと、船首のほうから懐かしい歌が聞こえてきました。
Somewhere over the rainbow
(虹の向こうのどこか)
Way up high
(空高くに)
There's a land that I heard of
(聞いたことのある国がある)
Once in a lullaby...
(いつか子守歌で)
月の光を浴びて海に歌う、異世界の人。
それはひとつの絵画のように、幻想的で、あまりに美しい光景でした。
「……あの時も、その歌を歌っていましたね」
僕が声をかけると、クリオはこちらを振り向き、優しく微笑みます。
いつもと変わらない、穏やかな笑顔で。
「エル。ようやく魔物の国に帰れますね。きっとみんな、あなたのことを待っていますよ」
「そう……そうですね。本当に、久しぶりです」
胸が締め付けられるような想い。
僕は、その痛みを少しの間だけ抱きしめて、それから、聞きました。
「ねえ、クリオ。あなたは帰るんですね。元の世界に」
クリオは少し申し訳なさそうな顔で笑います。
「やっぱり、エルにはわかっちゃいますか?」
「わかります。きっとクリオは、そう決めているんだろうって。でも、僕は帰ってほしくないです。ずっとこの世界にいてほしい」
言葉は、堰を切ったように勝手にあふれてきました。
クリオは髪をなびかせる風が通り過ぎるのを待って、静かに答えます。
「エル、私の世界に、こんな物語があります」
そうして、クリオは僕にひとつの物語を教えてくれました。
少女ドロシーは、ある日大きな竜巻に飛ばされて、知らない国に迷い込んでしまいます。
そこは、魔法使いと小人たちが暮らす、オズの国。
家に帰るためには、エメラルドの都に行き、オズの魔法使いにお願いをするしかありません。
ドロシーは、脳をほしがるカカシと、心をほしがるブリキの木こり、勇気をほしがるライオンと一緒に、エメラルドの都を目指します。
ドロシーたちはたくさんの冒険を経て、ついにエメラルドの都でオズの魔法使いと対面します。
しかし、オズの魔法使いは、実は魔法なんて使えない、ただの詐欺師だったのです。
「オズの魔法使いは、たくさんの発明品を使って、自分はすごい力を持った魔法使いなんだと、オズの国に住む人たちに信じさせていたんです。オズの国の人びとは、魔法使いの力が怖くて、彼に逆らうことができませんでした」
クリオは優しく言いました。
「ねえ、エル。ドロシーがオズの国の王様になって、元のおうちに帰らなかったら、この物語は悲しい物語になってしまいませんか?」
僕は、クリオの問いに答えることができませんでした。
クリオは僕を励ますように、明るい声で続けます。
「それに、私、この世界で、みんなから力をもらいました。ここに来る前の私は、世界に働きかけることを恐れて、自分の中に閉じこもっていたんです。でも、今なら、何かができる気がします。この世界でできたことほど、大きくなくていい。ほんの少しでも、私が私の世界のためにできることを」
僕だって、よくわかっています。
クリオは、きっと帰るべきだ。
クリオの家には、お母さんがいて、彼女の帰りを待っている。
それに、きっとこの世界での思い出が消えてしまうわけじゃない。
僕も、この世界も、クリオからもう、たくさんのものをもらったんだ。
彼女は帰る。
それなら、笑顔で送り出してあげるべきなんだ。
「……そんな顔しないで。せっかく固めた気持ちが、揺れてしまいます」
クリオが僕の頬に触れてはじめて、自分の頬に涙が伝っていると気づきました。
クリオの指が、その雫を優しく拭います。
「エル、これは二人だけの秘密です。そうでないと、エテルナ様に叱られてしまうから。あなたとの思い出を、ずっと忘れないために」
そうして、クリオは僕の唇に、そっと唇を重ねました。
それは、ほんの一瞬のこと。
とても永く、そうしてあまりに短い、大切な時間。
僕は、きっとこの瞬間を、ずっと忘れないでしょう。
体を離して、クリオが言います。
「エル、あなたがいたから、この世界を愛することができた。ありがとう。心から、あなたに感謝を」
クリオが船室に戻ってからも、僕はしばらく、夜の空を見上げていました。
別れの時に、涙をこぼさないために。
ここで、その時の分も泣いておこうと。
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