第40話 時の止まったような朝もやの中で

「……エル……エル……エルンスト……」


 懐かしい声が聞こえます。

 揺り起こされるようにして目を覚ますと、手元の釣り竿が動いていました。


「引いているぞ、エルンスト」


 僕を呼ぶ声は、父の声でした。

 そういえば、小さなころはよくこうして、父といっしょに小舟を出して、釣りをしたものでした。

 急いで釣り竿を握りましたが、チャポンという小さな音とともに、手ごたえは消えてしまいます。


義父上ちちうえ、逃がしてしまいました」


「そうか。残念だったな」


 父の声がひどく優しくて、なぜだか僕は泣きたいような気持ちになってきました。

 僕たちの舟は、まるで世界に取り残されたように、朝もやの中にぽつんと浮かんでいます。


 僕は辺りを見回して言いました。


「義父上、お仕事に行かなくていいんですか?」


 父は笑って答えます。


「ああ。今日はお休みだからね」


「よかった。じゃあ今日はゆっくりお話しできますね。僕、義父上にお話ししたいことがあったんです」


「なんだね?」


 だけど、どうしてか、声が出てきません。

 話したいことがたくさんあったはずなのに。

 僕は、何を話せばよかったんでしょう?


「……僕は……どうして泣いているんでしょう?」


 なぜだか涙があふれてきて、止まらないのです。


「エルンスト、いいんだ。泣いてもいいんだよ」


「……義父上……僕は……僕は……」


 父が僕の頭を優しく撫でます。


 僕は、どうして自分が泣いているのかもわからないまま、父の胸に抱かれて泣き続けました。


 舟は時の止まったような朝の中で、ただ浮かんでいます。


 ――……。




 どれくらいの時間が経ったでしょう。

 今はもう涙も止まり、凪のように穏やかな気持ちが、僕の胸を包んでいました。


「……エルンスト、さあ、もう行きなさい。私の友人は、最後に借りを返してくれたようだから」


「義父上、また、いつか釣りに連れて行ってくれますか?」


 僕がそう聞くと、父は、困ったような、うれしいような、不思議な顔をして、こう答えました。


「ああ、いいよ。でもきっと、もっとずっと先のことだろうな」


 ゆっくりと、朝もやが晴れていきます。

 それと同時に、父の姿も、船も、水も、すべてが光の中へと溶けていくのでした。


「……義父上、さようなら」


 真っ白な光が、再び僕を包みます。

 そうして、鮮烈な痛みが――。




「エル! エルンスト・バルトルディ! 生きているか!? しっかりしろ!」


 頬を激しく叩かれ、僕は目を覚ましました。

 見回すと、辺りはがれきだらけ。

 身動きをしようとすると、僕の体も半分がれきの中に埋まっていることがわかりました。


「おお! よかった! 目を覚ましたな!」


 そう言って僕の頭を撫でるのは、ルキア――帝国の将軍、“鉄の心のルキア”です。


「痛たた……ここは……大理宮?」


「ああ、“元”大理宮だ。“黒の涙”が発動して、空が真っ黒になったときは、さすがの私ももうお終いだと思ったぞ。だが、空にとんでもない数の魔法陣が現れて、爆発を押さえ込んでいくのが見えた。あれはお前の仕業なんだろう? よくやったな! エテルナも近くか?」


 ルキアは興奮して、急き立てるように僕に問います。


「爆発をここまで抑え込めるとは思わなくて……エテルナ様は、僕が魔物の国に飛ばしました。そうだ! リューベックは!? あの爆発を防いだのは、僕よりもむしろあの人なんです!」


 そう聞くと、ルキアは険しい顔になり、一瞬ためらってから、こう答えました。


「リューベックは……死んだ。彼のものと思われる遺骸が、がれきの中から出てきた。焼けただれてしまっていて、見れたものではなかったが……」


「……そう……そうですか……」


 帝国宰相にして、練達の魔術師リューベック。

 彼の最後の魔法は、ただ僕を、僕だけを守るために使われたのでした。


「ともかく、よくやってくれた。大理宮は崩壊したが、市街はほとんど無事だ。ゴーレムは機能停止したし、帝都の衛兵たちも爆発で完全に士気を失った。私たちの勝利だ」


 そうして、僕は反乱軍の兵士たちに病院へと運ばれました。

 失うのを覚悟していた命……それが救われたことには、きっと何か意味があるはず。でも、僕は何を成すべきなのか、それが今はまだ見えていないのでした。

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