第29話 新月の夜

 邀撃作戦の決定から出陣までの時間はほとんどありませんでした。

 ネグロス島からベセスダまでは3日の航路。進んでくる帝国軍を海上で奇襲するためには、一日の猶予もないのです。


 エテルナ様は参謀本部に命じて精鋭の白兵戦部隊を至急編成させるとともに、ベセスダに駐留する海軍の軍艦のうち、特に高速かつ兵員の輸送に適したものを選別して出撃準備を整えました。


 決戦は明後日、新月の夜。

 魔物の国の命運を決める決戦が、目前に迫っていました。




 ――出陣を明日に控え、エテルナ様は僕を連れて、クリオの病室を訪ねます。


「クリオ、まだ傷は痛むか?」


 エテルナ様はクリオが横たわるベッドに腰掛け、クリオの髪を撫でながら聞きま

す。クリオは、気丈にも笑顔でそれに答えました。


「お気遣いありがとうございます、エテルナ様。私は大丈夫。それより、明日、本当に発たれるのですね」


「ああ、行く。止めないだろう?」


 エテルナ様の言葉に、クリオは少し悲しそうな顔をします。


「……実は、おめしようと、ずっと考えていました。なのに、いくら考えても、エテルナ様の決意を翻せるような言葉は、出てきませんでした」


 それから、クリオはエテルナ様の手を握り、言いました。


「お止めはしません。でも、エテルナ様、必ず、生きてお戻りください。あなたはこの国の希望。そうして、私の大事な……大事な……」


「わかった、クリオ。私は必ず戻ろう。何よりも、私の大切な友のために」


 クリオは涙を浮かべ、エテルナ様の胸に顔をうずめます。

 そこで僕は病室を出たので、その後、二人の間でどんな話があったかわかりません。けれど、僕はなんとしても、エテルナ様をここに帰そうと誓ったのです。




 翌朝、魔王城を発った僕たちは、ベセスダで軍艦に乗り込みました。

 僕は白兵戦ができる人材ではありませんが、志願して乗船させてもらったのです。


 理由のひとつは、もちろんエテルナ様を守るため。

 そしてもうひとつ、僕でなくてはできない仕事があるためでした。


「大筋は魔王城でお伝えした通りですが、改めて、作戦の概要を確認いたします」


 船内の一室で、エテルナ様含め、クルーの主だったメンバーを前に、僕は作戦図を広げます。


「オルシュテインで接収した帝国の軍事資料と、使い魔の偵察情報を総合すると、敵の艦隊は通常の索敵網のほかに、複数の艦船を連携させた特殊な魔術を用いて、接近する敵艦を検知していると予想されます」


 そう、敵艦は我々の知らない魔術方式で艦隊を防御している可能性が高いため、その防御網を突破するための魔術的な知見が、この作戦には必須なのです。

 そうして、はばかりながらこの僕、エルンスト・フェリックス・バルトルディは、こと防御魔法陣の構造に関して、魔物の国でも十指に数えられる専門家なのでした。


「具体的には、帝国の艦隊を成す艦船の各船体には特殊な魔法陣が構築されており、魔法陣同士が魔力で強化した物理的な“糸”で結ばれています。この糸に物体が触れると、魔法陣が検知し、警報を発します。物理的な作用を組み込んだ術式であるため、これを隠遁術で回避することは原理的に困難です」


 僕は作戦図に示された敵艦隊の図を指して続けます。


「敵艦隊は、旗艦を囲むように輪形陣を維持したまま、海路を進んでいます。旗艦に接舷するためには、どうしても船と船の間を通過する必要があるのです。そこで」


 作戦図上に船を模した駒を置くと、一同の注目がそこに集まりました。


「別動隊が本艦に先行して、敵艦の一隻に接舷します。その際に、僕が用意した簡易魔法陣を、船体の魔法陣に重ねる形で展開してもらいます。これにより、魔法陣そのものの機構に侵入、改竄し、警報が発動しない状況をつくります」


 そして、今置いた駒の逆方向に、もう一つ船の駒を置きます。


「その上で、本艦が敵艦の間を通過します。警報は鳴らず、かつエテルナ様の隠遁術により、敵は二隻目の船を知覚できません。この隙に本艦は敵旗艦に接舷し、移乗、白兵戦に入ります」


 僕の説明を受けて、エテルナ様がうなずきます。


「別動隊の指揮官はシメオンだ。必ず成功させてくれるだろう」


 甲板から兵士が降りてきて、エテルナ様に告げました。


「敵の広域索敵網侵入まであと約1時間です。隠遁魔法のご準備をお願いいたします!」


「わかった。月は消えているか?」


「はい! 静かな新月の夜です」


「よし。甲板に出よう」


 エテルナ様の後に続いて甲板に出ると、空に月はなく、星だけが瞬いていました。清冽な夜の海風が、僕たちの間を吹き抜けていきます。


「――闇よ、夜の闇よ、優しき黒の帳よ」


 エテルナ様の詠唱が始まりました。僕たちは、じっと海と夜空を見つめながら、これから待ち構える戦いのことを、思い描いていました。


「汝が世界を包む如く、我らが姿をば隠せよ。光を曲げ、音を吸い、臭いを散らして、ここに無きが如く我らの痕跡をば消さしめよ。なんとなれば、我は汝ら夜の精を統べる、夜の王なれば」


 エテルナ様の背から、黒い翼のような魔力が、膨大な魔力が、辺りに広がり、船全体を包みます。

 そうして、体が闇に溶けていくかのような、不思議な感覚。船も消え、体も消え、まるで魂だけが海の上を滑っていくような、奇妙な感覚が生まれます。


 詠唱を終え、エテルナ様が言いました。


「……準備は整った。あとはくだけだ」


 暗い闇の中で、星たちだけが、地の諍いとはまるで無縁に、静かに瞬いているのでした。

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