第25話 悲しみを越えて

 5月13日当日。その日、父は青ざめた顔をして、駆け出すように家を出ました。玄関で父の姿を不安げに見送る兄の様子は、今も記憶に焼きついています。


 まだ小学校にも上がっていなかった私には、そのとき何が起きているのか、まるで見当もつきませんでした。ただその日、母がテレビのニュースをずっと見ていたことは、よく憶えています。

 当時、私の父はタイ銀行に勤務しており、貨幣政策に従事していました。そして、アジア通貨危機の発端となったバーツの暴落と対峙することになったのです。


「お母さん、お父さんは、どうしたの?」


 子どもながらに母の不安を感じ取った私は、母にそう聞きました。母は、優しく微笑みながら言います。


「大丈夫、お父さんなら、きっとなんとかします」


 5月の初めから広がっていたバーツ切り下げの噂による信用不安に、この日、火が点き、一気にバーツが売られ始めたのです。

 ヘッジファンドだけでなく、欧米の金融機関までもが売りに回り、バーツ売りは急速に拡大。買い手はほぼ、タイ銀行をはじめとするタイ当局のみという状況です。タイ当局は、この日だけで60億ドルを超えるバーツ買いを行い、バーツ防衛に走りました。


 夜半になって、父は疲れた顔をして家に帰り、こう言いました。


「大丈夫、肝を冷やしたが、なんとかなるよ」


 今思えばこの時点では、まだ父は政府と中銀が強気な姿勢を示せば、信用不安を跳ね返せるものと考えていたのだと思います。しかし、その考えは明らかに甘すぎるものでした。




 翌日、シンガポール、マレーシア、香港と結んだ協調介入が行われました。


 しかし、市場の売りは収まりません。

 投機筋による、大量の空売り。

 もはやこれは、バーツ切り下げを恐れる信用不安からの資産逃避といえるものではありませんでした。明白に、バーツを売り崩すことが意図されていたのです。


 タイ当局は、外貨準備を切り崩し、バーツの借入レートを引き上げて短期金融市場を締め上げるとともに、資本流出規制を敷いてこれに対応しましたが、攻撃が始まった時点で、バーツが長く持ちこたえることができないことは、見透かされていたのです。


「このタイミングでの変動相場制への移行は絶対にいけない。IMFがどう言おうが、なんとしても踏みとどまるべきです!」


 父が電話越しに怒鳴る声が聞こえます。

 市場との激戦は1か月を超え、父の姿は日を追うごとに、まるで幽鬼のようにやせ細っていきました。


 血塗れのバーツ。後にそう呼ばれることになるこの国の通貨は、確かにバンカーたちの血によって、真っ赤に染まっていたのです。




 そして、7月2日。

 バーツが変動相場制へ移行したその日、父はビルから飛び降りて自殺しました。

 どうして父が死ななければならなかったのか。私も兄も、このときはまだ、それがわからず、ただ悲しくて、泣いていました。


 しかし、数か月が過ぎると、バンコクの街の様子が変わります。

 多くの店が閉店し、街には失業者が溢れかえりました。

 穏やかだった人々の表情には、不安と焦燥が浮かび、街には怒声が満ちました。

 好景気に沸いていたタイの経済は、完全に崩壊していたのです。


 母が勤めていた学校を辞め、一家がドイツに帰国する日、兄はタイの街を見ながら、私にこう言いました。


「父さんは死ぬ必要なんてなかった。俺は、食い荒らされるより、食い荒らすほうを選ぶ」




 それから、兄は金融工学を学ぶためアメリカに渡り、MITを卒業して、証券会社に就職を決めました。

 当時、アメリカは空前の好景気。兄は20代前半で、すでに10万ドルを超える年収を手にしていたのです。


 一方、私はまだ父の死を振りきれずにいました。

 父がどうして死を選んだのか、その理由を知りたい。

 その想いは年を経るごとに強くなり、私はオックスフォードの経済学部へ進学を決めたのです。


 そこで私は、初めてマクロ経済というものを知りました。


 あの時、なぜバーツは売り浴びせられたのか。

 どうしてタイ当局はバーツを守り切れなかったのか。

 あの暴落に端を発した通貨危機が、その後の世界にどんな影響を及ぼしたのか。

 そして、父が死を選んだとき、その目に見えていた光景が、おぼろげながら見えてきたような気がしました。


 兄からの電話が入ったのは、そんなときのことです。


「母さんの名義の口座に、50万ドル入っている」


 突然、電話越しで兄はそう言いました。


「きれいな金とは言えないかもしれないが……法律に則って俺が稼いだ金だ。もし俺に何かあったら、好きに使ってくれ」


「兄さん……? 何かあったの?」


 そのときの私は、まだアメリカの金融市場のことは何も知らず、兄にそう聞きました。


「しばらく連絡が取れなくなるかもしれない。ほとぼりが冷めるまで、探さないでく

れ。必要なときは、こっちから連絡するから」


 それから、兄は悲し気な声でこう言いました。


「今になって、父さんの気持ちがわかったよ。どうして、俺はこうなっちまったんだろう。もっと、人のために働くことだってできたはずなのに……」


 その電話を最後に、兄は姿を消したのです。


 一週間後、アメリカの大手投資銀行リーマン・ブラザーズが倒産したというニュースが、世界中に流れました。


 混乱に陥る市場。

 世界のあらゆる地域で巻き起こる大不況。

 タイで起こったあのときの記憶が蘇ります。


 母からの急報を受け、ニューヨークに飛んだ私が見たのは、何発もの銃弾で撃たれた兄の死体でした。


 あれから兄に何があったのか、なぜ殺されるほどの恨みを買ってしまったのか。私にはわかりません。

 母が、兄の亡骸にすがりながら、涙を流します。


「もう嫌だ、もう私から家族を奪うのはやめておくれ。呪われた仕事だよ、こんなことは」


 私は大学に戻ると、私を研究室に誘ってくれていたスタックラー教授にお詫びを言って、大学院へは進学しないことを伝えました。


 ドイツに帰ると、母は優しく私を迎えてくれました。

 兄が遺してくれた資産を少しずつ使い崩しながら、私は自分がどうして生きているのか、不思議な気がしてきます。


 金融――この呪われた仕事。

 私には、何かできることがあったような気がします。

 でも、それはきっと忘れたほうがよいこと。

 きっと――……。




 ――……。

 目を覚ますと、僕はあの部屋の中にいました。


 瞬間、銃声が響きます。

 一発、二発、三発、四発、五発。


 突然のことに、一歩も動けずにいる僕たちの中で、バルトルディ候だけが、とっさにクリオをかばったのです。

 銃弾は、一発がクリオの胸に、それ以外の四発は、すべて候の体を貫いていました。


「バルトルディ、なぜその女をかばう。見たとおり、その女はこの世界に邪悪と混乱をもたらすものだ。呪われた女だ」


 リューベックは短銃を構えながらそう忌々し気に吐き捨てると、呪文を唱えて姿を消しました。


「畜生、消えやがった!」


 シメオンが吠えます。

 僕は父の体を抱え、回復魔法を施します。しかし、その魔法はたちまち打ち消されてしまいました。


「これは……呪いの魔弾」


 父に向かって放たれたのは、一度肉体に食い込めば、その肉体の魔力を食らいながら回復魔法を完全に阻害する、悪質な呪いを付与された銃弾だったのです。


 シンダール公が、すぐさま父のそばに駆け寄り、指輪の宝石を砕きながら、浄化の魔法を唱えます。


「フレイ、いかん……救うべきは、私ではない。彼女を……」


 そう言って、父はクリオを指さします。


「なぜです? どうしてそうまでして?」


 シンダール公の問いに、父は懇願するように言いました。


「エテルナの……友人なのだよ……その娘は」


 それから、父は僕の肩をつかみ、こう言います。


「エル、お前に、伝えねばならない……肩を貸せ、部屋の奥に進む」


 父が短い呪文を唱えると、部屋の中央に、さらに地下へと降る階段が現れました。


「フレイ、彼女を、頼む」


 そう言うと、父は階段を降りるよう、僕を促します。


 抗いがたいものを感じて、僕は父を支えながら、階段を降ります。

 階段の先には、小さな祭壇がありました。

 その祭壇には、真っ黒な、なにか不安を感じさせる球体が浮かんでいます。


「あれには、古代の破壊魔法が封じられている。大都市をひとつ、消し飛ばせる威力の魔法だ」


 父は、激しく咳込み、血を吐きます。


「早く魔法学院に戻って治療を!」


 僕の言葉に、父は首を振ります。


「お前ならわかるだろう。無理だ」


 胸に二発、腹部に二発の、呪いの弾丸。

 もはや回復は望めないということは、僕にもわかります。

 でも、認めたくない。


「今伝えなくてはならん。お前は、これを解体するのだ」


 そう言って、父は僕の手をつかんで、黒い球体にかざします。

 父の手から、僕に魔力が流れ込んできます。


「一度で覚えろ。帝国にもう一つある」


 魔力の流れに意識を集中します。

 古代の魔術形式、それも恐ろしく複雑な構造の……


「エル、お前には隠していたが、フレイは、お前の母だ」


 突然、父はそう言いました。


「お前の本当の父は、彼女を守るために、若くして死んだ。今はまだ、お前たちが共に暮らすことはできんが……いつかは」


 立体化されて圧縮された魔法陣が、部屋中に広がります。

 これはいわば超難解な魔術言語のパズル。その解体の手順を封じた鍵となるコードが、父の手を通じて、僕の体に流れ込んできました。

 複雑な魔法陣が、まるで糸玉がほどけるようにして、崩壊していきます。


「見事だ、エル」


 込められた魔力が霧散し、黒い球体が、ただの石ころになって、床に落ちました。


「エテルナは、立派になった。私も、去るべきときだ」


 父をその場に横たえて、僕はその手を握ります。


「幸福な生涯だった。友を得て、その娘を支え、最後に」


 父は力なく僕の手を握り返し、最後にこう言ったのです。


「エルンスト、お前を得た……お前は、私の最愛の息子だ。幸せに生きてくれ」


「……父さん!」


 僕は、静かに目を閉じた父の亡骸を抱きながら、涙をこらえることができませんでした。


「父さん、僕は、僕はあなたを誇りに思います。あなたこそ、僕の本当の父だ」

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