第2話 迷い人の歌

 結局、論文提出期限延期をエサに、僕は魔法陣構築の仕事を引き受けることになりました。


 それだけならよかったのですが、言語習得魔法の実施までの間、発見された女性の身辺の世話まで仰せつかってしまったのは、完全に誤算でした。エテルナ様のいいように扱われたような感じがして、少ししゃくなのですが、背に腹は代えられません。

 若干の好奇心も手伝って、僕は早速、例の人間を見に行くことにしました。




 彼女は城の貴賓塔の最上階に、まるで隔離されるように軟禁されています。

 貴賓塔は、魔王城の中心からやや外れた場所に位置し、周囲を黒薔薇の花壇に囲まれながらそびえ立つ、小高い塔です。


 魔王城の内庭を渡って貴賓塔に到着すると、周囲の警備は厳重を極め、水も漏らさぬほどのものでした。

 貴賓棟の長い階段を登って、最上階に着くと、地階のものものしさは消え、周囲に人の気配も感じられず、無人の古城に来たような錯覚に陥ります。


「これは……」


 彼女が軟禁されている部屋の前についたとき、僕はひとつ不思議なことに気づきました。

 通常、人が中にいるときは点灯するはずの在室灯が消えているのです。


 もしかすると今はどこかに移送されていて、ここにはいないのかもしれません。そう思いつつ、警備兵から預かった魔法鍵で扉を開けようとしたとき、中から、小さいけれど澄んだ歌声が聞こえてきました。

 扉の向こうで、女性が歌を歌っているのでした。


 そのときの僕の気持ちは、うまく言い表せません。初めて聞く歌なのに、なぜか懐かしいような、不思議な気持ちがしたのを憶えています。

 もちろん歌詞を聞き取ることはできなかったのですが、後に彼女に頼んで教えてもらったところによれば、こんな歌なのです。



Somewhere over the rainbow

(虹の向こうのどこか)


Way up high

(空高くに)


There's a land that I heard of

(聞いたことのある国がある)


Once in a lullaby...

(いつか子守歌で)



 そこまでで、歌声は途切れてしまいました。


 しばらく呆けたように扉の前に立ち尽くしていた僕は、自分が何をしに来たかを思い出して、ノックをしてから扉を開けました。

 僕が扉を開けると、窓から外を眺めていた女性は、心底驚いたような顔で、僕を見ました。


 彼女はとても、とても美しい人でした。


 エルフの禁欲的な美とも、ヴァンパイアの妖艶な魅力とも違う、穏やかで優しい美しさ。人間にこれほど美しい人がいるとは、思ってもみませんでした。

 僕は驚きを隠しながら、ことさら丁寧に挨拶をします。


「はじめまして。僕はエルンスト・フェリックス・バルトルディ。みんなはエルと呼びます。突然扉を開けて、申し訳ありません。きっと言葉は通じないと思いましたので」


 もとより通じるはずはないと思いながらも、胸に手を当てて頭を下げると、彼女は少し戸惑ったような表情で、手元の眼鏡を急いでかけて、頭を下げ返してくれました。


 言葉はたしかに通じないようですが、身振りや手振り、雰囲気などは、どこか通じる部分がありそうです。

 できるだけ彼女の不安を和らげるために、僕はにこやかな表情で、いろいろなことを話しかけてみました。


 ほとんどは伝わりませんでしたが、ひとつだけ、寒くないかと震えるフリをしながら聞くと、彼女は同じように身を震わすようなしぐさをしたので、僕は部屋の端にある宝石に魔力を流しました。

 壁に埋め込まれた魔法石から、温かい風が流れてきます。


 彼女は小さく驚いたような声を上げたあと、とたんに表情が明るくなり、しきりと僕に何かを話しかけてきます。どうやらお礼を言っているようですが、もちろん意味はわかりません。


 ともかく僕に対する警戒は、ある程度解けたようです。それからいくつか、伝わったのか伝わらなかったのかよくわからない会話をしていると、部屋の宝石が光り、ポワンという小さな音を鳴らしました。

 扉の外に人が訪れたしるしです。


 僕が席を立って、扉を開けると、そこにはダークエルフの魔術師が立っていました。魔法学校で、僕の指導教官だったこともある方です。


「おや、エル。こんなところでどうしたんだい?」


「魔王様より、この人のお世話を仰せつかりまして」


「そうか。ところで君は今、入試論文を作成しているんだろう。テーマはもう決まったのかい?」


「いえ……それがまだ」


「そうか、じっくり考えるといいよ。君の魔術の才能はたしかにすばらしいが、魔法学院は必ずしも伝統的魔術だけを研究するところじゃない。特にこれからの時代はね」


 先生は、少し誇らしげにそう言います。


「そういえば先生は、魔術の言語応用がご専門でしたね。すると、もう言語習得魔法の準備が整ったのですか?」


 僕が聞くと、先生は自慢げにうなずきました。


「ああ、例の異世界人のウワサを聞いていたからね、万一のために準備しておいたのさ。これで言語魔術研究室にも予算が下りるぞ!」


 となれば、もう彼女はこの部屋を離れて、魔法学院に移らなくてはなりません。

 そのことをどう伝えようか、迷った末、僕は部屋の真ん中に戻り、名前もわからない人間の女性の手を握りました。


 これから彼女が受けることになる魔法について、どう説明したらよいかわからず、せめて害意はないことだけでも伝えたいと思ったのです。


 言語習得魔法は、危険を伴うものではありません。いわば強化された睡眠学習のようなもので、被術者は催眠状態となり、高速で言語を学習していくのです。しかし、言葉の通じない彼女にとっては、いったい何をされるのか、大きな恐怖でしょう。


 彼女は僕のしぐさからなにかを読み取ったのか、微笑みながらうなずき、自ら先生のほうへ歩いて行きました。

 助手たちが彼女を守るようにして、学院へと連れて行きます。


「エル、気を遣ってくれてありがとう。彼女も安心したと思うよ。でも急に手を握るのはどうかな、求愛のしぐさと受け取られかねない。エルは女王陛下一筋じゃなかったのかい?」


 先生のからかいに、僕は少しむっとしたので、言い返します。


「先生、不敬罪で連行されますよ」


「ハッハ、大丈夫。陛下はお優しい方だ、学究の徒は人間であっても殺さない。さて、エル。彼女は3日もすれば日常会話くらいはできるようになるだろう。それじゃあ、論文がんばれよ」


 そう言って、先生も学院へ戻って行きます。

 しかし、3日とは予想外でした。

 これは執務室の魔法陣構築を急がなくてはなりません。

 僕は、魔術図書館からありったけの資料を集めてきて、魔法陣の構築に取り掛かりました。

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