あと九十八本... 「手」

 俺は悪態のひとつもつきたい気分だったが、同時にとても清々しいものを感じていた。


 亜由美を殺してしまったのは事故のようなものだ。その時の会話は、まだ生々しい感覚と共に記憶に新しく刻み込まれている。


 それはたった数時間前の出来事。


「なんなのこれ」


 不機嫌に床に放り投げられる携帯電話。

 亜由美はそれを見る事もなかった。

 最初に浮かんだのは、亜由美は今日は家にいるはずじゃなかったのかとか、勝手に入り込んだのかよとか、そういうのだった。


「なに勝手に人ン家に入り込んでケータイ見てんだよ。犯罪じゃねぇか」

「何が犯罪よ! 向こうには二度と会わないって別れたんじゃなかったの!?」

「うるせぇなぁ。壊れたら弁償してくれんだろうな」


 亜由美は甲高い声をますます高くして喚いた。何言ってんのか全然わかんなかったが、ムカついたのは覚えている。その上、亜由美には(特に喧嘩をする時に)人を指さす癖があって、それがまた俺の癇に障った。

 女とメールしたくらいでぎゃんぎゃんと偉そうに。大体、浮気浮気と連呼されても、俺は本当は美紀の方が好みなんだ。

 俺が別れを切りだしてから、何が起こったのかはよくわからない。あんたから別れるのはおかしいでしょう、と亜由美はわけのわからないキレ方をしていた。そして美紀に会いに行こうとしたから殴ってやったんだ。そしたらあいつ、平手を喰らわせてきたから俺はそのままブチ切れて……。

 でもこれは事故なんだ。そうだ事故だ。

 それでも、俺が殺したなんてバレたらどうなるかわからない。


 ぐったりとした亜由美の体を入れられるだけの鞄というと、前に亜由美と旅行する前、勧められて買ったキャリーバッグしかない。俺は普通のバッグでいいと言ったんだが、無理やり買わされたものだった。

 旅行に行ったきりまったく使ってなかったが、まさかこんな形で使う事になるとは本人も思ってなかっただろう。


「くそっ、もう少しダイエットしてろよ!」


 俺は思わずごちた。死んだ人間の体というのはこんなに重いものか。余計なお荷物には違いない。死後硬直だったか、時間がかかりすぎると体が硬くなるってどこかで見た気がする。いつ始まるのかはわからないが、とにかく早く入れないと。ぐいぐいと亜由美の体をキャリーバッグに押し込む。

 だけど、俺は凄く気分が良かった。


 亜由美の血まみれの死体や、床に飛び散った血を拭いた服を風呂場で洗い流していた時、どういうわけか――本当にただの気まぐれだったのかもしれないが、ふと亜由美の右手が目に入った。

 ぞくぞくとした不安感が沸き起こった。

 あいつの手、いつも俺を指さしたあの手。

 いちいち俺を指さしてきやがって。

 俺は何を思ったか包丁を持ち出し、亜由美の右手を切り落とした。


 ――ざまぁみろ!


 スカッとした。充分に血をふき取ったその手首を、キャリーバッグの空いた場所に突っ込んでやった。そしてようやく俺はその死体を車に詰め込み、死体を捨てるべくエンジンを入れた。数時間車を走らせ、人気のない場所でキャリーから取り出し、崖に突き飛ばしてやったのだった。


 これで大丈夫だ。俺はこれからの事を考えよう。

 この事がばれたらどうする?

 警察が来たら?

 できるだけ冷静に、冷静につとめるんだ。

 そうだ、亜由美には悪者になってもらえばいい。美紀と一旦別れた後に、亜由美とも別れた事にすれば…。俺の部屋に頻繁に来ていたのは、またよりを戻したがっていたとか…ダメだ、それじゃ俺が疑われちまう。いっそストーカー被害の相談を受けていたとかはどうだろう?


 車に戻った俺は、あまりの驚きに声を出してしまいそうだった。亜由美の切り取った手首が、キャリーを積んでいた助手席に落ちていたのだ。

 なんだ、どうしてだ。さっきキャリーを開けた時に落とし忘れたんだろうか? そうに違いない。そういえば、手首を捨てた記憶が無い。俺はほっとしてハンカチでその手を掴むと、今度こそ崖から放り投げた。


 それから地元に戻る途中で、気を落ち着かせるためにサービスエリアに立ち寄った。サービスエリアの人気絶頂のこのご時世に、忘れ去られたような古臭いトイレに入り、手を洗っていた時だった。


「ひっ……」


 顔をあげた途端、俺は呻いた。鏡に映った俺の肩に、女の手がかけられていた。肩には触れられているなんて感覚はまったく無く、ここはそもそも男子トイレだ。見間違いなんかじゃない。

 そいつの指先が徐々に持ち上がり、鏡に映った俺を指さした時、俺はわけがわからなくなった。


「ひぃっ ひぃぃぃぃぃぃ!」


 肩を払って、何度も何度も払いのけて、喉の奥からひきつったような悲鳴をあげながらトイレから走り出ると、急いで俺は車を走らせた。一刻も早くあの場所から離れなければ。

 走って、走って、ようやく自分の部屋に辿りついたとき、ガタガタと震える手で鍵を開けた。大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だ。

 足をもつれさせながら靴を脱ぎ、部屋の中へとなだれ込む。

 その時、喉の奥から出たのは引きつったような悲鳴だった。テーブルからどさりと落ちた亜由美の手が、部屋の真ん中で俺を指差していた。


 やめろよ。なんなんだよ。お前が悪いんだよ。お前が悪いんだ。俺は悪くない。

 そう叫ぶ俺の背後で、チャイムが鳴った。

 多分俺を指さすようにして鳴らしているんだ。


 何度も。何度も何度も何度も何度も。

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