「何してんだ! 邪魔だ!!」

 階段を上りきる直前に突然浴びせられたその言葉。正面にいたのは、髪もぼさぼさの三十代半ばのげっそりとした感じの中年男性であった。手には、表が整然と並んだ新聞が握られていた。

「どけよ」

 公営ギャンブルにでものめり込んでいるのだろうか。そして、たぶん、負けが込んでいる。

 私が身体を手すりの側に寄せると、彼はその横を面倒くさそうに降りていく。そんなに広い階段ではないが、人がすれ違えないほどではない。しかし、身体をよじりながら、狭い隙間を縫うように。

「きゃぁっ」

「うるせえ女だな」

 何か、何か当たっている。と、目の前に薄い水色の奇妙な物体が。しかも、大きい。人一人を包み込まんばかりの大きさであった。

 これって、もしかして、彼がギャンブルで負ける原因となっている憑き物?

 その憑き物に、手を、ちょこん、と当ててみる。ぷるん、と震えたかと思うと、とたんに小さくなっていく。

 間違いない。

 手を伸ばし、小さくなったそれをつかみ取ると、

「あれ、なんか肩の当たりがすっきりしたな」

 そう言いながら、その男が降りていった。

 ……で、コイツ、どうする。食べない、って決めた以上、持っていても仕方のないものだけど。

 ま、そのうち誰かに取り憑くのかな、と無責任にも廊下に放置して、健のいる部屋へ向かうのだが、

 ぴょこ、ぴょこ、

 妙にカワイイ仕草で私の後をトコトコと追いかけてくるその姿にぐっとくるものがあったが、それは我慢して、見て見ぬふり。

 そんな誘惑を振り切って、やっと辿り着いた部屋。

「大丈夫か?」

 健の言葉に、疲労感がどっと押し寄せてくる。

「今日は、疲れたな。」

 そう言って、健はそのまま倒れ込んだ。そのまましばらく、倒れ込んだまま。空気に慣れず調子がいまいちな私も、それを追うようにしてその横に寝転ぶ。

 少しの、沈黙。

 ……。

 …………。

 慣れない環境であったり、引っ越しで長い間、自動車に乗るということで疲れもあり、そのうちウトウトと眠くなりかけた頃、ふと、健が言った。

「なぁ、こんな俺と同室、ってどうなんだ?」

 眠気もあり、頭がすっきりしないこともあってか、健の言葉の真意がいまいち曖昧だった。うまく、言葉が出てこない。何とかして良い言葉を並べようとはしたのだけど。

「どうなんだ、とか言われても。特に、どうってことも、と」

 そんな曖昧な返答を遮って、健が強い口調で迫る。

「質問、を変える。ゐすゞは、俺のこと、どう思っている。」

「どうって、健は私の氏子の一人で、私のことを慕ってくれていることはよく解って……」

「そういうことじゃない」

 健は、顔を真っ赤にして言うのだ。

「こんな俺と、いっしょにいて……俺のこと、どう、思っている」

 ああ、そういうことか。たぶん。人間だけが持つ、好きという感情。

 私は、ゆっくりと、本当のことを言うことにした。

「私は、人間じゃないのは、重々承知の上で聞いてほしい。私はね、特定の人に対して想いを寄せる、なんてことは出来ないの。そういう存在なんだから。健という一人の人間に対してどうこう、ということは少なくとも言えないし、同居人、もしくは氏子という、それ以上の意味を持って接することはない。それだけは、私は、ここで断言しておく」

「そ、それじゃ、ここでお前を!」

 言わないでよ、言わせないでよ!!

 ま、健がそういう人間じゃないので、言説を変える。

「らしくないかもね。それでも健が、何かしようというならば、もうこの姿をとることはないことは覚悟しておいてね。」

 そう言うなり立ち上がった私は、今いる場所から荷物の反対側、ちょうど健から見えない場所へと移動した。布団の入ったトランクを見つけるなり、そそくさと敷き、その上で毛布にくるまる。

「調子悪いから、もう寝る。荷物は明日にでも片付けるから」

 そう言っても、やはり寝付けないもので、薄目を開けて周囲を見回しながら、健の出方を伺う。

 ……何も言ってこない。

 まだ暗くもないこの時刻。

 そのまま、五分、十分と経っていく間、物音一つ立てない健の様子が気になってきた。そろーっと布団を抜けると、健がいるはずの場所へ向かってみる。

 ん? 何か水色のものがそこにいた。それは、さっき階段で出会った憑き物であった。それが、健の身体に覆い被さらんばかりに成長し、健に取り憑いていた。一方、憑かれた健は生気を抜かれたように、部屋の隅へ横たわっていた。

 丸々と太った、おいしそうな憑き物……。

 ううん、もう食べないと決めたのだから……。

 私は、その憑き物を鷲づかみにして、健の身体から引き離すと、自分の布団に戻る。枕の向こうにドンと、その憑き物を置き、顔を突き合わせて、話しかける。

「どーして、健に取り憑いたのよ」

 その憑き物は、ぷるぷると震えるばかりで会話も成立しない。

「ねぇ……」

 その同居人に憑いていた憑き物をツンツン突きながら、私は、

「健のこと、どう思っているのよ?」

 きゅ、きゅ、と畳とこすれる音を立てながら動き回るその仕草が、なんとなくうれしそうだ、と思えると、

「もーーっ!!」

 取り憑いた相手を掴むために出来た口に指を引っかけて、思いっきり、まるで引き裂かんかと言うほどに大きく広げた。

「好きなの…………っ!?」

 フガフガ、って感じで暴れるのだが、そっちがそう来るならこっちも、って感じでさらに広げる。柔らかい躯がどこまでも伸びていく。

 やがて、体力が無くなったのだろうか、ちょっとぐったりしたその憑き物が、私の指から離れて畳の上へと落ちていく。

「ご、ごめんなさい」

 落ち行く躯を両手で受け止めると、呼吸を繰り返す。

 食べてしまえばいい……そう思った。しかしながら、その小さな存在を消費してしまうことに少しの葛藤を覚えた。もう、食べないって決めたから。

 そのまま、ずーっと、その憑き物を見ていたのだが、

「なーんか、名前とか付けてみよっか」

 何らかの特徴を探して、それに因んだ名前を付けよう、なんて考えて、前後左右、裏まで見て変わった所を探したのだが、これは、って感じのグッとくる名称は何年生きていてもそう簡単には浮かばないものなのである。

「ねー、健、なんかいい名前ない?」

 その名前を口にしたとき、ふと、閃いた。

「そうだ。ケンケン!」

「なんだそれは?」

 言うなり、健が荷物の山の向こうから顔を出す。健に見えるのは、中空に両手を掲げているだけの私である。憑き物は見えないのだから。

「ケンケンってのは何だ?」

 私の姿を身体の上から下までじっと見て、彼は一つの推測を出す。

「たぶん、俺には見えない、その手に持っている奴か?」

「ま、そうだけど」

 その言葉に、健は

「俺の名前が入っているのは……」

「うんん、なんでもないの、なんでもない」

「そうか」

 健には見えないはずのケンケンを凝視したかと思ったのだが、案外あっさりと引き下がっていった。

「大家さんが風呂が空いたから入れって。それから、早く寝ろよ。遅くまで騒いでいると隣に迷惑だからな」

 よく見ると、既に風呂から出たのか、健は寝間着姿になっていた。そんなことに今更ながら気がつく。

「はぁい。」

 お風呂で気持ちの切り替えだ。ケンケンに、軽く、ちょつとまってて、と信号を送ってから、部屋を出る。とぼとぼと階段を降りていると、突然、階段、廊下、アパート中に野太い大声が響き渡った。

「あ、あたったー! 三億円!!」

 先程、階段で悪態をついた男が部屋から飛び出し、

「邪魔邪魔」

といいながら私の横をかすめる。

「大家、こんなボロ屋と今日でオサラバだ! 俺は金持ちだからな、もう明日からメイド付きの豪邸暮らしだ。じゃあな」

 宝くじか。ま、いつまた不幸に憑かれるかはわかんないけどね。そう言って、開け放った玄関ドアを閉めることなく、その先へ消えていった。

 「な、何?」

 大家が管理人室から出てきた時には、既に全てが終わった後であった。

「あ、白神さんでしたよね。お風呂空いてますよ」

「これから入ります」

 その夜は風呂から出た後、健の言いつけどおり床につく。既に健も、そしてケンケンも寝息を立てていた。明日には荷物の整理をして、学校の準備に取りかかろう、とぼんやりと考えながら……。

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