ep4:終点の、灰色ホームでさよなら<3>

 一般的に、成虫の蝶は幼虫の姿よりも美しい。

 多分、多くの人がその意見に異論ないと思う。

 わたしは、でも、思うんだ。

 もし成虫した芋虫が、蝶の姿よりもさなぎや、芋虫の姿が気に入っていたら。

 その後一生、「ああ、なんで蝶々になっちゃったんだろう」なんて思いながら生きていくのかな。

 なんだかかわいそう。

「みらいったら、へんなこと考えつくのね」

 わたしの意見を、世々璃は面白いと評した。

 図書室。古い辞典を二人で眺めていた。

 一年前の、春だったのかな。

 入学した高校の図書室を品定めにきて、その辞典を見つけた。

 蝶蛾辞典。

 二人一緒に興味をしめして、二人一緒に覗き込む。

 アオバセセリを見つけて、二人して喜んだ。

 眺めているうちに不意に思い浮かんだわたしは、思いつくまま言ったのだ。

「蛹のまま、芋虫のまま、生きていきたかった蝶もいるかも」

「そんなこと考える頭、昆虫にあるかは疑わしいけれど」

「もぅ、世々璃……」

 途端に現実的なことを言われて、わたしは図書室の机にうなだれた。

 世々璃がくすくす笑う。ぽん、ぽん、わたしの頭をなでるように叩いた。

「いじけないの」

「はぁい」

 図書室には橙色の日が差し込んでいる。

 わたしと世々璃は、図書室の蛍光灯は好きじゃない。

 だから教室の光源といえば、その橙の光りだけ。

「未来が怖いの?」

 ぽんぽん叩く手を止めて、世々璃が問う。

「え、わたしが、何を?」

「そうじゃないわ。みらいが、未来、を怖いの?」

「ああ、未来。みらい……うん。怖いっていうか、うん、不安かな」

「誰だって不安になるわ」

「うん……ありきたりだね」

「悩み事を稀有か否かに左右される必要はないよ」

「あはは、おっしゃるとおり」

 わたしは顔を上げる。眩しい、橙の光りのむこうに世々璃は居た。

 輪郭がぼやけて彼女の姿が光に飲まれている。

 まるで別々の世界に生きているみたい。

 世々璃。まぶしくて、見えないよ。

「わたし、みらいって名前、嫌いなんだよね。

だってさ、地球温暖化でしょ、戦争でしょ、あとよくわかんないけど国交問題? みたいな? のでさ。あんまり、未来って明るいイメージないじゃん。あと何年かしたらきっと、不吉の例え、とか辞書に載ると思うんだ」

「それは言いすぎよ」

「これは言い過ぎかもしれないけどさぁ」

 ぺたんと頬を机にくっつける。

 同じように世々璃も頭を横たえた。

「でもさ、やっぱり、手放しで未来が明るくなるとは、思えないんだなぁ……」

 声が机に響く。

「そうね。でも、みらいって名前、私は好きよ」

 世々璃の声も響く。

 いつもより近くに聞こえる気がして、なんだか耳がくすぐったい。

「え、なんで?」

「響きが可愛い」

「……それかぁ」

 世々璃の単純な回答が期待外れだから、わたしは溜め息を吐く。

 でも、期待以上だったから、にやにやしてししまった。



 世々璃が好きと言ったのだから、わたしも好きになれるかな。

 そう思ったけど、やっぱりだめ。

 追い立てられているような気がする。

 いつの間にかわたしは、退路を失う。

 怖い。

 わたしには、今まさに訪れる一瞬が、過ぎていく一瞬が、ふとしたときに、恐ろしくなる。いつかわたしは時間に追い越されて、未来を失う。

 こうしているうちに「今」が失われ、あっという間に過去になっていく。

 終わりを望んでいるの。でもそれは停滞なのかもしれない。

 あの学校が羨ましく思えなかった、と言うなら嘘だ。

 少し、羨ましかった。

 永遠の、蜂蜜色の図書室。

 わたしも永子や安藤君のように、世々璃と、遥君となら、停滞の世界で生きたい。

 そう思ってしまう瞬間も、ある。

 でも四六時中、そんな願望を抱いているわけじゃないんだ。

 ふとした一瞬。時が体をかすめたとき。そんなとき、思う。

 時間が止まればいいのに。

 そうすればわたしは過去にならない。

「ねえ、みらい」

「なに、みらい」

 わたしは、わたしと対峙した。

 なんだか急に、腹が立った。

 変だとか、怖いとか、そう思う前に。

 だって彼女は諦めている。

 言葉の響きが、諦めているのだもの。

「終わりの世界へ行くの。この電車に連れて行ってもらう。一緒に行く?」

 そう言いつつも、ちょっと耳を澄ませば「まあ、無理だけどね」って声が胸から聞こえてきそうだ。

 彼女は、わたし?

 とてもそうは思えない、子供の匂いから脱した姿。

 それだけに、喋っていることがおかしく思える。

 お芝居でも見ているみたい。

「ねえ、みらい。失望した?」

 返事を返さないわたしに、《未来》が問い掛けた。

 わたしは言葉に詰まる。

 彼女は何を期待して、そんな問い掛けをしたのだろう。

「未来のわたしは、こんなふうだよ。

 精一杯背伸びをして、認められようと大人になって。

 だけどね、みらい。でも捨てられない幼いものを、ずっと抱えているよ。

 残念だね、みらい。捨てられない幼いものは、今のわたしが表に出そうとすると、途端にひからびて、軽いものになってしまう。空気に触れると、死んでしまうの」

 自己憐憫の混じったような喋り方で、《未来》は自嘲した。

 そうして、問いかける。

「失望した?」

 わたしは、とてもわたしとは思えない女性の表情に、侮りを見つける。

 わたしへ対する、見下しのような、感情。

「…………」

 逡巡。

 沈黙の間を、電車の振動音が埋めていく。


** **


 責任を放棄しながら生きてきた。刹那的な生き方とでも言うのかもしれない。

 今の俺がダメなのは過去の自分のせい。

 そうやって現在から逃れつづけて、その結果、今の俺がある。生きるというのは積み重ねで、俺は何も重ねてこなかった、ということ。

 言い訳や、正当化することだけ、上手になった。いや、それすらも不器用なのかもしれない。逃げて、逃げて、言葉を飲み込んで、何も見ようとしないで、聞こえないふりをして。現実から逃避した先で青葉に出会ったのだ。

 俺にとって、青葉世々璃という《蝶々》は現実ではないどこかへ連れて行ってくれるピーターパンみたいなものだった。

 大人になんてなりたくない、とわめく子供を、青葉はこの世界から連れ出してくれる気がした。だから、ここまで追いかけてきた。その結果がこれだ。

 過去は凍りつき、未来は疲れきっている。今、俺はただ冷や汗を滲ませて、立ち尽くすだけ。このまま先へ進もう。ここに居たって不毛なだけだ。

 みらいを置いて来たことが気がかりだった。こんなものに構っていないで、みらいのところに行かなければ。

「逃げる?」

 声が、俺の足を縫いつけた。

「言い訳する?」

 今度は胸を打つ。

 過去と未来に挟まれて、俺は動けない。

(「お前のせいだ」)

 そうやって俺は今まで過去の自分を非難して、責任転嫁を続けた。

 それはつまり、今の俺が今を悔いなく生きていない、ということに他ならない。

 向き合わなければならない事柄から目を背け、選び取らねばならぬものを慎重に選べず、一瞬一瞬を惑いながら生きている。

 青葉を追いかけてきたのは、俺も『終わり』へ行きたかったから。取り返しのつかない過去や、今更どうすることもできない未来から逃げて、楽をしたかったから。

 青葉の言葉は、現実的ではない。現実的ではない言語で生きている彼女が、妙に軽やかな、活き活きした少女に見えて、とても羨ましかった。

 後悔した過去や、これから後悔される今、なんていうものに引っ張られて、引きずるように生きていくのは退屈だ。過去を後悔してきた俺はいずれ未来の自分にも後悔されるのだと確信を抱いて、今を生きる自信を無くして言葉を閉ざす。

 滲む冷や汗が玉になり背中をすべり落ちる。内臓が奥にすぼまっていくような気持ち悪さ。

 見上げた男の顔は俺に何かを問うような表情だった。

 安藤遠也を、思い出す。たった昨日のことだ。あいつは言った。

(「後悔してないよ」)

 挑んで、挫折して、それでも努力して、妥協したとしても、納得している。

 彼の言う妥協は選択と言い換えてもいいのだろう。

 自分の行動に責任を持って、くじけることなく生きていた彼。

 強い人間。それは、強い人間の言葉だ。到底、俺には使うことのできない言葉だ。

 言葉で伝えなければならない大切な事が、あった。

 青葉に言わなければならない言葉。

 言って何になる、とは思う。言わなければきっと、言ったとしても、後悔する。

 だけど飲み込むには苦すぎて、硬すぎる。

 それほどまでに、この言葉は育ってしまった。

「……」

 迷いがある。怯えがある。不安もある。後悔なんて、今までにたくさんした。

 友達を失って、だけどみらいは、青葉は傍に居てくれた。

 もし過去をやり直せるとしたら、どうする。

 お喋りな口を閉ざそうともせず生きつづける道を選ぶか? そうして、今まで以上に誰かを傷つけて、それに気付こうともせずに、生きていくのか。

 違う。

(「お前のせいだ」)

 過去の自分のせいで、俺は喋るのが苦手になったし、そのせいで生じる支障は数多かった。けれど、それを経た今、無理に言葉にせずとも一緒に居られる誰かがいる。

 後悔していないといえばそれは嘘になる。成長してから、今を顧みて後悔することもきっと、あるのだろう。

 後悔しないといえば、そう、それは、嘘になる。けれど。

 

 沈黙の間を、電車の振動音が埋めていく。


** **


 今、何を言っても、それは、嘘になる気がする。

 だからといって、いつ出した結論ならば納得できるのだろう。

 自分自身と対峙して、咄嗟に何を言う事もできない。

 その場限りの言い逃れになってしまうのは嫌だった。

 狭間に揺れる。

 言葉は泳ぐ。

 振動音が責めたてる。

 それは時間の流れる音なのだろう。

 大人になんかなりたくない、と思っていた。

 次第に、大人になんてなれないのだ、と気付いた。

 なりたくないのは、今まで見てきた、納得のいかない人たちの姿。

 なれないのは、自分が思い描く虚像としての大人。

 繰り返される、終わらない思考。

 掬い上げてくれたのは、彼女だった。

 悠々と飛んでいく。

 なににも煩わされぬような態度。

 軽やかな彼女。

 彼女が教えてくれたのだ。

 世界は終わりを望んでいる。

 終わりを望んだのは誰だったのだろう。

(「俺たちはどこへ行きたかったのだろう」)

(「わたしたちは、何になりたかったのだろう」)

 ――世界は終わりを望んでいる。

 そんな名前で誤魔化さないで。

『世界』って何のこと?

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