ep4:終点の、灰色ホームでさよなら<2>

「ねぇ遥君……さっき、たくさん、人、降りて行ったよね?」

 みらいが不安そうな声を上げる。電車の通路を進む俺とみらいへ、乗客は誰一人として目を向けない。ぶつかっても無反応だ。

「遥君……電車ってさ、どれくらい人入るんだっけ」

 三両ほど歩いたが空いている席はひとつもなかった。優先席も、どこもかしこも綺麗に隙間なく人が並んでいる。つり革もすべて誰かの手に握られていた。満員と言って間違いはないだろう。

 夏休みとは言えローカル線がこの時間こんなに混んでいるなんて不可解だ。

 みらいの声が震えるのも分かる。

 あれだけの人が吐き出されて尚、これだけ人が乗っているのだから。

「外から見たとき、電車、空っぽに見えたんだけどなあ」

 喋っていないと不安なのかしきりに呟いている。

 常に僅かな振動に包まれた車内は時折小さく跳ねた。道が悪い。どこへ向かう電車か分からず、歩きながら車内の路線図を探しているが見つからない。そもそもこの電車には吊り広告の類が一切見当たらない。かと言って元から貼られたことがない様子ではなく、取り残された粘着テープの跡がそこかしこに黄ばんで残っていた。

 乗客の誰も喋らない。不意の咳やくしゃみもない。

 音楽プレーヤーの音漏れも、携帯の着信音も聞こえない。

 ただ電車の振動音だけが響く、耳障りな静寂。

「遥君……」

 俺の無言が不安になったのか、みらいがシャツのすそを掴んだ。

「何」

「なんか……変」

「わかってる」

「服、つかんでて良い?」

 おずおずと言ってくるみらいへ、嘆息交じりに俺は手を差し伸べる。みらいが表情を明るくした。最初からそう言えば良いのに、みらいは差し伸べた手を握る。

 夏場に手を繋ぐのは暑苦しいかと思いもしたが、人の体温にほっとした。

 この不気味に静かで色味に乏しい車内では、クーラーもないのにうすら寒い。

 二人、手を繋いだまま通路を歩く。

 どの車輌へ入っても同じような風景が続くだけだった。青葉の姿はない。

「あ……」

  しばらく歩いた頃、みらいが不意に声を上げた。

「何?」

「あれ」

 みらいが指差す壁にシールが貼ってある。赤と青と、矢印。

 ……トイレのマークだ。

「……待つよ」

「うん、ありがとう」

 恥ずかしそうにはにかんで、そそくさと鉄色の扉の向こうへ入っていく。

 一瞬見えたが、扉の向こうは普通のトイレだった。連結部の手前、トイレの扉の前で立ち尽くす。

 まさか運行中に青葉が電車を降りるわけもないし、停車のアナウンスも入っていないので少し時間を食っても追いつくか。

 そういえば、そもそも、アナウンスなど聞いていない。どこへ向かう列車なのか、それどころか通常入る携帯電話使用への注意なども流れなかった。

 この電車はおかしい。改めて認識する。

 ここには、終わりの気配が満ちている。

 乗客の誰もが自分は孤独だとでも言いたげな表情をして、それ以外の何にも興味のないような顔でいる。

 不意にどこかで笑い声がした。

 それはこの電車の中でひときわ異質に聞こえる。近くの車輌からだ。

 すぐに戻るつもりで、躊躇の後、声のした方へ向かう。笑い声はもう一つ向こうから聞こえていた。

 人と人の間に埋まるようにして幼い子供が座っている。

 幼いと言ってもせいぜい十歳ほど。黒い髪を短く刈った男児で、保護者の姿は付近に見当たらなかった。

 何が可笑しいのだろう、にこにこと笑っている。

「……さっきの駅から乗ったの? 親は?」

 俺の問いが聞こえていないように子供は笑顔のまま、表情を変えない。

 他の乗客は彼の存在などないかのように無関心で居る。

 見ているうちに男の子がどこかで見たような顔だということに気付いた。

 うちの近所の子供か?

 いや、こんなところに居るとは思えない。他人の空似というやつか、そう思いかけて、ふと顔を上げたそこに窓があった。

 真っ黒な夜を背景にした窓はまるで鏡のように鮮明に、車内の様子を映す。さっと血の気が引いた。

 視界に入る子供の顔と、その上の窓に映る自分の顔。

 似ている、なんてものじゃない。

 この子供は、俺の、昔の姿だ。無邪気そうに笑っている。何がおかしいわけでもないのに、時折笑い声を上げる。耳障りな、子供のきいきいした甲高い声音が無音の電車に響く。

 十歳の、川橋遥。

 小学校の通知表に「ようくんは明るく元気でクラスの中心的存在です」などと書かれていた頃だ。次の学年の通知表には「いつも黙り込んでいて不機嫌な様子です」と書かれる羽目になる。

 常に声を出さないと呼吸が出来ないのかと疑いたくなるほどお喋りな子供で、少しばかり口が達者だった。そのせいで友達を失った。

 達者な口は友達をやり込めるのが得意で、他人を馬鹿にするのは楽しくて、そしていつしか独りになった。

『みんな、よう君とは喋りたくないって』と言ったのは女子だったか男子だったか。

『みんな』という言葉が示す範囲がどの程度だったのかはわからない。

 当時の俺はその一言で途端に冷静になり、改めて周囲を見渡した。

 友達だと思っていた連中は、皆俺から一歩引いた位置に居て、つまらなそうに俺を見ていた。

 ――あの子が、よう君のこと嫌いだって。

 代弁口調で誰もが俺を非難していた。

 小学生、まだほんの幼い頃。

 目の前で楽しそうに笑うこの少年は、一年後には常に口を噤んで失言の一つも漏らさないように言葉を飲み込む子供になる。

 飲み込む言葉の味は覚えている。いつだって苦い。そして、硬い。飲み込むたび喉が裂けるように痛む。

 昨日やっと取り戻した俺の声が、気付かぬうちに言葉を吐いた。

「……お前の、せいだ」

 子供の笑顔が固まる。

 かっと熱くなると同時に頭が冷えた。

 その最中誰かが肩を掴んできて、俺は半ば強制されたように振り返る。

 大人の顔がそこにあった。それもまた、見覚えがある。だが見たことのない疲れた顔をしていた。まるで自分は独りぼっちだと言いたげな表情。

 乾いた唇が俺に囁いた。


「お前のせいだ」


** **


みらい未来』っていう名前が、嫌い。

 わたしの身に降りかかる未来に、どうしても希望が持てないから。

 歳を取るたび、このさき、楽しいことなんてどんどん減っていくように思えてしまうから。

 幼い頃は、将来の自分に夢を持つことができた。

 中学生のわたし。高校生のわたし。大人になったわたし。

 だけど、わたしの夢は歳を重ねるたびに壊れて行く。

 中学生のわたし。……こんなものか。

 高校生のわたし。……こんなもんだよね。

 大人になったわたしも、きっと。

 ……。

 青い薬品の混ざった水が、黒い穴へ渦を描いて流れていく。

 備え付けの水道は冷たくて、心地よさにわたしは今が夏だと思い出した。

 この電車は、涼しい。

 ふいに心細くなって、呟いた。

「早く、帰りたい」

 できることなら、世々璃も一緒に。

 だけど。

 わたしたちはこの電車を降りられるのかな。

 ちゃんと、もとの町へ帰れるのかな。

 結局。

 わたしが望んでいるのは、パニック映画とかSFみたいな、ドッカーンっていう感じの終わりとは違う。

 ただ、ちょっとだけ。何か少しだけ。

 わたしは、何かが終わってほしいと願う。

 世々璃の思うものと、わたしの思うもの。

 それが決して同じじゃないことに、気付き始めたのはたぶん、高校に入ってから。

 前よりもほんのちょっと世界が広がって、考えなければならないことができて。

 わたしは、たぶん、真面目だった。

 今まで下らないと思っていたものと少しだけ和解した。

 そうしたら、だんだん。

 わたしは世々璃に対する冷静さを、手に入れた。

 実のところ、わたしは時々、世々璃のことを馬鹿にする。

 世々璃のことを、哀れむ。わたしは世々璃を憎いと思う。

 相変わらず幻想的な世々璃の言葉を聴きながら、思う。

「いつまで続くんだろう」

「ああ、何も変わらない」

 世々璃の言葉を心の中で否定する。

「そんなことありえない」

「世界は終わらない」

「ただの言葉だけ」

 そうしていながら、わたしは望んでいる。あの日卒業式で真っ赤な笑顔を見たときと同じ気持ちを、もう一度取り戻したくて。

 ほら。

 わたしは矛盾している。

 いつまでも幼い彼女の言動。世々璃の言い続けたこと。現実に直面しているもの。

 わたしはそれを、受け入れられない。

 帰りたい。

 わたしは、遥君と、世々璃と、同じ幻想を共有するのが楽しかった。

 それだけなのに。

 現実になった幻想なんて欲しくないよ。

 望んでいるだけで良かったんだ。

 気付くのは怖かった。

 わたしは取り残されていく。ううん、わたしだけ、二人を取り残していく。

 終わりの世界へ。

 幼い夢を見続ける世々璃を置いて、彼女と同じ目を持っていたわたしを、わたしは終わらせてしまう。

 帰りたい、とわたしは思う。



 トイレから出ると、そこに遥君の姿はなかった。

 置いていかれた?

 世々璃を見かけたのかも。なら、わたしを置いていくのは正しい判断だ。

 でも、だけど、怖い。

 一人でこんなところに残されるのは、怖い。

「……遥君?」

 声が場違いのもののように響く。

 前後の車輌を見渡してもどこにも居ない。

 置いていくにしても、何か一言欲しかった。

 扉一枚、声が届かないはずない。

「遥君……、世々璃」

 誰も。乗客の誰も、わたしの声なんて聞こえていないみたいに、少しも動かない。

 やわらかい質感のマネキンみたい。

 この人たち、本当に生きているのかな。

「あの、すいません……」

 近くの座席の女性に尋ねる。

「ここに居た男の子、どっちに行きました?」

 女性はわたしを見もしない。体が振動にしたがって揺れているだけ。

「…………」

 トイレの前で立ち尽くしていると、誰かの足音が聞こえた。

 遥君ってかんじではない。

 勇ましい硬い音を立てて、誰かがこっちへ来る。

 わたしの前で立ち止まって、トイレとわたしを見比べる。

「あっ、すいません」

 わたしはすぐに道を明けた。

 大人の女性だった。彼女はそれきりわたしを見ないで、トイレに入っていく。

 明るい色の髪を巻いて、服は大人っぽいスーツ。

 タイトなスカートと、硬いヒール。

 わたしの中の漠然とした『大人』がそのまま出てきたみたいな姿だ。

 他の乗客とは違って、意思のある顔をしている。

 わたしのことを、彼女は認識していた。わたしは少し安堵する。

 ドアの前で立ち尽くしていると、すぐに女性が出てきて手を出した。

「チリ紙貸して?」

「あ、ど、どうぞ」

 慌ててポケットからティッシュを差し出す。

 しばらくして流れる音がして、女性はトイレを出た。

「ハンカチ貸して?」

「あ、タオルですけど……」

 ぞんざいに受け取って、けだるげに拭く手。

 その爪はシンプルなネイルアートで飾られている。

 二十歳、半ばくらい、かな。

 化粧品のCMで見るようなメイクをしていた。

 彼女はタオルを突き返すと、お礼も言わずに踵を返す。

「あ、あのっ!」

 思わず呼び止めていた。

 彼女の目が、「何の用?」と面倒臭そうに尋ねていた。

「あの、わたしと同じ年頃の、男の子、見かけませんでした?」

「何歳?」

「十七です」

「ふぅん」

「あの、見ません……よね?」

「さぁ。見たっけな、わかんない」

「そうですか。すいません。あの……」

「何?」

「どこの駅から乗ったんですか?」

 女性は、ふと、目を細めた。

 考え込むように、口紅の乗った唇を閉ざす。化粧のことはよく知らないけど、睫とか目蓋とか、いろいろ手を施した顔が、急に華やかさを失う。

「どこだったかなぁ。わかんない」

「えっと、じゃあ、どこへ行くんですか?」

「どこでもないところ」

「どこでも……?」

 彼女は溜め息を吐いて、くるくるに巻いた髪を肩へ払う。

 疲れた顔を、わたしから逸らして、どこか不服そうに言った。

「世界の果て」

 ――なんとなく、彼女のような人からそんな言葉が出るのは意外だった。

「終わりの世界」

 彼女のような人がそんなことを言うのは、不思議だった。

「世界は、終わりへ向かっているから」

 彼女が言葉を重ねるたび、わたしの耳と耳の間が、じくん、じくんと疼く。

 だめ、言わないで。

 あなたには、そういうことを言って欲しくない。

 大人の顔をして、どこか疲れているあなたには、その言葉は似合わない。

 ひどく気分が悪くなって、そのまましゃがみこんでしまいたかった。

 胸の奥がきゅうっと縮む感覚。

「どうしたの? 酔った? 揺れ、酷いよね」

 わたしを侮るように、彼女が語尾を笑みに濁して問う。

 わたしは急に体重を実感してしまう。支えるのが辛い。

「この電車に乗っていたら、きっといつか、終わりの世界に行けるよ」

 やめて。わたしと同じ言葉を使わないで。

 世々璃と同じ言語で喋らないで。

 あなたみたいな大人の口から、そんな言葉を聞きたくない。

 わたしは急に、大切にしていた宝物に価値を感じなくなった子供のような、虚脱感に襲われた。

 だめ、だめ、だめ。

 彼女の言葉は、わたしの耳にはとてもとても、薄っぺらなもののように響く。

 汚されていく。

 傷つけられていく。

 大事にしていたものが。

 そっとしまっていたものが。

 貶められていく。

「やめて」

「なにを?」

「……喋らないで」

「どうして?」

「……」

 言葉が詰まってしまう。

「わたしは世界の果てに行きたいの」

「…………」

「だって希望ある未来なんてもうどこにもないんだよ。だから行くの。未来のない世界に」

「…………みらい?」

「そう、みらい」

 わたしに、呼びかけてる?

「未来って名前、今じゃ不吉なものって意味合い以外に何もないのにね、みらい」

 わたしに呼びかけてる。

 上手に化粧なんてしてるから、気付かなかった。

 彼女はわたしなんだ。

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