ep4:終点の、灰色ホームでさよなら<4>

 電車の速度が段々落ちていった。停車準備か。青葉が降りてしまうとも限らない。

 ホームが見えてきた。

 暗い中でぼんやりと淡く光るコンクリートのホームに、大勢の人が並んでいる。

 この時間、この場所で、この異様な電車に乗るために。

 俺は自分を見据える。冷たくこちらを見る大人の俺と、子供の俺。

 言ってしまった言葉の取り返しはつかない。それを今更取り繕うこともできない。

 電車のドアが、アナウンスもなしに開いた。

 見ると、黒い長い髪の後姿がホームに見えた。

 青葉だ。近くに乗っていたのか。溢れ出された人の波に紛れて姿を消してしまう。

「青葉っ」

 俺は自分を振り切って、ホームへ降りた。

「みらい! 青葉が降りた!」

 伝わるか不安だったが車内へ叫んで走り出す。

 青葉が消えていった方へ走ろうとしても人が多すぎてままならない。

 一体どこからどこへ行くのか。まさかこの人たち全てが、終わりの世界を目指しているというのか。

「……遥君!」

 後ろでみらいの声がしてほっとする。

 顧みるとぎりぎり、閉まったドアの前にみらいが居た。

「世々璃は?」

「階段上った!」

「追いかけよう」

 みらいへ頷くものの、混雑するホームで前へ進むことは困難だ。

 接触するとこの人ごみの中だというのに、ひんやりとした感触が伝わってくる。

 人格などないかのように思える、無数の人たち。顔立ちはみな特徴がなく、しかし表情は沈んでいる。

 絶望というほど壮絶な感情はない。だが、なにか、日々物足りなさを感じているような、いじけた顔をしていた。

 電車が背後で過ぎ去っていく。過去と未来を乗せた電車が。

 たくさんの人の入れ替えをして、どこかへ消えていく。

「遥君、向こう!」

 みらいに腕を掴まれ振り返った、途端視界に彼女を見つけた。

 向いのホーム、今降りた人たちはどこへ消えたのかと不思議なほどひっそりとしたそこに、世々璃は居た。

 ベンチに座って、ずっと前からそうしていたように。

 悠然と微笑んでいる。

「青葉!」

 俺の呼び声が届いたか、ふっと微笑が深くなった。

 それにはどこか、侮蔑が含まれているように思えた。彼女の唇が動く。

 祝福するように紡ぐ言葉は、この距離では到底届かない囁き程度だっただろうに、なぜか俺の耳に鮮明に聞こえた。

(――残念。もう心地良くないね――) 

 何のことを言っているのか、一瞬かかって思い当たった。

 言葉。寡黙さは消えた。俺に寡黙者への特権はもうない。

 悔しさか、喪失感に襲われる。だって青葉は、言ったのだ。いつかの冬。

 心地良いから、ずっと傍に居たい、と彼女はそう言っていた。

 俺はたった今、その言葉を翻されてしまった。

 心地良くないから、傍に居たくない。だからさようなら――。

「遥君! 電車きちゃうよ!」

 ホームにアナウンスが響く。走り出していたみらいを追って、階段を駆けた。

 向いのホームへたどり着いても、まだ電車は来なかった。

 延々アナウンスだけ流れている。

「ここ、何駅……」

 ふと疑問を口にしたみらいにつられて表示を探す。

 どこにも駅名は記されていない。

 電車の中と同じように、広告も看板も何も出ていない。

 くすんだ、古い蛍光灯に照らされた灰色のホーム。

 じりじりと、肌に染み込むような夏の湿った空気。

 蝉の声が聞こえない。空に星が見つからない。

「……世々璃」

 みらいが囁いた。不安や惑いを含んだ小さな声だ。

 青葉が、こちらを向く。自然と黒い髪が肩から胸へこぼれた。

「みらい。遥」

 しんと静かなホームに反響する。幾重もの青葉の声が俺を、みらいを呼ぶ。

「……乗り換え?」

「そう。次のでさいごなの」

「どこに行くの、世々璃……」

「終わりの世界に。置いていったこと、怒ってる?」

「ううん、いいよ。心配は、したけど……。世々璃、待っててくれたんでしょ?」

「わがまま言ってごめんね、みらい」

 まるでいつもの調子で、みらいは青葉と言葉を交わしていく。

 いつものように。俺は喋らない。

 全くなにも変わらないような錯覚。だけどどうしようもなく肌に触れる違和感。

「私を追ってきたせいで、二人とも、いやなもの、見たよね、きっと」

 目を伏せる。こちらを案じてはいるが、それが自分のせいとは微塵も思っていない表情。それに対して憤りはない。青葉が故意に過去と未来の俺を引き連れてきた、なんていうことは考えていないからだ。

 非現実的な出来事は、だけど悪夢のようなものなのだろうと割り切れる。それも無理矢理とは思うが、どこか麻痺しているのだろう、取り乱す気にはなれない。それに今はそんな場合じゃない。

「世々璃も、会ったの? ……未来の自分に」

 口ぶりからするとみらいも対面したのだろう、『未来の自分』というやつに。

 青葉は微かに首を横に振る。

「居ないの。私に、未来の私は居ないの」

 アナウンスが遠くに聞こえる。青葉の声の存在感を意識する。

 小さくとも、確かな声。耳が好む、青葉の声。

「ねえ、でも、二人が、追ってきてくれたこと。嬉しかった」

「……でも、って」

 問い掛けると、青葉は俺を見てさっきの笑いを向けた。

 残念だね、という表情。惜しいね、と言っているのかもしれない。

「終わりへは一緒にいけない。あるのは、私の終わりだけだから。

 二人の終わりは別にある。乗車券、あなたたちは持ってない」

「わ、わかんない。言葉、曖昧。だって、ならどうして待ってるなんて言ったの?

 乗車券なら。世々璃がくれた切符なら、ほら……」

 みらいは財布を探り、切符を取り出し、息を詰めた。俺もポケットから取り出す。

 印字が変わっていた。示す駅名は「蛙乃」。地元だ。

「……これがわたしたちの終わり?」

「そこであなたたちは終わり」

「……世々璃は?」

「私は、別の場所」

「別の場所ってどこ」

「終わりの世界」

「それ、どこにあるの」

 みらいの声が湿ってくる。

 泣き出してしまえばみらいは喋れなくなってしまうだろう。

 それを堪えるように、必死に会話を続ける。

「世々璃、一緒に行こうって言ってくれたよね。置いていかれるのは、寂しいよ」

「でもね、変わったのよ。みらい。ごめんね、行き先が変わったの」

「どうして? ……もう一緒には居られないの?」

「みらい……。何を言ってもきっと、嘘に聞こえてしまう」

「嘘でもいいよ。教えて。世々璃」

 縋るようにみらいが問う。青葉は困ったように笑う。

 言葉は嘘で言葉は真実で、それを決めるのはいつも、受け取り手のほう。

 嘘か、真実か。どちらかを選ぶ、それは、受け取り手の自由。

 意地の悪い真理を踏まえて、青葉は口をひらいた。

 アナウンスがサイレンのように響く。


** **


 あらゆる言葉を尽くして、世々璃は自分を卑下した。

 あらゆる言葉を尽くして、世々璃は自分を傷つけた。

 あらゆる言葉が尽きたあと。

 電車がやってきた。

 世々璃は、後悔していた。

 世々璃は苦しんでいた。

 世々璃は、戦っていた。

 世々璃はもがいていた。

 世々璃は、求めていた。

 世々璃は否定していた。

 世々璃は、蔑んでいた。

 世々璃は諦めていた。

 世々璃は、望んでいた。

 世々璃は嘆息していた。

 世々璃は、逃れていた。

 世々璃は許していた。

 世々璃は、頑張っていた。

 世々璃は疲れていた。

 世々璃は、嘘をついていた。

 世々璃は哀しんでいた。

 世々璃は、馬鹿にしていた。

 世々璃は信じていた。

 世々璃は、そして、世々璃は傷ついていた。

 空に星はない。蝉の鳴き声も聞こえない。

 気付けば気配は肌寒い。

 電車のドアが閉まっていく。

「それじゃあ、さよなら」

 あまりにも、何もできないままだった。

 世々璃の吐露すら、聞かせて欲しいと望んだのは、わたしなのに信じることは、できなかった。

 よくできた作り話?

 それは本当のこと?

 言葉が嘘か真実か、判断するのはわたししかいない。

「世々璃っ、でも、そんなこと!」

 閉まりかけたドアの隙間へ投げかけるように声を上げる。

 世々璃のシフォンケーキみたいな微笑みが、今は悲しい。

「そんなこと、気にしなくて、いいんだよ……」

 ドアが閉まっていく。

 ああ、うん、わかってる。

『そんなこと』と言い捨てられたなら、世々璃は、ここへは来ていない……。

「――青葉っ!」

 叫び声が、した。

 遥君だった。

 腕を伸ばす。閉じる寸前のドアへ。

「……っ」

 腕を挟まれた。苦痛に顔が歪む。

 遥君は僅かに出来た隙間からねじ込むように肩を入れた。

 無理矢理、ドアをこじ開ける。

 世々璃が唖然として遥君を見た。

 それは、ふっと優しい表情に変わる。

 辛そうに息を吐いて、遥君はドアの圧力を押し戻す。

 ドアは今にも閉じてしまいそう。片手と、足と、もう全身を使ってドアの閉鎖を拒んで、それからぐいと手を伸ばす。

 世々璃の腕を、引き寄せた。

 華奢な体が遥君の力にあっさりしたがって、電車を降りる。

「――っ、青葉っ……」

「遥――ばかね」

 淡い微笑を浮かべて、世々璃が囁いた。

 背後でドアが閉まる。すべるように電車が進む。

 電車はどんどん世々璃を置き去りにする。

 遥君は捕まえておくみたいに世々璃の肩に手を掛けた。

 電車が起こす風が、長い黒髪を揺らしていく。

 遥君はただ世々璃の肩を掴んで、ううん、軽く触れるようにしている。

 まるで支えるみたいにしているだけで、何も言わない。

 なにも言えないのはきっと、遥君は、言葉が褪せてしまうのを恐れているんだ。

 声にしない感情は、確かにあるはずの伝えたい言葉は、空気に触れると劣化する。

 どうやって伝えていいのか、どうすればまるごと伝えることができるのか。

 ずっと探しているうちに、見失ってしまうこともある。

「青葉……っ」

 乾いた布を絞って出たような、苦しげな声だった。

「だめ、遥、もう……降ろすなんて、無理矢理だわ。迷惑な人。……ああ、ほら、見せたくなかったのに」

 思わず、というふうに笑った世々璃は、いつもの、わたしたちが知ってる彼女と変わらない。

 それなのに、悲しげに掠れる声が、世々璃の喉から漏れた。

 遥君の、世々璃の肩に触れる手がふっと行き場をなくす。

 世々璃の体をすり抜けて、虚空に触れる。

 世々璃のかたちが、ほどけていった。

 それは数多あまたの文字。

 そして数多の声。

 わたしが今まで世々璃の口から聞いたことのない言葉も、たくさん含まれていた。

 幼い声も、最近の声も。笑い声も、泣き声も。

 誰かとの会話、ふいに浮かんでは消える、世々璃の声。

 ほどけて空に溶ける、真っ黒な文字。

 奇妙で、不思議で、失われていく彼女の形を、まのあたりにして、目を離せない。

 もうホームを離れた電車の窓から、幾筋も同じように文字の連なる帯が立ち込めて、星のない空に昇っていく。

 たくさんの人の声が聞こえた。

 たくさんの人の文字が見えた。

 世々璃のそれも、たくさんの中に混ざってしまう。

 声や文字に溶けて、やがて、世々璃の姿はなくなった。 

「青葉……」

 遥君は、もう届かない名前を呼んだ。

 頼りなく握られていた掌を、そっとひらく。

 最後の最後に残った、世々璃の破片がそこにある。

『――……みらい。遥……――』

 淡く光る彼女の欠片。

 空に昇っていく姿はまるで、蝶々のよう。

 それはいつまでも、わたしたちの耳の奥に残った。


** **


 立ち尽くしているうちに、次の電車がやって来た。

 終わりの世界なんてものがあるのなら、それを見てみたいと思っていた。

 車内は無人。みんな夜に溶けてしまったのだろうか。

 二人もそうなってしまうのかもしれない。

 そう思ったけど、不思議とそれを受け入れる気持ちも確かにあった。

 広告も何もない真白な車輌のボックス席。

 二人で向かい合って、言葉は何もなかった。

 沈黙の間をただ、振動音が埋めていくだけ。

 いつのまにか眠っていて、目覚めると電車は何の異常もない、普段乗っているものに変わっていた。

 興味の惹かれない広告と、まばらな乗客。

 たどり着いたのは地元の駅。朝早くの清廉な空気に満ちて、だけれど強い日差しは今が夏だと告げている。耳にうるさい蝉の声。肌に馴染んだ空気。

 切符の印字どおり、俺とみらいは帰ってきてしまった。

 青葉のいないこの世界に。

「ねえ、見て」

 みらいが唖然と呟いた。

「この電車、ここが終点だよ。はじめて見た……」

 停車している電車の行き先表示を指差す。

 異常事態でもなんでもなく、それが当然というようにそこに「蛙乃」の名前が記されていた。

 俺もはじめて見た。地元の駅が終点になっている電車なんて、あったのか。十七年もここに住んでいるのに知らなかった。

「……ここが終点」

 気の抜けた声が漏れる。

 終点。

 確かに何かが終わった気がした。

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