ep3:群青の深海、きっと声の届く時<2>

 鉛筆の走る音。紙に線が生まれる音。

 オレンジの日差しに包まれた教室で、聞こえるのはそれだけ。

 いくら待っても遥君からの電話はこない。

 試してみたけど、こっちからは通じなかった。

 遥君がずっと公衆電話の前に居るとも思えないしね。

 わたしは机と頬をくっつけて、そばにある携帯を見つめている。

「……はぁ」

 溜め息。立ち上がって、黒板に歩み寄った。

 なんとなく手持ち無沙汰。

 やること、やらなきゃいけないこと、わからなくて。

 気持ちを紛らわせたいけど、本読む集中力もないし。

 目に付いたのが、学生向け新聞、みたいなやつ。

「若手美術家、世界へ」

 口に出して見出しを読んだ。

「すごいねぇ」

 そこには十代で実力を認められた絵描きのニュースが載っている。

 でも、聞いたことない名前。

 新聞の日付を目にして、思い出す。

 ここは一九九九年で、時間が止まっているんだ。

 安藤君と永子の、止まった時間の図書室。

「……それにさ、書いてあるんだけど」

「え?」

 安藤君が絵を描きながら、ちょっと低い声で言った。

「ちょっと読んでみな。インタビュー」

 わたしは、下段の枠内を見た。

 インタビュアーのさしさわりない質問に、『若手美術家』が答えている。

 いつから絵を描き始めたのか、なにがきっかけか、などなど。

 締めくくりまでさしさわりなかった。

「あなたにとって、絵を描くこととは?」

「――呼吸、みたいなもの。呼吸をしなければ人間は死んでしまうでしょう。

 私にとって、創作することとは呼吸と同じ、かけがえないこと」

 読み上げた文章に、答えたのは安藤君だった。

 見れば、答えと同じ文章が新聞にも載っている。

 もちろん、『若手美術家』は安藤君のことじゃない。

「覚えてんだ?」

 尋ねたのは永子。

「まーね、気になったから」

「遠也の将来の姿かなっ?」

 茶化した永子を無視して、安藤君は言葉を続けた。

「正直、はぁ? って思ったんだよ、それ読んで。だから覚えてたんだけど」

「はぁって……」

「確かに呼吸ってしなきゃ死んじゃうだろ。かけがいないはずだよな。

 だけど、こいつ、絵を描くことが呼吸と同じって何だよ? だってさ、変だろ。

 呼吸して嬉しいとか思うやつも、呼吸してやり遂げたって気分になるやつも、居ないだろ」

 一部病人除く、と律儀に付け加える。

 そう言われてみると、それも確かに、と思えた。

 だけどわたしは、絵描いたりしないからかな、安藤君の気持ちがわからない。

 何が言いたいんだろう。

「まぁ……べつに、それだけなんだけど。忘れてくれ」

「うーん、まあ、この人の言いたいことも、わかるよ」

 すごくすごく、この人にとって、それは重要なことなんだろうな。

 ああ、そうだ、例えるなら、恋人を「空気」って例えるようなものかな。

 なくてはならないものって意味。

 ただの、例えのお話。

「それって屁理屈じゃん」

 永子が一蹴した。

 その言葉に全て詰まっていた。

「……わかってる」

 今、安藤君の気持ちが、もしかしたら、わかった。

 それは妙な、怒り。そして、焦り。

 ……誰に対しての?

「戻ってこないな、あの無口なやつ」

 話題を変えるように、安藤君が言った。

 その手はもう絵を描いていない。

 スケッチブックを閉じて机の上へ。鉛筆を適当に放る。

 閉じてしまえば、描いた絵はもう消えてしまう。

 消えた絵をもう一度見ることはできない。

 消えてしまう。永遠に。

「もし出る方法がわかったら、二人はどうするの?」

 聞くまでもない質問だった。

「勿論、出るよ。もう五ヶ月も経ってるみたいだし」

「そうだねえ、みんな心配してるよね。お母さん、お父さん……。

 いや、でも、びっくり。飲まず食わずで五ヶ月なんて、ねえ? 

 どうする遠也。新聞載っちゃうかもよ、おーきな見出しで」

 おーきな、と手で弧を描いてみせる。

 ……五ヶ月と、七年。

 経過時間の年数は、二人には伏せていた。

 もしかしたら二人はもう、死んだ人扱いされているかもしれない。

「……帰りたいよね、二人とも」

「それは、当然」

 答えたのは安藤君だった。永子はどこか曖昧に頷くだけ。

 わたしは永子を見つめた。永子は不思議な表情を浮かべる。

 永子はなぜか悲しげに微笑んでいる。

 どこか大人びた顔で。

 ううん、背伸びした子供の、顔で。


** **


 何か思うところがあったのか、みらいは図書室を出て、体育館へと向かった。

 二人はまた取り残される。二人はまだ、取り残されている。

 もうずっとずっと前の、卒業式の日から。

 二人だけが、取り残されている。

 少年は溜め息をついてスケッチブックを開いた。

 ほら、また。

 ここには何も残っていない。

 指や手には確かに鉛筆の汚れがついていても。

 鉛筆の先が短くなっていても。

 スケッチブックには残っていない。

 線の一本。汚れのひとつも。

 自分自身の、僅かな欠片さえ。

 残せない。残せはしない。

 何故、それでも描くのをやめないのだろう。

 何もすることがないから?

 何かをしていないと不安だから?

 ――ねぇ、遠也。

 囁き声で、少女は言う。

「外に出られるのかな。あたしたち、本当に」

「そーだな」

「今更、どうしよっか。受かってた高校だって、今から入ったって馴染めないよね」

「そーだな」

「親、怒るかな。心配したって泣くかな。なんて説明しよっか、こんな状況」

「そーだなぁ」

「信じてもらえるかな? ……カケオチ、とか思われちゃうかもね。男子と女子。

 ……カケオチなんかする理由、一個も無いけど」

「……」

 うわべだけの返事がついに消える。呆れられたか。

 少女は少年を見る。その眼差しを。

「……羨ましい? 新聞の」

「そりゃあ、……羨ましくないなんて嘘だろ」

 認められたい、なんて、誰もが同じく望んでいる。きっと。

 少年も同じだ。

「でも、まったく同じようになりたいとは、ちっとも思わないから」

 それだけは正直に告げる。

 考えていることは自分の中だけに留めればいいと思っていた。

 少女はふぅん、と興味なさそうに鼻を鳴らす。

 きっと本心から興味がないのだろう。

 彼女は絵を描かなければ詩作もせず、物語を創らなければ、音を奏でも、しない。

 それらのものに触れることはあっても、作り出す側には回らない。

 ――呼吸を、するように、なんて。

 そんなに簡単だったこと、なかった。

 少女に理解されぬ心中で、少年はひとり思う。

「きっと俺は、この手が折れても生きて行ける。

 鉛筆を握れなくなっても、失明したって、きっと、命があれば生きていける。

 絵が描けなくなったって、死んだりしない。

 つまり俺にとっての、絵を描くことは、呼吸とは同等にならない」

 言わないで、と永子は唇に人差し指を当てて示した。

 もう言い切ってしまった言葉に、その封は意味をなさない。

「絵が無くても、いいの?」

「いいかどうかは無くしてみなきゃわからないけど。

 でも多分、ないならないで、生きていける。そんな気がする」

 永子は彼の言葉に、なぜかすこしの恐怖心を抱く。

 自らの行為や努力を突き放すかのような彼の言葉。

 焦りのような、怒りのような、何らかの感情に突き動かされる言葉。

 ――ねぇ、遠也。

 それじゃあどうして、きみは絵を描きつづけているの?


** **


 町を彷徨い歩いて夕刻を迎えた。収穫は未だゼロ。そもそも会話もなしに人探しなんて困難に決まっている。

 ここは片田舎の小さな町で、大方人と人の繋がりは不必要に濃いはず。都会で同じことをするよりもよっぽど容易だろう。人とのコミュニケーションさえ可能ならば。

 公衆電話を渡り歩いてタウンページを探した。目的の人物は「安藤遠也」「長岡永子」またはその親族、親しい間柄の誰か。

 まず二人の現状確認を行う。行方不明扱いなのか、あるいは。二人の存在はどう受け入れられているのか。七年前の卒業式で二人を見かけた者は。

 この小さな町でならば、おそらくそれらを知ることは不可能じゃない。

 俺自身がこの固い口を開けば。

 声を。言葉を。

 喋ることを、俺が観念すればいいだけの話。

 傷つけるだのなんだのと無意味なことを言っている場合じゃない。時間はどんどん過ぎていく。

 みらいは。青葉は。この瞬間にも俺から遠ざかっていく気がしてならなくて。

(いつの間にか)

 俺はふと思い当たる。

(三人、ばらばらだ)

 いつも一緒にいたはずなのに。今こうして、三人とも別々の場所に居る。

 そんなこと今までだってあった。三人、二十四時間三百六十五日ひっついていたわけでは勿論ない。だとしても暮している町や学校は同じだった。同じ世界を共有していたはずだった。それなのに今。

 青葉は俺とみらいを置いて姿を消し、俺たちは暮していた町を後にこうして、馴染みない町ではぐれている。

 探しに行こうと提案したのは俺自身じゃないか。

 俺が招いた結果がこれなのか?

 また青葉に会うために行動して、それなのに俺はみらいとも別れてしまって。

 何を、やっているんだ。喋るのが怖いだとか抜かして結局、何も出来ない。

 行動を起さなければいつまでも停滞したまま。

 こうして俺はいつから停滞していたのだろう。

「……青葉。みらい」

 口を動かす。

 呟いた声は音にならない。途方に暮れ腰を下ろしたのはバス停のベンチ。

 周囲に人は居らず、バスが運行している気配もなかった。

 夕暮れの町並みに終わりの気配は色濃く漂う。

 青葉が喜び微笑を浮かべそうな景観。

 真っ黒に染まる家屋と対照的に真っ赤に燃え沈む太陽。光。

 眩いと同時に暗く翳る。あの図書室の窓から見えた夕空とは違う紫がかった赤い雲が流れてどこかへ向かう。

 いつの間にかぼんやりと、俺は空を仰いでいた。

 青葉はどこかで、同じ夕日を見ているだろうか。

「青葉。みらい……」

 途方に暮れて女二人の名前を呼ぶなんてつくづく俺は情けない。だけど発声練習に、他に何を言えばいいのか思い当たらなかったのだから、仕方ない。

「青葉。みらい。青葉。みらい。青葉、みらい――」

 声は次第に大きさを増す。発音は明確に。音声は明瞭に。俺は声を思い出す。

 そうか、俺はこんな声をしていたのか。久しく発音していなかった言葉が、一体どれだけあるものか。

「安藤遠也。長岡永子」

 そして呟く。探すべき人物の名前。

 いつの間にか、目の前にバスが停まっていた。どうやら運行していたらしい。俺は構わず続けた。探さなければいけないから。最低限言えるようにしておきたい。

「知りませんか、安藤遠也と、長岡永子という人物を。探しているんです、安藤遠也、長岡永子――」

 発声練習。ちゃんと人に伝わるように。

 バスから降りてきた老婆が怪訝な眼差しを向けるが、構わず俺は繰り返す。

 いざ尋ねる場面で声を失わないように。

「知りませんか、安藤遠也と、長岡永子という人物を……」

 繰り返し、繰り返し、繰り返して。

 バスが過ぎ去っていく。乗客も散っていく。誰かが、ベンチの前に佇んだ。

「……君。何か用?」

 咄嗟に顔を上げる。

 そこに居たのは大きめのトートバッグを携えた青年だった。

 年齢は近いように見える。精々、二十歳くらいか――。

 その顔立ちは、見覚えがある。身長は記憶より幾分か高い。

「俺、安藤だけど」

 不可解そうな色を含んだ声で、彼は、言った。

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