Episode03
ep3:群青の深海、きっと声の届く時<1>
おそらくそれは彼の挑戦なのだろう、と彼女は思う。
スケッチブックに絵は残らない。描いては消え、消えては描く不毛の行為。
しかし彼は繰り返す。
何も残せない白紙の上に、それでも何か残せるんじゃないかと信じて。
それは彼の挑戦なのだ。
無意味ではないと確信するための、挑戦。
鉛筆は短く、消しゴムは磨り減っていく。紙には線一つ残せないのに。
何故そうまでして挑むのか。
挑まなければ挫折などしなくて済むのに。
少女は描かれていく分身を眺めながら、彼を見た。
真っ直ぐな眼差し。何を見ているのだろう。
私? 違う、彼が描いているのは自分自身だ。
どうにかして残そうとしていた。
自分自身の存在の痕跡を。
ここに居たという証を。
ひたむきに戦い続ける彼を、永子は愛しく思う。
「かわいいひと。意味があることに、何の意味があるかわからないのに」
呟きは声にならず、言葉は喉に飲み込まれるだけ。
永遠という停滞。停滞という一瞬。
その間で、彼の戦いは続く。
** **
「遥君、待って! 遥君!」
遥君が廊下を走る。
わたしは遅い足で追いかけた。
遥君は、足が速い。
チームワークが必要な競技は全然だめなくせに、走るだけならすごく速い。
追いつけない。
遥君はどこへ行くんだろう。
体育館を出てから急に駆けだして、今は校舎の階段をひたすら上っていた。
「……屋上?」
遥君が目指すものに気付く。
やっと追いついた所で、遥君はドアノブを乱暴に回していた。
鍵がかかっているんだ。
「遥君、職員室だよ。職員室にきっと、鍵が……」
ガタンッ。
わたしの言葉を遮って、金属音が響く。
ドアが開いた。
遥君が屋上へ出る。追いかけて、私も。
広がっているのは、抜けるような快晴の青空だった。
爽やかな、でもなぜか気持ちの悪い真っ青な空の下、不意に遥君は立ち止まった。
「……遥君?」
「……」
何か考え込んでいるみたい。沈黙が続く。
何を考えているのだろう。わたしにはわからない。
ちゃんと、言葉にして欲しい。
「何を考えてるの?」
問い掛けると、彼ははっとしてわたしを見た。
瞳がすこし怯えている。どうして?
「…………外へ、出る方法」
長い長い間を置いて、一言だけで答えた。
「出る方法、わかったの?」
今度の問いに答えはない。
焦りとか、不安が、わたしの中に途端に溢れた。
遥君に理解できたものが、わたしには理解できない。
別々の人間なのだから、ちゃんと教えて欲しいのに。
遥君は屋上の端へ歩いていった。
わたしは追いかけられなくて、立ち尽くしてしまう。
呼吸が苦しい。運動は苦手。
汗か冷汗かの区別もつかないものが肌に浮かぶ。
暑い。荒い呼吸を整えながら、わたしは考えてみる。
残された卒業生。一九九九年。
終わりの世界。永遠の在り処。
絵の残らないスケッチブック。
永子と安藤君。
……どうしたら外に出られるのだろう?
「遥君!」
教えてもらおう、と思った。
姿を探す。遥君はフェンスの向こう側に居た。
僅かな足場しかない、危ういそこに。
ようやく気付いた。
「……遥君――――!」
遥君の姿が、屋上から消える。
不安になるほど青い、空の中へ。
** **
彼はスケッチブックのページを捲る。
そうして再び、少女を描き出した。
退屈して、少女は不意に訊いてみる。
「何故絵を描くの。何故絵を描き続けるの」
彼は描画しながら答えた。
「それが解ったら、描いてないかもしれない。解ったとしても、言葉にしたくない」
言葉にするくらいなら、それを絵筆に込めたくて。
そんなことができたなら、こんなに必死に描いてはいない。
きっかけは何だったのだろう。
描いたら誉められて、誉められると嬉しかった。
子供の頃のそんな単純な想いが、はじまりだったのかもしれない。
しかし何故今になっても描いているのか。描き続けているのか。
解らないから、筆を重ねる。
自分自身、解らないから――
だからこそこのスケッチブックに一線も残せないのかもしれない。
自分の証を。存在の痕跡を。
もし、いつか。
大人になったら、あるいは。
あるいは、描くことから完全に離れる日が来るのだろうか。
もっと他のものに熱中しているのか、それとも何にも夢中になれずにいるのか。
どろどろと溢れてくる思考を振り払うように、彼は鉛筆を走らせた。
消えろ、消えろと念じながら、生まれて来る黒い線たち。
おかしな矛盾が描く少女は、スケッチブックの中でにこりともしていなかった。
ただ退屈そうな顔で、少年を見つめていた。
** **
図書館の黄昏。屋上の青空。象徴的な時間のままで止まっためちゃくちゃな校舎。
その最果てのような場所から一歩踏み出したのと同時、みらいの叫びが聞こえた。
自分でも無茶な思いつきだと思った。
落下の状態からどうにもできず永遠に停滞しつづけることも考えた。
でも何故か確信めいたものを抱いて行動に移したのだ。
さながら自殺のような脱出法。屋上からの投身。浮遊感は一瞬だった。気付けば校舎の外に立っていた。
じわじわと蝉が鳴いている。夏の日差しは強く、空気が生ぬるい。
さっきまで居た屋上を咄嗟に見上げるが、みらいの姿はなかった。
待っていればみらいも来るだろうか。その可能性は低い気がする。
このまま一人で青葉を探しに行こうか。
いや、無理だろう。みらいを放っておけるわけがない。
それに俺一人で行ってどうにかなるものでもない気がする。
だが、どうする? もう一度校舎に入るべきか。そうして再び屋上から身を投じるのだ。
とりあえず様子を伺いながら校舎へ入った。……どうも雰囲気が違う。がらんどうで、渇いていて、終わりの気配ではあるが濃密なものは感じられなかった。
不安にかられながら図書室へ向かう。校舎の窓から見える空は夏の快晴で、急に日が沈んだりはしなかった。当たり前だ。
先刻とは違い部屋の中の本棚には一冊も本が入っていない。ただ埃が積もっているばかり。
図書室のドアに手を掛けるが、鍵がかかっていた。
「……」
無理やり左右に引くが、びくともしない。小さな窓から覗く室内は無人、室内の窓に映るのもやはり青空。
踵を返し屋上へ急ぐ。
屋上のドアは壊れて開きっぱなしになっていて、その先に広がるコンクリートと青空の間にみらいの姿はない。
「……みらい?」
一応校舎の下をフェンス越しに確認。みらいは居ない。
仕方なく校舎を出て俺は立ち尽くす。
何をしたらいい?
俺は、何をするべきなんだ?
青葉を探すために。みらいと合流するために。
一体、何を。
途端に心許なくなる、そんな自分が心底情けない。嘆いている場合じゃない、動きださなければ。
惰性で一歩踏み出す。どこへ行けば良いのだろう。迷い、戸惑い、今更気付く。
みらいが俺を引っ張っていたのだ。みらいの後を、俺はついて行くだけだった。
じゃあ今、俺一人で何ができる?
不意に視界を掠める、青い色彩。黒い残影。蝶々。
道を示すように俺の目前を横切った。
「……」
確かなものはない。ただ試してみる気になった。
学校の敷地を出て車の少ない道路を走る。
探すものは人の集まる場所にあるはずだ。
――公衆電話。
確かみらいは携帯電話を持っていた。
幸いな事に番号は暗記している。かける機会なんて勿論ないが数列だけは覚えてしまったのだ。
財布から硬貨を出して、スーパーの脇に忘れ去られたように設置された緑のそれと向き合って、既に数分が経過。
スーパーは窓を埋め尽くさんばかりに値下げ割引のチラシが張られ、まばらに人の出入りがある。いかにも興味深そうに、彼らは電話の前に立ち尽くす人物、すなわち俺を怪訝に眺めて去っていく。
「……」
電話というからには、当然喋らなければ意思の疎通は図れない。
今更携帯電話を置いてきたことを後悔した。それならメールで用が済んだのに。
取りに行く手間はかけられないし、ネットカフェなんてものがこの町にあるとは思えない。
一番確実で素早い手段である電話を前にしながら、俺は動く事が出来なかった。
「…………」
深呼吸。
覚悟を決める。
投入口に硬貨を入れ、数字を正確に入力。
接続音。
――通話状態。
『……もしもし?』
電話口のみらいは公衆電話と表示されたであろう相手を警戒するような声色だった。このタイミングで返答しなければ怪訝に思われ切られてしまうかもしれない。俺は口を開く。
そこまで出来たのに、声が出なかった。
喋らなければ。喋るんだ。声を。声を出せ、なんでもいいから――
――だめだ。出ない。
喉がひりひりに渇く。唾も飲み込めない。
『……遥、君?』
みらいの声が、聞こえた。
――気付けば、受話器を置いていた。
心臓の鼓動を落ち着かせるため深呼吸を繰り返す。
電話一つろくにできないとは、我ながら無様で滑稽だった。
そんなにまで俺は喋ることに抵抗を抱いていたのか。自分に嫌気が差す。
ともあれみらいはこちらに気付いてくれた、と思う。俺の無事は伝わっただろう。
あとは、みらいが俺と同じ方法で校舎を出てくれるのを期待するしかない、が……できるだろうか。
飛び降りなんて思い切った、自棄とも言える行動だ。恐怖心にみらいは負けてしまうかもしれない。無理もないだろう。
俺はおそらく、あの異質な空間と化した校舎へはもう戻れない。
みらいが無事に出てくるのを待つか、外から向こう側へ繋がる方法を見つけるか。
選択肢にもなっていない。当たり前だ、答えは決まっている。行動を起さなければいつまでも停滞したままだ。
目指すものはわかった。とは言え、方法を見つけるのが一番、難しい――。
俺はひとまず曽祖父の家へ引き返した。道すがら考える。
そもそも不可解だ。非現実的なこの状況。
夏休み。姿を消した青葉世々璃。印字のない切符。閉校した中学校に囚われ続ける二人と取り残されたみらい。
おかしい。普通じゃない。
在り得ないはずのことが現に自分の身に降りかかっている。
(考えたってわかるもんか)
思考を打ち切ってコンビニに向い、売り物の新聞で日付を確認した。
一日も経っていない。その事実にひとまずほっとする。
道の途中あの交番に差し掛かった。
足を止めて、失踪者たちを求める張り紙へ目を向ける。
黄ばんだ手書きの紙から最近印刷したらしいものまで幾多の人物が姿を消し、こうして行方を呼びかけられている。
このままではやがて世々璃もみらいもこんな扱いを受けるのだろうか。
そのとき俺は? 俺は地元に帰るのか? 成す術もなく諦めて、帰らないつもりで出て行った町へ。
それだけは、嫌だ。何もしないで、何も出来なくて、みらいを見捨て、世々璃に置いて行かれて。そうやって後悔だけ得て時間に流され大人になる、そんな自分がリアルに想像できてしまって吐き気がした。
「あれ、君さっきの? 学校行けた? 一緒の友達は?」
思いがけず声をかけられ咄嗟に顔を上げる。学校への道を尋ねた老年の巡査が入り口から顔を出してこっちを見ていた。みっともなく戸惑いながら頷く。
「なんの用だったの? 校舎入っちゃだめだよ、今でもね、不良が溜まるんだよね、夜に」
夜。今は、昼間。日が沈む気配もまだない。新聞の日付もそのまま。俺は腕時計を確認する。さっきまで――校舎の中に居たときは確かに進んでいたはずの針は、少ししか動いていない。
「……あの」
まさしく蚊の鳴くような小さい声が出た。
蚊だってまだ自己主張できるだろうに。ほとんど呼吸だ。蝉の声にかき消されたかと思ったが巡査はこっちを見て問い返す。
「うん?」
「俺ら、が、ここを出てからどれくらい……、時間経ちました?」
「そーねぇ……」妙に間延びした声を出しつつ署内の時計を確認して、「ん、一時間ちょっとぐらいかな」
「…………」
礼のつもりで頭を下げて、俺は交番へ背を向ける。
「ん、行っちゃうんか。熱射病に気ぃつけな」
再び礼をする。俺の無愛想に少しも不快感を抱かなかったらしい。
おおらかさ、みらいにも似た雰囲気を感じ取って、それからみらいが傍に居ないことの不安を自覚した。心臓が運動の後のように脈打つ。少し会話しただけでこれか。つくづく嫌気がさした。
俺だってこのままじゃ良くないと思うのに。喋れない。もどかしい。だけど怖い。
言葉の力と言葉の無力。そのどちらも、俺には怖い。
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