九幕:春に翳る




 センター試験も終わり、前期試験も先日やっと終わった。卒業式までは残すところあと数日。第一志望の私立合格している僕は後期試験のことを心配する必要が無い。しかし周り後期に向けて勉強をする人たちを見ると、何も勉強もせずに自堕落に日々を繰り返すのは何となく申し訳なくて、英語の参考書を抱えて学校へ通う。しかし前期試験が終わったという開放感が抜けきらず勉強が身に入らない。そんな二月のつごもりのことだった。

道端には固くなった雪が未だ少し残る。息こそ白くはならないものの寒いものは寒い。コートを着てくれば良かったと後悔しながら歩く僕の隣にはやはり小夜が居る。卒業式の予行練習も終わり、どうにも勉強をする気になれない僕は早々に家路につこうとしていた。

「春日くんは後期試験? は受けないの?」

「うん。後期の試験は三月の中ごろにあるし合格発表は下旬の後半だから、もしそこで合格していたとしても部屋を探すのは大変だろ? 良い部屋も無くなっているだろうし、それに後期までって精神的に辛いから後期は受けないって決めてたんだ」

「えちょっと待って、春日くんってこの街からいなくなるの?」

「そうだよ。私立に行ったとしたら東京だし、国立に行ったなら宮城」

 何か月か前にきちんと説明したはずなのに、小夜は目を真ん丸に丸めて僕を見つめている。人の話を本当に聞いてないな。僕はそっとため息を吐く。

 平日の真っ昼間だということもあり、住宅街には人通りは無かった。時折車が狭い道路を走る程度。だからこそ彼の姿は異質に見えたのかもしれなかった。ベンチに座り空をぼんやりと虚ろに眺める疲れ切った表情の彼。

「ねえ春日くん。あの人……」

「分かってる」

 葉を落とした木が数本、錆びれた遊具が何個かある公園の垣根の隙間から見える。中肉中背、無精ひげがまばらに生える三十路は過ぎただろうと思われる風体をした彼。その隣には優しげな表情で佇む一人の女性が居た。慈愛に満ちた瞳で彼の短髪を撫でる彼女の指は、本当の意味で彼の髪を撫でることは無い。そういう存在だと理解するのに五秒とかからなかった。

 春には可笑しな人が増えると言うし、彼もそういう類の人なのだろう。そのような人には関わらないのが一番だ、そのことを熟知していた僕はそそくさと立ち去ろうとする。

「ねえ春日くん。いいの? あの人きっと引きずりこまれちゃうよ」

 引きずりこまれる、小夜はこんな生ぬるい言葉で表現しているけれど実際はそんな優しいものじゃない。地に縛られる彼らは待っているのだ。共に天に行くための仲間を。普通に生きている人間ならば、彼らに多少憑かれようとも関係は無い。しかし彼のように生きる気力を無くしたような、そんな暗い心を持った人間ではわけが違ってくる。彼はその隣にいる女性に引きずり込まれる。つまりは、彼は遅かれ早かれこの世の住人では無くなる。

「生身の人間ほど怖いものはないだろ。見たところ彼は憔悴しきってるように見える。ああいう人間ほど何をしでかすか分かったものじゃないし。それに引きずり込まれようと僕の知ったことじゃないから。僕は帰るよ」

「薄情もの」

 妙に怒ったような顔をした彼女はふいっと公園の方へ駆けて行く。それを阻止しようと手を掴むも、彼女はすでに死んでいる人間なのだ。それをすっかり失念していた僕は、すり抜けてしまった指に思わず舌打ちをした。幽霊に関わらないようにさせてあげると約束したのはどこのどいつだ。このまま放って僕だけ帰ればいい、そう心の中の面倒くさがりな僕が囁いたけれど、一度小夜が満足するまで付き合ってやると約束してしまった手前、そうは行かない。それに小夜は気が付いていないかもしれないが、幽霊は人に干渉し、また同族である幽霊にも干渉する。互いにに作用しあって一緒に天へ行くのならば良いだろうに、どういうわけか大抵彼らは互いに邪魔し合う。そうして下へ下へと存在を人間とはとても言えない何かにしてゆくのだ。そうなってしまった彼らは、天へ帰ることも出来ずにその場にとどまり続ける。そして生きている人間、人の形を保つ幽霊を手あたり次第暗い奈落の底へと誘う。

 彼女をそうさせてはならないと思った。そうさせてしまったら、きっと僕は後悔する。気が付くと僕は小夜の元へと駈け出していた。

「――小夜!」

 急いで公園の入口へと周り、その名前を呼ぶ。彼女は一瞬ビクリと身を震わせこちらを振り返ったが、そのまま男性の元へと走る。聞き分けが無い子供を持っているような気分になる。僕が大きな声で叫んだからだろう。男性は驚いたように視線を僕の方に寄せた。

 このまま何も言わないで居るのもおかしい。何か目的があって彼に近づいたということにしなくては。僕は苦し紛れにその嘘を言った。

「す、すみません。あの、ボールがこちらに飛んできませんでしたか? いとことキャッチボールをしていて」

 僕は小夜を視線で呼び寄せる。すると彼女はバツが悪そうに俯きながら僕の隣に移動してきた。放っておけなかったのごめん、と小さく謝罪の言葉を口にした小夜に思わず安堵のため息を吐きそうになる。

「気が付かなかったよ、ここらへんに落ちたのかい? 探すのを手伝おう」

 その男性の目に光が宿ったような気がした。ゆるりと笑みを見せた彼は、先ほどの憔悴した彼とは全くの別人に見えた。厚手の黒いコートにジーンズ。よく見れば片手に缶コーヒーを持っていた。その隣に付かず離れずにいる彼女は僕が目を向けじっと見ると少し驚いたような顔をした。長い黒髪を流し、秋めいたワンピースを着た妙齢の女性だった。

「本当にすみません……。確かにこの辺に落ちて……」

「いいんだよ、私もちょうど暇を持て余していたから」

 彼は缶コーヒーをベンチに置いて立ち上がる。木に引っ掛かってしまったのかな、と少し背伸びをして木の枝の隙間を丁寧に調べる彼に僕は申し訳なく感じてしまう。

「えっと、君は西高の生徒さんかな?」

「はい、そうです」

「私もそこの高校出身なんだ。って言っても旧校舎の時に在学していたからもう十五年近く前のことだけどね」

 僕はあるはずもないボールを探すために、低木の周りを見たり、棒で突いたりしてみる。木の上を探す彼にぴったりと憑く女性。きっと彼は彼女の存在に気が付いていないのだろう。探すこと数分、彼は沈黙を破り、突然ぽつりと呟いた。

「……こんなことを突然言うのはおかしいのかもしれないけどね、私は昔幽霊が見えたんだよ」

 えっ、と驚いた僕は手を動かすのを止めて思わず男性のことを見つめる。彼も僕と少しだけ目線を合わせて、昔のことだけどね、と可笑しそうに笑った。

「見えなくなる前に、ちょうどその頃恋人を亡くしてしまったんだ。その後からかな、見えなくなったのは」

「……その前は、見えていたんですか?」

「ああ。秋の色をしたワンピースを着た彼女が見えていたんだ。いきなり見えなくなったものだから絶望したさ。彼女は僕に愛想をつかして消えてしまったんじゃないかなって」

 隣の彼女は寂しそうに微笑んだ。彼ははは、と乾いた声で笑う。

「もしかしたら、僕が幽霊を見えていたというのも彼女が見えていたというのも、すべて妄想だったのかもしれないとこの頃思うようになってきたよ。……突然、こんな話をしてすまない。ちょうど彼女の命日が今日で感傷的になっていて。もしかしたら春が近づいてきたからこんな話をしたくなったのかもしれないな」

 妄想なんかじゃない。それは紛れもない事実で、だけれど僕がそれを説明するには難しすぎた。寂しげに彼の頭を梳く彼女、きっと未だ彼女のことを気に掛ける彼のことを憂いているに違いなかった。彼は未だ彼女を忘れがたく思っていて、彼女はそんな彼が心配で仕方がない。こんなにも互いに深く思い遣っているのに、彼らはすれ違う。この世界に神さまという存在が本当に居るとするならば、なんて残酷なことをするのだろうと思った。彼が死ぬまで悲しみ続けるのならば、彼女はずっと彼の隣に居るのだろう。それが彼らにとっての幸せなのかどうかは僕には分からないけれど。

「本当にすまない、こんな話をしてしまって。ところでボールが見つからないのだけれど……」

「いいんです。安いボールでしたし、家に替えがありますから。こちらこそ探すのに付き合わせてしまってすみません」

 僕はお礼をする。彼は、良いんだこちらこそと僅かに微笑んだ。僕は再度お辞儀をして、その砂利を固く踏みしめるように歩いた。僕の歩調に合わせて後ろを歩く小夜はごめん、と言いながら僕に問いかけてきた。

「ねえ春日くん、あの女の人は……」

「たぶん彼がもう見えないことはとっくに知ってるし、それを分かっていながら憑いてる。これは僕の予想でしか無いけど、おそらく彼女は、彼が悲しみ続ける限り憑いて回ると思うよ。でも引きずられることは、無いと思う」

「そう……」

 小夜の表情が翳る。僕らは、彼らとは差異はあれども同じような境遇で同じ時を生きている。僕がいつの日か“彼ら”を見えなくなる日が無いとも言えない。現に大人になるにつれて霊感という物が無くなる事例は、少なくはないと聞いたことがある。そうなってしまった時、僕は一体どうするのだろう。彼のようにずっと悩み続けて生活していくのだろうか、それとも今までのことは忘れて何事もなかったようにそれからの人生を過ごして行くのだろうか。両極端な選択だ。どちらかを選ぶかなんて出来ない。僕らは恋人同士でもない、けれど互いに干渉し合っている。いい意味で宙ぶらりんな関係なわけで、それだからこそ線引きが難しいのだけれど。

「――僕が小夜のことを見えなくなったとしても、僕は彼のように悲しまないし、それでいて小夜のことを忘れるつもりは無いよ。例え結婚して子供を持ったとしても、心のどこかでは覚えているようにする。だから大丈夫。小夜は満足するまで僕に憑いてれば良いし、そういう約束だろう?」

 彼女からの返事は無い。けれど無言は肯定の証だと言うし、そういうことなのだろう。しばらく無言で歩いていれば、最初からそのつもりよ、と珍しく押し殺した小夜の声が聞こえた。僕が茶化すように明日は雨かな、と言えば間をおいて春日くんの馬鹿、と先ほどより幾分か落ち着いた声音が耳に入る。

 これでいいんだ、僕はそう思えた。僕らが交わしたのは不確かな約束だったのかもしれないけれど、それでいい。はた目から見れば拙く見えるだろう。けれど今この瞬間は、それが僕らに出来るたったひとつの冴えた選択だった。

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