八幕:執着




 三年生には優先的に解放される図書館は冷房が効いていて涼しいものだ。セミの騒がしい声は遠くで微かに、そして鉛筆がガリガリと音を立てる音が各机から聞こえてくるだけだ。夏は受験の天王山と言われるもので、皆必死に勉強をしている。そんな僕も例外では無く、朝から机に向かって参考書と睨めっこをしているわけだが、ここに一人の邪魔者が居る。二か月ほど前から僕に憑いている小夜である。

「ねえ、ここ分からないんだけど。なんでこれ場合分けすると五つに分かれるの? このaって何なの。意味わかんない!」

 うるせえ。僕の額に青筋が浮かび上がっているのが自分でも分かった。この耳元で鳴き喚くセミのようにうるさい女どうにかしてくれ。

 頭に響くのはキンキンとした声だ。一応互いに利害の一致があったため僕と小夜は行動を共にすることとなった。よくよく彼女から話を聞いてみると(僕が一方的に聞かされただけだが)、彼女はどうやら生前は16歳であったらしく、心臓の病で入退院を繰り返していたらしい。高校二年の春から病態が悪化し、病院に入院していたところ更に病状が悪化して亡くなったと。元から病弱であった彼女は病院でも自分でテキストを解いたり、通信教育をしていたりしたと言っていた。そのおかげなのか勉強はそれなりに出来ているし、何より熱心で分からないところがあれば僕にその都度聞いてくる。まあそれが今問題になっているわけだが。

 僕は深くため息を吐きながら『今忙しいからどこか行ってくれ』と数学のテキストに直に書いた。彼女は非難の声を上げたが、僕がイヤホンに手をかけるのを見ると諦めたようで、図書館から出ていった。これで集中できる、僕は鉛筆を握りなおす。



**



 今日のノルマが終わり、帰ろうとすれば隣に小夜がいない。ここ最近はこの時間になれば戻ってくるはずなのに。このまま帰っても、小夜とは毎日のように登下校を共にしているわけだから家の場所が分からないなんてことはないだろうし問題は無いだろう。しかしこのまま何もせずに帰ってしまうのは薄情な気がする。そこで僕は小夜が居そうな場所を回ってみることにした。

 リュックに勉強道具を全て詰め、図書館を一回りして小夜が居ないことを確認した僕は自分の教室に向かう。強烈な西日が窓から差す。その赤は僕の影を伸ばしている。教室に向かう廊下を歩くのはたった一人僕だけで、靴が規則正しく床に当たる音が響くだけだった。夏休みに活動している部活の生徒たちはもう大方帰ってしまったのだろうか。窓から見えるグラウンドには野球部が均した跡と思われる線がずっと一直線に伸びていた。

 ふと、遠くの方で笑い声が聞こえて耳を疑った。奥、自分の教室の方から聞こえるそれに訝しく思う。僕はそこまでの距離を早足で歩き、教室をちらりと覗いてみた。

「先生面白いですね! ええ、じゃあどうしちゃったんです、その楽器」

「結局友達に手伝って貰って抜いたのよ。いくら菜箸で突いても取れなかったのに、引っ張ってもらったら一発で取れたの。唖然としちゃったわ」

「骨折り損のくたびれ儲けってやつですね。その写真はいつまでも残ってしまうわけでしょ?」

「ええ、探せばあると思うわよ。とっても微妙な顔をして映っている私の写真が」

 小夜と女性の声だ。落ち着いた女性の声。喋り方からしてきっと先生だろう。今まで気が付かなかったけれど霊感がある先生がいるのか。僕はその教室を覗いた。

 小夜がとても楽しそうに話している傍らにいる女性。眼鏡をかけ、髪を後ろで束にしてまとめている。体のラインぴったりのスーツを着たその女性の体は透けている。赤い空が彼女越しに見えた。

「――あ、春日くん! そんな所に隠れてないでこっち来なよ」

「ああ、うん」

 小夜が僕に手招きをする。隣に居る女性は少し驚いたような顔をした。しかしそれも一瞬のことで、あなたがとぽつりと呟いてから僕に向かって微笑んだ。

「……ええと、すみません。小夜が迷惑をかけて」

「いいのよ。こちらも楽しませて貰ったし。さっき小夜さんからお話は伺ったわ、春日くん。私の名前は柿崎 こまり(かきざき こまり)って言うの。よろしくね……って言っても幽霊だからあまり会わないと思うけれど」

「よろしくお願いします」

 僕は握手をしようと手を差し出そうとして慌ててひっこめた。それに彼女は小夜さんが言った通りちょっと抜けているのねとくすくす笑う。そして彼女は透明な手で、引っ込めてしまった僕の手を優しく包み込んだ。綺麗な手だ。だけれど中指のぷっくりとしたペンダコがその存在を主張している。そしてその手を間近で見ることで分かる。彼女と空気の境界線がぼやけていることを。指先から小さい泡のような光がふわふわと上に上っていく。これは、と問いかけようとしたとき、彼女はそろそろ時間なのねと少し名残り惜しそうに言った。

「私の未練はね、教え子を持って再び授業をすることだったの。小夜さん、さっきあなたに教えたからきっと未練が無くなったのね」

「こまりさ、お願いまだいかな……」

 小夜が最後まで言い放とうとした言葉を僕が制す。すると小夜ははっと我に返ってそうだよね、そんなこと言っちゃ駄目よね、とでも言うようにぐっと唇を引き結んだ。

「私ね、三十年くらい前かな。この学校で担任を持っていたの。まとまりなんて無いクラスだったけど、本当に楽しかった。皆仲が良くてね。でも担任を続けていくにつれて、だんだん疲れていったの。夜まで書類が出来なければ残って、時には深夜まで自宅に持ち込んで。吹奏楽部の顧問をしていて、休日も返上で部員たちの指導をしたわ。要求されることは増えて、それとともに失敗も多くなった。初めての担任だったせいかな、やること全て上手くいかないのよ。もう困っちゃって、私ね、魔が差してしまった。こんなに辛いなら死んでしまった方がいいと思ってしまったのね。あるだけの睡眠薬を気が付いたら口に含んでいたの。それで気が付いたらこの学校に居たのよ。今思えば、何て取り返しのつかないことをしてしまったのだろうって。生徒たちにどれほどの傷を残してしまったのだろうって。でも、馬鹿みたい。私、まだ教えたかったのよ。自分から死を選んでおいて、まだ授業をしたかったのよ」

彼女は吐き出すようにその言葉たちを紡いでゆく。ぽろぽろと零れ落ちるそれが増えるたびに彼女の体は薄く、透明になっていく。

「こうやって小夜さんに教えることが出来て、私の未練は解消された。でもね、私は申し訳なく感じてしまう。私だけが楽になっていいのかしらって。私の死を間近で感じた生徒たちは今も心に傷を負っているのではないかって、そう思ってしまうの」

 彼女の顔が歪んだ。きっとこのまま成仏してしまうことが申し訳なく感じてしまうのだろう。自分の未練を晴らしたものの、過去自分の死に関わってしまった教え子の心を思うと行くに行けないのだろう。現に彼女の体はある程度透明になると、それ以上は何も変化しなくなった。きっとこのままでは、彼女は天に行けないまま。これからも長い月日を葛藤しながら過ごして行くに違いない。自らを責め苛み、どす黒い感情を糧に死んだようにその場に残る。そうした姿をした者は、生きている人間すら巻き込んで、周囲を暗い奈落の縁へと落としていく。

「……僕は父親から、高校在学中に先生が亡くなったと聞いたことがあります。父はこの高校出身なので、その亡くなった先生はあなたのことだと思います。葬儀でもあなたのことを惜しむ生徒が多くいたと。そして素晴らしい先生だったと皆口を揃えて言っていたそうです。僕の父も、あなたの教育に対する真摯な姿に胸を打たれて教師になったと。あなたは負の面ばかりを考えているけれど、良い影響も多く残しているんです。だから、――」

 彼女はありがとう、と言った。淡い光を纏った小さな泡が上へ上へと昇って行く。涙を頬に落としながら、けれどその表情はどこか清々しいように見える。そして僕が最後に言葉をかける前に彼女は消えてしまった。

 小さな粒子が未だ無数に残る教室。心にぽっかりと穴が空いているような気分だった。それは僕に限らず隣にいる小夜も同じだろう。彼女はぼんやりと虚空を眺めている。

「――……こまりさんは、気づいていたのかな」

 ぽつりと呟かれたその言葉。その言葉の意味を考えあぐねるほど僕も馬鹿じゃないけれど、それをはっきりと答える気分にはなれなくて、わざとはぐらかすようになんのことかなと答えた。

「へたくそ」

 小夜はそう言い放つと顔を上げる。何とも言い表せない表情をしていたけれど吹っ切れたようだった。彼女は、帰ろうと僕の差し出した手を引っ掴む仕草をする。

「今日の夕食はハンバーグがいいなあ」

「小夜は食べられないのに?」

「匂いだけで幸せなれるからいいの」

 夕焼けが歩く道を照らす。生きていれば何かしら別れとは来るはずのもので。今でさえこんなに胸が苦しいのに、彼女が居なくなってしまったら僕は一体どうなってしまうのだろう。その時僕は、さっきのように送り出すことが出来るのだろうか。僕には、僕に関わることであるはずなのに全く想像がつかなかった。


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