絹を染めようと思い立つ

 着物の布と言うのは、横幅三十六~三十八センチ、長さ十二~十四メートルの長い布です。これは反物と呼ばれます。

 祖母の旧宅を片づけた際に弔事用の白い着物が三,四枚出てきました。着物の縫い目を解いて、一枚の布に戻し終えると、経年劣化によるシミや汚れが沢山ありました。

 薄くて肌触りのよいシルクをこのまま捨てるのはもったいないからは紅茶染めにしようと思いました。だがしかし、絹織物を紅茶で染めることでさえも勿体ないような気がして、どうせ染めるなら本格的に染色してみようと決めました。

 なんでそのような斜め上の発想に至ったかと言うと、初めに申しました通り、一枚の着物は十メートル超の布からできています。それが三,四枚。つまり五十メートル近い膨大な白布が梅戸の部屋を占領しているからです。薄汚れた白布なんて捨てろよと思われるかもしれませんが、貧乏症の梅戸は絹100%の布を捨てるなんてもったいない!とシミだらけの小汚い布を後生大事に洗濯してアイロンまで掛けて保管しておいたのです。

 それから紅茶染めしてスカートやカーディガンなどに仕立てようと考えていたのです。紅茶染めなら手軽で安くできます。手芸を趣味としている梅戸は、化繊と呼ばれる、ポリエステルやポリウレタンつまり石油由来の繊維でできたレースを何度か紅茶染めしています。ダージリンは落ちついた渋みのある薄っすら桃色の入った茶色、アールグレイは赤褐色に近い濃い茶色など茶葉によって色味が若干変わる所も面白いところです。

 ただ、茶色の洋服は実用的かと問われればはなはだ疑問です。ベージュに近いキャメル色ならいいかもしれませんが、そもそも夏用の薄い絹織物にそのような秋冬の色で洋服を作るのはちぐはぐです。ですから、どうせ染めるなら年中使えるグレーや、ネイビーに染めてしまおうと考え、ネットで染料について調べました。

 先ず出てきたのは草木染めについて。草木染めはかなり面倒で手間がかかると本を読んで知っていたので染料候補から除外しました。もっと簡単に染まるのは化学薬品を用いた染色方法です。藍染めや茜染めなどの草木染めが天然染料とよばれるのに対しこちらは化学染料とよばれ発色よく、様々な色に染められます。今回は化学染料を用いた方法で染色を試してみました。

 「化学染料、絹」で検索すると、すぐにヒットしたのはダイロン染料です。これはかなり有名な染料で綿を染めるのに適しています。次にみやこ染料です。これは絹や化繊を染めるのに適しています。ただ、どちらも欠点がありました。それは絹や綿製品に使用すると色落ち色移りする場合があることです。

 この、色落ち色移りしやすさを、堅牢度、堅牢性と言います。色落ち色移りしにくい染料は堅牢度が高いとか言います。染料の細かな粒が綿の繊維や絹の繊維に囚われやすさを示したものと考えればいいかと思います。

 今回染めるのは絹です。絹はそもそも蚕の吐く糸からできています。蜘蛛の糸なんかと同じたんぱく質です。たんぱく質は熱に弱いです。つまり熱によってたんぱく質の仕組みが変わるのです。つまりお湯の中で染めれば堅牢度が増すのです。

 絹と似たような性質の糸に羊毛があります。ですから羊毛に使われる染料を探しました。すると滅茶苦茶沢山出てきました。ラナセット、デルクス、イルガラン、もちろんみやこ染料やダイロンもヒットしました。

 詳しくは省きますが、梅戸はイルガラン染料を購入しました。渋めの色で落ち着いた感じが気に入りました。

 早速お湯を十リットルくらい用意して染めました。染める手順は、絹糸でも布でも、百グラムに対して3%~1%の染料を使うこと、用意するお湯は絹布百グラムに対して四リットル以上であること、染料が繊維によく浸みこむように酢酸(CHO-COOH)をお湯一リットルに対して一ミリグラム用いること、など複雑で大変でしたが、化学実験が大好きな梅戸は試しに布地のぼろぼろの部分を使い、1%と3%の場合の色着き方を調べました。

 ネットの画像検索で見た通りのデニム調のネイビーブルーと、やや青味の強い灰色がかったブルーに染まり、発色に関しては大満足でした。薄く染めるか濃く染めるかに関しては、1%の濃度で染めた布地ではシミがごまかせませんでしたが、3%まで濃くすると、元からその色であったようなつやと発色になり、シミも染料に塗り潰され、また染めムラもなかったため、3%の濃い目で染めることにしました。

 しかし、心配なのが堅牢性です。と言うのも、イルガランは堅牢性が低く、水洗いした時に染料が滲みでやすいのです。実際試料に使った絹布も水洗いすると染料が滲みだしました。本来堅牢度の低い染料には色留め剤と呼ばれる専用の色落ち防止剤があるのですが、イルガランを購入したネットショップでは、イルガラン専用の色留め剤は見当たらず、他の色留め剤で代用するしかなさそうです。

 そんな折に別件で地元の手芸屋さんに立ち寄った時、そこの店舗でみやこ染料を取り扱っている事に気付きました。そして、みやこ染料専用の色留め剤を発見したのです。使い方はとても簡単で五十度のお湯に色留め剤と布を入れるだけです。値段もお安く三百円程度だったので購入しました。イルガラン染料の試料に試したところ、ぴたりと色落ちがなくなりました。

 思いもよらぬところに問題解決の突破口が見つかりました。早速着物二枚分の布を染めました。試料と同色のデニムっぽい色味の布になったので、カーディガンとスカートに仕立てました。

 情報収集と実験と試行のフィードバックから新しい知見を得ることはとても楽しい行いです。人間らしい行為でもあると言えます。そして梅戸も水槽に浮かぶ脳髄ではないので、このような体を動かし、五感を総動員して観察した事象から試行錯誤を行うことはずっとやっていたいくらい大好きな作業です。

 染色の面白さにはまってしまった梅戸の元には残り五百グラム程度の絹布があります。染料もイルガランだけではなく、より発色の鮮やかな物や、堅牢度の高い複雑な化学処理を施して染め上げる染料もあります。世界は広いのです。そしてそれを知ろうとする者の前には常に開かれているのです。

 今回染色に用いた道具は、イルガラン染料、酢酸、色留め剤、ステンレス製のボウル、ポリバケツです。正味千円すこしのコストで本格的な染色を楽しむことができました。

 今後残りの布は、別の色のイルガランで染めるか他の染料で染めるか、それとも草木染めに手を出すか。とても楽しみです、きっといずれの場合でも前回とは別の問題に直面し、それを解決する手段を考え、試行し新しい知見が得られる事になるでしょう。いずれにしても、絹繊維と言うたんぱく質の塊にいかに染料を固着させるかという問題に収斂するわけですから、楽しいことこの上ない実験になると思います。

 きっちり染料を計測したり、お湯の温度を五十度程度に保ったりするのは面倒でしたが、理想の色に染め上がり、水洗いしても染料が滲まない布を得る喜びには代えられません。 着物を解くという作業からまさか布を染めだすまで飛躍するなんて考えられませんでしたが、そこが人の思考の面白いところかなあとも思いました。

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