55歳から始めた、オヤジバックパッカーは何処へ行く

富嶽庵

第1話 今から思えば、よくそこに行ったよ (イエメン)

 早朝4時過ぎ。神に祈りを捧げる時間がやってくる。すると、あのアラビア独特の抑揚のアナウンスが其処かしこと聞こえてくる。「さあ、皆のもの、お祈りに行きなさい」とでも言っているのか。こうも大音量だと、寝過ごす人はいないだろう。いやでも自然と目が醒める。その眠りから醒めた瞬間は、「ああ、そうだ。自分は今アラビアにいるんだ」と実感するときだ。


 イエメンはイスラムの中でも世俗化が進んだ国が多いなか、保守的なアラブの中でも戒律に厳しい国だ。聖地メッカの守護サウジアラビアは別格として、クウェートと並びアラブの伝統を残す国だそうだ。そういうと、外国人にとって非常に息苦しい生活を強いられるのか、といえばそれは正しくない。外国人がその土地に来たら、その国の文化や伝統を尊重するのはどこに行っても当然のこと。都市部にいる限り、治安などは少なくともフィリピンあたりよりかなり良いと言える。経済的にはまだ貧しい国なので、何かと不自由も多いが、何と言っても首都サナアの旧市街地の光景は他では決して味わえない、まるでアラビアンナイトの世界に迷い込んだような、数世紀も前にタイムスリップしたような街である。

 日干しレンガや石を積み上げた、5階建てから7階建てくらいの古い建物がひしめき合うように、びっしりと城壁の中に押し込まれている。道の両脇に建物が立つのではなく、建物と建物の間が、結果的に通路になっている。とでも言っておこう。

 

 昨日、サヌアの空港では、ちょっとドキドキした。何故って? いや大したことではないが、個人的には、この先数日間、充実した日々が過ごせるかどうか、基本的な問題に関わることなのだ。

 スーツケースを開けた係官は、「怪しげなものを見つけたぞ」とでも言わんばかりに1.8Lの紙パックを取り上げた。

「あっ、それっ、日本式のお米のジュースなんです……」

 彼だってプロである。「そんなウソが通用するとでも思ってるのか?」とでも言わんばかりに顎をしゃくりあげて俺を睨む。えっ、ダメ? 没収? でも、まさか逮捕とかはないでしょ、酒の持ち込みくらいで。人一倍小心者の俺は、もうすっかりドキドキしてしまって、次に用意すべき言葉はなかった。

 彼の目つきが突然友好的になったのは、彼がパスポートをもう一度見て、俺が日本人だと改めて認識してからである。

「オー、ヤバニー! コニチワ、アリガト」

 彼は、ホテルの中だけで飲むように、と念押ししてから、スーツケースを閉めるように、と見逃してくれたのである。持つべきものは日本のパスポート、なのだ。


 さあ、一難去ってまた一難。空港を出たのはいいけれど、言葉が通じない。まあ、アラブの国だから英語もそうそうは通じないとは思っていた。が、中学1年の1学期レベルの英語も通じないのだ。いやいや、これなら日本の中学1年生の通信簿2の生徒の方がはるかに上というものだ。相手はタクシーの運転手である。数字のワン・ツー・スリーも通じない。

 そういうこともあろうかと、行先の住所はメモ紙に書いておいたのだが、なんだかんだアラビア語で言ってくる。しかも、あまり楽しそうな顔ではないぞ。それでも、その浅黒く皺だらけ顔の運転手は、「しょうがねえな、乗れ」とでも言わんばかりに、俺のスーツケースを薄汚いトランクに放り入れた。

 その安宿は、何度も切り返さなければ通れないような路地を何度か曲がって、やれやれという感じでようやく辿り着いた。これじゃ、彼が不機嫌な顔をするのも

もっともだよな。

 

 さーて、古い街を歩いてみるか。宿のフロントの兄ちゃんは結構流暢な英語で、市街地マップのなかの見どころにマル印をつけながら、いろいろ教えてくれた。が、「地図はあまり正確じゃないから、あまりアテにしないように」と付け加えた。うーむ、ただでさえ入り組んだ迷路のような通路が、おまけに正確ではないのか。いきなりは、あまり遠くに行かないほうが良さげだな、これは。慣れるまでは、近場の徘徊くらいにするべ。

 で、通りに出てみると、おー、いるいる。あの黒いチャドルにすっぽりと覆われた女性たち。目のところだけ細長くメッシュの窓のようなものがあるが、あれでちゃんと足元とか見えるんかいな。でも僅かにメッシュ越しに見えるそれらの眼は、何というか、憂いと深みを湛えていて、うーん、これぞアラビア。石造りの古い建物に黒いチャドルの女性たち。通路の縁を足早に、うつむき加減に通り過ぎる。なかなかマッチしていいじゃないの。

 しばらくは、まあ必然的にというか、女性たちの方に気を取られていたのだが、一方で、俺はもう一つの奇妙な光景にもやがて気がまわるようになった。

 何と、男同士でオテテ繋いで歩いているのである。まあ、彼らにとっては何でもないことなのかも知れないが、この光景は日本人の感性からはちょっと……。子ども同士ではなく、いい齢をした成人である。しかもあちらこちらで見かけるのだ。さすがに写真を撮るのは躊躇した。ただでさえ、写真撮影は許可を得ないといけない国柄と聞いていたし。

 まあ、考えてみなくても、一夫多妻ということならば、アブれる男たちも大勢出てくるワケで、物事の必然として、そういうコトになってしまうのだろう。

 そう言えば、ここに来る途中に寄ったドバイの空港でも、恰幅の良さそうな男が女房を数人従えて(当然それぞれに子どももいる)歩いている姿を何度か見た。教えによれば、女房の数に制限はないものの、4人くらいまでにしておけ、だそうだが、女のほうには複数のダンナを持つ自由など無いわけだから、当然独身男がかなりの確立で発生するのは、小学生でもわかる理屈である。となれば、男同士で手をつなぐのも仕方ないのかな? アラブの世界ではヒゲを生やしてない方がオカマだとか聞いたことがある。俺も滞在中はヒゲを剃るのはやめておくべ。間違われたらエライことになる。


 次の日は、ほっつき歩いているうちに、少しは“通路事情”にも明るくなり、行動範囲も拡がるようになってきた。小学生が1年成長するごとに、大通りの向こう側に行かれるのと同じである。

 さすがにアラビア半島の先っぽまでやって来れば、日本人はかなり珍しいらしく、人々から好奇の視線を浴びる。しかし、だ。何と言っても日本人は世界じゅうでどこに行っても好感を持たれているのだ。このことは先人たちに感謝するとともに、俺は声を大にして言いたい。

 あちこちから「ヤバニーか?」と、声がかかる。そうだ、と応えると、だいたい帰ってくる答が決まっている。「俺は日本のことなら知っている。トヨター、ソニー、パナソニクー」と、だいたいこの反応である。

 子どもたちからも歓迎される。「ヤバニーだ」って言えば、もう大騒ぎとなる。「おーい、ヤバニーだー!」と誰かが叫べば、アチコチの路地から子どもたちが集まってきて、すっかり取り囲まれ、もうほとんど人気スター並みである。あの感じだと、きっと彼らは家に帰ったら、「今日、ボク、日本人を見たんだ!」とでも言って、家族に自慢でもするはずだ。そうだったのか。日本人であることに、国外でこれほどアドバンテージがあるとは、俺は今まで知らなかった。

 さて、ここに来たのだから一度は必ず行くぞ、と決めていたものがある。そう、ハンマーム。せっかくアラビアに来たなら、これは行くでしょう。誰だって。


 

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