海外珍滞在記

矢口竜二

第1話

海外珍滞在記

                             矢口竜二

               一年目


私は今、成田空港に居る、これから見知らぬ国へ

旅立とうとしている。

不安が無いと言えば嘘になるが、楽天家の自分は、

行けば何とかなるという気持ちである。

私は二年間の契約で、発展途上国に、技術を教えに行くのである。

結果的に足掛け四年の滞在になったが。


技術はコンピュータの、ソフト開発とシステム構築を指導する。

私の行く国は、カリブ海に浮かぶドミニカ共和国で、

カリブ海の小さな島国で、九州より少し大きい面積の国で、

スペイン語圏の国と、コロンブスが発見した

島であるとしか知識がない。


私は二週間のスペイン語教育を受けて、その国へ行くのであるが、

スペイン語は、その時初めてであった。

それも三週間の教育期間を、一週間さぼったのであるから、

些か心もとない状態である。


私と同じように、ホンジュラスに、他の事を教えに行く、

NさんとYさん夫妻と、これからニューヨーク行きの、

飛行機に乗りマイアミ経由で、それぞれの国に行くのである。

私達はビジネスクラスに乗り、成田を旅立った。


私は外国に行くのは、これが二回目である。

最初は観光旅行でヨーロッパ方面、今回は二年間仕事で、

その国に暮らすのである。


この事が決まったとき、周りの友達は言葉も理解できないのに、

よく行く気になったなと言われた。

私は言葉の問題は気にはなったが、元々楽天家である自分は、

当たって砕けろ主義で、出た所勝負であるのと、

カリブの綺麗な海に憧れていたのである。

そんな気楽な気持ちで、飛行機に乗っていた。


約十三時間でニューヨークに着き、

そこからマイアミ行きに乗り換えた。

マイアミに着いたのは、現地時間の夜十時過ぎ、

手荷物を受け取り、シャトルバスで、今夜の泊まるホテルへ。

私は明日、Nさん、Yさん夫妻と別れて、朝七時の便で

ドミニカ共和国へ行くのでホテルのロビーで挨拶をして寝た。


私は朝五時半に目が覚めて、顔を洗い、荷物の整理などして

六時にホテルを出た。

早朝ではあったが、Yさん夫妻が見送ってくれた。


これからは、一人で行動をしなければならない。

オリエンテーションやスペイン語教育等で、

約二ヶ月近くYさん夫妻とは、一緒に行動をしていたのである。

今まではNさんやYさん夫妻が居たから

気分的に楽な部分があったし、英語の得意でない私は、

Yさんの旦那さんに頼っていれば良かった部分があった。

Yさんの旦那は、アメリカで二年ほど仕事をしていたので、

英語は得意であった。

楽天家の私も、心細い気持ちに成っていた。


そんな時、最初の問題が起きた。

マイアミの空港で、手荷物は二個まで、一個多すぎるから

料金を払えと言われたのである。

日本を出る時ビジネスクラスは、手荷物は三個まで

無料と聞いていたので、私は理解に苦しんだ、

ところがマイアミからサント・ドミンゴまでは、

エコノミークラスであり、手荷物は二個までは無料で、

三個目は料金が掛かるとの事である。


私の頭の中は、ドミニカ共和国まで、ビジネスクラスと

思っていたので、理解出来ていない状態なのと、

南部なまりの英語で、よく聞き取れなかったこともあり

時間が懸かってしまった。


私は搭乗時間も気になったので、50ドル支払い、その場を離れた。

飛行機に乗った私は、未だ理解していないので、搭乗員を呼び、

航空券とパスポートを見せて、おぼつかない英語と身振り手振りで、

「なぜエコノミーなのだ、ビジネスではないのか」と

食い下がっていると、搭乗員は私をビジネスクラスの席へ、

案内してくれるのである。


私はビジネスクラスの席へ移動した、後から考えて見ると、

私のパスポートがオフシャルであったのと、ビジネスクラスの席が、

多数空いていたから席を替えてくれたのだろう。


私はビジネスクラスの席で、カリブの青い海をゆっくりと満悦して、

空の旅を楽しんだ。

カリブの海は、私が思っていた以上に、青くて美しかった。

約二時間で、ドミニカ共和国の首都のサント・ドミンゴに到着した。


飛行機から降り、税関を通った所で、日本のドミニカ共和国事務所の職員と

私が派遣されるドミニカ共和国の、政府外部機関の職員が迎えに来ていた。

私は、手荷物を日本事務所の他の職員が受け取るまで、

貴賓室へ案内され、そこで派遣先事務所の職員を紹介され、

コーヒーを飲みながら、色々な説明を聞いた。

貴賓室なんて生まれて、この方案内されたことが無いので、

居心地が悪かった。


手荷物も受け取り、日本事務所へと向かった。

向かう道すがら、車の窓から外を見ると、

南国に来たという実感を覚えた。

椰子の木やソテツの木など、南国の植物が

咲き乱れているのである。


だが、その反面驚くこともあった、車である。

日本ではポンコツ、嫌それ以上の車が多数走っているのである。

ドアのない車、ツトーンカラーというか、ボンネットやドアが

色んな車の部分を溶接していて、それを塗装もしてないのである。

また日本で二十年以上前に走っていた車など日本の

廃車置場にも無いような車が多数走っているのである。


たまに綺麗な車が走っているのを、見かける程度である。

また、歩いている人が黒人系ばかりで、白人は見かけない状態である。

家は、掘っ建て小屋みたいのから、家の壁が原色の色とりどりに塗られた、

ケバケバしいのが建ち並んでいるのである。


そのような色々なものを見ながら、外国と言うか、途上国へ

来た思いを感じた。

事務所に着いた私は、赴任の挨拶と手続きを済まし、

本日の泊まるホテルへ向かった。

ホテル住まいは、自分が住む家が決まるまでの間の一週間から

二週間位と言われた。


ホテルの料金は、自腹である。

ホテルに着き、部屋に案内され、荷物を整理した。

これからは、数日後に派遣先事務所に、挨拶に行く以外は、

自分の住む家を探すだけの日々となる。


その間、私は、この街を見て歩こうと思った。

次の日は、暇を持て余しホテルの周りを歩いてみた。

ホテルの近くに、大きなスポーツ公園や大学や銀行などがあり、

その近くに観光のおみやげ店が、軒を並べていた。


 私は昼頃、おみやげ店を覗いて見ようと思い、ホテルから

五分ほど歩いて行ってみると、どの店も閉まっているのである。

シエスタ(昼休み)で閉まっているのである。

シエスタに付いては、ヨーロッパに観光旅行したとき、

ローマで同じ経験をしたことがあった。


日本での習慣が抜けない私は、日本的感覚で行動していたのである。

私はすごすごとホテルの部屋に帰り、

四時頃、再びおみやげ店に向かった。

おみやげ店は開いていた、店に入って色々見ていると、

そこの店員が話しかけてきた。

「Chino(中国人)か?」と、

私は「Japones(日本人)」だと答えた。

それから色々話をした、話といっても英語とスペイン語の

チャンポンで、どちらの英語も、あまりあてにならない状況である。


私はホテルに泊まっている間、毎日午前と午後に、

そのお土産店へ行って、店員の二人と話をした。

店員の一人はNANDO(ナンド)と言い、夜大学で学んでいる。

ナンドの行っている大学は、アメリカ大陸で最初に出来た大学である。

こちらの人たちは、働きながら大学に行くのは、当たり前であり、

学ぶという事に、エリート意識を持ち、自分がより良い職に

就くためのステップであるようだ。


ナンドは、映画のドクトルジバゴに出てくる主演の男優

(オマル・シャリーフ)に似ている、彼を黒くした顔立ちである。

もう一人はJhose(ホセ)と言う、この店の店長である。

ホセは金銭面でしっかりしている男である、

個人的にも金貸しもしている。

彼の仕入をしているのを何回か見たが、商品を売り込みに来た物は、

徹底的に叩いて買う。

その品物が店頭で売る時は、仕入れ価格の五十倍以上の

価格が付く物もある。

値札に仕入れた価格を記号化して書いていた。

記号はホセが、私に教えてくれていたので、

どの位上乗せして販売しているか分かっていたので、

私が買う時は、徹底的に値切って購入した。


私はナンドとよく話をする、二、三時間ぶらぶらしながら、

つたない英語と辞書片手のスペイン語で、色々話をしていた。

お土産店に行って、三日目の午前にナンドが、

「家に昼飯を食いに来ないか?」と言った。

私は即座に「行く、行く」と答えた。


今考えると、日本でスペイン語を習っていた時に、

あちらの人が最初の頃「家に来ないか」と言うのは、

社交辞令であり、その時は断るのが礼儀ですと

教えられていたのである。

そんなこと忘れていて、日本に居る感覚で「行く」と

言ってしまったのである。


だが、この事が私のドミニカ共和国にて、生活する上で非常に良かった。

こちらの人はシエスタ(昼休み、平均三、四時間)で、

家に帰って昼食を取り、昼寝をするのが習慣になっている。


 ナンドとタクシーで、家へ向かう事となった私達は、

お土産店の前で、客待ちをしているタクシーを捕まえ料金交渉を行った。

こちらは最初に行き先を告げてから、料金交渉が始まる。

こちらに住んで解った事であるが、料金交渉は当たり前の事なのである。

日本に居た頃は、店に行くと値札が付いているし、

タクシーなら料金メーターによって、自動的に値段が分かり、

それによって支払う。

また、日本人は値切るとゆう事をしないが(特に関東方面)、

こちらでは値切る事は、当たり前なのである。

この事は,これからの私の生活の中で、色々経験して

分かってゆく事になる。


 さてタクシーとの値段交渉も終わり、タクシーに乗り

ナンドの家に行く、ナンドの家は店から車で

四十分位走った所にあった。

小高い丘の上で、開発途上の住宅街といった雰囲気の所で、

この国では中クラスの生活をしている感じである。

ナンドの家族は、父母と兄、弟の五人で、父親は会計士、

兄は大学生(昼間)、弟は小学生で母親は専業主婦である。

最初に会ったナンドの母親は、珍客に戸惑った感じで

私と挨拶を交わした。

たしかにあまり見た事がない、東洋人が訪問して

来たのであるから、戸惑うであろう。

兄と弟は興味津々のようで、私に対して良く話し掛けてきた。

ナンドが夕食の時などに、店に変な日本人が来る事を

話題にしていたのであろう、あまり違和感なく受け入れていた。

それよりも、私が知らない国で、三回位しか会っていないで、

言葉も理解できない状態の中、図々しくも相手の家に、

食事をご馳走になりに行く神経も、いま考えると

凄い事だと思うし、何が遭っても、おかしくない状況である。

だが、ナンド一家との出会いは、ドミニカ共和国での

滞在する上で、幸運であったし、色々な面でドミニカ共和国を

知る事となった。


 父親が帰ってきて、昼食時間となった、

父親も珍客に戸惑いながら挨拶を交わした。

昼食はスパゲテェとアビチョエラ(豆のスープ)、

鶏肉の煮込み、ご飯、サラダ等である

私はスパゲテェを口に入れて、これは何だとおもった、

日本で食べていたスパゲテェの感覚しかない私には、

煮込みうどんの、何回か煮込み直して

柔らかくなり過ぎた、うどんのように感じた。

見た目はナポリタンだが、私にとっては味も無く、

歯ごたえも無い食べ物であった。

アビチョエラは、ドミニカの各家庭で必ず食事の時に出るもので、

日本で言う味噌汁のような物で、各家庭の味がある。

後の食べ物は、日本人でも口に合うと感じた。

ただ、鶏は足からトサカまで煮込むのである。

私は足とトサカは食べなかったが、ナンドの弟のエットは

おいしい、おいしいと言って食べていた。

私は「日本では、そこの部分は食べないよ」と言うと

エットは「ここが一番うまいのだ、日本では何故食べないのだ」

言って不思議がっていた。


食事の後は、父親と母親は昼寝、ナンド兄弟と私は色々話をして、

スペイン語を教えてくれたりして時間を過ごした。

シエスタも終わり、ナンドも仕事に戻るので

私達はタクシーを呼んで、店に帰る事にした。


いつもナンドが、昼食を食べに帰って来る時は、

乗合タクシーで戻って来るそうだ。

乗合タクシーは、一定方向(出発場所と、到着場所が決まっている)に

向かう人達が乗合って、降りたい時は合図すれば、どこでも降りられる、

定員五名の車であるが、こちらでは八~九名位乗せるのである。

これは料金が安いから、多く乗せて効率よく走らなければ

成らないためである。


ちなみに料金は、一定方向間は1ペソ(1ペソ日本円で9円)である。

これ以外にモトコンチョといって、オートバイ(50CCスーパーカブ)に

一名から三名乗せるものと、ワゴン車に客を乗せられるだけ乗せて走るもの、

これも乗合タクシーと同じで、走行区間は一定方向に決まっている。

乗合タクシーや乗合ワゴンバスは、客を乗せられるだけ乗せるので

スリが多発する。


たしかにギューギュー詰めで、体が身動き取れない状態であるから、

ポケットからお金、腕時計、ネックレスなど、盗まれるのである。

それが日常茶飯事なのである。

私も、経験したいと思って全部に乗ったが、

二度と乗りたいと思わなかった。

ギュウギュウ詰なので、人と人の肌が接触するので

汗をかき浸たり落ちるのである。


ただ、モトコンチョ(バイク)に関しては、料金は乗合タクシーや

乗合ワゴンバスよりは、5倍近くするが

一人で乗れるので楽ではある。

ナンドと店に帰って、一時間程話をしてホテルへ戻った。

ホテルの周りには、観光客を食い物にしようとする

ドミニカ人が、数人たむろしている。


私は滞在四日目に、彼達の網に引っかかったのである。

私はスペイン語に早く慣れようとして、

誰、彼、構わず話し掛けていた。

道端で果物を売る人や、靴磨きの少年等を

捕まえては話し掛けていた。

そんな私を見ていた、彼たちからすれば、私は良いカモであったろう。

夜に暇で部屋から、ホテルの前に出て行くと一人の

ドミニカ人が話し掛けて来た。

いつものように「Chino(中国人)か?」と問いかけてきた。

私は「Japones(日本人)だ」と答えた。

こちらの人は東洋人を見ると、最初に中国人か、次に韓国人か、

その次に東南アジア人か日本人かと聞いてくる。

この国で最初に日本人かと、言われたことは唯の一度もない。

それと同時に、教養の無い人達が中国人と言う時は、

小馬鹿にした言い方をするので私は嫌いであった。


これは、こちらで中国人はケチで、ずるがしこいと

思われているからで、中国人に対して、

あまり良い感情を持っていない。

私は日本人としてのプライドからか、中国人と言われるのを嫌った。

これはドミニカ共和国に滞在している間、最後まで、

この気持ちは変わらなかった。

ある時はあまりにも、しつこく中国人と言われるので怒ったこともある。

この国では、日本メーカーの車が80%以上走っているし、

日本の電化製品や日本製のものは、良い物だと

認識している人は多いが、東洋人を見て、日本人と言う言葉が、

最初に出てこない。


こちらの人の、日本人に対する考えは、金を持っている、

技術的に優秀な国であるとは理解している。

だから日本人と分かると、尊敬の眼差しで見ることもある。

又、戦後まもなく、この国に日本人が移住して来ていたが、

数々の問題があって、その移住の人達も帰国したりし、

他の国に移住していったようだ。


この島はエスパニョーラ島といって、三分の一が

ハイチ共和国(中南米で最初に独立した国でフランス語圏)に成っている。

数十年前にドミニカ共和国が、ハイチ共和国に占領された事があった。

ドミニカ共和国は、ハイチとの国境に、日本からの移住者を

住まわせたのである。

国境の楯の意味にもとれ、またそこは、荒地で田畑に適さない所であった。

日本で移住を募集する時は、南の楽園で田畑に良い環境で

あるとの広告だったそうだ。

だが来て見たら全然違う環境であった、その為に現在も

住んでいる移住者は怒り、日本の外務省と裁判を起こしている。

(最近和解したのである)

だが、この問題で移住日本人同士が、和解派と訴訟派に

分かれてしまった現状があり、日本人が一つになっていない部分がある。

田舎へ行けば、日本人居住区の跡が今でもある。

今は多数の移住者の二世,三世が、サント・ドミンゴに住んでいる。

そのような経緯が在っても、日本人と言う言葉が出てこないのは、

何故かと疑問に思う。


 所で話を戻すと、そのドミニカ人と、しばらく話をしていると、

面白い所に案内すると言うのである。

私は何でも見てやろういう気持ちが強かったのと、ドミニカで

酒場へは行っていないので、行ってみたい気持ちに

なっていたのが手伝ってか、男に付いていった。

タクシーで着いたところは、ドミニカ人が飲んでいる

酒場(ディスコ)であった。


私は、酒は余り強い方ではなく、日本に居た時も飲み歩く事も少なく、

付き合いで一軒行くと眠たくなるタイプであった。

また、日本では、いかがわしい店で女性と

寝る事は嫌いで、友達と飲んだ後で行った事があるが

何もしないで、お金だけ払って帰って来た事があったりした。

だが、外国に来た開放感からと、ここが外国であると言う

好奇心から、怖さを忘れて、相手の言われるままに飲んだ。

この酒場は、いかがわしい所であった。


一時間位飲んでいて、酔いも回って来たので帰ることにした、

スペイン語が理解できていない私は、相手のいいなりに

支払ったので、だいぶ、ぼられ、女性まで連れてホテルに戻った。

結果的には、その女性とは何もなくて、お金だけ払って帰したが、

女性は私の荷物を、物色して、日本から持ってきた、

薬や新しい下着等を持って帰って行った。

酔っている私は、半分寝ている状態であったので、

されるままであった。


次の日、私を酒場に誘った男が、ホテルの前にいてお金を

たかってきたが、前日に50ドル渡したので渡さなかった。

それからもホテルの前で、この男をよく見る、

ここが彼の職場なのであろう。

ドミニカに来て、最初の失敗は、これであった。


一週間ホテル住まいをしたが、住む家が見つからないので、

宿泊料金の安いアパルタ・ホテルに移ることにした。

日本事務所のすぐ側に、一泊300ペソ(1ペソ、日本円9円)で、

調理器具、冷蔵庫、テレビ、シャワーが付いた八畳位の部屋である。

食事は外で食べるか、店で食料を買ってきて自分で作る事が出来る。

シャワーは停電が多く、電気温水器が作動しない事で、水の事が多かった。

ここに移り、長期滞在の為の家を探す事にした。


 そこで新しい、心強い友達が出来た。

彼とは最後まで腐れ縁で、彼が帰国するまで、続いた悪友である。

私はこの一週間で、滞在中最高のドミニカ人と日本人の友達を、

得ることが出来たのである。

彼の名はI氏、日本事務所の職員で、農業の専門家として、

この国に指導に来ていた。

また、彼は今まで数カ国で指導したことがあり、スペイン語、

ポルトガル語、英語が堪能であった。

また、同郷なので気も合った。


彼には滞在中、色々教わった、彼が居たから、

この滞在も楽しかった事が多かった。

彼との最初の出会いは、アパルタ・ホテルの隣の店で食料品を

買っていた時であった。

同じ所に泊まっていた彼も、買い物に来ていたのである。

私は財布(札入れ)を無造作に、ズボンの後ろポケットに入れていたら、

彼に注意されたのである。

札入れが長いのでポケットから、はみ出していたので、

「スリに会うよ」と注意された。

日本の感覚で居る自分と、色々な途上国を経験している

彼との違いを感じた。

私は彼の忠告を素直に聞いた。

それからは、何かあると彼に聞く事にしたのである。


彼はサント・ドミンゴから百キロメートル離れた、

サンフランシスコ・デ・マコリスで農業指導を行っていて、

1週間ごとに事務所に、業務報告などで来るのだそうだ。

私は最初サンフランシスコと聞いたときは、アメリカの

サンフランシスコから来たのかと勘違いして、なぜアメリカから

来るのか不思議に思っていた。


 アパルタ・ホテルに変わって、次の日に私の仕事先である

派遣先の事務所に、挨拶に行った。

私が挨拶に行ったのは、十二月の始めで、

この国のクリスマス期間に入っていたので、私の歓迎会と同時に、

クリスマス・フェスタ(スペイン語でフェスタ・デ・ナビダ)が行われた。

こちらではクリスマス期間(12月初めから)は、

毎日がフェスタ状態で酒を飲で踊るのである。

特に踊りは、ドミニカ独特の踊りのメレンゲと中南米で

踊られているサルサが主流である

此方の人達は、幼少の頃から親しんでいるので音楽が鳴ると

自然に体が動き、腰の振り方などが音楽に合って、

セクシーでありスマートなのである。


私も最初から踊れと言われ、挑戦したが、腰の動きは

ロボットのように、ぎこちないので周りの人達から笑われてしまった。

私はそれが悔しくて、ディスコに通うようになった。

滞在二年目の後半の頃は、ディスコで踊っていると、

ドミニカ人が振り向く位上手くなった。


 こちらに来て、約二週間で私の住む所が決まった。

3LDKのマンション、十階建ての九階で、部屋は十畳、八畳、

八畳とメイド部屋・バスルーム2、リビング十五畳、

ダイニング十五畳、台所、家具・食器・鍋釜付きで

家賃が月千ドルである。

24時間警備員が居て、安全面も確保されている。

(私は警備員が居ても、安全とは思わなかったが)

私一人で住むには広すぎるが、日本事務所で出してくれる、

家賃の最高限度額の物件なので決めた。


マンションの前の通りの名前は、アブラハム・リンカーンと言う。

マンションの向かいには、大きなスーパーマーケットがあり、

近くには私立の学校や、ショッピングセンターなどがある

高級住宅街である。


私は一番大きい部屋を使う事にした。

さて、これで仕事が出来ると気を引き締めた。

ただ私の住んでいる所から派遣先まで、車で二十分はかかるのである。

歩いて行くには遠すぎる、ましてや赤道直下で、

太陽の光線も強く歩くのは危険である。

一度ホテルにいる時に、炎天下の中、三十分ほど

歩いた事があるが、頭がクラクラして、倒れそうになった事がある。


そこで私が車を購入するまで、派遣先から迎えに来て貰う事にした。

だが、ここでこの国のだらしなさを見る事になった。

最初のうちは、時間通り迎えに来たのであるが、

それは四回位で、だんだんと三十分遅れ一時間遅れ、

挙句の果ては、こちらから電話をしなければ迎えに来ない。

もっと、ひどい時は何回電話しても迎えに来ないので、

その日は派遣先に行かなかった事もあった。

そのような事が続くので、私は自分で車を購入して、

派遣先に出勤することを考えなければならなかった。


 車購入で問題が起きた。

車を購入しようと思っている私は、派遣先の職員たちに

紹介して貰おうと、声を掛けて居たのである。

すると部署は違うが、私のコンピュータ部門に、

よく顔を出す職員が、車を紹介してくれると言うのである。

彼は私に「アミーゴ、アミーゴ」と言って、よく話し掛けて

来るので、頼むことにした。


今まで日本で生活していた私は、アミーゴのイメージは

親しいい友達感覚であったので、信用して良いものと思っていた。

車の持ち主は、彼の従兄弟と言う事であった。

仕事が終わってから、四時ごろに私のマンションに車を

見せに来ると言うので、私は了解して、

その時間に待つ事にしたが、彼達と車が来たのは

三時間遅れてからであった。

周囲も暗く、外灯の光だけで車を見る事になった。

車はアメリカで作られた、トヨタ車であった。

見た感じ外回りも綺麗だし、ボンネットを開けて見ても

問題はなく、試乗した時に職員の彼が「君とは友達なのだから、

よい車を紹介したのだ」と言って、何回も此れは良いと薦めるのである。

私も迎えに来てもらう、煩わしさも無くなると思う気持ちもあり、

派遣先の職員の紹介であるという、安心感もあって、

購入する事に決めたのである。


 翌日車が来た、もう一度確認をすれば良かったのであるが、

日本での商取引感覚の私は、同じ職場の同僚の紹介という

安心感から、確認を怠ったのである。

これが問題であった。

たしかに、こちらの人は物を買う時、シツコイ位確認する。

それが外国での常識なのである、友達から買う場合でも確認するのである。

日本人みたく、購入すると決めたら、相手を信用して確認を怠る事はしない。

その日は、私は試運転がてらに、近くを乗り回したが、

その日は何も問題は無かった。


翌日、休日なので遠乗りをした、ドミニカは熱いので

クーラを最大にして運転していたら、ボンネットから

煙が出てきたのである。

エンジンがオーバーヒートしたのである。

原因はクーラ用のラジエターが、付いていなかったのである。

ラジエターの付いていない状態で、クーラを最大にして

走っていたので、エンジンに負担がかかりオーバーヒートしたのである。

私が購入する前に見た時は、ラジエターは付いていた、

だが私が受け取った時には外されていたのである。

それとスペアータイヤも無かったのである。

こちらでは、部分部品ごと売る事が出来るで、

外されて売られたのであろう。


 私は切れてしまい、紹介した職員に文句を言った。

だが彼の答えは「確認しなかった君が悪い、俺は

紹介しただけだから、責任がない」と言うのである。

信頼関係で成り立つ日本と違い、ドミニカでは信頼と言う

言葉はないのかと、愕然とした。

購入価格も20万ペソ(一ペソ日本円9円)であり、

こちらの一般の人達が、車を持つ事態難しく、

車を持っている人は上流クラスの人達である。

たしかに、日本での購入価格二百万円の車がドミニカでは、

関税が掛かり倍の四百万円なのである。

この国の平均月収が五千ペソ(これで中流クラス)であるから、

車は高嶺の花なのだ。


私がもう一つ頭にきたのは、リベートである。

ドミニカでは紹介して相手が購入したら、リベートとして

10%から20%貰えるのである。

給料の少ない人達は、その様にして副収入を作るのである。

すなわち彼も、多額のリベートを受け取っているのである。

そんな彼の言い草が、前に書いた通りである。


 私はこの時ほど、ドミニカ共和国に来た事を後悔し、

ドミニカ人に対して不信感を抱いたことはない。

この不信感が消えるまでは、多くの時間が掛かった。

車の修理には二万ペソかかり、新しい車を購入するまでに、

車の修理はエンジンのピストン部分や、その他の部分を

日本から中古の部品を輸入した所から、自分で買って来るのである。

その部品代は、修理代とは別払いなのだ。

部品を売っている業者は、台湾系に人たちが多く

日本から部品をコンテナで輸入しているとの事である。


その後、私の車はエンジンのオーバーヒート二回、

一度はサント・ドミンゴから、百キロ離れた所で

オーバーヒートして、普通一時間半位で走れる所、

十分間隔で水を足しながら、六~七時間かけて

帰って来たこともある。

次は走行中エンジン脱落、遠乗りをしていて走っている時に、

ドスンという音とともに車がストップしてしまったのである。

エンジンが落ちて走行できない状態になったのだ。

レッカー車を頼んで、修理工場へ、エンジンを中古部品店から買い、

エンジン(中古)を乗せ変えた。

この時も、古いエンジンを自分が貰えないかと、

ナンドや職場の同僚に言われた。

日本ではエンジンが駄目になったら、全部駄目だと思い捨てるのだが、

こちらではエンジンの各部品(使える)が売れるのである。

また、この国では色々な部品を組み合わせて、1台の車を作るのである。

日本では捨てるのであるが、こちらは使える部分を使い

私の車を修理しているところで見た、変な車を

「この車は何処のメーカー」と聞くと「これには、メーカーは無い、

色んな車の部品を使って車を作っているのだ」と答えが返ってきた。

今の日本ではアッセブルで取り換えるのであるが、この国では

車を技術で作り上げる事に驚いた。


 次は車両追突事故、マンションから派遣先に出勤するとき、

何時もの交差点を左折したところ、ガソリンスタンドから

出て来た車に後部を追突されたのである。

追突した彼と、保険のための事故証明書を貰う為に、

警察へ行ったのであるが、交通事故の関係のスペイン語など、

分かるわけがない私は、警察の中で戸惑うばかりであった。

ドミニカ共和国外務省から発行されている、身分証明書などを

見せたりして対処して事故証明書を発行して貰った。

所がこの事故証明書の内容は、被害者であるはずの私が

追突した事になっていたのである。

どう見ても、私の車の後部が破損しているのである、

バックしてぶつかったならともかく、前へ走行している状態で

あったので、それは在り得ない事である。


後から分かったことだが、加害者は国立サント・ドミンゴ大学の教授である。

これだけの良識者が嘘の証言をしたのである、ましてや言葉も

余り分からない外国人で、この国の為に、技術を教えに

来ている人間に対しての、この仕打ちに私は愕然とした。

ドミニカの国民性として、自分が悪くても、

謝る事をしない人種であることは聞いていた。

これは奴隷時代の名残から来たものであろう、

自分が悪いと認めた場合、それは死を意味する事になるのである。

それと、謝る事は罪を認める事になるのだ、交通事故で

仮に人を轢いたとしても、自分から謝るなと、

ドミニカ人に言われた事がある。


また、人を轢いたときは、その場から逃げろと、

警察の幹部から、日本大使館の治安などの講習会で聞いた事があった。

それは轢かれた人間の、身内が周りに居た場合、

リンチに会うことがあるので逃げろとの事である。


今回の事故では、大学の教授である人が、嘘の証言を

行ったことに私は許せず、派遣先の職員と一緒に大学へ、

抗議しに行ったが、聞き入れられなかった。

事故の修理代は、相手と私の車の分を私の保険から支払った。

この車の問題は、私に多くの色々なことを教えてくれた。

派遣先の事務所の人達は、車の購入問題に対しては、

「個人的な問題なので、私達が関与すべき事ではない。」と

言う事であり、私を助けてくれる人はいなかった。

車を紹介した彼の上司も、派遣先の局長も同じ意見であった。

私的行為で起きた事は、個々で解決すべきで、

それは仕事となんら関係の無い事なので、

私達は関与しないという考え方、確かにその通りである。

だが日本人の私が考えた事は、言葉も習慣も解らない外国人が、

その様な問題を抱えたら、私は助けるだろうと甘い考えをしていた、

派遣先では、別な面で私に不信感を抱かせる事もあった。


それは私の、仕事をするための執務室の件である。

一週間で作ると言われ、待っていると二週間経っても

三週間経っても出来ず、私が文句を言うと、庶務の責任者が

言う弁解は「この一週間で親戚が、五人死んだので葬式等で

忙しかったので、執務室を作る時間がなかった」と言うのである。

私も日本に居た時に、会社を休んだ時に、親戚を一人は

殺した事があるが、一度に五人は殺したことはない、

こちらではハッキリと分かるような嘘を堂々と言う。

滞在中幾度となく、そんな嘘を聞く事が多い国であった。


 また、私が派遣先に対して、どの様にシステム構築を

進めたいか計画書を一週間で出してくれと言ったら、

一ヶ月経ってから出てきた事もあった。

それだけ、のんびりしているのである、日本的感覚ではルーズなのである。

日本の感覚が抜けきらない私は、ドミニカ人の感覚に

付いていけない状態であった。


私はドミニカ人に対して、この時期が最大の不信感を抱いた頃である。

私はストレスが溜まっていたで派遣先で怒った事がある。

だがスペイン語が良く理解していないし、単語の許容範囲が少ないので

私が怒っても、何故怒っているか相手には通じない。

私が怒った時、スペイン語と日本語のチャンポンで言葉を

発していたので、相手からすると何故に怒っているのか

分からなかったのであろうキョトンとした顔をしていた。


 そんな時に私を救ってくれたのがI氏とナンド一家であった。

I氏は落ち込んでいる私を、カジノやディスコ、

酒場(いかがわし)等に連れって行ってくれたりした。

I氏は、ドミニカ共和国は二度目であり、色々な所を知っていた。

私から言わせると、知らない所が無いのではないかと

思えるくらい知っていた。

I氏の場合は専門家なので、任期が決まっていないので

プロジェクトが終了するまで、長い期間仕事をするので

色んな面を知っているのであろう。

彼とは各週の土曜日は、必ずといって良いくらい、吊んで遊び歩いた。

彼もサント・ドミンゴに来たときは、私に必ず連絡を寄こした。

こちらのディスコやカジノは、夜の十時を過ぎないと開かない、

だから私達は十一時以降に出かけるので、

帰宅は三時、四時であり、それから五時頃寝るので

金曜日か土曜日でなければ、遊び歩かれないが、

彼が一週間程サント・ドミンゴに滞在する時は、毎日の様に遊び歩いた。

そんな時は睡眠時間が少なくて、仕事先で居眠りをすることもあった。

私ばかりでなく、ドミニカ人も同じように、

居眠りしているのが多かった。


それはこちらでは、奥さん以外に恋人を四人位持つのは

普通であると、ドミニカ人が言うのである。

たしかに、ドミニカ人は綺麗な女の子を見ると、

必ずといって良いくらい、声を駈ける。

車を買う前に、迎えに来て貰った派遣先の運転手も、

良く声を駈けていたし、彼は彼女が六人居ると豪語していた。

その時、私が思ったのは、彼の収入が千五百ペソしかないのに、

六人もの彼女を囲えるのかと思ったが、彼が言うには

彼女に貢いで貰うのだそうだ。

日本でならナンパであるが、私にはセクハラに近いナンパに

思ったくらいで、運転手は良い男でも無いの、毎回のように

女の子に声を掛けていた。


またある時、派遣先の副局長と彼の車で大学へ行ったとき、

彼がゆっくりと車を道路脇に寄せて、女子学生に

「今夜遊びに行かないか」と誘っているのである。

このように、女の子に声を駈けるのが当たり前であり、

女の子も声を駈けられるだけ、自分が綺麗なのだという

自信に成っているようだ。


私の目から見て、遊び好きのドミニカ人は

毎日女の子のために、ディスコや相手の家に行って

夜遅くまで、恋を語るのであろう。

たしかにドミニカの男は、女の子には忠実である、

それと女の子も結婚していなくても相手の子供を産み、

その男が他の女性と結婚しても何も言わないのが多いようだ。

派遣先にも、毎日恋人が来る男性がいた、

その男性が結婚したと聞いた時、私は毎日来る恋人と

結婚したのだと思っていたら、別人と結婚したのである。

結婚してからも、恋人は来ていたし、

その恋人との間に子供も居るのである。

日本人の私には理解できない部分である。


よくよく考えると、こちらの人は自分に素直なのである、

綺麗な人を見たら声を掛け、行動に移すのである。

日本人の私達は、綺麗だと思っても周りを気にして、

声を掛ける事をしないし、ましてや結婚していれば、

なおさらの事それが出来ない、だがこちらの人達は

自分の気持ちのまま行動に移すのである。

ただそれは、男性社会にしか通用しないのである。

だから、一人の男性が三十人以上の子供が居るなんて事もある。

カトリック信者の多い、この国では子供の堕胎は

罪なのである、子供が出来て別れて、また別な男性と

付き合い子供が出来る、異父兄弟が多いのが現状である。

だが異父兄弟であっても、私の見た範囲では仲がいい兄弟が多い。


それと男性と性的関係を持つ女性の年齢が低いのも感じる、

年齢は十二歳位からである。

年齢の低いせいもあり、十代で子持ちの女の子が

多いのにも驚いた。

こちらでは恋愛には、特に男性の年齢は関係ないのである、

女性は十代が若いうちに入るが、二十代後半からは

年寄り扱いになるようだ。

男性は若い女の子に、よく声を掛けるし、マメに電話もする。

電話といえば、私の派遣先の男性諸君は、

仕事の終わり時間が近づいてくると、

女の子にデートの電話を掛け捲るのである。

こちらの電話料金は、市内であれば月の基本料金の支払だけで、

掛け放題なので長電話が当たり前なのだ、

こちらの男性は仕事に関しては、だらしないが

女性に関しては豆マメしいのである。


ここの国の、女性は良く働く、子供を養う為でもあろうが、

専業主婦が少ない。

ほとんどの女性は働いている、その反面、男どもは朝から、

店の前の広場で、ドミノゲームをしながら酒を

飲んで居るのをよく見かける。

ドミノは日本で考えるようなゲームでは無く、麻雀のような

ゲームである。(後程説明する)

全員がそうではないが、そんな男性を多く見る。

父親が働かない分、生活の為に子供達が働く姿も見る。

男の子は靴磨きや果物売りなどをしながら、女の子は

いかがわしい酒場などで働き、母親を助けて学校に

行っている子が多いのである。

学校は三部制(朝、昼、夜)になっているので、

学校に行かない時間に働くのである。

この国は10%が富を持っている人達、20%は中流クラス、

後の70%は貧しい人達なのである。


 確かに所得水準が低い、下級警察官の月給は千ペソなのである。

月の生活費は千五百ペソが最低であろうから、

足りない分は子供達などが働いて助ける。

警察官も生活の為、賄賂を取るのは当たり前なのである。

私も車に乗っている時に、幾度となく賄賂を請求された事がある。

私は払った事はないが、クリスマス期間に警察でやる

フェスタの為だと言って、道路でお金をくれと言われて、

上げたことはある。

こちらでは車を運転している人の内、免許を持っている人は

四十%以下なので、警察官に止められる事が多い、

免許の持っていない人は「アミーゴ」と言いながら、

警察官と握手するのである、握手する手の中には十・二十ペソの

お金が入っている。

それで無免許を許して貰うのである。

持ちつ持たれつの関係である。

その受け取った賄賂を、上司の警察官に献上金として何%か

渡すとゆうのだから、日本のヤクザ社会に似た所がある。

これは賄賂が入るので、給料の低い下級警察官は副収入のために

配置を希望する警察官が多いのであろうと思う。

賄賂に付いては、政府機関で書類を速やかに出して貰うために、

賄賂を渡す事が当たり前に成っている、日本では

考えられない事が、堂々と行なわれているのである。


 その反面、こちらの優しさを感じた事もある。

それは阪神・神戸大震災の時の事である。

私がこちらに来て一ヵ月半経った時に、あの大地震が起きたのである。

私はテレビも新聞も殆ど見なかった、スペイン語なので

理解出来ないので見なかった。

あの地震が起きた翌々日に、派遣先の局長から書面を受け取った。

それには、日本で起きた地震によって、多くの人が

亡くなった事を、心から哀悼の意を表しますと

英語で書かれていたのである。

こちらの人たちは、多数の犠牲者を出した、あの地震に

いち早く反応して、私に書面を送ってくれたのである。

恥ずかしい話、その書面を見るまで私は地震があった事が

解らなかったのである。


この国では、人の死に対しての思いやりは非常に強いと思う。

私の滞在中に飛行機が墜落して、多くのドミニカ人が

死亡した事故があった時も、国を挙げて追悼に意を表していた。

そこには人間としての、優しさを感じる事が出来た。

車の事など多くの問題等で、落ち込んでいる私の中に、

少しの慰めをくれた様な気がした。


 ところでI氏との夜遊びであるが、最初の頃はカジノが多かった。

二人とも酒は余り強くないのと、踊りは上手く踊れないので、

ディスコや酒場に行くのは少なかった。

ドミニカは観光地なので、大きなホテル(アメリカ系)が

海岸近くに幾つかある。

そのホテルには、ほとんどにカジノがある。

私たちはブラックジャクかポーカーを主流にやっていた、

勝ったり負けたりで余り身にならなったが、遊びの少ない、

この国で私たちがストレスを発散するにはよかった。

カジノには中国人が多く来る、中国人は喜怒哀楽が激しく、

大きな声を出して、揉めている光景を良く見た、

中国人の博打好きなのは聞いた事があるが、あの入れ込み方は

半端じゃない、負けだすと怒りだすのである。


 I氏が来ない週末などは、ナンドの家へ行き、

食事などご馳走になったり、話をしたり

ドミノゲームをしたりしていた。

夕食をご馳走になった後は、メレンゲやサルサの

音楽をかけて踊ったりした。

週末の夜は、ナンドの家に親類一同が集まり

飲んだり踊ったりし、次の週末は他の親類の家に集まり、

たらい回しで週末を過ごすのである。

こちらの人は、週末は家族と過ごす事が多い、独身者は恋人と過ごす。

だから私はナンドの親類は全部知っている、私自身が親類見たいなものだ。

私も何かあると、ナンド達に相談した。

相談と言えば、私の住んでいるマンションは広すぎて、

掃除が大変なので週末に掃除をしてくれる人を

ナンドに頼んだのである。

こちらでメイドを頼む場合、信用の置ける人が少なく、

危ない人が多いと聞いていたので、ナンドに頼んだのである。

こちらのメイドは、変な人を頼むと、冷蔵庫などから

食料品をくすねたり、食器類などを持って行たり、

もっと凄いのは家主がいない間に、テレビなどの電化製品を

持っていてしまうのがいるそうである。


ナンドは「叔母さんでどうだ」と言うので、ナンドの

叔母さんなら大丈夫だと思い、一般より高い月五百ペソ

(土曜日のみ1日)払うと言って頼んだのである。

さて、土曜日になって、掃除のメイドさんが来る日なので

待っていると、ナンドとナンドの母親が来たのである。

私はナンドの叔母さんが、来るものと思っていたので、

ナンドに問うと「叔母さんは都合がつかないので、

お袋を連れて来た」との返事である。

いつも世話に成っている人に、自分の部屋まで

掃除して貰うのは、気が引ける思いである。

それでナンドに「俺の滞在中、来てくれるのか」と問うと

「そうだ」と答えが返ってきた。

あまり喜ばしい気持ちでは無かったが、一番信用が

出来る人なので頼むことにした。

支払額も六百ペソにした、こちらの平均は三百ペソだから

倍の支払いである。

いつもナンドの家に行って、食事などで世話に成っているので、

その気持ちも有ったから、その額にした。

私は毎年支払額を値上げして、三年目は千ペソ支払った。

こちらはメイドに関しては、契約時の金額で

最後まで同じなのである。

部屋の掃除は、ナンドの母親に任せる事にした。

私が出かける事あるので、部屋の鍵も預けた

それだけ信頼出来る人であったから。


後は毎日の食事の心配である。

朝は道路端の屋台で売っている、青いバナナの揚げた物か、

蒸した物と鶏肉の揚げた物か、豚の内臓、鶏の内臓の揚げた物や、

豚の皮の揚げた物などを食べた。

日本では、バナナは黄色く熟した物しか食べた事のない私であったが、

元々私は好奇心が強いので、初めての物でも

必ずチャレンジして、食べてから判断する性格である。

味はイモを食べているのと変わらなかった。

こちらの人は、青いバナナ、米、イモ類が主食のである。

揚げたバナナと内臓の揚げた物で、十ペソ位で十分に

お腹が一杯になった。

最初の頃は十五ペソ位取られた、同じ物を買った

ドミニカ人が払ったのは十ペソなのに、

私には十五ペソ払えと言うのである。

はじめは言われるままに払っていたが、余りにも腹が立つので、

文句を言って十ペソにして貰った。


こちらの人とは、金を持っていると見ると、ふっかけてくるのである。

特に道路端で売っているのは、値段が付いていないので、

言われるままに払ってしまう。

そんな事が何回かあって、道路端で売っている物は、

必ず値切る事にした。

相手の言う40%から始めて、だんだんと吊り上げて行く、

だいたい相手の言う50%~70%近くで買う事が出来る。

最初はは相手の言い値を、40%でなら買うと言うのである。

次に相手は値段を下げてくる、今までの80%くらいで言うのが

多いのであるが、私は40%の値段を崩さないでいると

相手は70%に下げて来るのであるが、私は50%でどうだと言う。

それで交渉が成立しない場合、要らないと言って立ち去ろうとすると

相手が私を止めた場合は、殆ど安く買える。

相手が止めない場合は、交渉は決裂である。


日本に居た時は値切る事などした事がないが、

こちらでは値切らなければ損をする感じである。

私はデパート(値札は付いている)でも値切った。

ただ、物を数多く買った時だけである。

デパートでの値切りは少々引いてくれた。

昼食は派遣先の食堂で、二十ペソの定食を食べた、

それが飽きると近くの食堂に行って食べる、

近くの食堂は料理の種類(二十種類位)も多く、

その中から三~四種類選んで、ご飯かイモ、バナナの

揚げ物で食べた、量も多かった。

こちらの人は昼に食べる量が多い、朝はスナックや

黄色いバナナを、一本程度を食べ、夜はビール等を

飲むのでツマミ程度を数点食べる。

料理の種類は多い、特に鶏が多い(安いから)、次に豚、牛、

山羊の順序で、各内臓類も余す所無く食べる、

魚は値段が高いので、一般家庭では余り食べない

後はサラダ、アビチョエラ(豆スープ)等である。


それと、こちらの米の炊き方なのであるが、オリーブ油と塩を

入れて炊くのである。

一度、掃除に来たナンドの母親が米を炊いてやると言って、

私が日本から持ってきた米に、オリーブ油と塩を入れて

炊こうとしたので、あわてて止めた事がある。

夕食はだいたい自分で作って食べるか、I氏と遊び歩く時は、

中華レストランなどで食べる事が多かった。

自分で作る時は、マンションの向かいのスーパーマケットで

買い物して、自分の好きな物を作る、買い物といえば、

ドミニカ人の買い物の量は半端じゃない、

大きなカーゴ2台分に山盛りで一週間分なのである、

どれほど食うのか驚きである。


スーパーマケットには、醤油、インスタントラーメン(韓国産)、

味の素など日本で見た事がある物もあったし、品物の量は豊富である。

また、中国人のやっているスーパーマケットに行くと、

少々高いが、うなぎの蒲焼、日本酒や日本食に必要な食材が手に入る。

それに日本からの移住の人が作っている豆腐、納豆、

アブラゲや沢庵なども、週一回の割合で日本事務所に注文すれば、

手に入ったので日本食は自分が作れば食べられた。

ただ、こちらで売っている玉子は生では食べなかったが

日本事務所で注文した玉子は、取り立てなので生で食べられた。

こちらの人は、玉子は生で食べる事はしない。

目玉焼きか、スクランブルエッグ、ゆで玉子である。

レストランもスペイン料理から中華、フランスとあり、

お金さえ出せば食べられたが、日本のレストランは一軒しかない。

ドミニカ料理も日本人の口に合うし、食事に関しては余り苦労しなかった。

マクドナルドもケンタッキーもあった。


ところがドミニカ人は辛い物が駄目なのである。

私は中南米の国の人や南国の人は、辛い物が好きだと

思っていたのであるが、ドミニカ人は、私の作った

カレーライスの甘口も辛いと言って食べないのである。

次に生活する上で悩まされたのは、停電である、一日数時間停電する。

私の住んでいるマンションは、自家発電装置があったから

停電になっても問題は無かったが、発電装置がガソリンで動くので

うるさくて眠れない事があった、それと停電による、

電圧の変化が激しいので、日本から新しく買って来た

ノートパソコンが半年で使えなくなってしまった、

変圧装置を使用していてである。


後はドミニカ人の、音楽の音の大きさ。

家でパーティー等やる時、夜の十二時頃まで

大きな音で音楽をかけて騒ぐのである、音の大きさは

半端じゃない、日本なら騒音防止条令に

引っかかるであろうと思う位である。

それが十二時頃まで続くのである、クリスマス期間は

朝の三時~四時までである。

また、車の中でもボリュームを最大にして、音楽を聴くので、

話し声が聞こえない程である、それでも互いに話をするのだが

声が大きくて、私にはとっては騒音状態であった。

こちらの人は難聴なのでないかと思う位である。


私はこの一年で、この国の悪い部分を多く見てしまったような気がする。

そのために、この国を嫌いに成ってしまっていた。

早く日本に帰りたい気持ちであった、私は、ドミニカ人は

騙す事しか考えていないようしか、見えない所があった。

ただその中でナンド一家だけは別であった、それが私を救った。

この国を嫌いになりかけていた中での、一点の星であったと思う。

ナンド一家との交流がなければ、直ぐにでも日本に

帰りたいと思ったであろう。


私は日本事務所の、この仕組みの中でドミニカ共和国の

第一号として来たのである。

第一号として、ギブアップしては帰れないという

自負もあった事もあるが、一年間過ぎたが、この国の習慣に

慣れきっていない自分も居た。

この仕組みの人間は六名程来たが、三ヶ月で帰ったしまった人も居た。

気持ちとしては、私もその人のように帰りたいと思った。

この仕組みの人達は、ある程度の年齢の人が多かった、

その中で私は一番若かったのであるが、日本で長年過ごして、

日本の習慣に固まっている人が、急に別な習慣の中で、

今までの力を発揮しろといっても無理なことなのである。

日本のような、急激な成長を遂げた社会の一員として

やって来た人間が、のんびりしていて、仕事より家庭、

人を騙すより、騙される人が悪いという風潮の中で

生活するには、辛いことが多すぎるように思えた。


 それと言葉の壁が、大きな障害に成った、自分の意志が

表現できず、伝わらないというジレンマの中で、

もがき苦しむ自分との葛藤が続く、そこには計り知れない

ストレスが貯まり、その中から抜け出す為には、

どうすればよいか解らない自分が居るのである。

外国での言葉の壁が、そのストレスを口に出して言えない苦しみがある。

私はI氏という良き悪友を得たから、抜け出すことが出来たと思う。

この一年を乗り越えられたのは、人との結びつきで助かり

早く言葉に慣れようとしたからである。


二年目

 私は二年目の滞在期間に入った、一年目の終わりの

十一月に健康管理旅行でニューヨークに一週間、

ワシントンに一週間旅行してが、私は、ニューヨークは

好きになれなかった。

ニューヨークのホテルは値段が高い割に暗い部屋であり

何か東京にいる感覚になっていた。

それは、立ち食いそば屋や吉野家などがあり、日本人も多く

東京と変わらないと思った。

ワシントンは、ホテルは値段の安い割に、広い部屋で

アメリカらしく感じた。

旅行も終わり、新たな気持ちでドミニカ共和国での

仕事をする事になった。


 最初は日本大使公邸での、天皇誕生日のパーティーから始まった。

大使公邸での、パーティーなんて、日本にいた頃は

考えられない事である。

パーティーは、ドミニカ共和国の政府の要人も出席していて、

食事は立食で、刺身や寿司などの日本食等が出ていた、

ドミニカの日本からの移住者の人達も多数出席していて、

日本語が飛び交っていた、だが移住者も二世、三世の時代に変わり、

一世の人は数える程度しかいない、しばらくぶりに

日本語の集団の中に居て、ホッとする気持ちになった。

こちらではパーティーでは、女性を誉めるのが

当たり前なのだそうだ。

女性はパーティー用の、服装で着飾って来るので、

綺麗な人には「美しいですね」と声を駈け

普通の人には「ドレスが素敵ですね」と、服装を誉めるのが

一般的だそうであるとI氏から教えられた。

それと一般家庭での、パーティーに招待された時は、

仮に七時から始まる場合、一時間から二時間遅れて行くのが

礼儀だそうである。


私はナンドの家に最初に招待されたとき、日本の感覚で五分前に

何回か行ったことがあるが始まるのは、何時も二時間位経ってからであった、

私が行った頃は、まだ料理を作っていた、

それからは始まる時間から一時間位遅れて行く事にした。

大使公邸でも、始まった時間はドミニカ時間であった、

それだけノンビリしている。

恋人同士が待ち合わせをする時も、遅れるのは当たり前なのである。

一度、ナンドが恋人と待ち合わせしていて、

私が車で送って行ったときに、車の渋滞で待ち合わせ時間が

過ぎてしまっても、ナンドは一向に焦らないのである。

一時間遅れて行っても、彼女は怒らなかったし、

ある時は彼女が来てない時もあった。

それだけ、のんびりしているのである。

日本人の私なら怒って、そんな彼女となら別れているであろう。

それは、生活のテンポがのんびりしていると言えるが、

祭りの時などは、驚くほど騒ぐ、特にクリスマスや

カーニバル、選挙の時は、毎日が祭りである。


 天皇誕生日は、こちらではクリスマス期間に

入っているので、クリスマスの前の週に行われていた、

こちらのクリスマスは重要な祭りなので、

家族が揃って各家庭で行うのが恒例なのである。

クリスマス・イブは家で家族だけで、揃って食事をするのである。

私は一年目以降、ナンド一家のクリスマス・イブの夕食に、

必ず招待された。

私を家族の一員であると、認めてくれたのである。

イブの夕食は、電気を消して、ローソクの灯の中で、

お祈りから始まり、パンを食べ、ワインを飲み、

鶏肉などの料理、サラダなどである。

食事が終わると、それぞれが、彼女に会いに行ったり、

親類が集まって、夜遅くまで話したり、踊ったりするのである。

みんなが寝るのは朝の五時頃である。


ナンドの母親は敬虔なカトリック信者で、

物静かな人であり、毎日曜日教会へ行っている。

私の母親もカトリック信者なので、親しみを感じる所があった。

私も洗礼を受けている、幼児洗礼であるが。

街の中もクリスマス一色である。

こちらはクリスマスが主で、新年は元日だけが、みんなで騒ぐ位である。

企業や学校なども十二月二十二日頃から一月三日頃まで休みになる。

私もその間は休みであり、昼間は家でゴロゴロしているか、

ナンドが働いている、お土産店に行って、話をしている事が多い。

夜になるとディスコに行ったり、カジノに行ったりした。

最近は旧市街地のドミニカ人だけのディスコへ、

一人で行く事が多くなった。

I氏にもナンド達にも、危険だから一人で行くのは

止めた方がいいと言われていたのであるが、

私は若い頃、悪であった事もあり、鼻が利くというのか、

危ない目には遭ったことがない、ディスコで踊っている東洋人は、

私一人で周りはドミニカ人ばかりであった。

また、ディスコに行く目的は、他にもあった。

こちらで日本から来ている専門家の人達から

言葉を覚えるのは女性と付き合うのが、一番早いと

言われた事があったので、それを実践していた。


それと踊ることによって、全身に汗をかき、良い運動になるのである。

メレンゲは腰の振りが激しい踊りで、汗は相当掻く。

日本に居た頃は、ダンスを習いに行ったが女性と面と向かうのが

苦手だったので2日で辞めてしまい、踊った事もない自分であるが、

外国という開放感からと、日本にないメレンゲという

ドミニカ独特の踊りなので、やってみよう思ったのである。

それと赴任した時に、メレンゲを踊らされて、派遣先の連中に

笑われたのが悔しかったので始める、きっかけになった。

ホテルにもディスコがあったが、私は旧市街地の

ディスコに行くことが多かった。

旧市街地のディスコは、いかがわしい女の人が必ず居た。

このディスコはドミニカに来た時に、ホテルの前で騙されて

男に連れてこられたところである。

私の目的は女性ではなく踊りであったが、踊っている内に

意気投合して、家に持ち帰る事もあった。

(パラ・ジェバール、スペイン語で持ち帰りの意)

ホテルのディスコに行く時は、女性同伴で行く、

I氏とも行くが、彼は余り踊らない、踊りは下手であった。

彼はディスコや酒場に行っても、酒は殆ど飲まなかった、

ジュース類が多かった。

I氏が酒場やディスコに行くのは、雰囲気を楽しむのか、

私との付き合いで行くのか、分からない所があった。

それでもサント・ドミンゴに来た時は、必ずといって良い位

私の所に電話を寄こした。

私は時間を決めて、彼の泊まっているアパルタ・ホテルに、

車で迎えに行った。

私達はそこで今日は何処へ行くか決めるのである。


 クリスマス期間も終わり、仕事が始まった時に

日本事務所から無償資金援助の案件を出してくれとの要請があった。

ドミニカ共和国には十二部門近くのプロジェクト援助があった、

その中から一~二件通るかも知れないとの事であり、

私は案件作りに時間を費やした。

私の案件は、派遣先とドミニカの国内大学をオンライン化して、

情報の集約化とデータの相互交信の統一化である。

私の行っている派遣先は、ドミニカの文部省の外部機関で、

大学生の奨学金の審査と貸付、大学卒業者による

起業資金の貸付など、学業のための資金援助活動を行う事を、

目的としていた。

私は審査方法や相互間の情報を統一化して、

スピーディに行うためのオンライン化を目的とするため、

サーバー機4000万円、データーベース・ソフト

2000万円の計6000万円で提出した。

この案件を作成して、私は日本で健康診断を受けるため、

四十日の休暇を取った。


この休暇で私は一週間のスペイン旅行を計画していたので、

大使館に渡航追加申請を出した、それが認められて、旅券の手配を行った。

計画は、サント・ドミンゴ~ニューヨーク~マドリッド~

バルセロナ~ニューヨーク~成田、羽田~札幌~沖縄~

成田~ニューヨーク~マイアミ~サント・ドミンゴの経路で決めた。

旅費はサント・ドミンゴ~ニューヨーク間の往復はエコノミー、

ニューヨーク~成田間の往復はビジネスクラスの料金で、

日本事務所が払ってくれる。

バルセロナからニューヨークに戻ったのは、日本事務所では

サント・ドミンゴからニューヨーク、成田が既定の空路で

必ず、その経路を使う事が義務づけられていたからである。

スペインと日本国内の料金は自腹である。、

私が追加料金として支払ったのは千ドル(1ドル、104円)であった。

こちらで航空券を手配すると、安いと聞いていたが、

これほど安いと思わなかった。

私はマドリッドに四日間、バルセロナに三日間旅行して、

スペインに到着した時に、私のトランクが1個出てこないでので

空港で文句を言ったが、結果的にホテルを決めて空港に電話をした。

次の日にはホテルにトランクは無事到着した。

スペインではトレドなど観光したり、一人で街中を散策して

パエリヤを食べたり、好き気ままに歩いたが、

幾度も来たい所であった。

トレド観光はバスで行った、フランス人と友達に成ったりして

古代の建物を見たが、素晴らしいの一言であった。

ただ驚いたのはバルセロナで地下鉄に乗った時に

土下座して物乞いをする人を見た時は驚いた。

男性で「自分の親が重病で、私も体が悪く働けないので

皆さんご慈悲」と言っていたが、乗客は無視していた。

これは日本では考えられないし、ドミニカでは道路で

物乞いをする人を見たが、日本人の私には異様に見えた。

日本で健康診断を受けて無事にドミニカ共和国に戻った。

日本で健康診断を受けて、その結果が出るまで

日本に滞在しなければならないので、結果が出るまで

生まれ故郷の北海道に1週間滞在したが、五月と言うのに

雪が降っていたのには驚いた。

沖縄は私の教え子が居るのと、ドミニカから日本に研修で

派遣先のコンピュータ部門から2名来ていたので

その状況を見に行ったのである。

健康診断も問題なく、ドミニカに戻る事となった。

沖縄から羽田に戻り、成田からニューヨークからマイアミ経由で

サント・ドミンゴに28時間かけて到着したが、

この強行軍は二度としたいと思わない程疲れた。

サント・ドミンゴの飛行場に着陸した時、ドミニカ人達が

一斉に拍手するのである。

これはサント・ドミンゴからニューヨークに着陸した時も同じ、

必ず拍手をする。

無事に着いたという安堵感から、着陸したら拍手するのであろうか。

私が飛行機に乗った限りでは、必ずといってよい位、拍手が飛び交った。

また、中には十字を切る人もいた、無事に着いた事を

神に感謝しているのであろう。

私から見ると、楽天家のドミニカ人が、飛行機の着陸で

一喜一憂するのが、変に可笑しいのである。

それだけ気が小さいのかもしれないと、

私は、そんなドミニカ人を冷たく見ている事が多かった。

だが今回も、私のトランクが1個到着してないのである。

またもがと思い、到着したら自分に電話を貰う事にして

翌日電話が来たので空港に取りに行った。

帰国して、仕事先に出て行き、お土産等を周りに配ったりして、

幾日か過ぎた、ある日、日本事務所から呼び出しが来て、

事務所に行くと、私の提案が採用されたとの事であった。


 さてそれからは、詳細な提案書の作成と、日本からの

調査などの為の資料作りに時間を取られる事と成った。

資料作成には派遣先の人達に、ある程度任せて、

自分たちの為にやるのだと言う気持ちを持たす事にした。

派遣先とのコミュケーションも取れ、この案件は

スムーズに進めることが出来た。

案件の為のオリエンテーションをコンピュータで

作成して行く為の会議を月平均二~三回行っなたり、

各大学を回って内容の説明をして大学に対しての

理解と協力を取り付けたりしているうちに、

それである程度、彼達と私との距離感が縮まったと思う部分が出てきた。


 二年目の仕事としては、私としては満足できる部分となったが、

この為に滞在期間が伸びる事に成るとは思わなかった。

私自身としては二年で、この国から出て行く事が目標であったし、

あまりこの国に対して良い印象を持っていなかったのである。

それだけこの国の一年目の印象が悪かったのであり、

私自身が日本人としてのプライドが高かったのであろう。


仕事に関しては、順調に進んで行った、私生活も何となく日々を過ごし、

I氏とは相変わらず、週末は夜遊びを繰り返していた。

I氏がいない時は、私一人で夜のディスコへと繰り出していた。

私の踊りも様に成って来て、ドミニカ人も振り向く様になった。

自分も仕事と私生活のストレスを解消する為に、夜遊びと

仕事に忙しい日々を過ごしていた。

土曜日は、ナンドの母親が一番下のエットを連れて、

私の部屋を掃除しに来るので、私はナンドの働いて居る店に行き、

ナンド達と話をしていた。


スペイン語にも慣れてきて、会話もある程度まで通じる様になっていた。

ナンドの店には、若いドミニカの女の子達も時々来ていた、

ホセが女好きでもあるので若い子に声を掛けていたし、

ナンドも彼女は居たが、ドミニカ人の独特の若い子を見ると声を掛けていた。

ホセも同棲している女性との仲に子供も居ても、他の女性と浮気をしていた。

ある日、ホセと十八歳くらいの女の子が、話をしている事を聞いてしまった。

その子が実の父親から暴行を受け、幾度となく

性的行為を強いられ、家に帰りたくないが行く所もないので、

ホセに金を貸してくれと言っているのである。

私はそれを聞いて驚いた、そんな事が起こる事が信じられなかった。

私は何度も聞き返した、本当に実の父なのかと、継父なら、

あり得る事であろうが、実の父が、そんな事をするとは

思えなかったのである。

ホセに言わせると、そんな事は幾らでもあると言うのである。

私は話を聞いた、その日は一日中、暗い気持ちになってしまった。

私の考えられない事が、この国では起こるのだと。


これまでに私は売春をしている女の子を、幾人も見てきたが、

その子達は家を助ける為に働いていた。

その中には、そのような事があって、逃げ出すために

働いている子もいたのかもしれないと思った。

この国は人道的にも途上国なのだと思った。

これも教育がなされていない事も原因であろう、悲しい事である。

日本がODAで援助している金額は大きいが

末端の人達の苦しみを助ける事には成っていない現状と、

政府間での建前だけで、一部の人が潤う援助で良いのか疑問を感じた。

私の仕事もODAの一部で来ているが、この国の現状を

見ていく内に、自分の力のなさと自分の不甲斐なさを感じ、

また、底辺の人達には日本が援助している事も解らず、

日本がどの様な国で、どの様にしてあげたいと思っているかも

説明しようとしていない、もどかしさを感じた。

この事に関しては、後ほど書く事にしょう。


 そんなある日、ホセから田舎に帰るので、私も行かないかと

誘いがあった。

ホセの同棲相手と子供も一緒に行くとの事である。

ホセの考えは、運転手代わりと交通費を浮かす為に

誘ったのであろうと思ったが、私は色々見てみたいので、行く事にした。

ホセの田舎はサント・ドミンゴから60KM離れた、

サンチャゴと言う田舎町である。

サンチャゴはのんびりとした田舎町で、一歩横道へ入ると、

そこは畑や田んぼであり、田舎に来たと感じる事が出来た、

ホセが食事を持って川に泳ぎに行こうと言ったので、

私も行く事にした。


川に着いて、川を見るとゴミは浮いているし水は濁っていて、

こんな所で泳げるのかと思える状態であった。

だが、ホセ達は水着に着替えて泳ぎ出すのである、

私はこんな所で泳いだら病気になってしまうと思ったが、

ホセの家族達は、かまわず泳ぎを楽しんでいるのである。

私も心を決めて、病気になったらなった、

その時はその時だと思い泳ぐ事にした。

なるべく水を飲まない様に注意して泳いだが、水を飲む事となった。

私は水の汚さを忘れ、泳いだり子供達と騒いだりして、

楽しい一日を過ごした。

そこでホセの彼女が「竜の肌の色は私達より白い」と言った。

私は北海道生まれなので、確かに肌の色は白いが

私はそれが日本に居た時は嫌であった、それは男なら多少黒い方が

男らしいと思っていたからなのである。


ホセの田舎から帰えて来て、数日たってホセの店へ行くと

「ナンドが入院した」と言うのである。

私はびっくりして、ナンドの家に行った。

家に行くと、ナンドの弟のエットと母親が居た。

私がエットの「ナンドが入院したのだって」と聞くと

「そうだ」と答えた。

ナンドの母親にも確認すると「そうだ」といって、涙ぐんでいた。

ナンドの母親は私と話す時は、いつもナンド兄弟を

中間に入れて話す事が多かった。

それは私が最初の頃スペイン語が解らない頃のイメージが

強いのと、私の発音が聴き取れないようである。

その夜ナンドの入院している病院へ行った。

ナンドは寝ていた、ナンドの母親はそんな姿を見て泣いていた。

私はこちらに来て病院を見るのは、二回目である。

一度は日本の援助で建てられ、日本の医療チームが来ている

総合病院である。

日本の病院と雰囲気は変わらない。

ただナンドの病気が何であるのか、医療関係のスペイン語に

疎い私には解らなかった。

私は腸管系の病気と思っていた、それからは休みの時は

ナンドの見舞いに行った。

ナンドは十日位で退院した。


車問題から約一年が過ぎた時に、朗報が入ってきた、

観光関係の指導に来ている専門家の人が一年の任期で

帰国するので、自分の車を売りたいと言うのである。

その人とは親しくしていたので、私の車問題も知っていて、

自分が任期を終了したら売ってくれると言っていたのである。

200万で日本から新車で購入したが、一年しか乗っていない

日産のブルーバードでまだ4000kmしか走っていないのである。

それを1万ドルで売ってくれると言うのである、私は即決した。

今回は日本人だし信頼できる人でもあり、人柄も良く

家にも幾度となく食事に行っていたので、心配しなかった。

今までの車はマフラー破損して、走っていると爆音がする

状態になっていたので、丁度良い時期でもあった。


前の車を5000ペソで、派遣先の庶務課のボスに売った。

車は新車同然であり、慣らし運転位しか走っていないので、

車を乗り回して、田舎町に行き写真を撮って歩いた。

田舎町は素朴な人達が多く、あまり東洋人を見た事がないのか、

カメラを構えると人が集まってくる。

それは貧しい人達が多いので写真を撮る事が無いので、

撮って貰いたいと思うからなのかも知れない。

土日は平均して田舎を回って歩く日が続いた

そんなある日、サント・ドミンゴから50K位離れた

田舎町のバス停に兵士が二人居て、私の車を止め、

一人が乗せていってほしいと言うのである。

次の街のバス停までと言うので、私は乗せる事にした。

車の中で兵士の行く先を聞いたのであるが、その行き先が

何処にあるのか、私には解らず、どうせ田舎回りをしているのだから、

彼の言っている所まで行ってやろうと思い、

気楽に乗せていったのだが、着いた所はハイチ国境の町であった。


そこに着くまで、兵士を乗せた所から5時間程掛かったのである。

サント・ドミンゴから6~7時間の所である

私はここまで来たらハイチ国境を見てみたいので、

兵士に国境との中間点に入れて貰うように頼んで、

中間点に入れて貰った。

そこにはハイチ人が屋台を多数出していて、色々な物を

売っているのである。

サント・ドミンゴでもハイチ人を多数見たが

本当の黒人ばかりである、ドミニカ人は黒さも薄いが、

ハイチ人はアフリカの人達と同じく、真っ黒といってよい。

それは、ハイチはフランスの植民地であった為に、

混血が進まなかったのである。

フランス人は黒人と交わると、その人の一生は終わってしまい、

出世も止まり、回りから軽蔑されるので、

黒人と交わる事をしないと聞いた事がある。

だから黒人同士の結婚が多く、肌の色が変わらないのである。

簡単に言えば、フランス人はプライドが高いと言える。

その点スペイン人は、黒人と交わる事を恥とは思わず、

ラテンの血なのか黒人と交わった為、混血が多く、

少しずつ肌の色が薄くなったのであろう。

国境はドミニカ側に数名の兵士が立っていて中間点が

300m位あり向い側にハイチの兵士が立っているのである。

ハイチは中南米で、一番、最初に独立した国であるが、

中南米で一番貧困な国でもあり、エイズが蔓延している国でもある。

中間点で私は屋台を見て歩いた、色々なフランス製の香水や

ブランデー等や着る物等がドミニカより30%以上

安く売っているのである。

私はブランデー等、数点買った。


ただ、こちらでは警察官と兵士は車の乗せてくれと言っても

乗せるなとナンドやI氏などに言われていた。

それは、彼達は、何時強盗に変貌するか分からないからなのだ。

彼達はピストルを持っているので、そのピストルで脅し

金品を強奪して殺される事もあるそうだ。

その面では私は無警戒なところがある。


またI氏とは、夜遊びばかりでなく、車が新しくなってからは、

田舎回りをした。

彼はドミニカを知り尽くしているので、案内して貰うには最高であった。

彼は農業指導で、移住日本人やドミニカ人を多く知っているので、

地方では顔が広かった

彼と行く所は、日本人の開拓地跡や現在も日本人が農業をしている所、

ドミニカ人が胡椒やコーヒーを栽培している所、

その地方の有名な所等であった。

一度不思議な所に行った事がある、そこは、どう見ても

登坂なのであるが、本当は下り坂なのである、

目の錯覚としか思えない所であった。

また、山の上の湖が塩水湖で、そこにはワニが居り、

熱帯地方独特な所など、日本では見られない所を見て歩いた。


 車も新しくなり、仕事もある程度順調に進んで、

導入するコンピュータの選定などで、コンピュータメーカーとの折衝で、

販売店回りをしていた。

販売店に関しては、システムエンジニアとして

コンピュータ関係の専門として派遣されているのは、私だけなので

専門家の人達や、大使館・日本事務所で色々相談を受け、

幾つかの販売店を知っていたので数店回って歩いた。

そんなある店で、かわいく美人女性が居た、

その店は、私が日本から持ってきたパソコンが壊れてしまい、

新しくパソコンを購入したり、専門家達がパソコンを

購入したりしていたので良く行く店であった。

私がそこの社長に、一度「彼女、綺麗だね」と言ったのが

キッカケで、行く毎に周りの従業員からも「彼女どうだ」と

言われるようになった。

私も男であり彼女のタイプは嫌いではなかった、

ただ笑って誤魔化していた。

彼女は白人系で、背が高く1m70cm以上あり、

顔立ちも整った美人である。

夜は大学院でコンピュータ関連の、研究をしているとの事である。

ある日、彼女が退社時間となり、大学に行くと言うので、

私の車で送る事にした。

車の中で話をすると、彼が居るとの事であった。

私は少々がっかりしたが、高嶺の花と思い諦めていた。

その店には、専門家の相談を受けた件や、案件の機種等で

行く回数が増えて、彼女達や彼女の上司等と話す機会が多くなり、

回りも、彼女の事で嗾けるうちに、食事に行こうとか、

ディスコに行こうと言う話になり、親しくなっていった。

また、国立劇場でスペインの有名な歌手が来たから、

それを聴きに行こうと誘ったりした。

彼女も行くと言って、一緒に行く事になった。

こちらでは国立劇場に観賞に行く時は、女性はロングドレス、

男性は正装でネクタイと上着であり、来る人は白人系が殆どである。

その日は、私が彼女の家まで迎に行った。


彼女の家は旧市街の中にあり、家族は両親と兄弟四名

(男二、女二)で、母親と兄弟は黒かった、確かに混血が

続くと白いのが、たまに出てくるのを見た事がある。

彼女とは、それから付き合う事となった、親にも正式に

紹介され彼女のお気に入りの写真を貰ったりして、

休みの日はディスコへ兄弟達と行ったりした。

何故か分からないが、こちらの女性は付き合うと写真をくれる。

平日の彼女は昼働いて、夜大学院に行っているので、

遊ぶ事をしなかった。

私は一般家庭の女性と付き合うのは、初めてであり、

最初の頃は手間取った。

彼女と付き合うのは良いのであるが、彼女がハイヒールを履くと、

私より背が10cm程高く、デコボコになって、一緒に歩くのが、

私としては恥ずかしくて、つい彼女の前を歩いてしまう自分が居た。

そうすると彼女は「竜、私をエスコートしないのは、何故だ」と

問いかけられ、失敗したなと思って、彼女の横へ行く事が幾度もあった。

又、毎日電話しないと「貴方は私を好きでないのか」と

文句を言われた事もあった。


私は日本男子として、女性に忠実なタイプではない人間なので、

ドミニカでの女性との付き合い方に戸惑っていた。

私は、どうも女性の心理が理解出来ないのか、二度離婚している。

また、こちらの女性は男性の家を訪問する時は、

かならず二人で来るのが常識みたいである。

彼女も友達と二人で、私の家を訪問して来たし、

ディスコに行く時も、友達か兄妹が一緒にくる事が多かった。

それと、こちらの女性は迎に行くと30分以上待たされる事は

当たり前であり、一度ナンドの従姉妹とディスコに行った時は、

1時間以上待たされた事もあった。

ただ、音楽鑑賞会等の時は、開演時間が決まっているので

遅れる事はなかった。


ただ、こちらでメレンゲ、サルサ等のコンサートが

競馬場などで行われる時はドミニカ時間であり

服装もラフな格好で観賞し、盛り上がってくると踊り出す。

一度ナンド兄弟と競馬場のコンサートに行った時に、会場が盛り上がり、

みんなが踊り出して、暫く経った時に喧嘩が始まり

ピストルが乱射された事があった。

その時の、ナンド達の逃げ足の速さといったら素早かった。

ナンド達は私をかばって手を引いて、逃げてくれた。

私達はその場から家に帰ってきた。


ピストルといえば、私はドミニカで二度、突き付けられた事がある。

一度目は私が車を運転している時に、ジグザグ運転をして、

危険な運転で私の車の前に割り込んできたのである、

私は腹が立ち、その車の前に出て信号が赤になったので、

私は車を降りて、その車に文句を言おうと思った時に、

相手も降りてきていたのであるが、手にはピストルを

構えていたのである。

私は「気を付けろ」と言うと、相手も「気を付けろ」と

言って来たので、私は再度「お前こそ気を付けろ」と

言い返して、車に戻った事がある。

その時の私は、あまり恐怖感はなかった。


前にも書いた事があるが、この国では運転免許を持たない人が多いので、

マナーがなってないと言うか、マナーが無いと言っても過言でない、

非常に危険な所である。

また、片側二車線であっても、車が入る、すき間があれば、

強引に入って来て三車線になってしまう。

車と車の間が1cm位の事は幾らでもある。

ある時は信号を待っていると、相手車線に出て私の車の前に、

強引に入って来た車があった。

私も負けずに信号が変わった時に、その車の前に出た。

次の信号で相手が窓を開けて、文句を言ってくるので、

私は道路脇に車を止めて、相手と言い争いになった。

その相手は警察官であった。

相手は「警察へ来い」と言うので、私は免許証を見せて

「お前こそ大使館に来い」とやり変えした。

その場で十五分位、言い争いになって、押し問答をしたが。

私の免許証に日本大使館と書かれていたので、

相手が悪いと思い、泣く泣く引き下がっていった。

その言い争いを、通りがかった派遣先の職員が見ていて、

私が仕事場に戻った時に「道路で言い争っていただろう」と言われた。

私はその時、見たなら助けてくれればいいのにと思った。

こちらの人は揉め事には、介入しない。

「君子危うきに近寄らず」の精神である。

私と親しいナンドでも、そうである。

ただ家族が揉め事になった時は別なようだ。


車での揉め事や問題は、事欠かない位である。

停電で信号が消えると、十字路では相互の車が前に出来て、

引くに引けない状況になってしまう。

こちらの人は前に出る事しか考えていないので、

対向、左右の車が前に出て来るので、

行場がなくなってしまうのである。

相手を通してやるという気持ちは、

こちらの人は持ち合わせていない。

先に進んだ方が勝ち、車もボロいのが多いから、

ぶつかっても気にしない。

そんな車事情である。

ある時は田舎を走っている時に、

暴動(ウエルガ)に遭遇した事がある。

こちらでは暴動がよく起きる、暴動が起きると投石や

車に火を付けたりで、多数の人達が騒ぐのである。

サント・ドミンゴでは乗合バスや乗合タクシーが

値上げしたりすると暴動が起きる。

道にタイヤを置き、それに火を付け投石を行うのである。

貧困の人が多いので1ペソが1・5ペソ(1ペソ、日本円で9円)に

値上がっても、暴動になるのである。

現在の日本では考えられないものであり、少しの値上がりでも

敏感に反応するのである。

私は一度だけ、暴動に遭遇し車を乗り入れた事がある。

窓ガラスやボンネットを数人に叩かれたり、

石をぶつけられたりした事があるが、田舎だった為、

人数が少なかったので被害は殆どなかった。

私達には暴動が発生すると事前に連絡が入り、

暴動が起きる場所には近づかないようにし、回り道をして

帰るようにしていた。


そんな揉め事などがあったりして、月日が経ち8月には

日本人学校の盆踊り大会があった。

盆踊り大会は毎年催されて、移住日本人の人達や

ドミニカに来ている、日本人が集まるのである。

櫓を建て本格的に行うのである。

大使館や日本事務所などが屋台を出して、日本酒、おでん、

焼き鳥などを売って夜の十二時頃まで騒ぐのである。

最初の時点では日本の盆踊りを踊っているが、移住日本人の二世、

三世になっている今では、メレンゲ、サルサが踊られる。


私もメレンゲはディスコ通いの成果から、うまくなっていたので、

酒が入った勢いから、大使の奥さんを引っ張り出して、

踊り出したのである。

これが私に対する、大使の奥さんの印象を悪くしてしまった。

大使公邸での一年に一回の食事会等で、それ以後大使の奥さんは

私に対して口を聞いてくれなくなった。


 盆踊り大会も終わり、八月の終わり頃に私は死に直面する事となった。

それは休みにリゾート地で二日過ごした時に腹痛を感じた。

家に戻った私は腹痛が治らず、違和感があり、

日本から来ている医療チームに相談に行ったのである。

問診では様子を見ようとの事で、その日は帰って来たのであるが

その夜腹痛で、のたうち回る状態になって、朝まで我慢したが

どうにも止まらず、また医療チームに行った。

血液検査で盲腸であり腹膜炎寸前で、緊急手術を

しなければならないとの事である。

ドミニカでも有名で実績のある病院を紹介された。

私は即刻入院して、手術となった。

全身麻酔をして手術した時に、麻酔医が美人だったので

私は「美人だね、独身ですか?」と言うくらい余裕があった。

目が覚めた時は集中治療室であった。

私は生まれて初めて身体にメスを入れた、目が覚めた時、

私は生きているのだと感じた。

手術して、一般病棟に移された、その日から歩けと言うのである。

今は手術後に直ぐに、歩るかせるようだが、

入院した事がない私は、直ぐ歩けとは無謀な病院だと思った。


また、こちらの病院は看護師さんが問診してアシスタントが

投薬を行う、医師は一日一回診に来るだけで、

十分位で終わるのである。

それと点滴などは同じ場所に数日間行うので腕が紫色に

腫れ上がってもかまわず、平気で同じ場所に、また針を刺すし、

手術の縫い合わせた傷口も、一回も消毒しないのである。

そんなこんなで三日で退院した。

所が、それからが死ぬ思いをした。

退院して二日後に手術した場所が、また痛むのである。

それも手術前と同じように激しい痛みなのである。

私は我慢して居たが、我慢できなくなり再度病院へ行った。

病院ではCTスキャンで調べるという事で、CTスキャンの

ある施設へ車で行った。


こちらの病院は総合病院であるが、各科ごとが独立していて、

各科の医者が独立採算で行っていて、支払いも各科ごとに支払うのである。

すなわち専門店が集まった、デパート見たいなものである。

だから内科なら内科の事務室で支払い、外科なら外科の事務室で

支払うのである。

CTスキャン調べると、手術した所が化膿しているとの事である。

一般的に化膿などで手術した場合は、化膿する所に管を入れて、

化膿液を管から出すのだそうだが、今回管を入れていなかったのである。

その為に化膿した物が出る所がなく、それによって手術痕が化膿したのである。

今度は化膿した場所に管を入れる手術となった。

管を入れる手術は麻酔もかけず、エコーで場所を見て管を入れたのである。

30cm位の長さの管を入れるのであるが、麻酔を掛けていないので、

その痛さは半端じゃない。

私は激痛で、自分の腕を噛んで痛みを我慢した。

私が手術を受けた医者は、ドミニカでも有名な人らしく、

また病院もドミニカでは有名な病院であり、

安全であり料金も高い所であると、ナンド達や派遣先の人達も言っていた。

さて、それからの私の入院生活が始まった。

体重は15Kg以上減り、人相も死人のようだと

日本事務所の職員に言われる状態であった。

入院は3週間続いた。


一般的に盲腸は、長くて一週間程度の入院で済むであろう。

三週間で退院した後、通院して一週間後の管を取り、

その二日後に抜糸となったが、最初に縫い合わせた傷口を

手術して一回も消毒していないので、傷口が化膿して

抜糸したら、傷口から膿が飛び出したのである。

傷口は広がるし、傷の跡は15cm位あり、盲腸の痕とは思えない。

入院費用は54万円掛かった、こちらでは、もの凄い金額である。

ドミニカの金持連中は、病気になるとアメリカ本土で入院するそうだ。

たしかに、こちらでは優秀な病院で、これであるから、

地方の病院だと、どうなのかと思ってしまう。


私の状態を見て日本事務所の職員やI氏は病気になったら

アメリカのマイアミに行くと言っていた。

病気になって良かった事もあった。

病院が派遣先と近かった事もあり、毎日派遣先の誰かが

見舞いに来てくれた。

ある時はびっくりするほど大きな花束を局長からと

言って持ってきてくれた。

色んな面で、こちらの人の優しさを感じ、心が通じる所があった。

私はこの国を好きになってきていた。

また、コンピュータの彼女も友達と見舞いに来てくれた。


私の盲腸の後に、今度は日本の大使が腹膜炎寸前で、

私と同じ病院に入院した。

ある日、大使から直接電話が来て、抜糸は痛くないかと

聞いてきた時は笑ってしまった。

大使にも私の入院で問題があった事が伝わっていたのだと思ったからである。


病気も治り、日本からの案件審査の為書類作りで、

忙しい日々を過ごしていた。

審査の日が決まって、書類やオリエンテーションの方法などの

チェックをおこなった。

審査には日本から二人来る事になった。

一人はコンピュータ関係、もう一人は外務省の人である。

審査の日、書類説明は派遣先で、オリエンテーションは大学を借りて行った。

私は昔から役所関係の人間は嫌いであったが、審査の人間に会って、

なおさら嫌いになった。

コンピュータ関係の人はメーカーからの出向で来たので話が合い、

嫌な感じは受けなかったが、もう一人は農務省から外務省に出向している人で、

役人風を吹かして鼻につく人であった。

金を出すのも出さないのも俺次第だとゆうのが、表面に出ているのである。

それに接待してくれよと言葉に出さないが、態度に出ているのである。


私は、そんなのが見え見えだと、反抗したくなるタイプなので無視した。

彼達が帰国する時に「夜、楽しみにしていたのに」言われた時は、

私は心の中で「馬鹿野郎」と言っていた。

どうも私は技術屋なので、接待は下手なのであり、酒も弱いので

最初から接待は考えていなかった。

派遣先はドミニカでも一流で、有名なレストランで昼食を局長たちと

食べたが、私達でも行かないようなレストランであった。

そんな事が原因だったのか予定金額6000万から3800万になっていた。


それは日本が、バブルが弾けて予算が

少なくなったからなのかもしれない。

今回の審査を見て、私も反省する面があった。

あの人達のように、高い所から見下した態度で、

今まで自分もやって居たのでは無いかと思った。

そんな態度でやってやっても、相手には心が通じないであろうと。

今までの私は「教えに来たのだ、それだから、それなりの態度を取れ」と

いう気持ちがあったように思う。


前に、一度派遣先の食堂のおばさんに言われた事がある。

私がこちらの人は「仕事が遅いと」愚痴っていると、

「ここは日本ではない、ドミニカなのだよ」と、

その意味を考えてみるとドミニカに来ている以上、

ドミニカ人に成りきらなければ、そこに入る事が出来ないと

言われたのであろう。


そんな事があって、二年の任期が近づいた。

派遣先から延長の要請があり、私は二年目になって、

この国を好きに成りかけていたのと、無償資金援助の計画を

完成させたい気持ちから受託した。


三年目

私のドミニカでの生活も三年目に入った。

一年目は波乱の日々、二年目は親睦と和の日々となっていた。

派遣先でも案件で、互の心が開けた事と、盲腸での病気で、

派遣先の職員が毎日来てくれた事によって、

私を必要としているという実感があり、ドミニカで

一番親しいナンド一家との結びつき、I氏との親交、

ドミニカ女性との付き合いと、ドミニカ人気質を

理解してきた私が居たので延長を決めた。


案件の金額も決まり、システム構築を再度考え直し、

金額に合った機種構成としなければならない。

三年目の始まりもクリスマス期間であり、会社関係も

クリスマス期間は稼動してない状態である。

私も派遣先の職員達とクリスマスを楽しんだ。

こちらのクリスマスは職員同士がペアーになって、

互いに、プレゼントを交換するのである。

私は日本から買ってきた羽子板の小さなものをプレゼントにした。


私が貰った物はドミニカの人形の置物であった、

夜はナンドの家で恒例の晩餐会があり、

食事が終わった後は、親戚が集まって、話したり

ドミノをやったりし、最後は踊りとなった。

ドミノとはドミノ崩しの型をしたものに、数字が書いてあり、

それを向かい合わせの人が、ペアーになって勝負をするのである。

マージャンのようなものであるが、両面に数字が書いてあり、

相手の出した数字に合わせた数字を出し、次の人が

その反対側の数字に合わせるものである。

仮に相手が6であれば、5か7の同じ種類のドミノを置いて

ペアーのどちらかが持っているドミノが無くなったら

終了で負けた側の持っている数字と相手の余っているドミノの

数字が負けた点数となる。

そこにはペアーでの駆け引きがある。

マージャンとは、また違っている。

そんな事をやっているうちに、夜が明けてしまっていた。

ナンドは彼女とデートであるが、ナンドの兄は彼女がいない、

真面目であり堅物といった感じなのである。

どちらかといえば母親に似て、硬い感じがするし、

ナンドは大学の成績は良くないが、兄貴は優秀であり、

日本政府の奨学金留学生の、面接を受けさせたが、私の力の無さで落ちた。

ちょっと生真面目な点が問題で、彼女が居ないのであろう。

小学生の弟の、エットは全員が大人のために相手にされず、

ふて腐っていた。


私もナンドの親戚全部と面識があり、なれたもので色々話をした。

ただ、親戚の人たちは私と話をする時はナンド兄弟を通訳に使うのである。

きっと日本での外国人が話している日本語と同じように、

たどたどしいスペイン語に聞こえるのであろう。

ただ、私はナンドの母親の親戚と会ったことがなかった。

私が帰ろうとした時に、ナンドが、父母がナンドの

母親の父に会いに行くので、「竜も会いに行かないか」と言ってきた。

私は即座に「行く」と答えた。

私の車でクリスマスの日に、ナンドの母親の父に会いに行った。

そこは養老院であった、母親の父は身体も弱っていて、

起きるのがやっとの状態であった

木に困れた閑散とした静けさの中に建っている、大きな建物であった。

そんな母親の父が、私たちが帰るときに見送りにきた時、

ナンドの母親は泣いていた。

私も貰い泣きしそうになった。

そこにはナンドの母親の優しさを、見たように気がしたし、

クリスマスの日以外もナンドの母親は来ているらしい、

ナンドの母親の名はマリアと言う、名前と同じ様に優しくおとなしい人である。


それからは新年の三日まで、休みであり、私はゆっくりと

I氏と遊ぶ事を考えていた。

I氏は三月に帰国が決まっている、後数ヶ月しかないのである。

彼には色々教わり、色んな面で世話になったし感謝の気持ちで、

彼の好きな所に一緒に行こうと思っていた。

彼も休みの間はサント・ドミンゴに居るし、いつもの

パターンで食事をして、カジノ回りか、ディスコへと繰り出すのである。


たまには音楽鑑賞といって、ナンドの姪を誘って国立劇場に

行ったりしたが、そんな時もI氏は女性に優しかった。

姪を私とI氏で迎えに行ったが、待たされる事一時間、

洋服が決まらないと言って時間が過ぎて行くのである。

姪は小太りでグラマーなのであり、こちらの女性が

身体の線を見せる服を着るように、彼女も身体の線が分かるドレスを着てきた。

音楽会も終わり、彼女がなかなか立ち上がらないのである。

そんな時I氏が背広の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけてやるのである、

私は彼女が寒いからかけてやったのかと

思っていたのであるが、その後にレストランで

食事をしても彼女が背広の上着を返そうとしないので、

その時、私は気が付いたのである。

ドレスが解れたのだと、彼女の肉体にドレスが負けたのであろう。

それに気づいたI氏は背広の上着を貸したのである。

彼は女性には優しい所があったが、色んな面で気配りをしている。

I氏と二人になった時に聞いたら「それらしいので、上着を貸したのだ」と

言っていた。

I氏は寒いから貸してあげると言って、ドレスのほつれに

気の付かない素振をしていたのである。

私の場合は気が付くのが遅かっただけであり、鈍感であったのだ。

彼は外国生活が長いから、女性の接し方も様になっている。

私は離婚も二回繰り返す、鈍感で女性に対する接し方も、

今も分からない男である。


こんな男がドミニカの女性と付き合って、うまく行くのであろうか、

疑問である。

私はこの国での女性との付き合いは、ディスコでの女性が

初めてであり、一般人とはコンピュータメーカーの

彼女が最初であった

後は友達として付き合う子は幾人かいたが、ドミニカ人気質には

成り切れて居ない自分がいた。


I氏とは、本当に馬が会った、何処行くにも二人であり、

他人から見ると、あの二人おかしいのでないかと

思われたかもしれない、それほどに相性はよかった。

私も何か、あればI氏に相談していた。

それとI氏はドミニカを知り尽くしていた。

ドミニカ人よりも知っていたのではないかと思う。

I氏とは田舎町を随分と歩き回った、ハラバコア、サンチャゴ、

キスケージャなど多数の町に行った。

彼はその町の名物や名所などを知っていて、買い物をしたり

食べたりした。

何処に行けば美味しい物を、食べられると、地元の人でないと

分からない処まで知っていた

行く街には必ず彼の知人がいたし、その知人は日系二世だったり

ドミニカ人だったりした。

顔が広かった、その土地、土地に知人が沢山居るのも凄いなと思った。

それだけ、この国に来ているのかもしれないが、

彼の人徳もあって、みんなに好かれるのであろう。

また彼はサンフランシスコ・デ・マコリスに住んでいて、

メイドを雇っていたが、そのメイドも彼の優しさに甘えていたようである。

彼が日本に帰ると決まってからも、お金などを借りたりしていたし、

彼の家財道具を貰ったりしていた、彼も気にしないで貸したりもしていた。


 メイドは借金する理由は、自分の親戚が

カリブの他の島に住んでいるので、そこへ行く為の

お金を借りたいと言うのである、

彼女はそこで仕事をするというのである。

ところがI氏が帰国してまもなく、サント・ドミンゴの

ディスコで彼女が働いているのを見てしまった。

聞いてみると、あちらに行っても仕事がないので、

ここで働いていると言うのである。

この場所で働くことは身体を売ると言うことであるが、

彼女はI氏から、こちらでは相当な金額を借りていたのであるが、

それはどうしたのであろうかと思った。

こちらでは、女性が、貢ぐことが多い、男性は複数の恋人を持つが、

収入がない。

女性は男性をつなぐ為に、お金を貢ぐのである。

そうゆう女性を何人の見てきた、ラテンなのか男性天国なのか分からないが、

男性にとっては嬉しい限りである。


 その彼女と住んでいる田舎へ行って見たが

なんとも穏やかな町であった。

ただ、雰囲気的にはあまりいい思いがしなかったのは、

この町の近郊は麻薬の運び屋などで、

金を儲けている人間が多いのである、

I氏の住んでいたサンフランシスコ・デ・マコリスは

特に有名な地域で、ドミニカでは知らない人がいない位、

麻薬関係でお金を儲けている人が多い、

また、それだけ危険な地域でもある。

たしかに車もベンツの新しいのが走っていたし、

家も綺麗な家が多い、それとニューヨークなどで、

麻薬で捕まる人は、ドミニカ人が一番多いそうだ、

その中でも、この地域の出身者が大半であるという。


 また、一躍千金を求めてアメリカに、密入国する人も

後をたたないそうである。

こちらの人がアメリカに行くと言ったら、

どっちのドブレAで行くのだと聞くのであるが、

ドブレ(スペイン語)とはW(ダブル)の事で、

Aは飛行機ならアメリカン・エアーラインを指すし、

もう一つのAはAga(水)の事を言う。

海に出て船で密入国をするのかとゆう事である。

船は進む前後が水であり、ドブレAは、そのような意味もある。

こちらの人が目指すのは、アメリカ領のプエルトリコである、

ドミニカから近いし、多くのドミニカ人が住んでいて、

密入国には持ってこいなのであるが、プエルトリコ側も

対策に頭を痛めているようだ。


 また、この地域はサトウキビとコメの生産でも有名である、

ドミニカで列車が走っている地域でもある、サトウキビの

運搬用にである。

最近はサトウキビも値段を叩かれ、生産する人も

減ってきているようである。

そのためにアメリカに密入国して、お金を稼いで家族に

送金しようとする人が多いのである。


クリスマス近くに、ニューヨークからの飛行機に

乗った事があるが、サント・ドミンゴ行きの飛行機は満席である。

みんなの持っている荷物の量は、半端じゃない量である、

荷物は二つまでは、安い金額なので、ドミニカ人は

トランクを二段、三段にして、ラップを巻き、一つに、

また、次のを巻き、二つ作るのであるが、自分の身長よりも

荷物の方が高いのである。

このようにして、持ってきた物を家族、親戚一同に配るのである。


 ドミニカは地域によって、人柄も変わってくる。

北の方に行くと、のんびりした雰囲気があり落ち着く感じがする、

南に近くなると都会的であるが、人間がギスギスした感じにとれる。

また、首都のサント・ドミンゴのなかでも、旧市街地近辺は

人の目の色がギラギラして、何かあったら問題が起きそうな

雰囲気がするのである。

また、たかり等の事件も起きる。


 いかがわしいディスコや飲み屋街も旧市街地側に多い、

私の良く行くディスコも、その一角にあったが、比較的平穏な

部類に入るところであった。

私は幾人かのディスコで働く子に、学費を出してやって

学校へ行かせたが、最終的には、ディスコに戻ってくる子が、

ほとんどであった、何か中途半端に面倒を見た感じが否めない。


 ドミニカの一月、二月は、夜は上着が無ければ寒い、

私とI氏は相変わらず週末は遊んで歩いた、

遊び方も慣れてきたし、カジノでもディラーの人とも

顔見知りになって挨拶を交わすほどになった。

それと、派遣先の連中が私の身体を気遣ってか、

メイドを雇えと言ってきた。

私は必要ないと思ったが、職場でも信頼の置ける奴からの

紹介なので雇って見ることにした。

そのメイドは月曜日から土曜日までとして、NANDOの

母親も土曜だけ来ていたが雇うことにした。

それで、毎日の朝食と昼食、夕食などや、掃除を頼むことにした、

紹介された子は気立ての良い子であった、

職場の紹介してくれた,彼の親戚だといっていたが

十八歳で子どもが一人いた。


 最初の頃は昼食を食べに帰っていたが、めんどうなので、

最後の頃は帰らなかった、私の行っていた、派遣先は、

ヒエスタはなく、昼は一時間の休みだけなのである、

車でも往復三十分かかる、その往復の時間帯が、嫌なので

止めたのである。

後は、夕食の準備と掃除、洗濯だけであった

彼女は夕方に学校に行っていた、私が帰国する頃には大学に

入学していた。

性格は良い子であったが、気が強かった。


あるとき一緒に向かいのスーパーに買い物に行ったとき、

調味料を買ってくれ言うのである。

私は「部屋にあるじゃないか」言って買わなかったのである。

彼女は「ない」と言って聞かなかったので、

私と押し問答になり、そのまま、帰ってしまったことある。

私は迎えには行かなかったが、彼女から戻ってきたが

謝ることはしなかった。

こちらの人はプライドが高いのか、謝ることをしない、

前にも書いたが、謝ることによって自分が不利になるからでもある。


あるとき、そのメイドが「シャワーを浴びていいか」と聞くので、

「いいよ」と答えた、たまたま、私が休みの時に部屋にいた時なのである。

私がいないときは、勝手にシャワーを浴びていると思うのであるが、

私が居たので聞いたのであろう。

彼女は素っ裸で(バスタオルは巻いていたが)、シャワーのある所に

行くのである。

最初は私もビックリして、何も言えなかったが、

それ以後は同じことをやったときに「俺も男だからな」と注意すると、

私の前では、そのような行動はしなくなった。


他の人にも聞いてみると、若いメイドほど、

そのような事をするとのことであった。

私は日本でも、メイドなんて使える身分でもないのに、

ドミニカではメイドの居る生活をしたが、

一度もメイドと思った記憶がない、どうも友達的感覚で

過ごした感じであり、こちらの人のように過酷な

労働は要求しなかった。

他のメイドは、そこの主人と肉体関係を持たなければ、

解雇されるとか、いびりに遭うなどとか、私の住んでいる

マンションの警備のドミニカ人に聞いたことがある。

警備のドミニカ人とは、よく話をした。

マンションの住人の情報などを、私に聞かせてくれていた。

私も暇な時は、彼とよく立ち話をしたりし、夕食が

余ると彼に渡していた。

彼から見ると、気兼ねない日本人だと思っていたであろう。

彼も色々教えてくれた、私も、この国に

慣れていなかったので、助かった事が多かった。


 生活もなれ、言葉もある程度分かる様になってきた、

私のスペイン語は、覚えるために、誰とでも話をしていた、

聴いて慣れろと思っていたので、路上屋台で物を売っている人や

靴磨きの少年、花屋のおばさんなど、誰かれかまわず話をしていたので、

文法的には駄目なスペイン語である。

彼達の話すスペイン語は、最初の頃は早くて

聞き取れない事が多かったが、今は大丈夫である。


 私は花が好きで、よく部屋に花を買って置いていた、

部屋とダイニングなどに置く花を向かいのスーパーの

路上で売っている、おばさんのところに行って買っていた。

花の種類は多かった、私は鉢植えの蘭を好んで買っていたのである。

私は必ず値切り交渉をしていた、最初の頃は毎回値切るので、

おばさんも、いい顔をしなかった。

又来たなという感じで対応していたが、常連になった頃は、

馬鹿話をするようになっていた。

でも、何回行っても、私は中国人に見られていた。


 私は、あるとき「何回来ても、なぜに中国人なのだ」と

聞いたことがある、

答えは「東洋人は、みな同じに見える」と言うのである。

私は半分納得した、確かに我々日本人も韓国や中国の人の

見分けがつかない事が多い、それなのに、ドミニカ人はなおさらのこと、

見分ける事は出来ないであろうと思った。


また、私たちがアフリカの国の人を、何処の国の人と

見分ける事が、出来ないのと同じなのである。

あとの半分は、何回も行って、日本人だと説明しているのに

「Chino」なのかが、わからない。


 また、ドミニカ人は中国人を嫌う人が多い、

必ず彼達の口から出る中国人批判は「Duro」、

または「Tacano」である、これはスペイン語で

「固い」とか「けち」を意味する。

ドミニカ人が中国人を示すときは、左の手のひらを、右の肘にあてる。

これは、ケチを示している、確かに中国人は金儲けが

上手いし、値切り方もうまい。

花屋のおばさんも私が毎回値切るので、中国人と思ったのかも知れない。


あるときNandoの店で中国人が買い物をしていたときに、

見た光景であるが、対応していたのはJhoseである。

Jhoseは自分も認めるケチある、前にも書いたが、

Jhoseの仕入れ方は、徹底的に叩いて買う、

私はこの店には毎日のように寄っていたので、

Jhoseが値札に仕入れ金額を、暗号化して書いてあるのを知っていた。


 その価格は仕入れ価格の三倍以上の物がほとんどである。

店にいた中国人は、色々物色して、八品目くらい

購入しようとして、値下げ交渉にJhoseと入ったのである。

値段も決まり、支払いの段階になって財布から、

お金を出して支払い始めたのであるが、お金が足りないのである。

そこで、また交渉が始まった、品物は包装して

しまっているのでJhoseはあきらめて中国人が

持っている金額だけを受取り、しぶしぶ品物を渡していた。

完全に中国人の戦略的勝利である。


こちらの人は、お金を分散して持って歩くのである、

スリや恐喝などに対処するために三箇所以上にお金を入れとくのである、

特に、すられ易い財布には、大金は入れない、最小金額を入れるのである。

だから、中国人も財布以外に持ち金があるはずなのだが、

ないから、まけろといって、まけさせたのである、上手いやり方である。

このように中国人は金の使い方も上手い、

また、ドミニカで貴金属とかスーパー、カジノをやっているのも

中国人が多い、働いているドミニカ人に支払う金額も少ないと言っていた。

値切り交渉に負けたJhoseの悔しがりかたは、半端でなかった。


Jhoseも言っていたが、日本人が一番商売になるとの事である、

値切る事もあまりしないし数も沢山買って行く、メキシコの観光地では、

日本人の団体が来る情報が入ると、今まで販売していた

値札の倍の金額で、新しい値札を付けて売るそうである。

そこで、少しでも金額を引いてやると、日本人は

喜んで買うそうなのであると聞いた事がある。

たしかに気分的に安く買ったつもりになるであろう、

特に値切らない日本人にとっては、嬉しく感じるのだと思う。


 また、ドミニカの紙幣は汚く、匂いがするこれは紙幣を

ポケットに直接入れるので、この国の暑さで汗をかき、

その汗が紙幣に染みているのである。

特に5,10・20・30・50・100ペソの

紙幣は汚く、匂いがする。

I氏は財布代わりにスーパーの袋を使っていた、臭いからである。

彼はレストランで支払うときも、その袋から出していた。


I氏の帰国も後二ヶ月近くになった頃は、彼とドミニカ周りをして歩いた、

北から南までを休みの日は回って歩いた、彼の帰国挨拶の為でもあったが、

色々な所ヘ行った。

あるときは泊り込みで行ったりもした、何処へ行っても、

彼の顔の広さには感心した。


その彼も帰る2週間前には、アパートを引き払うとのことで、

私が迎えに行く事にした。

こちらでの仕事は週休2日なので、土曜日に行き、

彼のアパートに泊まり、日曜日にサント・ドミンゴにつく事にした。

サント・ドミンゴでは、相変わらず夜は、二人で吊んで、遊び歩いた。

彼は例のごとく,アパルタ・ホテルに泊まり

私が迎えに行って、ディスコとカジノを歩き回った。


 彼も帰国して、私は、夜の遊びは一人で行くようになった。

平均して毎日、ディスコ通いの日々であった、

旧市街は危険な地域である事は変わりないが

私は危険に対して鼻が利くのか、要領がいいのか、

危険な目にはあったことがない。

車をディスコに、横付けして、警備のドミニカ人に

10ペソぐらい、握らせ、「私の車をよろしく」と頼むのである。

毎日のように来る東洋人であるから、相手の警備の男とも、

顔見知りになり、心得たもので、車のチェックをしていてくれた。

綺麗な車を横付けするのは、私くらいでドミニカ人は

タクシーか乗合タクシーなどを使ってきていた。

私も時々はタクシーで行く時があったが、

そのときは電話をして、マンションまで、来てもらった。

料金は、その時に交渉するが、クーラ-を使用すると割増になるのである。

タクシー会社も十社以上あり、ランクがついていたし、

車の綺麗なものを選んだりすると高くなる。

また、向かいがスーパーなので、荷物などが沢山ある人は、

タクシーを使用するので、数台が客待ちをしていた、

そんな、タクシーの運転手と仲良くなると融通がきく。

私もタクシーを使うときは、だいたい同じタクシーを使う事が多かった。


ディスコでは、Velqei(ベルキー)と言う女性と良く踊った。

踊りも息が合った、彼女とは毎日のように踊っていたような気がする。

彼女と踊ると、セクシーに踊れて、周りのドミニカ人も

私たちに注目し、たまには「踊りうまいな、中国人」と

声をかけてくれる人もいた。

だが、ディスコで中国人が踊っているのを、私は見たことがない、

東洋人は私一人であった。

だいたいのドミニカ人は、私の事を、メレンゲ踊る、

変な東洋人と思っていたであろう。

また、ベルキーからも、夜になると電話が掛かってきて、

踊りの誘いがあった。

彼女は暗い感じで、あまり話をする子ではなかった、

ディスコでも一人孤立していたようである、

一人か二人の女の子とは話をしていたが、殆んど一人で座っていた。


私がたまに、他の女の子と踊ると、睨みつけるベルキーがいた。

彼女は親と離れて一人で生活していた、ディスコは男性と

寝る以外は、男性が飲んだビールの数によって、

歩合が貰えるシステムであった。

私は、酒は強くないが、ベルキーに貢献する為に、

ビールを10本位頼んだいた。

また、踊ると汗が出て、酒が抜けてしまうので、

飲んでもあまり酔うことは無かった。


三年目の夏に、日本語学校の恒例の盆踊り大会が行われた。

私はベルキーを連れて盆踊り大会に行った、

いつもは一人で参加するのであるが、ベルキーが、

盆踊りを見てみたいと言うので、連れて来たのである。

盆踊りも終盤になると、恒例のメレンゲやサルサが踊られる。

私も最初はおとなしく、櫓の下で踊っていたのである、

後半になると主催者の要望で櫓の上でベルキーと

踊る羽目になった、それも私達一組だけである。

私達の踊りを見た、日本から来ている専門家は

「彼は、こちらの二世か」と言うほど踊りが、様になっていたようだ。

だが、この時も、またしても大使の奥さんを引っ張り出してしまったのである。

懲りもせず、またやってしまった、酔っている事もあったが、

ラテン化した私は、後先を考えずに行動を起こしていたのである。

それでも、大使の奥さんは素直に踊ってくれた、

調子に乗った私は、大使も引っ張り出したのである。


私は、踊りに関しては、メレンゲはマスターしていたので、

サルサをマスターしようとしたが出来なかった。

サルサはメレンゲより華麗であり、スマートである。

メレンゲは土くさいが、サルサは優雅さが見えるので、

覚えたいと思ったが、出来なかった。

幾度かディスコで女性に手ほどきを受けたが、

上手く踊れなかった。

ベルキーもサルサは踊らなかった、

自分でも踊れないと言っていた。


踊りに関してはドミニカ化した私であるが、次はナンパである。

ナンパ出来るか、出来ないかでドミニカ人化したか、分かるであろう。

こちらの人達のナンパは、日本では考えられないのである。

大人から子どもまでが、ナンパする。

ナンパという言葉が悪けりゃ、挨拶なのであろう。

十一、二の靴磨きの少年も、身体の線がはっきりと見える、

女性を見ると声を掛けるのである。

「彼女、遊びにいかないか」と言うと、相手は

「貴方が大きくなったらね」とあしらうのである。

これが普通なのであるから驚く。


日本人が挨拶するような感じで、そのような言葉が飛び交う、

これはナンパではなく挨拶としか感じない。

私は、このナンパとも言えない、挨拶に関しては、

なかなかドミニカ化できなかった。

だが、それもやることになってしまった。


 I氏も帰国して、また、仕事も例の大学との

オンライン化を進めるために、機種の選定などと忙しくなってきた。

機種とデータベースの選定は、私の担当であり、

ドミニカで使用しているもので、メンテナンスが

しっかりしている会社の物を基準にした。

三社くらいに絞り込んでいった、営業は日本と同じで、

各社担当が、毎日のように派遣先に来ていた。

日本と違うところは、販売利益の60%近くが

営業担当の給料になるのだそうだ。

一度、販売会社を訪問した事があるが、社長と、

営業マンが同等の口の利き方をしているのである、

共同経営者みたいな感じに受け取れた。


私の付き合っていた、彼女の会社も対象になっていたが、

機種が小さいのしかないとゆう難点があった。

また、派遣先の職員もデータベースに関する知識が

低いので、講習会などに行かせる事にした。

私は毎年、派遣先の職員をシステムのランクごとに、

日本に研修に行かせていた。

この三年で六人を日本の研修に、行かせていた。

それなりに三ヶ月から六ヶ月の研修で、レベル的にも向上していた。


ただ、日本とゆう先進国へ行って研修を受けた事によって、

ドミニカ人は、次の就職に有利になる。

ある、プロジェクトのドミニカ人が、日本で研修を受け、

大学の先生になったと言う話も、あるくらいで、

皆行きたがるが、日本の年間の予算等で、人数が制限されていた。

それも、派遣先の職員が、私に接近する一つの餌だったのかも知れない。


 私も派遣先の部門の職員とも仲良くなり、

一緒に昼食を食べに食堂に行ったりしていた。

派遣先の近所には食堂(レストラン)が十軒近くあった。

いいところは、大統領も来る有名レストランもあり、

料金もかなり高いところであったが

私は二、三度行った事がある、自腹では行ってない。

少々高すぎるのと、格式が高いので、私みたいな、

屋台の豚の内臓を揚げたものを朝食で食べる、

人が行くところではなかった。


一度は、派遣先の招待で日本事務所の職員と

二度目は無償資金援助の調査団が来たとき、

三度目は私が帰国する前に、派遣先が日本事務所と

大使館員と、私たち部門の全員とである。

料理は、私は美味しいと感じていなかった、私の味覚は、

先に書いた庶民の味を好んで食べるので当てにはならないが。

このレストランは、私の派遣されている所とは、

目と鼻の先であり、国会議事堂とも、近かったので、

国賓も来る事があった、そんな時は、警備がものものしく、

大変であった。それと、私の派遣されている事務所は、

コロンブスの甥が住んでいた所を事務所として

使用していたので、周りも静かであった。


 私たちの行くところは、一般の人たちが利用するところで、

ドミニカ料理ばかりである。

そこで、毎日一人の綺麗な女の子が、食べに来ていた。

派遣先の男性も、綺麗な子だと言って騒いでいた。

私も綺麗な子だと思った。

彼女は黒人系でも色が黒い方であったが、顔立ちが

整っていて美人であった。

近くの大きな病院の医者の秘書をやっているそうだ。

さて、それからは、私たちは、その食堂に通う事が多くなった。

彼女も私たちの目を意識しているようなのであるが、

なかなか、こちらから話し掛けるきっかけが掴めない状態が続いた。


私たちは昼食が終わると、木陰で話をしていた、

そんな時も、皆は「あの彼女どうだ」と私を嗾け、話題にしていたが、

他の女性が通ると、みんなは「遊びに行かないか」と声を掛けるのである。

女性も慣れたもので、上手くあしらっていた「今度ね」

何て言ったりしていたが、私が職員の一人に「彼女と付き合ったのか?」と

聞くと、「付き合った」と返事が返ってきた。

女性もなかなかのツワモノらしいのである。

そんな冗談を言ったりしていた。


ある日、四人で例のレストランに行くと、綺麗な彼女が

友達と食事をしていた。

我々は食事をしながら、彼女の話題になり職員のOndori

(オンドリー)が彼女に声を掛けろと言うのである。

私は、そんな度胸がないと言うと、「分かった」と言って、

紙ナプキンに「電話番号を教えて下さい」と書いて

彼女に渡して、私からだと言ったのである。

私は顔から火が出る状態であったが、彼女は私たちが

話題にしている事を気が付いていたのであろう、

私の方も見て軽く会釈をしたのである。

私も会釈をした、Ondoriは彼女に「彼は日本人だ、

いいやつだ」と説明していた。

その日は、それで終わったのであるが、次の日、私たちが、

レストランに行くと彼女は居なかった。

がっかりしていると、彼女が入ってきたのである、

私は会釈をすると、彼女も会釈をした

「やった」と心の中で呟いていた、今日はいつもの友達と

一緒でなく、一人である。

皆はチャンスだと嗾けるのである。

私も、度胸を決めて彼女に話し掛けて、電話番号と

名前を聞いたのである。

彼女はメモに電話番号と名前を書いてくれた。

私は小躍りしたいくらいであった。

私もドミニカ人化したなと感じたし、みんなも感じたようである。

それからは休憩時間の間、彼女の話で持ち切りであった。

昼の休憩が終わっても、派遣先の、他の部門の連中が来ると、

私がナンパした事が話題になった、女性の間でも話題になっていた。


さて、電話番号をゲットしたので、退社時間が近くなった頃に、

皆が電話をかけろというのである、確認のためにも。

私は度胸を決めて電話したのである、彼女の書いてくれた

電話番号は、彼女の勤めている病院のであった。

私は彼女の書いてくれたメモの名前を言って

彼女をお願いしますと言うと、相手の返事は

「そんな人いません」と返ってきたのである。

私は、やられたと思ったが、再度問い合わせると、

相手が「アニ~て言うの、ほんとは」と返ってきたのである。

相手は警戒して偽名を書いたのである、本当に電話をかけてよこすか、

試したのかもしれない。

私は、また騙されたかと一瞬思ったが、その考えは消えた。

私は「電話しただけ」と言って、電話を切った。


さて、それからが、どのようにすべきか分からないのである。

職場の人たちは色々アドバイスしてくれるが

この様なことに慣れてない私には、戸惑うばかりである。

みんなは「明日も電話しろ、そして昼食に誘え」と言うが、

誘ってどのよう事を、話をすればいいのかも分からない状態である。

みんなに乗せられて、行動したが、後の事など

考えてもいなかったのである。

ましてや日本でもやったこと無い、ナンパであるし、

どちらかと言えば女性に対してドン臭い男であるから、

相手にどのような事をしてあげれば、喜ぶのか

全くもって分からなかったのである。

その日は、それで終わり、翌日仕事に出ると

みんなが今日はどうするのだと囃し立てるのある。


職場の食堂のおばちゃんまでが、「ナンパしたのだって、

やるね、もうドミニカ人だね」と言うのである。

その、おばちゃんとは、私も良く話をするのであるが、

副局長までが知っていたのには参ってしまった。

もう、職場内で知らない人がいない状態である、

局長の秘書までもが、私の顔を見て、ニヤッと笑うのである。

これには、さすがの私も参ってしまった。

半日で職場内には、日本人がドミニカの女性を

ナンパしたと言う情報が流れてしまったのである。

これほど、情報が早く流れるとは思わなかったし、

私もここではドミニカ人として扱って貰っているのか、

変な日本人と、思われているのか、分からなかった。


でも、行動に移した以上は責任を持たなければと

(これは自己満足の世界であるが)思っていた。

私は行動に移した、早速、彼女に電話をして

「今度、昼食でもどうですか」と言って見ると

彼女からの返事はOKであった。

その日は職場の、みんなと昼食を取り、明日彼女と昼食を取る約束をした。

私は、どのような事を話したら良いのかOndoriたちに聞いた。

みんなは「好きなこと話てればいいのだよ」との

答えしか返ってこなかった。

私は日本に居た時から、好きな女性の前に行くと、

あがってしまい、何を話してよいか分からなくなるのである。

それで、幾度か気持ちを相手に伝えられなくて、

失敗した事があった。


ただ、ここはドミニカである、おまけにスペイン語と

きたものだ、恋の告白をラテン調でやりたいものであるが、

如何せんスペイン語も最近なれて会話が出来る

状態になったばかりである。

後は度胸のみで、ぶつかるしかないと決めて彼女を誘った。

彼女は小柄で綺麗な顔立ちをしていた、見た目十八歳と

言っても判らないくらいであった。

私たちも二十二歳くらいと、思っていたのである。

ドミニカでは年齢差は、関係なく恋愛する、日本のように

年齢が離れていると「犯罪だ」なんて騒いだりしない。

最近の日本は、あまり言わなくなったが、それでも、

年齢層の高い人は、そう感じるようだ。

ドミニカは、五十歳の男性が、十六歳の女性と恋愛しても

「そうなの」で終わってしまう

だから、男性は複数の恋人を持っていても年齢が幅広く、

自分の子供と同じくらいの恋人も普通である。


さて昼食の件であるが、私はいつも行くレストランは避けて、

海岸通りのみんなが行かないレストランを選んだ。

このレストランは海岸に面していて、品数も豊富で

少々高いがドミニカ人に人気のあるレストランでであった。

店は店内以外に道路に面したオープンテーブルもあり、

なかなか洒落たレストランである。

私たちは道路に面したテーブルに決め、食事を決めに

調理カウンターに行った。

此方のドミニカ風レストランは、セルフサービスで

調理場のあるところにカウンターがあって品物が見え、

好みで注文するのである。

私は好んで食べる、モンドンゴ(豚の腸の煮込み)とサラダ、

スペアリブ、アビチョエラ(豆の煮込みスープ)を頼んだ。

彼女はサラダとアビチョエラ、スペアリブを頼んで、食事をした。

話は取り留めの無い、家族は何人、兄弟はとか、

仕事は何をしているの、などで終わった。


最初にしては、自分ではまずまずであったと思っていたが、

職場に帰ると、みなさんの意見は「もうディスコに誘ったか」

とか、「夜のデートに誘った」かとか、言っているのである。

私からすれば、そんなの段階を踏めばいいと思うのであるが、

こちらの人は単刀直入に言うので、歯がゆく感じるのであろう。

たしかに、街で女の子に声を掛けるドミニカの男性は

「ディスコに行って、一夜をともにしない」とかを

平気で言うし、もっと凄いのは「俺とベットをともに」

なんて言う奴もいるのである、見ず知らずの女性に対してである。

日本みたく「お茶しない」なんて事は、ほとんど言わない。

また、こちらで驚くのは、私から言わせると

餓鬼である少年が、同じ事を言って女性を誘うのである。


 彼女とは、それから数回、昼食デートが続いた、

何回目だか忘れたが、「仕事が終わったらデートしよう」と

誘ったら、彼女が「私は家でやらなければならない事が

あるので夜は、あまり出かけられない」と言ったので

私は彼女、結婚しているのかなと思ったのである。

此方では、結婚しているという言い方に、二種類ある、

正式に教会で結婚式を挙げ、婚姻届を提出した場合と、

同棲していても結婚していると言う。

同棲の場合は、お金が無くて結婚式も挙げられず、

婚姻届も出さないのである。

この婚姻届に最大の問題が、あることが後で分かった、それは後ほど。


 何回目だか忘れたが、彼女と仕事が終わってから

デートする事を約束した。

その日は金曜日であったと思った。

私は普通の日は三時半頃には、職場を去り日本事務所に

寄ってから、自宅に戻るのが日課であったが、

その日は彼女が、仕事が終わるまで、職場にいて時間をつぶした。

私はワクワクしながら、時間の経つのを待っていた。

職場の連中は、今日に限って何で私が残っているのか、

訝しげに思ったであろう。

職場の連中には、今日のデートは内緒であったから。


私は時間つぶしに、庶務部門に言って話をしていた、

ここは私が気晴らしに良く来る所で、例の執務室事件で

一週間に親類を五人も殺した男がボスであった。

また、例の問題の車を売った相手でもある。

あの事件以来、私は彼と親しくなった、名前はホセである。

ラテンではホセと言う名は、非常に多い、土産店の

店長もそうだし、ナンドの友達も、ここのボスもである。

そのホセは人がいいのである、私と良く話をする、

また時々銀行などに行くときに、社会勉強だと言って、

私を色んなところに連れて行ってくれる。

銀行に行くときは、ホセは必ずピストルを腰のベルトに、

無造作に差し込んで行く。

他の所に行くときも車のダッシュボードにピストルを

入れているのである。

あるときホセが「お前もピストルを持ったほうがいいぞ」と

言われた事がある。

そのときホセは、口径の小さいのと、別にもう一丁ピストル

を持っていたので、口径の小さいのを、私に安く

売ってやると言うのである。

私は断った、一度、派遣先の副局長とピストルを撃ちに

行ったことがあるが、口径の大きいのから、小さいのまで

色々撃ってみたが自分には合わないと思ったのである。

それは、もし事件か何かで、私がピストルを取り出したら、

恐怖心で簡単に引き金を引いてしまいそうだからである。

こちらの人は、ピストルを持ち慣れているので、

最後の最後まで我慢して撃つことが出来るであろうが、

私は出来ないと思ったからである。


ピストルに関しては、ドミニカで二回、突きつけられている、

でもその時は、恐怖心はなかった。

むしろ落ち着いていた、でも、今考えると、

もし発射されていたら、この世には居ないであろう、

あれだけの至近距離では助からなかったであろう。

ピストル事件は二年目と三年目であった、一度目は

前に書いたが、二度目は軍人であった。

私のマンションの最上階に住んでいる軍人で

私はその下の階の真下に部屋があった。

あるとき上から、物が投げられて、窓ガラスが割れたのである、

私は文句を言いに行ってドアをノックしたときに、ドアが開いて、

そこには、マグナムの自動拳銃が構えられていたのである。

私は「謝れ」と相手に言ったが、相手は何も言わないのである。

そこへ、私と親しくしているマンションの警備の彼が来て、

階段の下のほうで「やめろ、危険だから戻れ」としきりに言うのである。

私は彼の忠告を聞き、引き下がったのである

後から聞いたのであるが、その彼は麻薬で逮捕されたそうである、

もし、しつこく居たらどうなっていたであろう。

その時も私は恐怖心が無かった、どうも鈍感なのか、

いざというと度胸が座るのか、あまり感じなかったのである。


 さて、ピストル事件はさておき、彼女との最初のデートであるが

(昼食デートは数回あるが)車で海岸に出て眺めのよい所に、

車を止めて色々話したのである。

私は疑問に思っていた結婚について聞いてみた、

彼女の答えは「結婚していた」である、

今は別れている、そして子供も居るとの事である。

また、驚いたのは彼女の年齢である、どう見ても

十八歳から二十二歳くらいであるが、「二十九歳なの」と言うのである。

それと、子供もいるし、母親が看護婦やっているので、

家事をしなければならないので、家に帰らなければ、

ならないのだと言うので私は納得した。


それと、私とデートするなんてことは、家族には言っていないだろうし、

ましては東洋人と、付き合っているなんて言えないであろう。

子供は、今日は姉に預けて来たそうだ。

此方では、家族に合わせて、始めて交際を認めることに成るのである。

今まで付き合った女性は、必ず家族に私を合わせた、

それと写真をくれるのである。

これには何か意味があるのか、聞いた事は無いが、

いつでも貴方の側に居るよとゆう事と私は解釈している。

それはいつでも写真を肌身離さず、持っていてよという

意味と思ったからである。


最初のデートは海岸での話で、時間が過ぎて終わってしまった。

そのデートから、しばらくは昼食デートが続いた、

そんなある日、彼女が私に「今日私の家まで送ってくれる」と言うのである。

これは家族に合わせると言うことである、私は「いいよ」と返事をした。

そして、仕事が終わり、彼女が私の職場に来て、彼女の家に行った。

彼女の家は市内から、北の方角に向かった職場から四十分位の所ににあった。

旧市街の雑踏を通り、乗合タクシーやモトコンチョ

(50CCのバイク)などの、終点があり、屋台などが

建ち並んでいて、人が溢れかえっている処で、庶民の匂いがし、

私の住んでいる処とは、逆の感じがする所である。

車も、これが車なのと思うボロ車が走り、私のような

綺麗な車で走る時は、側によってほしくない車ばかりが走っているのである。


私はこんな、雑踏の中を何回か走ったことがあるが、

あまりこのような所は走りたくないと何時も思うのである。

そこを過ぎ、いくつかの路地を通り抜けた所に彼女の家があった。

彼女の父親は家具の飾り職人で、家の隣が仕事場であり、

そこには木を削ったりする機械などが置いてあった。

私が行った時は父親が居て、私を見ても普通に接してくれ、

あまり、驚いた様子は無かった。


今までの幾つかの家族は私を見ると、中国人がと怪訝な顔をするのである。

確かにドミニカに住んでいる中国人は、他民族と結婚や恋愛など、

しないようである。

私が住んでいた期間に、中国人が他の国の人と結婚したカップルは、

一組だけしか知らない。

それも、相手は日本人であった、ドミニカ人との結婚は

聞いたことも見たことも無い。

日本人は多くのドミニカ人と結婚しているが

中国人は同国人と結婚するようである。

また、中国人は二世,三世も中国語を流暢に話す、

スペイン語も同じように話すのである。

家庭内では中国語、家庭外ではスペイン語と使い分けているのであろう。

また、民族意識が高いのか、中国人の交わりは強いようである。


ドミニカ人は、東洋人を全部といってよいくらい、

中国人と見ている、ある時少年に聞いたことがある、

「日本は何処に在るか分かるか」と、そうしたら「中国の中にある」と

答えが返ってきたのである。

高等教育の受けている人は分かっているのであろうが、

大部分のドミニカ人は、この程度である。

これでは、日本がいくら援助しても、知らないに国が勝手にしているので、

私たちには関係が無いとしか思わないであろう。

現実はこれが真実である、私がやろうとしている事も

何処まで認めてもらえるのかは分からないであろう。


話は脱線してしまったが、彼女の父親と挨拶を交わし、

母親が仕事から戻ってくるまで、彼女の部屋で待つことになった、

彼女の子供は女の子で、彼女と母親が仕事に行っている間は

彼女の姉が見ているそうである。

また、彼女の父親は酒が好きで、今は景気も悪く

仕事が無いので酒びたりの生活が続いて身体を壊しているそうだ。

家計は母親と彼女が助けているそうである。


ここに、ドミニカの女性の強さを見ることが出来る、

今まで見てきた家庭は母親が家庭を支えてきているか、

女性が支えているかであった、女性の強さだけが目立つのが多かった。

特に貧しい家庭はそうである、女性が働いたのでは、自から収入も限度がある。

その為に貧しさから脱皮することは、難しいのである、

それが現状であろう。


でも、こちらの女性はよく働く、感心する。

色々と話しているうちに、母親が帰って来てありきたりの挨拶を交わして

コーヒーを飲んでいると、母親が私の住んでいる処が見たいと

言い出したのである。

彼女の家からだと一時間くらいかかるであろうが、

私は「いいですよ」と答えて行く事にした。

彼女と母親と子供を乗せて、私はマンションへ戻ることにした、

途中、お腹が空いたのでマクドナルドにより、ハンバーガーなどを買い、

父親や姉家族のお土産などを持たせた。


マンションについて、家の中を見て歩いた母親は、

安心したのか、機嫌良く、色々話かけてきていた、

私も気に入ってくれたので安心した。

母親が帰るというので、送っていこうかと思い「送って行きます」と言うと、

彼女が「夜は危険だから、タクシーで帰る」と言ったので、

私はあの雑踏と暗い道を運転するのは嫌なので、タクシー代をアニーに渡した。


彼女の名はアニーという、正式の名前は

アナ・ロサ・マ、ズーロ・ハスミンである。

最初の名前が自分ので、次が父親の、その次が母親の名前である。

アナ、ロサは薔薇で、マ、ズーロは柔らかい、

ハスミンはジャスミンとなる、花の名前である。

通称はアニーで呼ばれているのである。

父親はカリブの小さな島の出身で、

母親はドミニカ出身である、確かに母親は黒人の体形で

ボーリュムがあるが、父親はこちらのインディオ系なのか

日本人に似た体形である、アニーも、父親似で体形はスリムである。


ドミニカは私の感じでは、体形は三種類に別れるようだ、

一つは黒人系、インディオ系と西欧系である。

平均して黒人系の人達が多いが、あの体形には、

圧倒されてしまうが、黒人系は年齢が行くと

ドラム缶系の体形になるようである。

(特にご婦人はである、こんなこと書いた事が

分かったら袋たたきに遭いそうであるが)

私とアニ~と、これで正式に付き合うことになったのである。


前にも言ったが、こちらでは家族に紹介されると、付き合いを認めたと

言う事であるが、私は数人に家族を紹介されているのであるが、

本当に付き合っているのは、三人程度であるでも、

これはドミニカ化した自分がいるのかも?


現在はアニ~とベルキー、それにコンピュータの

女史であるが、ベルキーが一番若く二十一歳で、

次がコンピュータ女史で二十八歳、アニ~が二十九歳である。

その中でアニ~が、一番、若く、見えるのである、

三人と付き合っていたが、友達気分であり、肉体関係は、

その中の、一人としかなかったから、ドミニカ化したとは、

言えないかもしれない。

私は器用さがないのか、女性と付き合っても、友達としてなら、

数人と付き合うのであるが、肉体関係を持つ人は一人だけが多い、

起用に使い分ける事が出来ないのである。

(この文章は私個人の事なので、その点は理解して下さい、

相手は何ら関係有りません)

だから、ドミニカ人の男性が複数の女性と肉体関係を

持つもが、私には理解出来ない事であった。

愛情があって肉体関係を持つのは分かるのであるが、

動物的に関係を持つことには抵抗がある。

でも、ドミニカ人が継続して付き合うと言うことは、愛が有るとも考えられる。


あるドミニカ人が言っていた、複数の女性と付き合うのは、

女性は生理があって、一週間SEXが出来ない、

そのために、別の女性をキープするのだと、

これは女性が聞いたら怒るであろう、

でも、そのドミニカ人は、自分の女性が他の男性と

付き合うと怒るのである。

矛盾している部分がある、悪く言えば自分勝手なのであろう。

こちらの男性は、意外と焼もちやきである、それに、執念深い感じもする。

だから、男女関係のトラブルで、男性が事件を起こすことが多い、

被害者は女性であり、私も色々な人から聞いたことがある。


また、不倫も多いようだ、庶務のボスのホセも

職場の結婚している女性と不倫をしている。

職場内では、皆が知っていることであるが、周りは気にしてない。


アニ~とは毎日のように昼食デートが続いたが、

ベルキーとも、毎夜、踊っていた、コンピュータの

女史とは、たまに国立劇場などで音楽鑑賞に行ったりしていたが、

私はどうも背の高い女性は苦手であり、自分としては積極的ではなかった。

三人の中でもベルキーは美人では無かったが、

小柄で私に対して積極的であった、

また、一番貧しかったかもしれないが、相性は一番良かったかもしれない。

コンピュータ女史は背が高く、(百七十センチ以上あったかも)美人であり、

理性がある顔立ちで肌も白人系であった、モデルにしても、

いい女性であったが、私が積極的でなかったのある。

アニ~は肌の色は一番黒かったが、小柄で美人であった、

顔立ちも整っていたし、あれで身長があれば、

モデルにでもと思うような感じである。


私もこの三年で数人(十数人かも)の女性と付き合ったが、

ここにきて落ち着き、この三人と付き合って行く事になった。


I氏が帰国して2ヶ月位たった時に、マイアミで別れた

NさんとYさん夫婦が赴任して来た。

三年ぶりの再会となったのである、Nさん、Yさん達は

ホンジュラスで一年間の派遣期間を終えて、

再度、ドミニカ共和国に派遣さられたのである。

Nさんは映像関係で大学に、Yさんは金融関係で、私と同じ所にである。

二人の方達とは日本にいる時から、研修や語学などで

一緒にやった仲間なので、I氏の居なくなった今、会えたことは嬉しかった。

だが、それだけ私は、ここに長く居たのだとも、感じたのである。

二人は、今回が二回目であり、前回も同じ国で、配属先も同じであった。


私は、Yさん夫婦とは親しくしていたので、

こちらで生活するための買い物などに、付き合ったりしていた。

Yさん夫婦は、買い物で私が値切ると、驚いたような表情をしていた。

私はデパートでも値切りまくっていたので、

Yさんは「ここでも、値切るの」と怪訝な顔をしていた。

私は、自分の買い物でないので、気楽に値切っていたのである。

それからというもの、Yさんは、買い物に行く時は「同行してくれ」と

頼む様になった。

Yさん夫婦はプロテスタントの信者で、温厚な人柄であった。

その、温厚さが顔に出ていて、優しさが、にじみ出ている感じである。

私が帰国するまで、Yさん夫婦とは親交があった。


 私はドミニカでは、日本人との親交は、大使館の

三等書記官とか女子の秘書官となどと、親しくしていた、

他は日本事務所の職員とであり、この時ばかりは日本語を、

思い切って喋れる時で、ストレスを発散していたのである。

私の派遣先は、全員がドミニカ人でスペイン語だけであったが、

これからはYさんが来たので部署は違うが日本語で話が出来るので、

私は喜んでいた。


 アニ~との昼食デートは続いていた、そこにYさんと

奥さんが加わることになり、楽しい昼食会の雰囲気であった。

Yさん夫婦もアニ~を気に入って、良く話をしていたし、

家へ招待をしてくれて、食事を御馳走になったりした。

私とアニ~は、夜のデートの数も多くなって来た、

家族公認なので子供は兄弟や母親が見てくれ、

私とのデートに協力してくれているようである。


アニ~も彼女の友達を紹介してくれたりして、親交が深まったし、

私も日本人の友達にアニ~を紹介したりしていた。

そうすると、私は不器用なのでベルキーとの

踊りの時間が作れなくなった。

どうも、両方の女性と付き合う事が出来ない、

仕事に関しては器用なのであるが(自称)女性に関しては、

一方通行の道路のように、進むのは一つという感じなのである。

私は単純なのか、顔に出るようである、

離婚した妻達も言っていた、「あなたの嘘は、顔を見れば分かる」と、

でも、この不器用さが後ほど事件を起こす。


 ある日、アニ~の結婚の話になり、「なぜ、離婚したの」と聞くと、

夫は働かず遊んでばかりで、子供が出来ておなじなので、

別れたと言うのである。

ドミニカの男性は、遊んで働かず、女性に対してはマメなのである、

不思議と、そんな男性が女性にモテル感じがする。

真面目な人ほど、モテナイのである、ナンドの兄もそうである。

確かに、私から見ても、面白みがない、

遊ぶには、真面目過ぎてつまらないであろう。

なんか、今思うと、昔の私を見ているようだ。

仕事だけの真面目人間であった様な気がする、

よく、こんな私について来たなと、

別れた妻達の事を思っても見るが、遅かりしである。


 それで、アニ~は別れたと言うのである、

でも、子供には、会いに来るそうだ。

こちらの、人は別れても友達付き合いをする人が、

ほとんどである、ここがまた不思議なのだ、

日本では別れると、会いたくないという人が、殆どであり、

私も二回目の人とは、それっきりであるが、

一回目の人とは友達付き合いである、

それを言うと「変だ」と多くの人は日本では言うが、

こちらは、その逆で会わないほうが変だと言う。

文化の違いなのか、習慣の違いか分からないが、

私はこちら向きなのかもしれない。


さて、こちらの離婚は大変である、日本は紙一枚で

離婚成立するが、こちらは違っていた、正式に結婚した

カップルが(教会で式を挙げ、役所に届を出したもの)、

離婚した場合は弁護士に、誰と別れ、今後その人とは関係ないことを

証明してもらい、それを公共機関の紙面に載せて、みんなに公開するのである。

それを、しない限りは法律上では離婚した事にはならないのである。

たしかに、カトリックの国であるから、離婚は御法度なのであるが、

ドミニカは、離婚は認めているが、ここまで、しなければ離婚できないようだ、

その費用も5000ペソ掛かるのである。

期間も二ヶ月近く掛かるそうだ。


平均月収が2000ペソ位であるから、一般では多額の金額で、

おいそれと支払いが出来ない。

前に書いた、同棲はこのためであり、正式に結婚した人が

離婚して、再婚しようと思っても、この費用と期間が

かかるのであるから、同棲して夫婦であるという人が多いのである。

アニ~は正式に結婚していたので、別居夫婦なのである。

アニ~の元夫には、別の女性と住んでいるのある。

これでは、私のように二回も離婚した人には、大変な事である、

日本での離婚でよかったと思った。


アニ~はウエディングドレスを着た写真を見せてくれた、

それはアニ~、一人が写っていたが相手の写真は無かった。

見せたくなかったのであろう。

また、こちらの女性とのデートは、ドミニカ時間であり、

待たされるのが当たり前、それと女性はお洒落には時間とお金を掛ける。

今まで付き合った女性(友達も含め)、デートする時は美容院に行く、

また、食べなくても洋服を買うそうである、

これは日本人も同じであったが、アニ~は毎回デートごとに

美容院に通うのである、挙句の果てはデート中に美容院行きである。


それは、Y夫妻宅へ招待された時、迎えに行ったら

「美容院へ」が第一声であった。

私はセットが終わるまで、車の中で待たされるのである。

これが、招待されるごとであるから、週に三回なら三回美容院に行くのである。

たしかに、今まで付き合った子はデートとなると、

待たされる事一~二時間は当たり前であった。

日本だと、私は帰ってしまうであろう、腹が立って、

でも、こちらは当たり前なのであるから腹を立てて帰ったのでは、

何事も成立しないのである。

これは、デートに限ったことではなく、仕事でも生活でも、

同じなのである、慣るしかないのである。

私もドミニカに来た、最初の頃は腹が立って、怒りもしたが、

怒っても同じなので、現在は諦めるしかないのである、

それだけ私がドミニカ化したのであろう。


 私たちは休みになると、アニ~と田舎廻りをしたりしていた、

時々はY夫妻と一緒に行く時もあった、

Yさんは車を持っていなかったので、私の車に同乗して、

地方のカーニバルなどを見に行ったりした。

 また、Yさんの奥さんは料理が上手なので、Yさん宅に

アニ~と招待され食事をしたが本当に美味しかった。

それが、月一回の割合で行われ恒例となっていた、私が帰国するまで。


 Yさん夫婦とは、互いの部屋で招待をする回数も多かったが、

その時は日本料理を作った。

材料などは中国人の店に行くと、必要なものは買う事が

出来たので心配はなかった。

米も日本の移住者の人が、日本米を作っていたので、心配は無かった。

食事に関しては、ドミニカは日本人の口に合う物が多かった、

また、日本のカレールーも売っていたので、作ることも出来た。

でも、カレーはドミニカ人には不評であった、

前にも書いたが、ドミニカ人は辛いものが駄目なのである、

カレーの甘口でも辛いと言うのであるから

ドミニカ人の舌はどうなっているのか分析してみたい、

暖かい国の人たちは、食事も辛いものが多いのだがドミニカは違うのである。


また、私も料理を作るのが好きなので、私とアニ~が日本料理と、

ドミニカ料理を作ったあるときは、派遣先の職員を招待して食事会をやったが、

ホスト役の私は料理つくりで、てんてこ舞の状態であった。

私の部屋は、リビングとダイニングで四十畳位あったので、

二十人近くの人が入ることが出来た、職場の連中が集まるときは、

皆が何かを持ち寄って来たが、料理等は私が作る事が多かった、

てんぷら、焼豚、フライ、後は職員が持ってきてくれた

ドミニカ料理などである。

てんぷらは評判が良く、作っても、作っても足りないので、

私は調理場で、作り役であった。

アニ~と付き合ってからも、職場の連中を招待した事がある、

また、職場の連中の家にも招待された事もあった。


 さて、アニ~とのデートの回数が増えると、

ベルキーとの踊りの回数が減るのである。

ベルキーからは、毎日のように電話が来ていたが、

踊りに行く回数は少なかった。

それがベルキーにとっては、不満であったのだろう。

私の部屋に来て、文句を言う事が多かった、

私は新しい恋人が出来たから付き合えない事を言い出す、

きっかけを伺っていたが、なかなか、切り出せないでいた。


アニ~とは、何回か踊りに行ったが、どうもアニ~は

ドミニカ人にしては、踊りが下手であったし、

互いに踊っても楽しさを感じなかったので、

アニ~とは1~2回しかディスコには行かなかった。

もっぱら、夜にデートは野外コンサートや食事などであり、

そのあとは、彼女の家の近くに送って終わる事が多かった。

アニ~と肉体関係を持ったのは、付き合って一ヶ月以上経ってからであった。


海岸道路を、ドライブをしていて、モーテルが立ち並ぶ所に

差しかかったときに、私が車をモーテルの中に

入れたのである、後は暗黙の了解であった。

それからは、アニ~も私の部屋に来るようになった、

今までは私の職場で待っていてからのデートであったが、

アニ~が、仕事が終わるまで待たなくてすむようになった、

今は、私の部屋で待っていれば、彼女が来るようになったのである。


 さて、そこで、事件が起きたのである、アニ~と関係が出来て、

私はベルキーに言ったのである、「新しい恋人が出来たから、

二人の関係は止めよう」とベルキーはそれなら踊りだけでもと、

納得したと思ったのである。

だが、それからベルキーは数回、私の部屋を訪問する事があった。

私もベルキーとは、踊りには行っていたが、

関係を持つ事は避けていた、でも訪問されるとドア前で

帰すわけには行かないので、部屋の中で話をして帰したり、

一緒にディスコへ行ったりしていた、アニ~も毎日は来ない

だいたい週末に来るのである。

だから、私は、週末は踊りには行かなかった。


その日は、ベルキーが私の部屋へ来たのは、

平日でディスコに行くには、早い時間なので寄ったのである、

ベルキーとは踊り友達で居たかったので、

関係を持つ事を避けていたのであるが、

ベルキーは、その日は積極的に言い寄ってきたのである。

さて、事が終わったとたんに、部屋のチャイムが鳴ったのである。


私は誰が来たかを、のぞき穴から見ると、

そこにはアニ~が立っているではないか、

今日は平日で来るはずの無いのに、ドアの前にいるのである、

私は慌てふためいた。

鉢合わせである、彼女達は合った事も無いのであるから、

説明が付かないのである。

私は、大きな声で「着替えるから待って」と言って、

私の部屋に戻り、ベルキーに下着を持たせ、入口に、

近い部屋に彼女を押し込んだ。

その部屋はベットがあり、洋服棚やクーラが取り付けられている部屋である。


私のところは部屋が三つあり、入り口からリビング、

ダイニング、六畳・六畳・十畳の部屋がある。

その最初の部屋にベルキーを入れ、ドアを閉めて、

アニ~を私の使っている、一番奥の部屋に入れ、

「飲み物を持って来る」と言ってドア―を閉め、

ベルキーの入る部屋へ行きタクシー代を渡して部屋から

出て行かせた、処理に掛かった時間は三分ぐらいであろう。

私はジュースを、アニ~の所に持っていって、

何食わぬ顔をして話をしていた。


それからは、ベルキーは来なくなった、私も二度と

同じ事が起こらない様にと思っていた。

鉢合わせ事件が終わって、私も仕事で機種選定なども終わり、

システムの立ち上げなどで、忙しくなり、

踊りもアニ~とのデートも回数が少なくなったのである。


 三年目の終わりに近くなり、鉢合わせ事件以外は、

大きな問題も無く、過ぎようとしていた。

そんなことで終わるドミニカではなかった、

今度は電気料金の問題である。

一年目、二年目は一般的に言って、ドミニカ料金で

電気代が係っていたが、この四ヶ月あまりで、

今までの四倍から五倍の料金請求が来るのである、

悪く言えば、日本でも、こんな料金払った事が無いような請求である。

こちらの電気料金の基本設定は、クーラが幾つあって、

洗濯機、テレビ、温水器などが幾つあるかで

基本料金を勝手に決めて行くのだそうだ。

基本料金は住んでいる住宅の、良い悪いで決め、

後はメーターの使用料で決めるとあるが

これもあてにはならない、便宜上見ては行くが、

検針などはしていないのである。


所得がありそうな、所から料金を取る、文句を言うと

一時的に下がるが、また直ぐ高い料金が請求されるのである。

また、停電も多く、電気が流れていない時間が多い日がかなりある。

私のマンションは自家発電があるので、冷蔵庫などの

中の物は、大丈夫であったが、毎日の電気の使用量は、

昼間居ないので係る量は少ないはずが、

1500ペソ近辺で請求が来るのである。

(1ペソが日本円で9円)二年目は300ペソくらいであった、

これは、不当だと言って文句を言うと500ペソに下がってくるが、

言わないと、そのままなのである。

こちらの、電気事情は電力不足で各家庭に

供給できるだけの量が無いのであり、また、盗電が多く、

料金収入がなく、赤字状態なのである。

それを、高級住宅街に住んでいる外国人を狙って、

高額な請求を出し、埋めようとしているから私たちは、

たまったものではないのである。


私は派遣先で、日本人の受け入れ担当のLYBIS(リビス)

と言う女性職員の、夫が電気会社の職員であったので、

その事を相談すると「夫に言っておく」との返事であった。

その事があって、多少は下がったが、前の三倍近い金額が請求されていた。

どうも、あまり効果は無かったようである、

私も面倒なので、それ以上は追及しなかった。


電気事情は、住宅街によって,停電の頻度が違う、

政府高官の住んでいる近辺は、ほとんど停電が無い、

でも、旧市街地などは一日のうち、4時間くらい電気が来れば

いい方なのである。

旧市街地は盗電も多く、殆どの人が電気代など払わないのである。

日本政府は発電関係でも援助しているが、一向に良くならないのである。


I氏が帰国してから、Y夫妻やアニ~などと遊んだりしていたが、

ナンド一家も、相変わらず行き来していた。

ある夜、ナンドから電話が掛かって来て、

「これから、母の親戚(叔母)の見舞いに行くのでお前も行かないか」との

事であった。

時間を見ると、夜の十二時近くなのである。

私は眠いので,断ると、ナンドたちは「父も母も,行っているし、

ホセも行くので、お前も行こうよ」と言うのである。

私は断りきれずに、行く事にしたが、何で、こんな時間に

四時間近くかかる田舎に行かなければならないのだと

思いながらも、誘いに乗ったのである。


こちらの人は,遊びなどを、断ったりすると

「お前は友達じゃない」と言い出すのである。

自分の、都合のいい時に「友達」と言う、それが曲者である。

私は説得されて、眠い目を、擦りながらナンドと

ナンドの兄、土産屋のホセ、ナンドの友達のホセと

私の五人でワゴン車に乗り、出発した。

運転は土産屋のホセがしていった、夜道なので飛ばす事、

甚だしい三時間半くらいで着いてしまった。


私たちは車の中で親戚の人達が起きるのを待つため、

それぞれが車の中で寝た。

朝七時に、親戚の人達が起きてきて、私たちは朝食の買出しに借り出された。

買ったのは、生きた鶏である、それを家に持ち帰り、

首をしめて血を抜き、料理するのである。

内臓から鶏冠、足まで料理する、また、血も料理の中に入れるのである。


私たちは料理が出きるまで、川に行って泳ぐ事にした。

ところが、川を見た途端に、私は泳ぐ事を諦めた。

ゴミは浮いているし、濁った茶色っぽい水なのである。

こんな所で泳いだら、病気になってしまう状態の所である。

そんなところでも、みんなは泳ぐである、

そして潜り川海老を取ったりするのである。


私は前にも土産屋のホセに田舎に行って、汚い川は経験しているが、

ここはそれ以上である。

私は泳ぐことはしなかった、足を浸かる程度に

川に入っていただけである。

川の汚れは、こちらの人たちのゴミ処理に対するモラルの低さにある。

どこでも、ゴミを捨てるし、それを処理する事もしない。


だから、車を運転している時などは、バスが近づくと、

バスから捨てられるゴミに注意しないと大変な目に遭うのである、

そのゴミがフロントガラスにぶつかり、ガラスにひびが入るなんて事は、

日常茶判事なのである。

私はそれには、遭っていないが、危ない事は幾度か経験している。

それと、バスであるが田舎へ行くほど、バスのスピードの出し過ぎは、

恐怖に感じる一応、標識なども立っていて、制限速度も表示されているが、

そんなものはあってないようなものである。

60K制限のところ、120K近いスピードで走るのである、

日本では考えられない状況である。

そんなスピードのバスから捨てられるのであるから、

ゴミも石以上に重圧が係りガラスを壊すのである。


また、何回も言うが、運転マナーの悪さは酷い、

一度、田舎の帰りに渋滞している道に差し掛かった時、

相手車線はノロノロ運転状態の中で、急に私の

走行車線を走り出した車があったのである、

どう見ても途中に入り込むスペースがないのに、

相手斜線を逆走してくるのである、それも半端な

スピードではないから、たまったものではない、

私は辛うじて路肩に自分の車の、車幅だけがあったので、

逃げることが出来たがその幅がなかったら、

路肩より下に車ごと落ちていたであろう。


 前にもサント・ドミンゴの旧市街地でも、

同じことがあった、こちらの人は気が短いのか、

モラルがないのか、自分の気の向くままに行動を起こす、

周りの相手の事など考えていない。

悪く言えば、「気まま、気まぐれ」、よく言えば、「自由奔放」なのである。

このことで、幾度となく私は悩まされたか、

この三年、だがそこには、別な面で日本と違う気楽さがある、

日本のように周りに気を使いながら、行動する事は無く、

自分の意思で行動できるし、相手にもはっきりと

意思を告げることが出来るのである。

意思を告げなければ、とんでもない事にはなってしまうが、こちらでは。


 話は飛んだが、ナンドの母親の親戚からの帰り道は、ナンドの父親も

同乗して、車の中は色々な話で盛り上がり、ナンドの父が

「竜、日本の歌を歌え」と言い出したのだが、私は歌が苦手なので

歌いたくなかったが「サクラ、サクラ」を歌った。


 また、帰れ道でナンドやナンドの父が、通りがかりの女性に

「一緒に遊びに行かない」と声を掛けるのであるが、

サント・ドミンゴから1時間以上離れた所であるのに

彼女たちがOKしたら、どうするのだろうと思った。

彼女たちには軽く足らわれたが、何回も声を掛けていた。

帰りの車の中は、ラテンのノリで騒がしく帰って来た。


 また、三年目の最後の方に、派遣先の人たちと一泊で旅行をした。

川と海の近くのリゾート地で簡素な土地で、皆で、騒ぎ川で船に乗ったり

乗馬をしたりで、プールで泳いだりして、今まで行ったリゾート地と違って

田舎であったが、私は乗馬を2時間ほどやったが、1時間10ペソと

安いのである。

私は、乗馬は初めてだったが、意外と乗れて楽しかったが、

2時間乗ると股の内側が、鞍に擦れ赤くなってしまったが

思い切り走ったり、助走したり田舎道なので車が来ないので

好き放題に乗り回していた。

ここはドミニカでも穴場である。


私の今まで行ったリゾート地は、ヨーロッパやアメリカなどの人達が

多く居たが、ここはそのような人たちが居ない。

ドミニカ人だから知っている穴場なのであろう。

ただ、ヨーロッパなどから来る人達が居るリゾート地は

水着もブラジャーをしていない人たちが、多く居るが

あれも若い人がノーブラなら、見て楽しいが相当な年齢の方の

ノーブラは私にとっては公害としか思えなかった。


 一年目、二年目は色々と振り回されて、

勉強させられた時期であったが、三年目はこちらの

環境や生活習慣にも慣れ、逆に自分が生活習慣を楽しんだ年であった。


 私達の仕事は、三年が最大延長期間であり、これ以上の延長はないのである。

ただ、システムは稼動状況になかった、機種の選定も決まり、

データベースの管理講習にも人を派遣していたが、

大学側とのオンライン化の打ち合わせ、サーバー側の

管理体制など業務は進んではいたが、

なんせ、ドミニカ時間で進むのであるから、終わりが見えないのである。

私の任期も終わりに近づいたが、結果としては路線を引いて、

試運転方法を考えた状況であった。

こちらでは、焦っても自分が、ストレスが溜まるだけであり、

相手方に強制してやらせても反発をされて、

むしろ、仕事が進まない状況になってしまうのである。

それなら、相手のやり方を取り入れながら、

自然に私のペースに持ち込んでいきながらやるのが

ベストであることを学んだ。


私は仕事の関係でドミニカ国内の大学を廻って歩いたが、

それなりに充実した教育を行っていた。

アメリカ大陸で最初に出来た、サント・ドミンゴ大学は

敷地面積も大きく、学部もそれなりに揃っている国立大学である。

校舎は古かったが、新しい校舎なども建築中であり、

それなりの伝統がある感じはした。

学生層は苦学生が多い、勉強したい貧しい人が多いのである。

設備面では遅れが見える、他の私立の大学は設備面でも、

それなりに充実しており、売り物学部を揃えていた、

学生層は中流以上の家庭の子が多い、女学生は着飾っているし

日本やアメリカの私立の大学と変わらない感じがした。


 私の派遣されている所の関連で、私立の大学があったが、

それなりの人たちが来ていた。

国立大学に関しては昼夜開講しているが、私立に関しては

一部、夜開講している程度であった。

また、地方の大学や研究機関などは、他国の講師を

呼んだりして充実を計っているが、学生が少ないのが現状である。


 さて、仕事に関しては、さておき、私生活であるが、

最後の年と考えていた私は、自分の現在置かれている立場を

考えなければならない時期に来ていた。

立場といっても、女性に関してであるが、ベルキーとは、

たまに、踊りに行く位になりアニ~とは色々な処へ行ったりした。

コンピュータ女史とは機種の選定も決まり、彼女の所とは疎遠になり、

話すこともなくなった。


私はどうも、不器用なのである、もう少し要領よくやれば

いいのだが、日本で教育された私が残ってしまっているので、

その面ではドミニカ化は失敗した。

アニ~とは、彼女の友達にも紹介され、友達の家に行ったりして、

親交を深めたが、彼女自体も私との生活に慣れつつあった。

特に一人の親友には、よく紹介された。

その子は高校時代の友達で、父親がアラブ系であり

母親はドミニカ人で白人系であった。

非常にグラマーな子で、いつも身体の線が

はっきりと分かるような服を着ていた。

顔立ちもアラブ系が入っているので、はっきりとした美人系の顔をしていた。

母親は弁護士で父親は貿易関係をやっているそうだ。

親友の彼女の父親は、アラブの人はコーヒーを飲んだ後に、

タバコを吸うのが習慣なのか、必ずといって

良いくらタバコを吸っていたが、家族には不評であり、

父親は「アラブの伝統で男はこうするのだと」私に言っていた。

そこで、アラブの水タバコを始めて吸った。


 こちらの人は、タバコの葉を生産している割には、

タバコを吸う人は極端に少ない。

タバコを吸う、私は何処に行っても必ず言われた

「タバコをやめなさい」と「害あっても身体にいいこと無いから」

と言うのである。

ドミニカのタバコの種類は3種類くらいで、

アメリカタバコもマルボロのみ、販売していた。

葉巻も生産していたが、一般の店頭では売っていない。


タバコの話はさておき、アニ~の離婚の話であるが、

アニ~の友達の、弁護士の母親に、アニーの離婚問題を相談すると、

彼女は「私は貿易関係が本業なので、離婚関係は出来ない」と言うのである。

離婚関係の弁護士を紹介しようかとも言っていたが、アニ~は断っていた。


 最終的にアニ~の離婚は、私の派遣されている所の、

専任弁護士を紹介してもらい、成立した。

費用に関しては私が払った。

これで、アニ~は晴れて独身であり、今後は好きなときに結婚できるのである。

でも、費用が払えず離婚が出来ない人達はどうなるのであろう、

係った費用の5000ペソは安くしてもらってであるから、

もし、離婚できない場合は同棲するしかないのであろう。

確かに公報(新聞の公報部分)に載った。

アニ~の離婚証明を見たが、日本の裁判所に張られている公報に似ていた。

この、証明書の公開は、相手方の了解も取らなければ出来ないのである。

内容は、離婚する側は、どのような理由で相手と離婚するか、

書かれていて、今後一切、相手とは関係ない事を

両方が認めた事が書かれていた。


私は派遣先から延長の要請があり、無償資金の計画も実行途中である事により

私たちは、派遣期間は最大三年であったが、日本事務所は派遣延長を

特例として認めた事により、私は延長となった。

さて、ついに四年目に入ってしまった、最初の年はこの国を嫌い、

騙され続けた日々を過し、二年目は病気で死ぬ思いをして、

その中で仲間意識が生まれ、徐々に好きになって行った日々であった。

自分の提案した計画案も通り、嫌いでありながらも

仕事と割り切った事が良かったのかもしれなかった。


 そして、三年目はドミニカの風土や環境にも慣れ、

自分を表現する事が出来るところに来ていた、

そして、この国を好きになっていったのである。

 これからは、四年目の暮らしが始まるが、

その中には自分とドミニカ人の係わりが、出来てきたのである。


四年目、総集編

ドミニカ生活も四年目に入った、一、二年目は

ドミニカを嫌いながらも、習慣も分からず、

徐々に好きになっていった日々であった。


三年目はドミニカ化する私がいたが、

私の仕事に最終年のはずが、日本政府からの

無償資金援助提案が認められて、大学と派遣先機関との

オンライン構築の為、購入した、コンピュータの稼動させるよう、

派遣先からの強い要請で延長依頼があり、特例で残る事になった。


 そこには二年目以降のドミニカ人化した、私が居たからなのであろう。

三年住んでいると、そこは故郷のように感じてくるものであり、

去りがたい気持ちにもなって来る。


 四年目もクリスマス期間から始まった、派遣先では

恒例の毎週金曜日は、仕事が終わった後の、

踊ったり飲んだりする時間が来るのである。

最初の頃の、私は踊れなかったので、何でこんなに毎週やるのか、

理解できなかったが、今は踊りも好きになり、女性職員と踊ったり

するようになった。

この恒例のフェスタは、派遣先の職員が毎月一定の

お金を集めて実施しているようである。


 今回のクリスマス期間の派遣先にはYさんも居て、

たまにYさんの部署に顔を出し、二人で日本語の会話することが多くなった。

また、昼食もアニ~とYさんと、三人で行くようになっていた。

昼食のレストランは、場所を変え色々な処へ行った、

特に好んでいったのは、国立劇場がある公園の中のレストランである。

派遣先からは車で3~4分の所で、緑の多い公園の中にあった。

食事は、ドミニカ料理が主であり、味もよかった、

なぜか、Yさん夫婦とアニ~は相性があった。

時々、アニ~も私を忘れてYさん夫婦と話し込む姿があったのである。

毎日の生活も、変化無く進む日々であった。


 四年目も大使公邸で、好例の、天皇誕生日のパーティの時期が来た。

今年はアニ~を同伴する事にしたが、その服装に対してアニ~との、

買い物に付き合う事が大変であった。

あれこれ、お店を回って歩く苦痛を味わったのである、

私は日本では買い物に行くときは買うものを決めてから行く、

ウインドショッピングなんて、面倒くさくて、やつてられないのである。

ところが、おしゃれに気を使うアニ~は、あっちこっちの店を回るのである。

歩くだけでも疲れる状態であり、最後のほうの数店は、

私は生返事で答えていたのである。


 たしかに大使公邸に来る、女性陣は着飾って来る。

前にも書いたが、着飾って来た女性を褒めなければならないが、

確かに美人も居るが、服だけを褒めなければならない、女性も居るのである。

どうも、こちらの女性は年齢が高くなることに、

ドラム缶形の体形になるようである、

コーラーの瓶は、女性の体形をイメージして

作られたと聞いた事があるが、その体形を維持しているのは

若い時だけである。

殆どの女性が年齢とともに、くびれが無くなってくるのである。

凄いのは、黒人で、この御尻の下になったら、窒息するのではないかと

思われる女性も居る。

アニ~は、体形的には日本人に似てスラッとしていた。


 また、男性は年齢とともに、お腹が出ている、

妊娠八ヶ月かと思うような人も多いのである。

 なぜか、そんな男性のほうが、女性に持てるのである。

これは、最初の頃は不思議だった。

そんな状態でも、男性はお腹を引っ込める努力などしないのである。

どうも、お腹が出ているという事は、生活に余裕があることを、

示しているようだ。


私は派遣先のホセを捕まえては、「妊娠何ヶ月だ」と質問していた。

また、ナンドも若いわりには、お腹が出ていた。

政府高官も男性は、お腹が出ていた、

大使公邸でのパーティーには、必ず政府高官が来ていた。

日本は援助してくれる、いい、お得意さんであるから、

来る高官のレベルも高い人が多い。

さて、アニ~のドレスを探すのに、三日かかった。

いささか、うんざりであった。

最後に決まったのは、アニーの友だちの、弁護士家族の、

家の近くのデパートであった。

慎重なのか、ただ単にショッピングを楽しんでいるのか、

男の私には理解できない部分であり、今後付き合うのは、願い下げである。

さて、洋服は決まったが、それに付属する靴やバックなどの、

購入の付き合いである。

私は、それからは逃げ出して、アニ~の友達に付き合ってもらうようにした。

アニ~も、それには同意してくれた。 

アニ~自身も友だちに話したかったのであろう、

大使公邸のパーティーに出席する事を、気持ちは分かる気がする、

中流以下の家庭で育った女性が、政府高官たちと一緒のパーティーに

出るなんて事は、考えられないのである。

もし、私が日本である国の大使公邸のパーティーに出席したら、

友達に誇らしく話すであろう。

それと、同じようにアニ~も、そうしたかったのであろう。

アニ~の気持ちの中では、私は王子様だったのかも知れない。

たしかに、アニ~本人が言っていた「みんなが、アニ~はシンデレラだねって」周りの人が言うと、本人もその様に考えていたのかもしれない。


 さて、パーティーの当日が来た。

アニ~と私は車に乗って大使公邸に向かった。

私の住んでいるところから、車で十分位の所に、大使公邸があった。

高級住宅の立ち並ぶ所に、200坪くらいの公邸があった。

部屋数はどの位あるかは分からないが、パーティーは

裏庭のプールがあるところでやるのである。

今年はペルーの日本大使公邸事件が、前年にあったので、警備はものものしい。

屋根には黒ずくめのスワットが、自動小銃を構えていた。

今までの、パーティーと違った雰囲気が漂っていた。


 そんな中、例の如くドミニカ時間でパーティーが始まったのである。

私は知っている女性に対して、社交辞令のようにドレスを褒めまくっていた。

アニ~は、最初は戸惑っていたが、Yさん夫婦を見つけ話し込んでいた。

ただ、アニ~のように肌が黒い人は居なかった。

アニ~も最初は、それで戸惑ったのであろう。

私は、アニ~の黒さなど気にもしていなかった、

性格的に差別に対しては拒否反応がある。

私は、昔から人を差別して見る事はなかった。

今考えるとアニ~自身は、焦りまくっていただろう。


 でも,本来明るい性格の、アニ~は直ぐに、他の人たちとも話をしていた。

私はYさん夫婦や、大使館の親しい書記官と話をしり、

食事を楽しむ事に専念していた。

四年目とも成ると、パーティーや食事会で

六~七回くらい大使公邸に来ていたので慣れもあり、

大使館の職員とも、親しくなっていたので要領もよく、

食事に関しても日本料理の美味しい所を探しては、ニ~やYさん夫婦に、

皿に取って渡したりしていた。

パーティーの料理は,日本から来ている料理人が作っているのである。

大使に就任すると料理人を日本から呼び寄せて、

大使夫妻の食事やパーティーの時の料理を作るのである。

これは各国の日本大使の人は、そのようにしていると聞いた事がある。


 また、食材も日本やアメリカから取り寄せて作るので、

こちらでは、滅多に食べられないものが出たりする。

また、四年目になると、大使館にもPCなどが調子悪いと、

呼ばれたりして、色んな人達とも話をしていたので親しくもなっていた。


 ドミニカ政府の高官の挨拶や、日本大使の挨拶などが

済むと食事となる、大体、立食である。

私は、食事会以外のパーティーでは、途中で帰ってくる。

大体は食べる以外に、話をする事しかないので、

手持ち端さになり途中で抜け出すのである、

I氏がいた頃は、そのまま、カジノかディスコに繰り出したが、

今回はアニ~が居るので、Yさん夫婦を送りながら、帰宅したのである。


 あまり楽しいものではないが、顔合わせのためのパーティーである。

 アニ~とは、この頃は同棲生活状態であった。

子供は母親が預かっていて、アニ~も平日の

昼は向こうに行って子供を見たりしていた、

私が帰ってくる頃には帰ってきて食事などを作って、

一緒に夕食を食べるのである。

また、Yさん夫婦の家に、招待され、こちらに招待したりして、

食事を共にする事が多かった。


アニ~は仕事を辞めていたので、私が子供の分や家族の分を援助していたが、

私たちの生活に影響する程の事はなかったし、私も何かがあると、

働いていても張り合いが出た。

二人の生活も、ごく普通の家庭の生活(新婚さん)と変わらなかった。

それと、言葉の問題からなのか、喧嘩も無かったのである。

確かに、言葉の関係で喧嘩にならなかったのかも知れないが、

喧嘩をするほど言葉を覚えてなかったのと、

こちらの、のんびりした生活の中で喧嘩するほどの

事も起こらなかったのである。


 だが、事件はマタマタ起こった。

アニ~が週末に実家に泊まりに行った時である。

私はしばらく、踊っていないので彼女が居ない事を良い事に、

ディスコに繰り出したのである。

自分の車を運転して、何時ものディスコに向かっていた、

夜の十一時を過ぎていた。

ディスコに行く道は、その時間帯は殆ど、車は通らない。

ドミニカでは夜の運転は、信号のある交差点でも、

こちらが青でも徐行していかないと危険なのである。


私は、早く着きたいので、こちらが青状態で徐行しなかったのである。

交差点を抜けようかと思ったときに、右側から

ランドクルーザーが私の車の後部にぶつかったのである。

相手は猛スピードで行ってしまった、私は後部だったので、

そのままディスコに直行したのである。

その夜はベルキーと踊り、次の朝、車を見て相当な

ダメージであった事を知ったのである。


もし、私の真横であったら、私は車に挟まれて

即死状態であったろうとキモを冷やしていた。

それからは、アニ~に助けてもらい、警察や保険会社等の手続を行った。

前回のように、戸惑うことなく手続は進んだが、

私はアニ~に「男友達とディスコに行く、途中で事故に遭った」と

嘘を言っていた。


 こちらの人みたく、ばれるような嘘でないのが、救いだったかもしれない。

まず、警察であるが、アニ~が殆ど説明してくれて事故証明は出た、

今回は日系二世の人が幹部として居た事もあり、問題なく進んだ。

次は保険会社であるが、最初は事故の遭った事を報告するだけである。

私は前に使っていた保険会社を変え、派遣されている所が

使っている保険会社にしていた。

前の保険会社は、事故に対しても対応が悪く、その上、金額が高いのである。

ましてや、前回事故を起こしているので、保険金は割高になっていたし、

日本事務所の現地職員が紹介した保険会社なので、

その現地職員(ドミニカ人)にリベートを支払っているとの噂もあり、

私は、その割に対応が悪いのと、現在の保険会社より三割近くも

高いのである。


それと、派遣先の方が、今後色々と問題があっても、やり易いと思ったし、

同僚達も相手の保険会社より、こちらが良いと言ってくれていたので、

替えたのである。

今回に関しては、みんなの意見を聴いた。

今までは、意見を聴いて、あまり良い事は無かったが、

Jhose(庶務のボス)など、慣れした親しんで来た連中

の言う事も聴く事にしたのである。

私も、四年目に入り、全体的に状況を把握する事が

出来るようになったのである。


 さて、事故の件であるが、アニ~の助けにより、

警察や保険会社の手続は済み、車の修理である。

これは、アニ~の友達が修理工場をやっているので、

そこで修理をする事にした。

こちらでは、修理する部品等は自分で買って工場に持ち込むのである。

私は、前回の問題車によって、修理工場とは慣れ親しんだので、

状況はわかっていたが、今回は保険会社が修理代等を、

支払うので、前回みたく自腹で払う事はないのである。

私は、修理工場に言われる物を、こちらの日産のディラーで購入した。

私が買った時に、前の持ち主が前のほうを、ぶつけて破損していた所も

あったので、そこも、同時に直して貰う事にした。

私は、部品を持ち込み修理して貰った。


ただドミニカ時間で、約束の日から二日後に出来上がったのである。

これは、こちらでは、まだ早い方であり、

アニ~の友達であるから優先してやってくれたのである。

修理代は、部品とは別であるが、前に壊れていた部品の

代金も修理代に含んでくれ、その上に、さらに上乗せ、

してくれたのである。

こちらでは、そんな事は当たり前の事であり、

ましてや、友達であれば融通は利くのである。

最終的に修理代と部品代を、差引いてもプラスになったのである。

車も、綺麗になり、前に壊れていた所も直って、

尚且つお金が入って来たのである。

車の修理に関しては、ドミニカ人は丁寧である、

当初は私が考えたよりも、車に関しては丁重に修理する、

ドミニカ人の気質では、荒っぽい修理かと思っていたが違ったのである。


 あるとき、三十年くらい前の車を見た事があった、

私は懐かしく思い、「その車、売るのか」と問うた事がある。

返事は「売らない」であったが、日本で売ったら、

いい金額になるであろう車であった。

車体も綺麗で、傷が無いのである。

ただ、エンジンは他の車を、乗せ替えているそうだ。

あまりにも古いので、部品が無いのだそうだ。


 また、前回の問題車で、修理工場に行ったとき、

車を作っているのである。

それは、エンジンとボデーの骨組みだけを主体にして、

外装は色んな鉄板を組み合わせて溶接して、一台の車を作っているのである。

彼は、ニューヨークの修理工場で働いていたと言っていたが、

確かに、その技術は感心するものがあった。


 車も、修理され、私は週末になると、アニ~と田舎周りを始めた。

たまには、ゴルフにも行ったりしたが、ゴルフに関しては、

一向に上手くはならなかった。

ゴルフは十八ホール廻っても、日本円で、三千五百円位で済んだし、

土日の休みの時などの昼間の暇つぶしには、いいのでやっていたのである。

基本的には、ゴルフは好きでなかったのである。

日本に居た時からチャンスはあったが、私は手を出さなかった。


 それよりは、田舎周りで、ドミニカ人と話をする事が、好きであった。

ただ、こちらの人達が子供と交わって遊ばない事は不思議であった。

私は、子供達の中に入って、野球をやったりして遊んだが、

周りの大人たちは、そんな私を冷ややかに見ているのである。

これは、私には不思議であった、遊んでいるのは十二~十三歳以下の

子達であるが、それ以上の子供も一緒に遊ばないのである。

私には理解出来なかったが、何故にそうなのかも聞く勇気も無かった。

確かにNandoの家でも、エットは、何時も蚊帳の外に居たような気がする。

周りに相手にされない事が多かったし、エット自身が私達の、

会話の中に入ろうとしても、大人たちが、相手にしないのである。

何か何処かに、大人と子供の壁があるように感じた。

それが、何かは、私には、分からなかった。

生活の中には、私が長年日本で培ってきたものとは、

違うものがあることは分かったが、それは生まれ育った所でなければ、

私みたく、途中で暮らした人間には分からない部分が多いのである。


 ここで、私が感じたドミニカを書いてみよう。

『ドミニカ人気質。』

 性格的にはラテン系で明るいが、何処か日本人に似た所がある。

それは、同じ島国なので、内向的であり、他から来た人間を、

中々受け入れないが、一度受け入れると、

お節介を焼く所があるが、これが厄介な時がある。


また、アミーゴの連発は要注意である、

私のように日本で「友達」と言う意味で取ると大変な事になる。

「アミーゴ」は一つの挨拶だと思わなければ、本気に取ると、

後々まで問題が起きる。

それと、ドミニカ人は一度、良い味を知ると、

何度でも、出来るものだと思う、そこで必ず釘をさす事をしなければ、

駄目である。

釘をさして置くと、二度目はやらない。

大らかであるが、気が小さい人種である。


 また、基本的には「騙される」方が悪い、

「騙す」方は悪くないという事を考えて、付き合う事。

それと、問題が起きた場合は、自己処理が基本。

ドミニカ人に助けて貰おうと思わない事。

これは、本当に親しいNando一家でも、

いざという時は助けにならない。

部分的には助言するが、親兄弟以外は、

本人が解決するべき事という考え方である。


ただ、ドミニカには日本が忘れかけた物がある、

それは、他人への思いやり、親兄弟愛など沢山ある、

特にドミニカ人は自分の所に、余るほど食料が無くとも、

近所の貧しい人たちに、わけ与たり、互いに助け合う。

私は、幾度か田舎町で、そんな光景を見た事があるし、

私も一緒にご馳走になった事がある。

大したものは、無かったが、何か心が休まる気持になった。


 次に兄弟愛であるが、こちらでは、異父兄弟が多い、

三~四人の父親が違う兄弟は当たり前であるのだが、

兄弟仲は良いのである、これは不思議である。

どうも、母親中心の家族構成や考え方に思われる。

母親が分け隔てなく育てたのだろう、

また、母親の苦労を見て自然に助けようとする、

気持になるのであろう。

どうも、父親の存在は、貧しい家では、ないのである。

何人かの父が代わってこともあるが、こちらの男性は働かない。

遊びと酒、女にはコマ目であるが、働く事が嫌いなのであろう、

多くの男性はそのようだ。

たしかに、ラテン系では、男性に優位な事を言う

言葉があるように、男性天国の部分がある。

それが、沢山の異父兄弟を生んでいるのであろう。


 ある町で聞いたことがあるが、一人の男性に

子供が五十人以上居ると言うのである。

確かに可能ではあるが、その子達を養う事はしてないし、

それだけの能力も無いのであるが子供だけは作るのである。

騙される女性も悪いが、男性天国を気ままに渡り歩く男性にも、

ラテンの血が伺える。


 また、自分には恋人が何人居ると自慢する男性が多い、

だからと言って面倒をみているかと言えば、

全然面倒などみていないのである、みているのは、

夜の性生活だけであるが、それも掛け持ちしている男性が多い。


 このように、大らかと言えば、大らかなのであるが、

責任感があまり無い人たちである。

また、嘘は平気で言う、それも、分かるような嘘を言うのである。

考えて言っているのかは、分からないが、

私からすれば、考えないで口から出任せで

言っているだけに思われる。

だが、その嘘を許すだけの、大らかさがドミニカ人にあるのかもしれない。

器が違うのか、日本人みたく目くじらを立てる人は少ない。


 ドミニカ人気質は、大らかで楽天家、男性は女性にコマ目で尽くすが、

一度釣ったら、餌は与えず、逆に相手の肉を食う。

女性は子供を大切にするが、女としても生きたがる部分が多いが、

三十代近くになると相手にされなくなってくるのが現状である。

同じことを書くが、女性にだけはコマ目にするし、

女性も男性の目を意識して行動する。


最近、日本ではあまり見られなくなったが

モンローウォーク(腰を振って歩く)女性が多い、

それは、男性を意識していると、アリアリと見られるのである。

それを見て、男性は声を掛ける、私から見ても、

お尻が跳ね上がった女性が尻を振って歩くのを、見るとセクシーに感じる。

ここ最近は日本の女性が、そのように歩く姿を見なくなった。

日本の女性が細身になったからなのか、男性的な歩き方をする人が多くなった。


 ドミニカ人は家族を愛する、もし、交通事故で人を轢いたら、

その場から逃げろと、警察の幹部が言うのである。

 それは、親戚連中が来て、轢いた相手に暴力を加え、

死に至る危険性があるからだ言うのである。

確かに、親戚や、その周りの住人の連帯意識は強い、

それとドミニカ人の気が小さい部分が反比例して

凶暴化する恐れがある。

気が小さい部分、集団で行動を起こすように思われた。

ウエルガ(集団暴動)は、この国では良く起きるが、

人数が少なくなると沈静化するが人数が増えると、

車などに火を点けて、石などを投げたりする。


 ただ、個人的には、いいやつが多いが貧富の差が

激しいので、その中から抜け出したいと思っている人は多い、

これは日本でも同じであろう。

また、車を運転していて、信号で止まると

濡れた布がウィンドーに飛んでくる。

これは小さな子供が、車の窓拭きをしてお金を稼ぐのである。

そのような子は、ロード・チルドレンであり

親に捨てられた子供たちである。


もう一つは、何回も書いたが必ず中国人かと聞かれる。

これはラテンの国は殆ど「中国人か」と聞かれるが

アルゼンチンは、中国人かとは聞かれなかった。

もう一つ嫌だったのは、友達を呼ぶ時に「スー、スー」と

口笛で無く、息を吐くような音で呼ぶのである。

私は、最初は何と失礼な奴だと思ったのであるが、

それがこちらでは当たり前で失礼でも無いのだ、

日本で、それをやったら殴られるかもしれない。

友達が道の反対側を通っていたら、日本だと名前で呼ぶが

こちらでは「スー、スー」と口笛に近い呼び方をする。

 日本人の、私には理解できない部分が多かった。


『食について』

食べるものは、日本人に合うと思う、

これは私が、好き嫌いがないから言えるのかもしれないが、

味付けなどは日本人と変わらないし、スーパーでも、

日本の醤油などが売られていたり、

インスタントラーメン(韓国産や味の素などが売られている。


 ただ、南国(熱帯地方である)なのに、辛いものが苦手なのである。

熱帯地方の人たちは、辛いものを好むと思っていたのであるが、

ドミニカだけは違っていた。

中南米でも、メキシコやペルー等の国は、辛いものを好むが、

ドミニカ人は日本の甘口カレーでも、辛いと言って食べないのである。


 また、基本的には生ものは食べない。

これは各家庭に冷蔵庫はあるが、停電でその役目を果たしていない

状況なのである。

牛乳も3日持てば良い方で、その日に飲まないと、

ヨーグルト化してしまう。


 米もあるが、イモ類やバナナ(青いの)等が主食であり、

肉類は鶏がよく食べられている。

牛や豚は少々割高なのであまり食べないが、

ヤギはお祭りやお祝い事のときに食べる。


 ドミニカ人は、ヤギは精力が付くといって、

好んで食べるが少々高い。

魚は高いので食べないが、復活祭のときは、

肉を食べないので、裕福な家庭では魚を食べる。


 私が好きなのは、モンドンゴー(豚や牛の腸の煮込み)、

チチャロン(豚の皮)等であるがスパゲティーは、

前にも書いたように頂けない。

最後まで、おいしいと思わなかったし、味が無さ過ぎた。

ステーキも、レアー、ミデアムなど無く、硬めに焼いていて、

歯ごたえが有りすぎである。


 一般家庭での昼食は、サラダ、鶏の煮込みか揚げたもの、

豆のスープ、ご飯かバナナ、芋などであり、昼食はご馳走が多い。

朝食は、殆ど食べないか、軽いスナック類で済ます人が多い。

夕食は、遅くに食べる、平均して十時以降に

ビールなどを飲みながら、おかず類を食べるのである。


 レストランは多い、中華から、スペイン、フランス等あるが、

日本のレストランは一軒くらいしかない。

中華系が、どの地方に行ってもあり、ドミニカ人も好きなのであろう。

確かに中国人が五人集まれば、食堂が出来るというが、

それほど多いのである。


 また、中国人の経営するスーパーに行くと、

日本の食材は置いてあるので、それで、日本食を

作ることも出来たし、日本の移住者の作った豆腐や納豆、

漬物等も手に入るので、あまり、問題は無い。


 ただ、魚類は高いが、南国特有なのか脂が乗っていなく、おいしくない。

ウニなどは、海に行くと膝まで位のところに、幾らでも居るのである。

こちらの人は、食べないので、採り放題である。


『遊び』

 遊びは、夜はカジノやディスコ、BARなどがあり、

大体、夜の十時過ぎから賑い出す十時前に行っても、

人は殆ど居ないし、女の子もいない。

ただ、ディスコ近辺の路上に、如何わしい連中や、

それを食い物にしている男性がタムロしているので、注意する事。

カジノはホテルには、常設されているが、賑わっている所と、

閑散としている所がある。


 ホテルにはカジノもディスコもあり、ホテルの

ディスコは女性同伴しないと、踊ることが出来ない。

踊りたい場合は、ドミニカ人も行く、市内のディスコに行くと、

それなりの女性が居て踊ってもらえる。

 ただし、その後の、お楽しみ付でないと踊ってくれないかも?

そのようなディスコの女性は、稼ぎに来ているので、

踊りだけの場合は、少々チップを渡すことになる。


 カジノは色々あり、私はセブンブリッジをよくやっていたが、

これも変にカードを貰うと、ブーイングの嵐に合いかねない、

私は幾度も、その嵐に遭遇した。


 さて、昼の遊びはゴルフであるが、これは安いが

行くまでの交通は、自家用車で行く事に成る。

また、安い所は1800円位で、18ホール回れるのである。

 私は初心者であったから、ボールを林に打ち込み、

無くすることが多かった。

そんなときには、子供たちが拾ったボールを売りに来るのである。

そのときは、値段交渉になるが、三十個位で百ペソが最高であった。


 後は釣りか、海水浴位なものである。

女性とのデートは、ホテルのディスコがお勧めかも、

女性は、映画が好きである。

映画は一箇所に多数の映画館が入っていて、

そこへ行くと何を見るかを選択できる。

また、ボーリング場もあるが、来ているのは

中流クラスの人間が多い。

 ただ、地方に行くと危険なところもあるから、気を付けるように。


『住む』

 さて、ホテルとかであるが、ピンからキリまである。

高級ホテルから、夜の女性が使う、安宿まであり、モーテルもある。

モーテルは日本と、ほぼ同じである、

もし、滞在が長い場合は、アパルタ・ホテルがお勧めでしょう、

これは、シャワーや炊事が出来る場所がついて

滞在日数により割安となるのでお勧めだが、

シャワーは水だけのところが多い。

食事も自炊が出きる、私は赴任当初一週間くらい住んだ事があるが、

住むには、まずまずである。


 部屋は八畳くらいで台所や冷蔵庫も付いているが、

冷蔵庫は当てにならない。

それは、停電が多いため役目を果たさないし、

大きいホテルは自家発電が付いているが

アパルタ・ホテルは、付いていることは付いているのであるが、

節約して昼間は稼動させない。

また、立地条件は静かな所にあるが、夜道は暗く、

夜間は危険な所が多い。


 日本事務所の職員で単身赴任できていた人は、

三年間アパルタ・ホテルを住居にしていた人がいた。

一軒家やマンションを借りると安く済むが、外人向けの所は平均して高い。

また、その様な所は立地も良いが、私の住んでいた

マンションは月千ドルであったが他の住人は、

殆どは買取りで住んでいたのです。

 私の住んでいた所は、日本からの移住者の人が持っていて、

賃貸で貸していた。

メイン通りに面していて、けして閑静とは言えなかったが住みやすかった。

ドミニカ人は、大体住む家は自分達で建てる人が多い、

ナンドの父親も自分で建てていた一気に建てるのではなく、

お金がなくなると止め、お金が出来ると、また建て始めるのである。

だから、私がいた頃は二階が建てかけであった、

今頃は完成しているかも。


 後は、貧しい人たちの住んでいる所は、掘っ立て小屋である。

私も幾度と行ったことがあるが、そこは六畳一間くらいで床は無く、

土の上にあまった木材を使用して建てているので、

強い雨の時は雨漏りがするであろう。

 田舎行くと、そんな家は多かったが、サンフランシスコ・デ・マコリス

あたりは、きれいな家が多かった、麻薬の運び屋で

財をなしている人たちが多いからなのであろう。

 もし、賃貸で借りるなら、月九千円くらいで

一軒家が借りられるであろうが、治安の面は保障できない。


『仕事に対する考え方』

 ドミニカ人の仕事に関する考え方は、自分の中では

三~四番目位であろう。

一番が家庭(彼女を含めて)、二番目は遊び

(ダンスやお酒を飲むこと)、三番目が高い給料の

仕事につく事、四番目が定時まで仕事をすること。

 こんな感じで仕事をしている、全部がそうだとは言わないが

90%は、そんな人たちが多い。

だが、出世欲は強いのである、強いが仕事はしない、

私から見て反比例している。

チャンスがあれば、他人を落とし入れようとするが、

それだけ仕事をしているかと言えば、そんなことはないのである。

 会社や仕事場は、単なるお金を稼ぐ場であり、

自分の向上させる場所ではないのである。

だから、定時近くになると、彼女に電話を掛け捲っている。

私用電話が定時近くに氾濫するのである。

公私混同も、はなはだしい状態になる、特に週末は。

 私は、四年間に六人のドミニカ人を、

日本の研修に送ったが、彼達がどれだけ成果が

あったかと言えば、本人たちには成果があったが、

仕事上では成果は40%以下であろう。

本人達は、日本で三~六ヶ月研修を受けたという、

ハクは付き、次の職場探しに好材料となる。

だが、研修を受けた事を仕事場で生かそうという気持は

少ないように見受けられる。

 ある、別なプロジェクトのドミニカ人が、

日本で研修を受けて帰国後に大学の先生をしていたと言う

話もあるくらいであるから、如何に先進国に行ってハクを付けるかが、

彼たちの目的である。

 私も、ある程度の仕事が進んだ事は、

研修と言う餌があったからなのかもしれない、

私に付いていれば、日本で研修を受けられる

という気持ちがあったのであろう。

さて、ドミニカに関しての事はこれまでとして、本題に戻ろう。


 私は四年目に入ってから、私の派遣されている所が

移転を考えて、近くの空ビルを買い、建設を始めたのである。

だが、ドミニカ時間の考え方であるから、いつ完成するか

分からない状態であった。

 私を建設中の建物に案内して、「ここがお前のオフイスだ」と言っても、

いつのことになるやら分からないので、

私も「ふん、ふん」と生返事をしているだけであった。


 どうも、ドミニカ人は、自慢はするのであるが、

実行と言っている事のバランスが取れていない。

人間の慣れは恐ろしいもので、私も真面目に聞かなくなっていた。

真面目に聞くと腹が立つので、聞き流すことにしたのである。


 そんなことを繰り返しながら、私の任期も終わりになって来た。

私は、アニ~との生活で夜遊びも少なくなり、

派遣されている日本人との付き合いが多くなった。

 そして、帰国が近くなると、派遣先の職員の家に招待を受たり、

日本事務所の職員から招待されたりして、

ナンド達との交流が疎かになっていった。

 これは、反省すべき点であるが、どうしても

仕事優先になってくるので、そのようになるのである。

それと、派遣先の幹部クラスの、私の送別会が行われたりもした。

 

 送別会では盾とボールペンを貰いましたが、

ボールペンは日本に帰ってきて、幾らするのか調べたら九万八千円でした。

私の名前が入っているのですが、私は百円のボールペンしか使いません、

私にはそんなもの使えませんよね、

どうせなら、万年筆にしてくれたらよかったのにと、思たりもしました。


 なんだかんだと、送別会や交流会などで、毎日を過ごすと、

二ヶ月近くがたってしまい、私の帰国の日が近づいたのです。

 そうなると、アニ~との問題があります、

今まで一緒に生活してきて、帰国するから

「さよなら」ではあまりにも酷過ぎますので、

一時的にでも日本に連れてこようと思ったのです。

アニ~に日本の国を見て貰い、それによって判断して生活する事も考えました。


 アニ~を日本に連れて来て、本人に判断してもらう事にしたのです。

ところが、それは大変でした、ドミニカ人は国際的に信用がないために、

帰国で幾つかの国をへて、日本に帰ろうとしていたのですが、

その国々のビザを取らなければならなくなったのです。


 私は帰国経路として、パナマ、メキシコを考えていたのです。

まず、アニ~の日本でのビザを取得しました、三ヶ月、

これは大使館の人達と親しかったので簡単に

取れたのですが、さて、パナマのビザはアニ~個人で

行ったら断られたのです。

 それに、パナマは日本人でもビザが必要でしたから、

私は大使館経由で取得していました。

私のビザはオフシャルだったので、私と二人で

パナマ大使館に行き、事情を説明してアニ~のビザは取得出来たのです。


 ところがメキシコのビザですが、日本人の

私は、ビザは要らないのですが、ドミニカ人は必要なのです。

メキシコ大使館に行き、アニ~のビザを申請したのですが、

却下されてしまいました。

 どうも、ドミニカ人はメキシコに渡り、そこから他国(アメリカ)に

密入国する人が多く、そのためにドミニカ人に対しては、

ビザが必要になっているのだそうである。

これには、私も対処できないので、日本大使館の知人に

「問題はないから」という内容の紹介状を書いて貰い、

再度メキシコ大使館に赴いたのであるが、再度却下されてしまったのである。


 諦めない私は、今度は日本事務所のドミニカ人スタッフで、

ドミニカ政府関係者と繋がりが深い人物に再度紹介状を書いてもらい、

再度チャレンジしたのであるが、却下されてしまい、

私はドミニカを出国してから、パナマで再度チャレンジを

試みる事にしたのである。

 そんなこんなで、帰国前に問題があり、最後までドミニカでは、

問題を処理していた。

帰国の日も決定して、飛行機の切符もアニ~の分も手配し、

後は帰国だけと荷物の整理だけであった。

 私は幾つかの送別会と、友達に挨拶周りをして、

大使館から荷物の関税免除の証明書をもらい荷物を

日本に送り、自分の車を1万ドルで売り

(購入価格が1万ドル)、ドミニカを去ったのである。

 帰国はパナマに一週間滞在して、メキシコへと行ったが、

メキシコでは空港に泊まる羽目になった。

これはアニ~のビザが取れなかったため、

アニ~一人残して、私だけがホテルに泊まるわけに行かず、

アニ~とともに空港の事務所でごろ寝した。

同じようにビザが取れない人が、四人いて、

互いに愚痴って一夜を過ごしたのである。

今考えると、多少の賄賂を渡して予約していた

ホテルに泊まればよかったと思う。

 約四年間のドミニカ生活は、私にとって色んな面で、

私に知識を与てるくれ、人との交流の楽しさを

教えてくれたように思うのである。

 また、日本の善い所、悪い所が見えた部分もあり、

楽しかったが、人種によって考え方、

常識などの差が大きいことも分かったように思う。

 私は、再度、この国を訪れたいと思ったのは、

ドミニカ人気質が、私は好きなのである

いろんな事を書いたが、本質的にドミニカ人

が好きだからであり、ここの人達の素朴さが

いいと思ったからである。


 だが、この国も豊かになって来たら、その素朴さも消えていき、

日本のようになるのであろうと思うのである。

そのようにならないように、望むが、それは豊かさと

素朴さの交換なのであろうし、貧困の差の激しいこの国では、

豊かにならなければならないという、

使命があるのもしょうがないと思うのである。


 私は再度、この国を訪れたいと思うのである。

其の時は、私のイメージの国ではなくなって

いない事を望むが、どうであろうか?


 国が豊かに成る事は、逆に言えば貧しさの

中で育ってきた人間との繋がりが消えていくように思えるのです。


 そんな日本を私は見てきたし、それは豊かさとの交換なのかもしれません。

 悲しいかな、これが現実なのでしょう。

でも、自分の中に良きドミニカを残して置きたくて書きました。

















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海外珍滞在記 矢口竜二 @ryuutarou1946

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