埠充 幸樹 著「屍櫃」
脳髄の芯までつらぬかれた痛みを引きずりながら
それでもなお男は
カラッポの屍櫃を引きずる。
屍櫃(かろうと)
風の強い丘に、黒い影の塊がゆっくりと丘を登っていた。
まっ白で汚れきった木製の屍櫃を引きずりながら
男は歩く、
風の強い丘の上へと。
ずるずると地面と木腹とを擦らせながら、引っかかる小石も分からぬほど
流れ滴る赤黒い血は、男をカラッポにさせていく。
もう何も考えてなどいないのだろう。
ただ、男は上る
全てをかけて上る、
汚らしいぼろぼろの布を纏い、色あせた裾を震わせながら
夕日の沈まぬ丘の上へと
カラッポの屍櫃をだらだらと引きずりながら
伸びきってしまった真っ黒な髪と髭が風と絡み合う。
燃えるような橙色の空は、やおら夜と言う名の黒色にぢりぢりと攻められ
地面の向こうは青とも赤とも言いがたい色で淀んでいる。
この世は夜になるだらう
それでも男は歩き続けた。
風が強く吹き付ける。
その風に引きずられ男の纏っていた布が大きく舞い上がり、飛ばされる。
纏うものがひとつ、また一つと空へと奪われていく。
それでも男の歩みは怯むことなく進められる。
次に大きく風が戦慄いた時、男の薄皮が音を立てて剥がれていった。
真鳥が翼を広げるかのように大きく広がり、まるで塵のように飛んでいく。
赤い身体を曝け出し、
それでも尚、男は屍櫃を引きずる。
風は今だ止まず男の体を吹き付ける。
血は流れ、肉も流れ、男は華奢な骨だけを残し、ぼろぼろと崩れていく。
布が剥がれ、皮膚が剥がれ、肉が剥がれ、血が流れ、骨だけになる。
彼の後ろを赤黒い跡が追いかける
それでも男はその屍櫃を引きずり続けた。
天井の明るみも夜に覆われあたりがすっかりと暗くなった時、
ようやく男は丘の頂に着いた。
何も無い、ただの丘のてっぺんである。
世は闇に包まれ、すでに自分の歩いてきた道さえ見えない。
男はようやく足を止め、微かに笑うように息を吐き出した。
あぁ、これで私は眠れる。
すっかり骸骨となってしまった男は丘のてっぺんで足を止め、屍櫃の蓋を開けた。
カラッポの屍櫃を目の前にし、余計なモノが何も無くなった男は
そろそろと中に入り込み、瞼も瞳もなくなった眼を閉じる。
音も聞こえぬ、眼も見えぬ、何も嗅げぬ、何も感じぬ。
何も、思わぬ。
これで丁度良い
男は愈愈眠りに付いた。
カラッポの屍櫃は
カラッポになった男を抱いて
大層満ちていた。
<未完>
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■引用詳細
埠充 幸樹著「櫃」より抜粋 (※未完成)
二〇〇六年十一月三十日 - 発見。
■埠充幸樹(ふみつ こうき)
昭和初期の心理分析に携わる、九基大学の准教授。本名「
夢に纏わる研究を行っておりフロイトの時代から始まる「夢の意味」について研究を続けている。
「夢 ~夢からの伝言」は論文は萩生 繁の推薦を受け文芸誌「衾代文藝」にてコラムとして一時掲載がなされた。
本著作「櫃」は作者が論文執筆中に夢で見た光景を書き留めたもので、世の中には未発表作品となっている。たまたま編集者である杉浦 正志が手違いでコラム原稿に混ざり回収をしてしまった為、出版社に残っていた。
数か月後、彼は執筆活動を辞めているため、本作品は未完成となっている。未完成の理由は「夢がそう告げえていたから」との事。
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